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[C360]

何か大きな誤解をされているようなのでコメントします。

〉衆生が求めるのに先行して、如来の上で信楽が成就されていると、如来の信楽ということについて明らかにされたのが親鸞聖人でした。衆生を摂取することに一点の疑いのない如来の信楽がまずあって、その如来の信楽を賜るところに衆生の信楽が成立するのです。

これらはその通りだと思います。

しかし、これは高森先生が教えられていることと同じです。

私たちにはまことを信じる心(信楽のこと、以下同じ)がないので、まことを信じる心も阿弥陀仏はつくって下された、そしてその信じる心を阿弥陀仏は私たちに与えて下されるのだと、先生はいつもねんごろに教えられています(高森先生から正しく親鸞聖人の教えを聞かれている方なら、うなづいていただけると思います。)。

よって
〉親鸞会でも、信楽とは、阿弥陀仏の本願に対して疑いのない心のことである等の説明がなされることがあるかと思いますが、親鸞会における信楽の解説は、どこまでいっても衆生の上のことだけでしょう
とありますが、衆生の上のことだけでは教えられませんので、これは明らかに聞き違いをされています。

なので
〉親鸞会で教えられていること本当の親鸞聖人の教えとは、ベクトルが全く正反対であることがお分かり頂けるかと思います。
と結論づけておられますが、親鸞聖人の教えと高森先生が教えられていることは、ベクトルは全く同じなので、結論も正しくありません。

誤解されないようにしていただければと思います。

なお、信楽の身になるところまで進むというのは、阿弥陀仏から信楽を賜る一念のところまで進ませていただくということであり、阿弥陀仏がつくられた信楽を私たちが頂くという親鸞聖人のみ教えを前提としての教説ですので、きちんと整理して理解していただきたいと思います。

[C361]

先のコメントをされた方へ

貴殿のコメントでいいますと、
「なお、信楽の身になるところまで進むというのは、阿弥陀仏から信楽を賜る一念のところまで進ませていただくということであり」
の部分が、まさに親鸞聖人の教えとはベクトルが正反対であるということです。
ですから、親鸞会で教えられていることは、本当の親鸞聖人の教えとは、ベクトルが全く正反対であるという本記事の結論に誤りはないと考えています。

  • 2017-06-05 23:11
  • いつもの元会員
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  • 編集

[C362]

親鸞聖人の教えは、阿弥陀仏が信楽を衆生一人一人のところへ届けてくださっているから受け取りなさい。
高森会長の教えは、阿弥陀仏が信楽を与えてくださるのだから衆生一人一人が取りに行きなさい。

親鸞聖人は、信楽を取りに行くことは自力だから捨てよと教えられた。
高森会長は、信楽を自分で作ることは自力だが、信楽を取りに行かずして信楽が頂けることはなく、その場で頂けると考えるのは、十劫安心と言っている。

ベクトルが違うとはこう言うこと。
  • 2017-06-06 06:02
  • NG
  • URL
  • 編集

[C363]

高森顕徹会長の教えは、

>信楽の身になるところまで進むというのは、阿弥陀仏から信楽を賜る一念のところまで進ませていただくということ

という言葉に表れているように、

・「一念のところ」まで向かう教え
・(縦の線を指して)光に向かう教え

です。何にせよ救われるのは現在只今ここにいる私ではなく、未来どこかまで進んで行った私が助かるという教えです。それに対して親鸞聖人の教えは

・既に差し向けられている救いの御名を只今この場で聞き受ける教え

です。記事にて図示されている通りベクトルが真逆なのです。そして、獲信・往生に関して私達が何かやらなければならない行(布施や持戒や多聞等)は無く、本願の名号である南無阿弥陀仏のおいわれをそのまま聞き受け念仏するのみです。

獲信するのに「あれせい」「これせい」「これをせなんだら助けんぞ」という阿弥陀さまではないし、親鸞聖人はそのようなことは説いてないことを会員の皆さんにはよく知って頂きたいと思います。
  • 2017-06-06 07:20
  • 淳心房
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「如来の信楽」と「衆生の信楽」

親鸞会では、本願の「信楽」のことを「絶対の幸福」、「大安心、大満足の心」などと教え、それが人生の目的であり、その決勝点まで求めよと説きます。会員さんの理解は、自分が親鸞会で教えられていることに従って求めていった先に、親鸞会で説かれるような信楽の身になるということがあるというものでしょう。親鸞会で説かれる信楽を獲るということについて、これを、図示すれば、

(信楽)←←←←←←←←←←(私)

となります。

しかし、この理解がそもそも親鸞聖人の教えとは合わないものです。
親鸞聖人は、『信文類』の至心釈、信楽釈、欲生釈において、本願の三心(至心・信楽・欲生)を、元来そのような心を持ちあわせていない衆生のために、如来は三心を成就なされ、衆生に与えて下されたと、如来の上でいわれる三心と衆生の上でいわれる三心で示されています。簡潔に言えば、如来の至心とは如来の真実心であり、如来の欲生心とは如来の大悲回向心であり、如来の信楽とは衆生を救うことに疑いのない摂取決定の心です。如来の信楽ということについて、具体的には
次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。(信文類・信楽釈)
(現代語訳・『聖典セミナー 教行信証[信の巻]』梯實圓著・本願寺出版195頁より引用)
次に信楽とは、苦悩の衆生を救済しようとする如来が、その完成された大悲と、あらゆる隔てを超えて衆生と完全に溶け合っている一如の智慧をもって、すべてのものを障りなく救うことができると確信されている、海のように広大な信心のことです。こういうわけですから、少しの疑い心もまじっていません(その仏心をいただいている衆生の心にも疑いはまったくまじっていません)。それゆえ信楽と名づけられたのです。
と説かれています。

親鸞会でも、信楽とは、阿弥陀仏の本願に対して疑いのない心のことである等の説明がなされることがあるかと思いますが、親鸞会における信楽の解説は、どこまでいっても衆生の上のことだけでしょう。それに対して、衆生が求めるのに先行して、如来の上で信楽が成就されていると、如来の信楽ということについて明らかにされたのが親鸞聖人でした。衆生を摂取することに一点の疑いのない如来の信楽がまずあって、その如来の信楽を賜るところに衆生の信楽が成立するのです。

そして、この如来の信楽、如来の摂取決定の心は、静的なものではなく、如来の欲生心、すなわち如来の回向心を釈される中で、
次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。(信文類・欲生釈)
(現代語訳)
次に欲生というのは、如来が迷いの衆生を招き喚びかけられる仰せである。
と教えられているように、如来の招喚の勅命となって常に私たちに働きかけられているものです。如来の信楽を賜るとは、衆生を救うことにいささかの疑いもない如来の勅命(南無阿弥陀仏)を、計らいなく聞きうけることに他なりません。そこに、「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(信文類)と、衆生の信楽が成立することになります。ですから、私たちの上に信楽が成立するこということを、親鸞聖人の教えに従って図示すると、

(如来の信楽)→→→→→→→→→→(私)
           (本願招喚の勅命)


となります。親鸞会で教えられていることは、本当の親鸞聖人の教えとは、ベクトルが全く正反対であることがお分かり頂けるかと思います。
いくつかのブログによると、最近親鸞会では絶対の幸福ということを強調して教えているようですが、他のブログで指摘されている、信楽=絶対の幸福という教え方がおかしい点に加えて、これまでも当ブログで書いてきたように、そもそも親鸞会で教えられていることは、親鸞聖人の教えとは真逆であることを知って頂きたいと思い、久しぶりにブログを更新しました。
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何か大きな誤解をされているようなのでコメントします。

〉衆生が求めるのに先行して、如来の上で信楽が成就されていると、如来の信楽ということについて明らかにされたのが親鸞聖人でした。衆生を摂取することに一点の疑いのない如来の信楽がまずあって、その如来の信楽を賜るところに衆生の信楽が成立するのです。

これらはその通りだと思います。

しかし、これは高森先生が教えられていることと同じです。

私たちにはまことを信じる心(信楽のこと、以下同じ)がないので、まことを信じる心も阿弥陀仏はつくって下された、そしてその信じる心を阿弥陀仏は私たちに与えて下されるのだと、先生はいつもねんごろに教えられています(高森先生から正しく親鸞聖人の教えを聞かれている方なら、うなづいていただけると思います。)。

よって
〉親鸞会でも、信楽とは、阿弥陀仏の本願に対して疑いのない心のことである等の説明がなされることがあるかと思いますが、親鸞会における信楽の解説は、どこまでいっても衆生の上のことだけでしょう
とありますが、衆生の上のことだけでは教えられませんので、これは明らかに聞き違いをされています。

なので
〉親鸞会で教えられていること本当の親鸞聖人の教えとは、ベクトルが全く正反対であることがお分かり頂けるかと思います。
と結論づけておられますが、親鸞聖人の教えと高森先生が教えられていることは、ベクトルは全く同じなので、結論も正しくありません。

誤解されないようにしていただければと思います。

なお、信楽の身になるところまで進むというのは、阿弥陀仏から信楽を賜る一念のところまで進ませていただくということであり、阿弥陀仏がつくられた信楽を私たちが頂くという親鸞聖人のみ教えを前提としての教説ですので、きちんと整理して理解していただきたいと思います。

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先のコメントをされた方へ

貴殿のコメントでいいますと、
「なお、信楽の身になるところまで進むというのは、阿弥陀仏から信楽を賜る一念のところまで進ませていただくということであり」
の部分が、まさに親鸞聖人の教えとはベクトルが正反対であるということです。
ですから、親鸞会で教えられていることは、本当の親鸞聖人の教えとは、ベクトルが全く正反対であるという本記事の結論に誤りはないと考えています。

  • 2017-06-05 23:11
  • いつもの元会員
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親鸞聖人の教えは、阿弥陀仏が信楽を衆生一人一人のところへ届けてくださっているから受け取りなさい。
高森会長の教えは、阿弥陀仏が信楽を与えてくださるのだから衆生一人一人が取りに行きなさい。

親鸞聖人は、信楽を取りに行くことは自力だから捨てよと教えられた。
高森会長は、信楽を自分で作ることは自力だが、信楽を取りに行かずして信楽が頂けることはなく、その場で頂けると考えるのは、十劫安心と言っている。

ベクトルが違うとはこう言うこと。
  • 2017-06-06 06:02
  • NG
  • URL
  • 編集

[C363]

高森顕徹会長の教えは、

>信楽の身になるところまで進むというのは、阿弥陀仏から信楽を賜る一念のところまで進ませていただくということ

という言葉に表れているように、

・「一念のところ」まで向かう教え
・(縦の線を指して)光に向かう教え

です。何にせよ救われるのは現在只今ここにいる私ではなく、未来どこかまで進んで行った私が助かるという教えです。それに対して親鸞聖人の教えは

・既に差し向けられている救いの御名を只今この場で聞き受ける教え

です。記事にて図示されている通りベクトルが真逆なのです。そして、獲信・往生に関して私達が何かやらなければならない行(布施や持戒や多聞等)は無く、本願の名号である南無阿弥陀仏のおいわれをそのまま聞き受け念仏するのみです。

獲信するのに「あれせい」「これせい」「これをせなんだら助けんぞ」という阿弥陀さまではないし、親鸞聖人はそのようなことは説いてないことを会員の皆さんにはよく知って頂きたいと思います。
  • 2017-06-06 07:20
  • 淳心房
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Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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