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高森会長の言葉から他力の信心を味わう

今から20年位前のことでしょうか、講師部員から「会長先生のお言葉」として伝達され、しばらくすると顕正新聞や顕真に載る「お言葉」の中に、

●何もない 取り上げられて 摂取不捨

という言葉がありました。日頃は、いわゆる善の勧め関連の内容、親鸞会批判に対応した内容、某会や退会者に対する批判が多かったと思いますが、上の言葉はいつもと違う雰囲気の言葉だったのでとても印象に残り、今でも記憶に残っています。当時周りの人とどんな意味か話し合いましたが、意味が分からないというのが共通認識でした。

しかし、今の個人的な考えでは、他力の信心(二種深信)を表現した言葉なのだろうと思います。

個人的な味わいですが、「何もない」とは、機の深信であり、自らに迷界を出離するのに役立つようなもの・てがかりは何もないこと。

「取り上げられて」とは、(「まかせよ、必ず助ける」のお勅命に)自らの計らいがすっかり取りはらわれたこと。

「何もない 取り上げられて」で、信機即捨機、つまり、自らの力が出離に役立たないことを信知せしめられたこと(信機)は、自らの計らいを捨てさせられた(捨機・捨自)ことをあらわし、
自らの計らいを捨てさせられた(捨機・捨自)とは、願力に摂取されたこと(託法・帰他)であるから、「摂取不捨」と結んで、全体で二種深信(捨機即託法・捨自即帰他)をあらわすと味わっています。

なお、「何もない」とは、信前に想像していたような信心は何もないとも味わえるかもしれません。

高森会長が、このような私の味わいと同じことを言おうとしていたかは不明ですが、親鸞会教義しか知らなかった当時の私にはとにかく意味が分からない言葉でした。親鸞会教義で、二種深信といったら、「堕ちるに間違いなし」と機に疑いが晴れ、「助かるに間違いなし」と法に疑い晴れるという、機の深信と法の深信の2つが同時に立って相続するという説明ばかりでしたから(例えば、公式ホームページの説明を参照)。

上の言葉自体は、高森会長の言葉としては極めて珍しく他力信心を味わうことができる言葉だと思います。

このような「まともな言葉」は、たいていは他の誰かが書いたものをもってきたものが多いのですが、上の言葉にぴったり該当する言葉は現在のところ発見できていません。ご存じの方があればコメント欄などで知らせていただけると幸いです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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帰命とは(3) - 『こんなことが知りたい3』を読む

親鸞会における「帰命」の説明は、前々回述べた『正信偈』の最初の2行の説明以外に、『こんなことが知りたい3』に書かれている説明があります。会員さんがブログにアップしていました。説明の都合上、青字と赤字に分けて引用します。

 仏教でよく使用される南無というのはインドの言葉で、『仏教辞典』によれば帰命とか、敬礼とか、単に礼なりと解釈されています。
 帰命は、
「命に帰す」
ということですから、
「仰せのままにおまかせします」
という意味ですが、親鸞聖人はそれを
「南無の言は帰命なり・・・・・・・・・・・帰命は本願召喚の勅命なり」(教行信証行巻)
とおっしゃって、いままでの仏教者とはまるっきり反対の解釈をなされています。
 本来は私たちの方から如来に向かって、
「おまかせします」
という意味が帰命なのに、親鸞聖人は阿弥陀如来の本願の方から、
「そのまままかせよ、とよびよせる命令である」
と、意味をひっくり返して使用されています。


 親鸞聖人が従来、敬礼の意味である帰命を本願召喚の勅命であると驚くべき解釈をなされたのは、聖人が事実疑いようのない阿弥陀如来のよび声をハッキリ聞かれた体験にもとづかれたものでありましょう。
「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
と悲泣悶絶、助かる望みの一切が断たれたとき、
「そのまま救う」
声なき声に全身を射ぬかれ
「弥陀五劫思惟の願はひとえに親鸞一人が為であった、心も言葉も絶えたれば不可思議尊を帰命せよ」
とおどり上がられた体験が、帰命を本願召喚の勅命なりと解釈せずにおれなかったのでありましょう。


前半(青字部分)は特に言うことはないのですが、後半(赤字部分)は色々と問題があります。

いくつか挙げますと、
第1に、助かる望みが断たれるという前提がなければ阿弥陀仏の救いにあえないという誤り、
第2に、罪悪観と機の深信の混同
第3に、「声なき声」を聞くという体験をするという誤り、
などがあります。

まず、第1の点についてですが、上のような文章を読むと、読んだ人は助からない我が身を知らされねばならないと思い、自己の罪悪ばかりに目を向けるようになってしまいます。

しかしながら、善知識方の教えはそれと真逆です。
例えば、御筆はじめの御文章と言われる寛正2年3月蓮如上人47歳の御文章には、

 当流上人の御勘化の信心の一途は、つみの軽重をいはず、また妄念妄執のこころのやまぬなんといふ機のあつかひをさしをきて、ただ在家止住のやからは、一向にもろもろの雑行雑修のわろき執心をすてて、弥陀如来の悲願に帰し、一心にうたかひなくたのむこころの一念をこるとき、すみやかに弥陀如来光明をはなちて、そのひとを摂取したまふなり。
 これすなはち、仏のかたよりたすけましますこころなり。またこれ信心を如来よりあたへたまふといふもこのこころなり。

と教えられています。下線部のように、罪の軽重や機のあつかいは無用です。その他、帖内の御文章にも、

当流の他力信心のおもむきと申すは、あながちにわが身の罪のふかきにもこころをかけず、ただ阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて・・・1帖目10通
この仏をばなにとたのみ、なにとこころをももちてかたすけたまふべきぞといふに、それわが身の罪のふかきことをばうちおきて、ただかの阿弥陀仏をふたごころなく一向にたのみまゐらせて、一念も疑ふ心なくは、かならずたすけたまふべし。3帖目1通
などと教えられています。また、親鸞聖人が編纂された『西方指南抄』にも
たれだれも煩悩のうすくこきおもかへりみず、罪障のかろきおもきおもさたせず、たゞくちにて南无阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし。決定心をすなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。
とあります。

善知識方が、我が身の罪悪にこころをかけるなと教えられているように、阿弥陀仏の救いには、自己の罪悪を知るという前提はありません。我が身の罪悪をうちすてて、ただただ「助けるぞ」の仰せを「はい」といただくことが帰命ということです。

次に、第2の点「罪悪観と機の深信の混同」についてですが、機の深信とは地獄一定と知らされることでもなければ、罪悪深重・極悪最下の者と知らされることでもありません。

『六要鈔』では、二種深信を

次に深心を釈する中に、「二者」等とは、これ経文を牒す。「深」等というは、能信の相を明かす。「亦有」等とは、所信の事を顕かす。これ則ち機法二種の信心なり。「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。

と釈されていますが、「無有」等以下の解釈が、機の深信にあたる「無有出離之縁」等の説明にあたります。簡潔にいうと、機の深信とは、自力無功、自らの力では出離することはできないと信知することです。

最後に、第3の点、「声なき声」を聞くという体験についてですが、上の『西方指南抄』のお言葉に「たゞくちにて南无阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし。」とありましたように、聞こえるものは「こゑ」=「南无阿弥陀仏」です。

親鸞会では、「声なき声」以外にも、「片手の音」を聞く、「鳴かぬからすの声」を聞くなどと不思議な声を聞く体験をするように説きますが、善知識方のお言葉で、そのような不思議な声を聞く体験なのだという根拠が示されたことがあったでしょうか?

親鸞会の話には、今回示した『こんなことが知りたい3』のように、根拠のある話(前半部分)の中に、根拠のない話(後半部分)が混ざっていることがありますので、注意しなければなりません。

【関連記事】
親鸞会は、「機の深信」と「罪悪観」を混同している体験至上の異安心
『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』高森会長の教えは、一言で言えば「ウソ、大げさ、紛らわしい」(しかばねさん他のコメントより)


帰命とは(2) - 「たすけるぞ」の仰せを、「はい」といただく

『浄土真宗 信心』(加茂仰順著)116頁より引用(文章は『真偽検証』からお借りしました)

 私を、助けて下さることが、成就したのです。それで、その成就したのが、「たすけるぞ」の仰せです。その、「たすけるぞ」の仰せを、すなおに「はい」といただいたのです。そのとき、お浄土へ参ることが、きまったのです。そのあとは、「参らして頂く」と思うて、称名相続させて頂くのであります。真宗はこれだけです。

 前回の記事では、「帰命」ということについて書きましたが、
 上の加茂師の文章では、「たすけるぞ」の仰せが、および声(本願招喚の勅命)、
 すなおに「はい」といただいたのが帰命(仰せにしたがったこと)です。

 阿弥陀如来は、南無阿弥陀仏という本願を建てられまして、「ひとすじに我にまかせる衆生を仏にすることができなければ、私は仏にはならない」と誓われ、その願成就して、既に南無阿弥陀仏とおなりあさばされました(『御文章』5帖目8通参照)。

 つまり、間違いないお助けが完全に成就したすがたが南無阿弥陀仏のおよび声です。阿弥陀如来は、南無阿弥陀仏のおよび声(「たすけるぞ」の仰せ)となって私のところに来てくださっているのです。

 その「たすけるぞ」の仰せを、そのまま、「はい」と頂くばかりです。

 今の私のそのままです。私には何の変化も要求されていません。
 罪悪を知れということもありません。善をせよということもありません。
 何の計らいも無用です。二の足を踏む必要もありません。
 例えば、ごちそうを出されて「どうぞ召し上がれ」と言われたら、「はい、ありがとうございます」と頂くばかりのようなものです。
 
 そのままの私に、「たすけるぞ」との仰せです。すなおに、「はい、ありがとうございます」と頂くばかりです。

 「たすけるぞ」とは「浄土へ参らせるぞ」ということですから、
 「浄土へ参らせるぞ」を「浄土へ参らせていただます」と頂くばかりです。

 「たすけるぞ」を、すなおに「はい」といただいたときが、お浄土参りが定まったときです。

 そのあとは、「浄土へ参らして頂く」と思いとって、称名相続させていただく。

 称名とは、そのまま聞名です。
 称名のままが、「たすけるぞ」の仰せを聞かせていただく聞名です。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

帰命とは

親鸞会において「帰命」の説明として最も多くなされているのは、『正信偈』の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」の説明でなされる、
「南無」=「帰命」=「救われた、助けられた」
という説明です(を参照)。

時々「帰命」について、「信順無疑」という説明がなされることもありましたが、「救われた、助けられた」を導くために、さらりと触れられるだけで、何に信順するのかを明らかに説明されることはなかったと思います。

親鸞会では、仏教の言葉を挙げて自信満々に説明がなされるので、正しいことを教えているかのように思ってしまう人もいるのですが、その意味は極端なバイアスがかかっていたり、元の意味が失われてしまっていたりすることが多々ありますので、注意が必要です。

では、「帰命」の意味を親鸞聖人はどのように教えているのでしょうか。

『尊号真像銘文』では、「世尊我一心」の文を解釈される中で
「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。
と説かれ、善導大師「六字釈」を解釈される中では、
帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり。
と教えられています。

また、『浄土和讃
安楽仏土の依正は 法蔵願力のなせるなり
天上天下にたぐひなし 大心力を帰命せよ

の「帰命」の左訓には「よりたのむ。おおせにしたがう。めしにかなうというなり。」とあります。

これらのことから、「帰命」とは「命に帰す」、すなわち、如来の仰せにしたがうという意味であることが明瞭になります。

では、如来の仰せとは何なのか。
それについて、親鸞聖人は、「南無阿弥陀仏」の六字を仏様の側から解釈され、『行文類』では、
しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音こえなり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音こえなり。悦税二つの音こえは告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。
(現代語訳)
そこで南無という言葉は、翻訳すれば帰命といいます。「帰」という言葉には、至るという意味があります。また帰説きえつと熟語した場合、説は「悦えつ」と同じ意味になって、悦服のことで、「よろこんで心からしたがう」という意味になります。また帰説きさいと熟語した場合、説は「税さい」と同じ意味になって、舎息のことで「やどる、安らかにいこう」という意味になります。説せつの字には、悦えつと税さいの二つの読み方がありますが、説せつと読めば「告げる、述べる」という意味で、人がその思いを言葉として述べることをいいます。「命」という言葉は、業(はたらき)、招引(まねきひく)、使(せしめる)、教(おしえる)、道(目的地に通ずる道。また「言う」の意)、信(まこと)、計(はからい)、召(めす)という意味を表しています。こういうわけですから「帰命」とは、衆生を招き喚び続けておられる阿弥陀仏の本願の仰せです。
と教えられており、「帰説(きえつ)」には「よりたのむなり」、「帰説(きさい)」には「よりかかるなり」と左訓が施されています。

すなわち、ここでは、「帰命」を「帰せよの命」と示し、阿弥陀仏は南無阿弥陀仏というおよび声となって私のところに至り、よりたのめよ、よりかかれよ、浄土に連れて帰るぞと招き喚び続けておられるということを明らかにされています。

これらの釈により、「帰命」とは、「たのめ、必ず助ける」・「まかせよ、必ず助ける」の如来の勅命にお順いすることであることを知らせていただけます。
また、如来の勅命にお順いすることを「信楽」とも「信心」ともいうのですから、阿弥陀仏の「帰せよの命」によって、衆生の「命に帰す」という信心がおこさしめられることも知らせていただけます。

「帰命」とは「救わられた、助けられた」という説明だけですと、親鸞聖人が教えられた「帰命」・「信心」とはいかなることであるかが、全く見失われてしまっていると言わざるを得ないでしょう。

称名念仏とは

親鸞会では、念仏について、ほぼ「お礼の念仏」という説明しかなされません。

しかし、「乃至十念」の称名念仏には、大きく分けて

体徳からいえば正定業(1)、

誓意からいえば信相続の易行(2)、

行者の用心からいえば報恩の念仏(3)

という意味があります。

(1)称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(『行文類』)など。

(2)本願の文に、「乃至十念」と誓ひたまへり。すでに十念と誓ひたまへるにてしるべし、一念にかぎらずといふことを。いはんや乃至と誓ひたまへり、称名の遍数さだまらずといふことを。この誓願はすなはち易往易行のみちをあらはし、大慈大悲のきはまりなきことをしめしたまふなり。(『一念多念証文』)など。

(3)ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし(『正信偈』)など。

また、親鸞聖人は、『尊号真像銘文』では、次のようにも教えられています。

「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。
「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。
また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。
「即発願回向」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち安楽浄土に往生せんとおもふになるなり、また一切衆生にこの功徳をあたふるになるとなり。
「一切善根荘厳浄土」といふは、阿弥陀の三字に一切善根ををさめたまへるゆゑに、名号をとなふるはすなはち浄土を荘厳するになるとしるべしとなりと。


本日は称名念仏について簡単に記させていただきました。

(参考)
『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)
正定業義
十念誓意
称名報恩

安心論題講述(大江淳誠著)より 十念誓意
安心論題講述(大江淳誠著)より 称名報恩

Appendix

プロフィール

いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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