Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

聞法善ー他力の救いを自力の教えにした高森会長の大罪

親鸞会では、聴聞・聞法のことを聞法善と呼び、最も宿善が厚くなる行為として位置づけています。そして、聞法に励んだ先に信心獲得の決勝点があるとしています。しかし、この教義は親鸞聖人の教えに根本から反し、聞法者を自力の教えに留めてしまう重大な誤りですので、他のブログでも誤りが指摘されていますが、本ブログでもこの問題を取り上げます。

まず、『本願寺なぜ答えぬ』では、以下のように「聞法に勝る獲信の因縁(宿善)はない」と書き、本願寺もタテマエの上ではこれを認めたとしています。

(3)〝なぜ実らぬ〟本願寺の聞法のすすめ~
 「善さえ励めば獲信できる」〝これが親鸞会の主張だ〟
 こんな本願寺の中傷を縁として、親鸞会は、聞法に勝る獲信の因縁(宿善)のないことを開顕し、〝仏法は聴聞に極まる〟ことを力説してきた。
 聴聞(聞法)の重要性には、本願寺も異存がないらしい。
(中略)
 いくら本願寺でも、聞法と獲信の関係を断ち切れば崩壊することぐらいは、ご存知のようだ。
「聞法を勧めねばならないことは、いうまでもない」と、珍しくも断言なさっている。
 ついでに、
〝大いに、すすめねばならぬワケ〟もききたいものだが、とにもかくにも、聞法が獲信の因縁(宿善)になることを、タテマエだけでも、本願寺が認めたことはおめでたい。


しかし、親鸞聖人の教えにおいて、親鸞会が説くように「聞法が獲信の因縁(宿善)になる」という教説は存在しません。このことは、宿善論争の発端になった『現代における異義の研究 伝道院紀要24号』(紅楳英顕著)でも既に指摘されていることです。

先ず「たとひ大干世界にみてらん火をもすぎゆきて仏のみなを聞く」の聞くであるが、宗祖において「聞」とは「信巻」には
聞といふは、衆生仏願の生起本末を聞きて疑心有ること無し、是れを聞と日ふ也(真聖全二の七二)
とあり、又『一念多念文意』には
きくといふは、本願をきゝてうたがふこゝろなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(真聖全二の六〇四)
等とあるように聞とは信心をあらわすものであり、信心とは「本願力回向之信心也(真聖全二の七二)とあるように他力回向の信心であるから、「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏の御名を聞く」という表現ではあっても決して自力の意ではなく、他力の意に他ならないのである。


ここでは聞法を勧められた親鸞聖人のお言葉「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」(『浄土和讃』)の意味が解説されています。親鸞聖人において、「聞」とは信心をあらわすものであり、他力の意味で説かれていることが明らかにされています。上で引用した『本願寺なぜ答えぬ』の中に「聞法と獲信の関係」という言葉が出てきますが、聞いたそのままが信心であるということが親鸞聖人が教えられた「聞と信の関係」です。親鸞会が主張するような「聞法が獲信の因縁(宿善)になる」というような関係を親鸞聖人は教えられていません。

『本願寺なぜ答えぬ』に引用するといっていながら、引用しなかった『派外からの異説について』(紅楳英顕著)でも同様のことが明らかにされています。

宗祖聖人は、
たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきく人は ながく不退にかなふなり(『浄土和讃』)
といわれ、蓮如上人は、
仏法は世間の隙を闕きてきくべし、世間の隙をあけて法をきくべきように思うこと、浅ましきことなり。(『御一代記聞書』)
いかに不信なりとも聴聞を心に入れ申さば、御慈悲にて候間、信を獲べきなり、只仏法は聴聞に極まることなりと云々。(『御一代記聞書』)
等と教示されている。
このことは、論文にも述べたことであって、聞法(聴聞)を勧めることが間違いである等とは、私はどこにもいっていない。 私の述べているところを故意にネジ曲げて非難していることは明らかである。
そもそも、真宗の「聞」とは、第十八願成就文の「聞其名号信心歓喜」の如実の「聞」でなければならない。これは、第二十願の「聞我名号係念我国」の「聞」とも峻別される他力の「聞」なのである。 高森親鸞会の主張のように、破邪顕正や財施等の自力の行と同列に扱うこと自体が、そもそも問題なのである。この意味から、存覚上人は、
聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりばかりもよりつかざるなり。(『浄土見聞集』)
と述べられているのである。


『本願寺なぜ答えぬ』では、聞法が獲信の因縁(宿善)になることを本願寺が認めたかのように書かれていますが、本願寺はそんなことは認めていません。それどころか、引用した二つの論文では、親鸞聖人が勧められた聞法とは、十八願成就文の「聞其名号信心歓喜」の「聞」であり、他力の「聞」、聞いたままが信心である聞即信の「聞」であることが述べられ、親鸞会の主張する自力の行(宿善になる行)としての聞法の勧めは問題であると指摘されているのです。しかし、この本願寺の指摘をねじ曲げて、本願寺も聞法が獲信の因縁(宿善)になることをタテマエだけでも認めたとしているのです。酷い歪曲だといわざるをえません。

こうして、正しい意味での聞法はねじ曲げられて、宿善が厚くなる行としての聞法だけが親鸞会には存在することになってしまいました。そこで問題にされるのは、どれくらい聴聞しているのか、富山に参詣しているかという回数や、その真剣さ、聞いたことをどれだけ覚えているのかなどの自分の聞法姿勢ばかりです。まさに、破邪顕正や財施等の自力の行と同列の自力の聞法だけがそこにはあるのです。自らの聞きぶりばかりが問題にされ、救いの法が抜け落ちてしまった状態に陥っているのですが、親鸞会の内部にいるとなかなかそこに気が付くことはできません。

このような「聴聞、おつとめ、六度万行が獲信の因縁(宿善)になる」という教義、また「三願転入の教え」、「善をしなければ信仰は進まない」等の「親鸞会の教え」に共通しているのは、救いを彼方においてそこに向かって何らかの行に励み、ハッキリした信心をいただこうとしている点です。そして、この点こそが、「親鸞会の教え」の根本的な誤りなのです。

そもそも、浄土真宗とは、親鸞聖人が『信文類』に「横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり横超というのは、本願が成就して、すべての衆生が平等にさとりを開く唯一の真実円満の教え、すなわち真宗である)」と説かれているように、本願が成就していることを大前提としています。本願の「至心・信楽・欲生」の三信の解釈でも、『信文類』では仏の上に成就された三信としての解釈がなされています。その信楽釈には、
信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。
(現代語訳)信楽というのは、阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つに融けあっている信心である。このようなわけであるから、疑いは少しもまじることがない。それで、これを信楽というのである。
とあり、阿弥陀仏が私たちを救うことに一点の疑いもない摂取決定の心が信楽であると説かれています。その阿弥陀仏の願心は、欲生釈に「如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり如来が迷いの衆生を招き喚びかけられる仰せである)」と説かれているように、「南無(我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず助ける)」の仰せとなって衆生を喚びづくめなのです。
この間違いのない法(南無阿弥陀仏)を計らいなく聞いている状態が信心です。これを聞即信といいます(つまり親鸞会の聞即信の説明は誤りです)。

親鸞聖人や蓮如上人が勧められた聞法とは、間違いのないお救いの法、すなわち本願が成就し招き喚びかけられつづけている南無阿弥陀仏をお聞かせ頂くことです。決して、救いを眺めものにして自らの側から聴聞を重ねることによって決勝点に到達するというような法なのではありません。

高森会長の大きな罪は、阿弥陀仏の側からの他力の救いを、衆生の側から求めさせる自力の教えにしてしまっているところにあります。たとえていうならば、向こう側から開かれている扉を、こちら側から押すように勧めているのが、聞法善という概念であり、親鸞会の宿善論であり、三願転入の教えです。その教えに従う限り、永久に扉が開かれることはありません。つまり、救いの法を拒絶するように仕向けているのが高森会長の教えです。このような親鸞会の教えに従っている限り、「微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし」であり、「信を生ずることあたはず、仏智を了らず、かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり」です。聞法善などという誤った教えは、速やかに廃捨せねばなりません。
スポンサーサイト

「無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ」と説くのは無責任説教??ー本願を踏みにじる親鸞会ー

「親鸞聖人の教え」と「親鸞会の教え」はまるっきり違います。ですから、「親鸞会の教え」を盲信している人は正しい「親鸞聖人の教え」を見聞きしても、「これは違う、間違いだ」と思ってしまいます。以下は、『本願寺なぜ答えぬ』の一節ですが、似た文章は他の親鸞会発行物の中にも散見されます。

大体、浄土真宗の道俗は、生まれおちるより、他力じゃ、易行の法じゃ、無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ、と、無責任説教を聞かされているから、仏法をバカにして、初めから易しいものと目安をつけ、見くびっている者が多い。(聞法以外に、獲信の因縁は、ないかより引用

リンク先か、『本願寺なぜ答えぬ』を読んで頂ければわかりますが、この後、「修善は獲信の因縁(宿善)になる」という「親鸞会の独自教義」が展開されていきます。

上で引用した文章のようなことが刷り込まれている親鸞会の熱心な会員さんは「他力じゃ、易行の法じゃ、無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ」と説く人、そのような文章を見ると、「これは違う」と思い、もう受け付けなくなってしまうことでしょう。しかし、「他力じゃ、易行の法じゃ、無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ」と説くことは誤りなのでしょうか?

阿弥陀仏の本願の救いは、無条件の救済、そのままの救いであることを、蓮如上人は次のように教えられています。

そもそもその信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす。その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに摂取して捨てたまはずして、一期の命尽きぬればかならず浄土におくりたまふなり。この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。これによりて『大経』(下)には「易往而無人」とこれを説かれたり。この文のこころは、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。かくのごとくこころうるうへには、昼夜朝暮にとなふるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。かへすがへす仏法にこころをとどめて、とりやすき信心のおもむきを存知して、かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。(御文章2帖目7通

信心をとるのには、智慧も才能も学問も要らず、身分も関係なく、善人悪人の隔てもなく、性別も無関係なことを最初に書かれていますが、その後に続く、「なにのやうもなく」、「やうもいらぬ」も、私側には何の条件もついていないこと(無条件)を表しています。無条件ということは、今の私のそのままということでもあります。そして、安心をやすきこころとよみ、次にやすきこころとは「なにの造作もなく・・・」と示し、「易往而無人」と結ばれることで、「易往」の「易」が、容易とかたやすいという意味ではなく、自らの造作を何も加えない無作を意味する言葉であることが明らかになっています。また、「易往」の「往」とは「往生」ということですから、平たい言葉で言えばお助けということです。したがって、「易往」とは、そのままのお助け、無条件の救済ということになります。つまり、「無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ」と説くのは、そのままのお助け、無条件の救いである阿弥陀仏の本願のこころをお取次ぎしているということなのです。

最近の親鸞会では宿善について強調して説いているようですが、「獲信の因縁として諸善を修せよ」などという教説は、上の蓮如上人のお言葉に反し、今の私のそのままで救われる無条件の救いである阿弥陀仏の本願を踏みにじる異義です。

阿弥陀仏の本願の救いにおいて、私の側に何の条件もついていないことを、親鸞聖人は、

おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず。(信文類
(現代語訳)
おおよそこの海のように広大な徳を持っている偉大な信心について味わってみると、身分の違いや出家在家の違いを分け隔てせず、男女とか老少を区別せず、犯した罪の多少を問題にせず、修行期間の長短を問題にせずに救いをもたらします。


と仰っています。阿弥陀仏の救いは「修行の久近を論ぜず」でありますから、過去にどれだけの善を為したかは無関係です。それに真っ向から反しているのが「宿善があつくなって救われる」という「親鸞会の教え」であることが分かります。上の親鸞聖人のお言葉の後、親鸞聖人は『阿弥陀経義疏』から次のお言葉を引かれています。

念仏法門は、愚智豪賤を簡ばず、久近善悪を論ぜず、ただ決誓猛信を取れば臨終悪相なれども、十念に往生す。これすなはち具縛の凡愚、屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。世間甚難信といふべきなり。(信文類
(現代語訳)
念仏の教えは、愚者と智者、富めるものと貧しいもののへだてなく、修行期間の長短や行の善し悪しを論じることなく、ただ決定の信心さえ得れば、臨終に悪相をあらわしても、たとえば十声念仏して往生をとげる。これこそは、煩悩に縛られた愚かな凡夫でも、また、生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを跳び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである。


無条件の救いである阿弥陀仏の本願は、「刹那に超越する成仏の法(たちどころにすべてを跳び超えて仏になる教え)」であり、「世間甚難信(世間の常識を超えた信じがたい尊い教え)」です。そのような阿弥陀仏の救いをますます信じ難くさせ、その救いから遠ざけているのが、「三願転入の教え」や「獲信の因縁として善を修せよ」などと説く高森会長です。

阿弥陀仏の救いとは、無条件の救済、ただの救い、そのままの救いであることを教えられたのが親鸞聖人であり、蓮如上人です。「無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ」と説くのを無責任説教だと批判するのは、親鸞聖人や蓮如上人を批判しているのと同じであり、本願のこころを伝えていないということです。

「無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ」と説くのは、阿弥陀仏は「そのままのお前のままで浄土に連れていくぞ」と仰せですよと本願のこころをお取次ぎしているということです。そして、「そのまま助けるぞよ」の勅命を、我が思いを雑えず、仰せのままに聞きうける以外に真宗の信心はないということをよくよく知っていただきたいと思います。

真剣に聞いたことは弥陀の救いと無関係と話す高森先生ー『本願寺なぜ答えぬ』の破綻

『本願寺なぜ答えぬ』78頁に以下の記述があります。

今年、阿弥陀仏に救われた人(獲信者)は、昨年、自己の修した善を、ふりかえり、宿善と、喜ぶことになる。
獲信と、よい関係にある、修善をすすめる親鸞会を、非難する本願寺は、間違いにならないか。


これについて、過去のアニメ解説で、高森会長自身が、自分が真剣に聞いたことは、獲信と無関係であり、それを喜ぶことはないという回答をしたことがあります。

平成17年9月23日、4回目のアニメ解説で、「真剣に聞くことと早く他力の信心をうることの間には、関係があるとしか思えないがどうなのか?」という趣旨の質問(もとの質問文が分かりにくいので改変しました)に対して、高森会長は以下のように答えていました。


真剣に聞くとはやく他力の信心がいただけるとすると関係あるんではないか?
もし、そういう人が他力の信心獲得したら、「真剣に聞いてよかった、真剣に聞いたことが間に合った」と思うということ。もし、関係があるなら思う。思って当然。

ところがそうは思わない。
真剣に聞いたことは間に合わなかった。私が、頭が良かったから悪かったから、学問あったから無学だから、こんなことは一切関係なかったと知らされるのがこのとき(注:信の一念のこと)、ハッキリするのがこのとき。
こんなことは一切、弥陀の救いにあうには関係なかったと知らされるのがこのとき。救われた後もその心はずっと続く。

ですから、関係は全くありません。


※このあとは、「真剣にきかないと真剣に聞いたこと間に合わないと知らされない」、「善い行いを一生懸命やって、雑行が雑行と知らされ、一切の諸善万行間に合わなんだと雑行が廃る」という親鸞会教義が繰り返し話されました。そして、最後に、、、

ですから、今の質問、真剣に聞かにゃならん。だけど、間に合いませんよ。真剣に聞いた者、間に合わなんだと知らされる。
関係ない。ゼロです。


(聴聞録がある人は確認してみて下さい。)


一切、弥陀の救いに関係なかったと知らされるのですから、「自己の修する善」も無関係です。自己の修する善が獲信とよい関係だったと知らされることはないということです。当然、今年、獲信した人が、昨年行った善を振り返って、宿善と、喜ぶことはありません。無関係なのですから。

つまり、上のアニメ解説の内容は『本願寺なぜ答えぬ』の七つの質問の中の第一問が成り立たないことを高森会長自らが話している訳です。「今年、阿弥陀仏に救われた人(獲信者)は、昨年、自己の修した善を、ふりかえり、宿善と、喜ぶことになる。」ということはないのです。

真剣に聞いたことが間に合わないということを話しているだけなんだと思われる方もあるかもしれませんが、「真剣に聞いてよかった」と思うことがないとも話しています。同じように、弥陀の救いに関係づけて「善を修めてよかった」と思うこともないのです。


繰り返しこのブログで書いていることですが、一切の私の行為と弥陀の救いは無関係です。獲信と無関係な修善を、獲信と関係づけて説いているので、親鸞会は間違っていると批判しているのです。


この記事のアニメ解説の内容でいうと、親鸞会教義の問題は、
・真剣に聞かないと、真剣に聞いたことが間に合わないと知らされない
・善い行いを一生懸命やって、雑行が雑行と知らされ、雑行が廃る
というところにあります。ここが親鸞聖人の教えにない独自の教義です。

救いと無関係なことは、どれだけ実行しても無関係です。ゼロはいくら足してもゼロです。仏意に矛盾があるのではなく、高森会長の説き方が矛盾しているだけです。会員の皆さんは、深い御心と思考停止しないで下さい。

自分が善を修め、その延長上に雑行(自力の心)が廃るということがあるのではありません。南無阿弥陀仏の名号のはたらきによって、雑行(自力の心)が廃るのです。

「まかせよ(南無)必ず助ける(阿弥陀仏)」の仰せを頂くばかりです。自ら聞いて間違いなくなるのではなく、間違いない法(南無阿弥陀仏)を聞くのです。そこに自力の計らいは否定され、残るのは間違いない法のみです。信心といっても南無阿弥陀仏の他には何もありません。

全て阿弥陀仏のお育て、おはたらきであると喜ぶばかりです。
「遇行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」です。

『本願寺なぜ答えぬ』の誤り(4)ー「聞法が獲信の因縁(宿善)になる」と本願寺が認めたかのように歪曲

前回の記事「往生浄土の方便の善」とは「獲信の因縁としての善」なのか?を読んでも、現役の会員さんの中には、「修善は獲信の因縁(宿善)になる」という考え方から抜け出せない方もあると思います。

「聴聞、勤行、六度万行を実践することで、宿善が厚くなって救われる」という親鸞会教義が強固に刷り込まれている影響でありましょう。

実は、親鸞会で説かれる宿善論は根本的に誤っています。

親鸞会の宿善論の誤りは多くのブログで取り上げられています。以下に主な記事のリンクを載せましたので、まだ読んだことのない方は読まれるとよいと思います。中でも『本願寺なぜ答えぬ』の巻末に全文載せると本文中に書きながら、高森会長が掲載しなかった(できなかった)紅楳英顕著『派外からの異説について』をよく読むことをお勧めします。

『親鸞会教義の誤り』
紅楳英顕著『派外からの異説について』
宿善とは1
宿善とは2
宿善とは3
宿善とは4
宿善とは5
宿善とは6
『21世紀の浄土真宗を考える会』
『本願寺 なぜ 答えぬ』を読んで1
『本願寺 なぜ 答えぬ』を読んで2
『本願寺 なぜ 答えぬ』を読んで3(既出問題)


この記事では、『本願寺なぜ答えぬ』で、高森会長が「聞法が獲信の因縁(宿善)になる」と本願寺が認めたかのように歪曲して文章を書いている点を指摘しておきます。

(3)〝なぜ実らぬ〟本願寺の聞法のすすめより引用
(本願寺の主張を歪曲している文を指摘するために、赤字の強調は私がつけました。)

「善さえ励めば獲信できる」〝これが親鸞会の主張だ〟
 こんな本願寺の中傷を縁として、親鸞会は、聞法に勝る獲信の因縁(宿善)のないことを開顕し、〝仏法は聴聞に極まる〟ことを力説してきた。
 聴聞(聞法)の重要性には、本願寺も異存がないらしい。
「すべて他力になさしめられる」、という、かねての主張をかなぐり捨てて、こう仰有っているからだ。

「聞法(聴聞)を勧めることが間違いである等とは、私はどこにもいっていない(回答書(B) P・18)

「聴聞については『聞其名号信心歓喜』の法であるから、已信・未信を問わず、みずから聞法につとめると共に、他の人たちにも聞法を勧めねばならないことはいうまでもない」(回答書(A) P・145)

 まこと、そうあってほしいもの。
 いくら本願寺でも、聞法と獲信の関係を断ち切れば崩壊することぐらいは、ご存知のようだ。
「聞法を勧めねばならないことは、いうまでもない」と、珍しくも断言なさっている。ついでに、

〝大いに、すすめねばならぬワケ〟もききたいものだが、とにもかくにも、聞法が獲信の因縁(宿善)になることを、タテマエだけでも、本願寺が認めたことはおめでたい。
 ところが、余りハッキリ容認すると、親鸞会非難の根拠を失うとでも思ってか、本願寺サン、おかしな弁明をなさっている。
「しかし、今生において聴聞に励むことは、どれほど懸命に努め励んでも、それはあくまで、救いの法をお聞かせいただくのであってこれを自力の善根を修するとか、宿善を積むなどとはいわないのである」(回答書(A) P・145)

 おかしいというのは外でもない。
ここで本願寺の、
〝宿善をつむといわない〟
ということが、

〝聞法は獲信の因縁(宿善)とはならない〟
ということならば、すでに、
「救いの法をお聞かせいただく聞法」
が獲信の因縁(宿善)になると、ちゃんと認めている
ことと、矛盾するからである。

 なんのことはない。
聞法は獲信の因縁(宿善)とハッキリ認めては、親鸞会攻撃の足場がなくなる。
 なんとかボカすための弁明と、カングルほかない。
それとも〝言わないだけ〟とでも、いうのであろうか。


この文章を読むと、聞法が獲信の因縁(宿善)になることを本願寺がタテマエだけでも認めたものと思い込まされてしまいます。しかし、本願寺の論文そのものを読めば、それが事実を歪曲したものであることが分かります。

『本願寺なぜ答えぬ』の文章中に出てくる回答書(B)(『派外からの異説について』)では、上での引用文の直後に次のように書かれています。

そもそも、真宗の「聞」とは、第十八願成就文の「聞其名号信心歓喜」の如実の「聞」でなければならない。これは、第二十願の「聞我名号係念我国」の「聞」とも峻別される他力の「聞」なのである。高森親鸞会の主張のように、破邪顕正や財施等の自力の行と同列に扱うこと自体が、そもそも問題なのである。この意味から、存覚上人は、
  聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たも
  ちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おも
  ひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりば
  かりもよりつかざるなり。(『浄土見聞集』)
と述べられているのである。


つまり、聴聞を破邪顕正や財施等の自力の行と同列に扱い、聴聞が最高の宿善になるという考え方が問題であると指摘されているのです。聞法が獲信の因縁(宿善)になることを本願寺がタテマエだけでも認めたどころか、実際は聞法が獲信の因縁(宿善)になるという考え方は間違いであると述べられている訳です。


新聞や顕真、著作物により、または講師部員の口から、「親鸞会に対してこういう非難がある」と、親鸞会が受けている非難が会員の皆さんに伝えられることがあると思います。その非難の内容ですが、実際の非難が歪曲されて伝えられている可能性がありますので、会員の皆さんは十分に気をつけて頂きたいと思います。

『本願寺なぜ答えぬ』の誤り(3)ー本当の論争点

これが論争点
親鸞聖人のみ教えに善のすすめは
親鸞会 ある
本願寺 ない
というところから誤っていますね。


本当の論争点は
親鸞聖人のみ教えに「雑行」のすすめは
親鸞会           ある
本願寺(及び親鸞会批判者) ない

ということでしょう。

このように書くと、どちらが浄土真宗の教えなのか一目瞭然だと思います。

Appendix

プロフィール

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

最新記事

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。