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親鸞聖人の書き残された体験と親鸞会で話される体験発表の相違について

私が親鸞会に在籍している間、高森会長の法話の前に、午前、午後と講師部員による体験発表(随行文の発表)が行われていました。今年の『顕真』5月号にも、私の退会後、講師部員になった人の随行文が掲載されていましたので、現在も体験発表が続いているのだと思います。

体験発表とは、講師部員になった人が、「なぜ親鸞聖人のみ教えに人生をかける決意をしたのか」を発表するものです。概ね、
(1)人生に対して疑問を感じていたこと、
(2)高森会長に出あい、人生の目的を知らされたこと、
(3)この人生の目的を、人にお伝えする講師部員として生き抜くことに心が定まったこと
という流れで話がなされます。
また、報恩講などの特別な行事では、講師部員でなく、一般の会員が体験発表をしますが、そこで語られることも、親鸞会にあうまでの人生の遍歴と、高森会長にあって人生の目的を知らされたということです。

このような体験発表から、高森会長が説くこととは、端的にいうと、「人生の目的」であることが分かります。

ここで、高森会長の説くことと、親鸞聖人の教えの相違を知るために、親鸞聖人の書き残された体験を見てみたいと思います。

御自身のことをほとんど書き残されなかった親鸞聖人が、唯一、『教行証文類』後序において、暦も挙げて、具体的な出来事、体験を述べておられます。内容としては、大きく、法然聖人及びその門下の方々に対する弾圧と、法然聖人との出遇いですが、今は後者を引用します。

しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。
元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。
同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と「釈綽空」の字と、空の真筆をもつて、これを書かしめたまひき。
同じき日、空の真影申し預かりて、図画したてまつる。
同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘は、真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」(往生礼讃)の真文とを書かしめたまふ。
また夢の告げによりて、綽空の字を改めて、同じき日、御筆をもつて名の字を書かしめたまひをはんぬ。本師聖人(源空)今年は七旬三の御歳なり。
『選択本願念仏集』は、禅定博陸[月輪殿兼実、法名円照]の教命によりて撰集せしめるところなり。
真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭り易し。
まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。年を渉り日を渉りて、その教誨を蒙るの人、千万なりといへども、親といひ疎といひ、この見写を獲るの徒、はなはだもつて難し。
しかるにすでに製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。
よりて悲喜の涙を抑へて由来の縁を註す。

(現代語訳)
ところでこの愚禿釈の親鸞は、建仁元年に自力の行を捨てて本願に帰依し、
元久二年、源空上人のお許しをいただいて『選択集』を書き写した。
同年四月十四日には、「選択本願念仏集」という内題の文字と、「南無阿弥陀仏 浄土往生の正しい行は、この念仏にほかならない」というご文、並びに「釈綽空」というわたしの名を、源空上人が自ら書いてくださった。
また同じ日に、源空上人の絵像をお借りしてそれを写させていただいた。
同じ元久二年の閏七月二十九日、その写した絵像に銘として、「南無阿弥陀仏」の六字の名号と、「本願には、<わたしが仏になったとき、あらゆる世界の衆生がわたしの名号を称え、わずか十回ほどの念仏しかできないものまでもみな浄土に往生するであろう。もしそうでなければわたしは仏になるまい>と誓われている。その阿弥陀仏は今現に仏となっておられるから、重ねて誓われたその本願はむなしいものではなく、衆生が念仏すれば、必ず浄土に往生できると知るべきである」と述べられている『往生礼讃』の真実の文を、源空上人が自ら書いてくださった。
また、わたしは、夢のお告げをいただいて、綽空という名をあらためて善信とし、同じ日に、源空上人はその名を書いてくださった。この年、源空上人は七十三歳であった。
『選択集』は、関白九条兼実公の求めによって著されたものである。
浄土真実の教えのかなめ、他力念仏の深い思召しがこの中におさめられていて、拝読するものは容易にその道理に達することができる。
まことに、たぐいまれなすぐれたご文であり、この上なく奥深い教えが説かれた尊い書物である。長い年月のうちに、源空上人の教えを受けた人は数多くいるが、親疎を問わず、これを書き写すことを許されたものはごくわずかしかいない。
それにもかかわらず、わたしは、すでにその書物を書き写させていただき、その絵像も写させていただいた。これは念仏の道を歩んできたことによる恵みであり、往生が定まっていることのしるしである。
よって、喜びの涙を押えて、その次第を書き記すのである。

ここに、本願に救い摂られたこと、法然聖人から、『選択集』や法然聖人の絵像の書写を許された喜びなどが書き記されています。
また、「選択本願念仏集」、「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」、「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」、「念仏の奥義」、「専念正業の徳」ということから、親鸞聖人が、法然聖人から教えられたこと、喜ばれていたことは、一言で言えば、「念仏の教え」であったといってよいでしょう。
そして、親鸞聖人は、法然聖人の明らかにされた「選択本願念仏の教え」こそが、万人を速やかに成仏せしめる浄土真実の教えであることを顕かにするために、『教行証文類』を書き残されたのでした。

このような親鸞聖人の体験文の内容に対して、親鸞会の体験発表の内容はどうでしょうか?
私は、親鸞会に、約11年間在籍しましたが、体験発表で、「お念仏の教え」に出遇えた喜びを語る人は皆無でした。
このようなところからも、法然・親鸞両聖人と、高森会長では、説いている内容が全く異なることを知ることができます。

そして、親鸞会の体験発表においては、「念仏さえ称えていれば死んだらお助け」と寺では聞いてきたが、親鸞会で初めて、親鸞聖人の教えは信心一つで助かる教えであると聞けたというように、念仏は否定的に語られていたように思います。しかし、信心一つと説いてはいても、親鸞会では、その信心とはいかなるものかが、誤って教えられています。その誤りの一つが、念仏と信心の関係です。

上の後序のお言葉の中には、『往生礼讃』の「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」(<もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生れずは正覚を取らじ〉と。かの仏いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得)のお言葉が書かれていました。

このお言葉でいえば、「衆生称念すればかならず往生を得」と信知している状態(疑いを雑えずに聞きいれていること)が、信心です。

念仏と信心を切り離して捉えて、信心だけを追い求めている会員さんは、一度立ち止まって、親鸞聖人は、法然聖人から「念仏の教え」を聞かれたという事実に目を向けるとよいかと思います。
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十八願の対象と十九願の対象の相違について

親鸞会では、十九願にも十八願にも「十方衆生」とあることから、どちらの願もすべての人を対象にしていると解釈しています。

そして、上記の親鸞会教義が誤っていることは、様々なブログで、いろいろな角度から指摘されていますが、今回の記事では、親鸞聖人は、『教行証文類』では、十八願の対象と、十九願の対象をどのように教えられているのかという視点から、上述の親鸞会教義の誤りを正したいと思います。

まず、十八願の対象については、『行文類』で以下のように教えられています。

おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。

ここで、親鸞聖人は、阿弥陀仏の誓願には、真実の行信と方便の行信とがあることを、まず述べられて、真実の行、真実の信、その対象(機)、その往生、その仏土について明らかにされています。

真実の行信の対象、すなわち十八願の対象は、「その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり」と教えられているように、一切の善人、悪人が含まれています。

一方、方便の行信である十九願の行信は、『化身土文類』で次のように、明らかにされます。

これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。この要門より正・助・雑の三行を出せり。この正助のなかについて、専修あり雑修あり。機について二種あり。一つには定機、二つには散機なり。また二種の三心あり。また二種の往生あり。二種の三心とは、一つには定の三心、二つには散の三心なり。定散の心はすなはち自利各別の心なり。二種の往生とは、一つには即往生、二つには便往生なり。便往生とはすなはちこれ胎生辺地、双樹林下の往生なり。即往生とはすなはちこれ報土化生なり。

ここで、十九願の対象は、「機について二種あり。一つには定機、二つには散機なり。」とありますように、十九願の対象は、定善を修める者(定機)と散善を修める者(散機)の二種です。

まとめますと、
十八願の機-一切善悪大小凡愚
十九願の機-定機、散機
です。

そして、「一切善悪大小凡愚」と「定機、散機」とを、区別して教えられたのが、親鸞聖人でした。

端的には、『正信偈』に
矜哀定散与逆悪(定散と逆悪とを矜哀して)
と示され、「定善を修める者・散善を修める者(定散)」と「五逆・十悪の者(逆悪)」とを、区別して教えられています。

上のまとめに対応させると、
十八願の機-一切善悪大小凡愚-定散・逆悪
十九願の機-定機、散機     -定散
です。

十九願の対象には、逆悪の機は含まれていません。

また、『愚禿鈔』では、十方衆生の機をより詳細に分類されています。

まず「二種の機」があることを教えられて、「二機とは、一には善機、二には悪機なり。」と大きく2つの機に分けられています。
そして、「また善機について二種あり。(中略) 一には定機、二には散機なり。」と、善機には、定機と散機があると説かれています。この「定機・散機」は、『化身土文類』の「定機・散機」と同じです。
一方、悪機については、「また悪機について七種あり。一には十悪、二には四重、三には破見、四には破戒、五には五逆、六には謗法、七には闡提なり。 」と七つの機を教えられています。

どこを拝読しても、「善機(定機・散機)」と「悪機(五逆・十悪など)」を、親鸞聖人は区別して教えられています。

上のまとめに、『愚禿鈔』のお言葉も加えると、
十八願の機-一切善悪大小凡愚-定散・逆悪-善機・悪機
十九願の機-定機、散機     -定散    -善機
です。

最近、いろいろなブログに親鸞会の会員と思しき人がコメントをしていましたが、十九願の対象は、すべての人(「善機+悪機」)ではなく、善機(定機、散機)のみと教えられたのが親鸞聖人であることがお分かり頂けたかと思います。一貫して、十九願は、定散諸機にすすめられたと教えられたのが親鸞聖人です。

親鸞聖人が教えられた「万人共通の道」

親鸞会では、弥陀の救いにあうまでの万人共通の道程であるとして、三願転入の道程を説きます(参考「警鐘・親鸞聖人の教えと異なることを語る者たちの特徴」)。しかし、「三願転入の道程が弥陀の救いにあうまでの万人共通の道程である」と説いた親鸞聖人のお言葉が存在しないことは、当ブログや他の親鸞会教義批判ブログで繰り返し指摘されている通りで、多くの記事が書かれています。

そこで、この記事では、親鸞会流三願転入を直接的に批判するのではなく、親鸞聖人は「万人共通の道」ということに該当することを教えられているのか、教えられているとすれば、それは一体どのようなお言葉で教えられているのかということについて書いてみたいとと思います。

まず、「万人共通の道」ということに、相当する端的なお言葉を、親鸞聖人が教えられているのかと考えてみたとき、真っ先に浮かんできたのが「同一念仏無別道故(同一に念仏して別の道なきがゆゑに)」というお言葉でした。もともとは『浄土論註』のお言葉ですが、親鸞聖人は、『行文類』『証文類』『真仏土文類』等で、このお言葉を引かれており、大変重視されていたお言葉であることが窺えます。

今は、『証文類』からお言葉を引用しますと、
荘厳眷属功徳成就とは、『偈』に、《如来浄華衆正覚華化生》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。これいかんぞ不思議なるや。おほよそこれ雑生の世界には、もしは胎、もしは卵、もしは湿、もしは化、眷属そこばくなり。苦楽万品なり。雑業をもつてのゆゑに。かの安楽国土はこれ阿弥陀如来正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに。遠く通ずるに、それ四海のうちみな兄弟とするなり。眷属無量なり。いづくんぞ思議すべきや。
(現代語訳)
<眷属功徳成就とは、願生偈に、«浄土の清浄の人々は、みな阿弥陀仏のさとりの花から化生する»といっていることである>と『浄土論』に述べられている。これがどうして不可思議なのであろうか。この迷いの世界には、胎生や卵生や湿生や化生という生れ方をする多くのものがいて、そこで受ける苦も楽も千差万別である。それはさまざまな迷いの行いに応じて生れるからである。しかし、浄土への往生は、みな阿弥陀仏の清らかなさとりの花からの化生である。それは同じ念仏によって生れるのであり、その他の道によるのではないからである。そこで、遠くあらゆる世界に通じて、念仏するものはみな兄弟となるのであり、浄土の仲間は数限りない。どうして思いはかることができ ようか。
と説かれています。ここで、親鸞聖人は、
「迷いの世界に生まれる者には、種々の生まれ方をするものがいて、そこで受ける苦楽も様々である。それは行いが様々であり、その様々な行いに応じて生まれるからなのである。
一方、阿弥陀仏の浄土への往生することは、如来正覚の仏座への化生である。それは同じ念仏によって生まれるのであり、別の道によるのではないからである。」
と教えられています。「阿弥陀仏の浄土に往生するには、同じ念仏という道による」ということであり、まさに「万人共通の道」を教えられた親鸞聖人のお言葉であると思います。

この念仏の道に入るのに、三願転入という道程を経なければならないと教え込まれている人もいるので、簡単に言っておきますが、私たちの側には、どうすれば念仏の道に入れるのかという道程・プロセスは存在しません。
なぜならば、阿弥陀仏は、「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ」(歎異抄)と、煩悩具足の私たちには、どんな行によっても迷いの世界を離れることはできないと見抜かれて本願を建てられており(仏願の生起)、「大荘厳をもつて衆行を具足して、もろもろの衆生をして功徳成就せしむ」(大無量寿経)と、兆載永劫の御修行を成就なされて南無阿弥陀仏となられて私たちを救済しつつあるからです(仏願の本末)。

「こんなことでは私は救われない」という問題は、私たちが問題にするよりも前に既に阿弥陀仏の方で見抜かれていたことであり、私たちの側には迷いの世界を離れるものがらは何もないということをご承知の上で、阿弥陀仏は本願を建てられているのです。ですから、「こんなことでは救われない」という問題は、私たちの方で問題にすることではないのです。
また、「こうすれば私は救われるだろう(この道程を通らなければ私は救われないだろう)」という問題も、私たちが問題にするよりも前に既に阿弥陀仏の方で問題にされていたことであり、迷いの世界を離れる法(南無阿弥陀仏)を完成されて、南無阿弥陀仏となって「我にまかせよ、必ず往生させる」と私たちに喚びかけ続けているのです。ですから、「こうすれば救われるだろう(この道程を通らなければ救われないだろう)」という問題も、私たちの方で問題にすることではないのです。

そうすると、問題は、阿弥陀仏の仰せに信順するか否かだけであり、念仏の道に入るために衆生の側になさねばならない行(例えば、十九願の修諸功徳の行)などないということがお分かり頂けるかと思います。

このところを、親鸞聖人は、「しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」(信文類)と示されました。仏願の生起本末を聞くところに、「こんなことでは救われない」という問題も、「こうすれば救われるだろう(この道程を通れば救われるだろう)」という問題も、仏願の上で既に解決されていることであることを知らされます。そして、その仏願の生起本末を疑い・計らいを雑えずに受け容れている状態を、本願を信じているというのです。

話を元に戻しますが、親鸞聖人は、本願をどのように信じているのかを、『歎異抄』では、
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
と説かれています。
この「ただ」とは、唯一のただであり、ただ念仏とは念仏一行ということです。「念仏一行によって、弥陀に救われる」という法然聖人の仰せをいただいて疑いなく受けいれていること以外に親鸞聖人の信心はないとの仰せです。法然聖人の教えは、『選択本願念仏集』に説かれていますが、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」ということを、『選択本願念仏集』では「称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに。」(『行文類』選択本願念仏集引文より)と教えられていました。念仏一行によって必ず往生できる。その理由は、それが阿弥陀仏の本願であるからだ、というのが法然聖人の教えでした。阿弥陀仏は、本願において、衆生の往生の行として、念仏一行を選び取られて、余行を選び捨てられています。称名念仏とは、阿弥陀仏が選び取られた行ですから、念仏一行で必ず往生ができるのです。

また、衆生が選び取った行ではなく、阿弥陀仏の選び取られた行ですから、衆生の方から阿弥陀仏に回向する必要はありません。そこで、法然聖人は、念仏は不回向であると教えられています。それを本願力回向の大行として明らかにされたのが親鸞聖人でした。親鸞聖人は、『行文類』で、『選択本願念仏集』の引文に続いて、
あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。
(現代語訳)
上来引用された経、論、釈の文によって、本願の念仏は、凡夫であれ聖者であれ、自らのはからいによって往生の行にしていくような自力の行ではないということが明らかにわかりました。
阿弥陀仏より与えられた往生行ですから、行者のほうからは不回向の行と名づけられています。大乗の聖者も小乗の聖者も、自らの善をたのまず、また悪人も罪の重い軽いをあげつらうことなく、同じく自力のはからいを離れて、大海のような広大無辺の徳をもって一切を平等に救いたまう選択本願に帰入して、念仏し成仏すべきです。

と説かれ、さらに、
ここをもつて『論の註』(論註下 一二〇)にいはく、「かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに」とのたまへり。
と結んでいかれたのでした。

阿弥陀仏から回向された念仏によって、浄土に往生し、仏のさとりをひらく道、「念仏によって往生成仏する道」一つを教え進めていかれたのが親鸞聖人でした。そして、それこそが、親鸞聖人の教えられた「万人共通の道」だったです。

善の勧めを強調するあまり、本願を毀滅している親鸞会

親鸞会に入り、その指導に従うことで生じる大きな問題の一つに、阿弥陀仏の本願を謗り、うち滅ぼすようになってしまうということがあります。「平生業成」の教えを聞き、今、弥陀の本願に救われたいと思って、親鸞会に入会したはずですが、実際に入会してみると肝心の本願は聞けず、知らず知らずのうちに本願をうち滅ぼすようになってしまっているのは、誠に残念なことであり、また、恐ろしいことでもあります。

その恐ろしさを知っていただくために、どのように本願を謗ってしまっているのか、具体例を挙げて示したいと思います。
以下は、過去の『顕真』の記事がネット上にアップされたもので、「《三願転入を説き『善をしなければ、信仰は進みませんよ』といえば、みな『善が間に合う』と聞く。そんな間違いやすいことを話してはならないのでは》という質問にどう答えるのか」という支部会合での講師と会員のやりとりの結論です。
【講師】
「非難者は結局、善をしたくないんでしょう。
 楽な近道を求めているのです。
 “弥陀は、『おまえをすぐ助ける』と誓っておられるから、18願に飛び込め。
 方便なんかいらん。
 善の勧めなんかいらん。
 弥陀の本願を聞いて、すぐにそれを信じればいいんだ
”と。

 方便からしか真実には入れないのに、自分は方便を通らずに18願へ転入できると、
 うぬぼれている。

 自分の姿が全くかっていない。
 弥陀の御心(三願転入)も、分かっていないのです。
 善の勧めを否定する腹底は、そこにある。
 決して惑わされてはいけません。
 自分に都合のいい聞き方しかしていないから、いつまでたっても、真実の救いには
 値(あ)えないのです。
 救われたといっていても、自分でつくった化城(自力の信心)ばかり。
 そして結局、仏縁が離れていくのです」

弥陀の願心を伝える「善をしなければ信仰は進みませんよ」より引用;太字は原文のまま、下線は私が附した)

ここで、下線部の
 “弥陀は、『おまえをすぐ助ける』と誓っておられるから、18願に飛び込め。
 方便なんかいらん。
 善の勧めなんかいらん。
 弥陀の本願を聞いて、すぐにそれを信じればいいんだ”

は、親鸞会の「善の勧め」を批判する者が主張していることとして講師が発言したものですが、これは、阿弥陀仏の十八願の内容そのものであり、どこも間違っていません。

前回の記事でも、少し触れましたが、善導大師は、『散善義』の二河白道の譬えで、十八願意を
また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。
と明らかにされました。そして、親鸞聖人は、その「ただちに(直ちに)」を、『愚禿鈔』で、
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
と解釈されています。

ここで、この善導大師、親鸞聖人のお言葉と、上の講師の発言の中の下線部とを比較してみましょう。

まず、阿弥陀仏は、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ」と喚びづくめなのですから、「弥陀は、『おまえをすぐ助ける』と誓っておられるから、18願に飛び込め。」と表現することには何の問題もありません。「ただちに来れ」ですから、今すぐに「18願に飛び込め」ということになります。

次に、「直の言は、回に対し迂に対するなり」とは、「直」という言葉は、「回」や「迂」という言葉に対するということです。そして、「回」や「迂」とは、『信文類』に、
しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。
(現代語訳)
ところで、菩提心には二種類がある。一つには竪すなわち自力の菩提心、二つには横すなわち他力の菩提心である。また、竪の中に二種がある。一つには竪超、二つには竪出である。この竪超と竪出は、権教・実教、顕教・密教、大乗・小乗の教えに説かれている。これらは、長い間かかって遠回りをしてさとりを開く菩提心であり、自力の金剛心であり、菩薩がおこす心である。
と説かれている竪超と竪出、すなわち聖道門のことや、同じく『信文類』に、
また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。
(現代語訳)
また、浄土門の中に横出がある。それは三輩・九品の機が定善・散善を修め、方便化土である懈慢界に往生する遠まわりの善の教えである。
と説かれている横出、すなわち要門(十九願)のことを意味していました。すなわち、「直」という言葉は、さとりを開くまで回り道をしなければならない聖道門や要門の教えに対していて、阿弥陀仏の第十八願の法義(横超)は速やかにさとりを開く教えであるということを表していることになります。

さらに、「直」という言葉には、「方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり」という意味もあることが示されています。ここの「方便」は仮門と続いていることから、権仮方便のことで、聖道門や要門のことを指しています。そのような方便を「捨てて」ですから、言葉を換えれば、「方便なんかいらん」といってもよいでしょう。そして、聖道門や要門は、善を修め、さとりや往生を求める教えですから、「方便仮門を捨てて」は、「善の勧めなんかいらん」とも言えます。また、「如来大願の他力に帰する」とは、本願招喚の勅命(本願の仰せ)に信順することですから、「弥陀の本願を聞いて、すぐにそれを信ずる」ことに相当します。

このように、「善の勧め」を批判する者が主張していることとして講師が発言したことは、阿弥陀仏の第十八願(本願)に他ならないのです。講師は、そのような「善の勧め」を批判する者の主張を非難しているのですから、知らず知らずのうちに、阿弥陀仏の本願を非難していることになってしまっているのです。そして、本願を非難して、高森会長の説く「三願転入の教え」に固執してしまっているのです。

善導大師は、阿弥陀仏の本願(念仏の教え)を毀滅する者について、
かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教を毀滅して永く沈淪す。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三塗の身を離るることを得べからず。(法事讃
(現代語訳)
このような生れながらの盲人のような闡提の輩は、この念仏の教えを謗って永く沈み、大地微塵劫より長い間をすぎても、なお三塗の迷いの身を離れることができない。
と教えられました。その善導大師の教えを、親鸞聖人は
本願毀滅のともがらは 生盲闡提となづけたり
大地微塵劫をへて ながく三塗にしづむなり(高僧和讃

(現代語訳)
本願を討ち滅ぼそうとする人は、 ものごとの見えない人であり教えを聞かない人と名づけられた。
想像もできない時間を経て、 長い間地獄餓鬼畜生の世界に沈むのである。

と明らかにされています。ここで、「毀滅」の左訓には、「そしるにとりても、わがする法は勝り、またひとのする法は賤しといふを毀滅といふなり」とあります。いま、ここで、私が救われる本願を非難し、自らが主張する根拠なき「三願転入の教え」に執着する高森会長は、まさに「本願毀滅のともがら」といえるでしょう。また、「本願毀滅」の集大成が『なぜ生きる2』という本であるともいえます。そして、その高森会長の指導に従い、「三願転入の教え」、「善の勧め」を布教している人も、意図せずとも、本願をうち滅ぼしていることになってしまいます。

高森会長が「善の勧め」を放棄するとはとても思えませんが、その指導を仰いでいる人は、本願毀滅の恐ろしさを知り、せめて高森会長、親鸞会から離れて頂きたいと念じます。

【再掲】『親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?ー本願寺 いない』と歪曲する親鸞会

昨日の記事では、親鸞会講師部員が開催している講座について取り上げました。

親鸞会の会員さんや親鸞会関係の行事に参加している未会員さんの中には、仏教については、親鸞会関係の本しか読んだことがないという人もいると思います。そこで、親鸞会の教えしか知らない人でも、読んでもあまり違和感のない仏教書を一つ紹介したいと思います。約4年前の記事でも取り上げましたが、本願寺出版から出ている小池秀章著『高校生からの仏教入門』です。

親鸞会講師部員が開催している講座に参加している人や現役親鸞会会員の方に、『なぜ生きる』や親鸞会発行の書籍以外の仏教書を読むきっかけにしてもらいたいと思い、以下に過去の記事の再掲します。この記事を通して、「人生の目的、なぜ生きるを教えられたのが親鸞聖人」と説く人は、親鸞会以外にもいることを知って頂きたいと思います。

(以下、2011年5月3日の記事の再掲)

親鸞会批判の真実の中に掲載されている親鸞会と本願寺10の相違点の1番に、

親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?
本願寺 いない
親鸞会 いる


とあります。果たして、これは本当でしょうか?
本願寺出版から出ている小池秀章著『高校生からの仏教入門』を見てみましょう。


生死出づべき道 私の「生きる意味と方向」をはっきり示された方が、親鸞聖人です。

何のために生まれて 何のために生きているのか

 何のために 生まれて 何をして 生きるのか
 答えられないなんて そんなのは いやだ! (作詞やなせたかし 作曲三木たかし)

 これは、「アンパンマンのマーチ」の一番の歌詞です。アンパンマンというのは、顔がアンパンのアニメのキャラクターで、小さな子ども達には大人気です。そんな子ども向けのアニメの主題歌の中で、こんな難しいことが歌われているのです。
 あなたは、「何のために生まれて、何をして生きるのか」答えられますか? これは、たいへん難しい問題で、そう簡単に答えられる問いではありません。
 ある人は、この問いに対して、「その答えを探すために生きるのです。」と言われました。確かにその通りでしょう。しかし、親鸞聖人は、この問いに一つの答えを出されました。
(106-107頁より引用)


上記のように、『私の「生きる意味と方向」をはっきり示された方が、親鸞聖人です』とハッキリ書かれています。これだけでも、親鸞会の主張する、

親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?

本願寺 いない


が事実と異なることが分かります。

では、「生きる意味と方向」について、この本ではどのように書かれているのでしょうか?
次にその部分を引用します。

生きる意味と方向
 浄土真宗の救いとは、金魚すくいみたいに、ひょいとすくってもらって、いい世界に連れて行ってもらうようなものではありません。また、病気を治してもらったり、さまざまな自己の願いが叶ったりすることでもありません。
 浄土真宗の救いとは、生きる意味と方向が定まることです。自己中心の心から離れられず、迷いの人生を生きている私に、智慧と慈悲の世界が与えられることによって、人生のあらゆることに尊い意味を見いだすことができるのです。そして、浄土という真実の世界に向かって生きることが、本当の人間としての生きる道であると、生きる方向が定まるのです。
 このように、私中心の生き方から仏中心の生き方へと転換され、念仏という生きる依りどころが定まった時、どんな苦難をも乗り超える智慧と力が与えられるのです。

往生浄土
 ただし、浄土真宗の究極的な救いは、この世のいのちが終わると同時に、浄土に往生し成仏する(さとりを開く)ことです。「往生」とは、「困ること、行き詰まること」ではなく、文字通り、「往き生まれる」ことです。「浄土」とは、「煩悩の汚れの無い清らかな世界・さとりの世界」のことです。つまり、「往生浄土」とは「浄土に往き生まれる」ことで、それは行き詰まることではなく、さとりという新しい世界が開けてくることなのです。

現生正定聚
 しかし、このことは、決して未来の救いのみを説いているのではなく、信心をいただいた時に、往生成仏が定まり救われるのです。それを「現生正定聚」という言葉で表わしています。「現生」とは、この世、「正定聚」とは、正しく仏になることが定まったなかまという意味です。
 つまり、信心をいただいた時、念仏という生きる依りどころが定まり、浄土という真実の世界に導かれながら、浄土という真実の世界に向かって生きるという生き方が与えられるのです。それを救いと言うのです。
(194-195頁より引用)


いかがでしょうか?

親鸞会在籍時、「本願寺は死んだら極楽、死んだら仏と死後の救いばかりを説いていて、現在の救いを説かない」と聞いたことがあります。実際に、親鸞会と本願寺10の相違点の5番目、6番目に

助かるのはいつか
本願寺 死なねば助からぬ
親鸞会 生きている時に助かる

救われたらどうなるのか
本願寺 この世で救われたということは、ありえない
親鸞会 絶対の幸福になる


とあります。ところが、上の引用部分では、「決して未来の救いのみを説いているのではなく、信心をいただいた時に、往生成仏が定まり救われる」と「現生正定聚」について書かれています。つまり、親鸞会のこれらの主張も、本願寺の主張を歪曲したものであることが分かります。

10の相違点の7番目も酷い歪曲です。

本願寺 念仏さえ称えておればいい
親鸞会 真実の信心ただ一つで助かる


上の引用部分に「信心をいただいた時に、往生成仏が定まり救われる」とありました。『高校生からの仏教入門』では、別の部分でも「信心正因称名報恩」について教えられています。

本願寺には、親鸞会とは比べ物にならないくらい多くの布教使が在籍しています。その中には親鸞会が「本願寺は●●だ」と言っているようなことを説く人もあるのかもしれませんが、親鸞聖人が教えられたことを正しく説く人もいることは、本を手に取って読んでみたり、法話を聞いてみたりすれば分かることです。それらをひとまとめにして、「本願寺は●●」とレッテルを貼っているのは、正しく教えを説く人がいることを会員さんに知らせないための手段だと感じます。他で教えを聞くことは許さないという縄張り根性の表れでしょう。

自分自身のことを振り返ってみると、親鸞会から一方的に「本願寺は●●」というプロパガンダを聞かされて、「本願寺とは何てひどいことを教えているところなのだろう」と思い込まされていました。しかし、事実は違いました。自分で書店に行き、本願寺出版の書籍や本願寺派に属する布教使の書いた本を読んでみると、親鸞聖人の教えをそのまま伝えていることが分かりました。一方、親鸞会は、親鸞聖人が書かれたものを断章し、自分に都合良く解釈しているということもよく分かりました。この親鸞会教義の誤りについては、当ブログはじめ、多くのブログが指摘していることです


さて、話を「人生の目的」というところに戻しましょう。親鸞会は、親鸞聖人の明らかにされた人生の目的を説いていると主張していますが、親鸞会の人生の目的の説き方はおかしいです。「ここが信仰の決勝点、ここが卒業、完成」と、未来に向かって、これから一生涯かけて求めなければならないものとして教えます。これが、親鸞聖人の教えの一枚看板と自分たちがいっている「平生業成」に、実は真っ向から反しているのです。「平生」とは「いま」のことと言っていながら、「ここまで進め」では、達成するのはどうしても未来です。

「我をたのめ(南無)必ず助ける(阿弥陀仏)」とつねに喚び続けている名号をそのまま疑いなく聞き受けることが信心です。そのとき、往生成仏が定まります。私が求めるよりも先に与えられている名号願力という大前提のもとに「平生業成」が成り立つのです。

「人生の目的」という言葉を使うならば、これから未来に向かって使うのではなく、生まれたときから現在只今までのことなのです。
「多生の目的」という言葉も同様です。これから未来に向かって、多生かかって求めていくという意味に使うのではありません。生死を繰り返してきた果てしない過去から今日までのことです。

南無阿弥陀仏をそのまま聞き受けたとき、生きる目的も知らず死に行く先も知らなかった人生が、浄土に向かって生きる人生であると生きる方角が定まるのです。南無阿弥陀仏を聞くのは、未来のことでもなく、過去のことでもなく、現在只今のことです。「生きる意味と方向」が定まるのは、現在只今であって、未来に向かってその達成を求めるのではないのです。つねに喚びかけ続けられている本願の仰せを、「いま」、聞くか聞かないかだけです。

親鸞会は人生の目的を説いていると言っていても、そこで説かれている目的を達成することは不可能でしょう。信心獲得が人生の目的といいながら、信心の理解がまるで間違っているというのが理由の一つ。他力回向の親鸞聖人の教えが、自力の教えになってしまっているのが理由の二つ目。私の側のことばかりが説かれ、助けて下さる阿弥陀仏のことが完全に抜けてしまっている話を聞かされているということが理由の三点目です。

親鸞会の会員さんが勧められていることは、いつまでたっても決勝点に辿り着くことのない活動だけであるということに気が付いてもらいたいです。死ぬまで求道の「光に向かって進む教え」が親鸞会教義なのです。いつまでたっても光に辿り着くことはありません。

平生業成の教えが説かれているか?
本願寺(全ての布教使がどうかは分からないが) いる
親鸞会 いない

というのが実態ではないでしょうか?(親鸞会でも言葉だけなら説かれていますが、「実態は」ということです)

今日紹介した『高校生からの仏教入門』は、当ブログでこれまで引用してきた本に比べて、親鸞会の会員さんにも読みやすい本だと感じますので、関心をもたれた方は読んでみるのがよいと思います。

※なお、今回、この記事を再掲載したのは、掲載から4年程経過した今でも、同記事の拍手ボタンを何度も押して下された方がいたというのも一つの理由です。拍手ありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。

Appendix

プロフィール

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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