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『なぜ生きる2』を読む(12)-誡疑讃のトンデモ解釈、信罪福心、仏願の生起本末

『なぜ生きる2』を読む(11)の続きです。

ここまで、親鸞聖人が、『化身土文類』において、『大無量寿経』、『無量寿如来会』の胎化得失の文を引かれ、仏智疑惑を誡めておられるということについて、繰り返し書いてきました。
そして、親鸞聖人はこれらのお言葉などに依られて、『正像末和讃』の中に、23首の誡疑讃を書かれています。その目的は、親鸞聖人ご自身が誡疑讃の末尾に「以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせなり」と書かれていることから明らかなように、仏智疑惑の罪を知らせ、仏智疑惑を誡めるためでした。具体的にいえば、仏智を疑惑しながら諸善を修することで往生を願う十九願、仏智を疑惑しながら念仏を称えることで往生を願う二十願の誡めです。

ところが、『なぜ生きる2』では、誡疑讃の中の一首である
如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなほもまた
罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり (正像末和讃

のお言葉を正反対の意味で解釈しています。

まず、上の御和讃の正しい意味についてです。
この御和讃は、『大経』の胎化得失の文の
仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。 しかもなほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。(『化身土文類』大無量寿経引文より)
(現代語訳)
そしてまた、この上なくすぐれた無量寿仏の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望み、善の本である名号を称えて、無量寿仏の国に生れたいと願う。
に依られたもので、
御和讃)           -(大無量寿経
如来の諸智を疑惑して」 -「この諸智において疑惑して
信ぜずながらなほもまた」-「信ぜず。 しかもなほ
罪福ふかく信ぜしめ」   -「罪福を信じて
善本修習すぐれたり」   -「善本を修習して
と対応しています。したがって、この御和讃の意味も、『大経』の意味と同じく、
如来のいろいろな智慧を疑って、 他力の念仏を信じることができないまま、 やはり善悪因果の道理のみを信じ、 自力念仏がすぐれていると励んでいる者がいるのです
であり、仏智疑惑しながら、なおも因果の道理を信じ、自力念仏に励んでいる者を嘆かれた御和讃であることが分かります。

一方、『なぜ生きる2』15章(291頁)には、
”十八願・真実は信じられてはいないが〔如来の諸智を疑惑して〕、十九願を深く信じて〔罪福深く信ぜしめ〕弥陀に向かって善に努めている。
 そして、二十願の南無阿弥陀仏の名号〔善本〕を称える〔修習〕身にまで進んだのは、なんと素晴らしいことであろうか”と声価されている。
 その上で、二十願は目的を果たさせる「果遂の誓」だから、行くてに待つ大悲の願船(十八願)まで進めよ、と激励されている『和讃』である。

と書かれています。もともとは二十願の行者を嘆かれている御和讃を、二十願まで進んで素晴らしいと声価されているとか、激励されている『和讃』であると正反対の意味で、高森会長は解釈しているのです。これは、高森会長の話にしばしば見られる、お聖教を部分的に切り取り、全体の文脈とは無関係に誤った意味で解釈する典型的な例です。

意味を正反対にしているだけでなく、「罪福ふかく信ぜしめ」を取り出して、「十九願を深く信じて」とする解釈も親鸞聖人には見られない解釈であり、おかしな解釈です。そもそも、親鸞聖人は、罪福を信ずる心(信罪福心)のことを、以下のように、自力心のこととして教えられました。
定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。(化身土文類
(現代語訳)
定善の専心・散善の専心とは、罪を恐れ自分の善をあてにする心で本願力を願い求めるのであり、これを自力の専心というのである。
ですから、「罪福ふかく信ぜしめ」を、「十九願を深く信じて」とする解釈は親鸞聖人の上において存在しない解釈なのです。

また、罪福をふかく信ぜしめさせて救いを求めさせることは、自力心を煽ることに他なりませんから、親鸞聖人は、お聖教の上で、因果の道理についてほとんど触れられてはいません。それに対して、高森会長は、因果の道理の話を繰り返しします。『なぜ生きる2』でも、10章などで因果の道理に触れられています。このような点からも、親鸞聖人と高森会長との違いを知ることができます。

ここで、信罪福心仏願の生起本末の関係について、大事なところなので、簡単に触れておきたいと思います。
信罪福心とは、「罪を信ずる心」と「福を信ずる心」ということですが、平たく言うと、前者は、「こんなことでは救われないという心」であり、後者は、「こうしたら救われるという心」です。
そうすると、前回の記事で触れたように、これらの心は、仏願の生起本末を聞くところに否定される心であるということがお分かり頂けると思います。
すなわち、こんなことでは救われないという心は、「阿弥陀仏は、私たちの側には迷いの世界を離れるものがらは何もないということを既に見抜かれて本願を建てられている」という仏願の生起を聞くことによって否定される心です。
また、こうしたら救われるという心も、「阿弥陀仏は、迷いの世界を離れる法(南無阿弥陀仏)を完成されて、南無阿弥陀仏となって私たちに喚びかけ続けている」という仏願の本末を聞くことによって否定される心です。

つまり、信罪福心とは、阿弥陀仏の方で既に解決されている問題を問題にしている心であり、仏願の生起本末を聞くところに否定される心なのです。しかし、既に『なぜ生きる2』を読むのシリーズで触れたように、『なぜ生きる2』では仏願の生起本末も、誤って書かれているので、同書をどれだけ読んでも信心獲得は覚束ないでしょう。

さて、『正像末和讃』の末尾に書かれている自然法爾章で、親鸞聖人は、
「自然」といふは、「自」は、おのづからといふ、行者のはからひにあらず。しからしむといふことばなり。「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに。「法爾」といふは、如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。この法爾は、御ちかひなりけるゆゑに、すべて行者のはからひなきをもちて、このゆゑに他力には義なきを義とすとしるべきなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。
弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。

(現代語訳)
「自然」 ということばは、 「自」 は 「おのずから」 という意味です。 人間の自力のはからいによるものではないのです。 「然」 というのは、 「そのようにさせる」 ということばであり、 人間のはからいによるのではないのです。 如来の本願によるものであるからです。 「法爾」 ということばは、 この如来のお誓いによってそうなるのですから、 法爾というのです。 この法爾は阿弥陀如来のご誓願ですから、 すべて人間の自力のはからいはないことなのです。 この理由から他力とは自分のはからいのないのを本意とするのだと知るべきだ、 といわれるのです。 「自然」 というのは、 阿弥陀如来がそのようにさせるということばです。
阿弥陀如来のご誓願は、 はじめから人間の自力のはからいではなくて、 阿弥陀如来が人間を 「南無阿弥陀仏」 と帰依させて、 浄土に迎えようとお誓いくださったのですから、 人間が善行を積んでいるとか、 悪行をしているとかの結果を往生の原因と思わないのを自然というのだと聞いております。

と教えられました。

『なぜ生きる2』に書かれていることが正しいと思い込んでいる親鸞会の会員さんにおかれましては、善悪因果の道理を超えたところにあるのが、弥陀の十八願の救いであることを知って頂きたいと思います。十九願の善を実践した先にあるのが十八願の救いではありません。親鸞会で言う横の道を進んだ先に救いがあるのでもありません。そのような実践の先に救いがあるという心は、人間のはからい(=信罪福心=自力心)であって、阿弥陀仏の本願の救いとは、相容れないものです。

因果の道理を強調して、自力心を煽り、聞く者を信罪福心の虜にしているのが高森会長の説法であり、著作です。信罪福心(=自力心)は、弥陀の本願をはねつける心ですから、高森会長の説法、著作というのは、弥陀の本願をはねつけることを勧めているようなものです。

この信罪福心(=自力心)は、正しい仏願の生起本末を聞くことによって廃ります。親鸞会、高森会長から正しい仏願の生起本末を聞くことは、ありえない状況ですから、そのような団体、師を離れ、ただ正しい仏願の生起本末を聞信して頂きたいと思います。
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『なぜ生きる2』を読む(11)ー「みづからの善根において信を生ずることあたはず」と親鸞会流「善の勧め」を完全否定されたのが釈尊、親鸞聖人

「善をしなければ、信仰は進みませんよ」と聞けば、「では、信仰が進めば救われるのですか?」という疑問が必然的に湧いてきます。それに対する親鸞会の公式見解は「進めば分かります」でした(弥陀の願心を伝える「善をしなければ信仰は進みませんよ」参照)。

親鸞会といえども、「善をすること」と「救われること」を結びつけてしまったら、浄土真宗ではなくなることを承知しているので、両者の間に「信仰」という言葉を置いて、その関係をぼやかして表現していました。

しかし、『なぜ生きる2』では、「善をすること」と「救われること」を結びつけて記述している場所が見られます。一例を挙げると、『なぜ生きる2』10章には、次のように書かれています。

 弥陀の真実・十八願を疑う自惚れ心(自力の心)を破り、出来ぬことを出来ぬと信知させるのが、十九の願を建てられた弥陀の目的であり、釈迦一代の教導なのだ。
 ゆえに弥陀の十九願は、善を捨てさせるためのものではなく、実行させるための本願であることは明らかである。


弥陀の十九願とは、善を実行させるための願であり、その目的は十八願を疑う自惚れ心(自力の心)を破ることだと、書かれています。自力の心を破られるとは、信心を獲ることに他なりませんから、ここでは、「善をすること」と「救われること」がハッキリと結びつけられて記述されており、浄土真宗・親鸞聖人のみ教えの破壊以外の何者でもありません。また、十九願で自力の心が破られるかのような表現も問題です。

さて、『なぜ生きる2』を読む(4)から(10)では、『化身土文類』で引かれている『大経』の胎化得失の文について取り上げました。今回は、その続きです。『化身土文類』では、『大経』の胎化得失の文に続いて、『大経』の異訳である『無量寿如来会』の胎化得失の文が引かれています。

『如来会』(下)にのたまはく、
「仏、弥勒に告げたまはく、〈もし衆生ありて、疑悔に随ひて善根を積集して、仏智・普遍智・不思議智・無等智・威徳智・広大智を希求せん。みづからの善根において信を生ずることあたはず。
この因縁をもつて、五百歳において宮殿のうちに住せん。{乃至}阿逸多(弥勒)、なんぢ殊勝智のものを観ずるに、かれは広慧の力によるがゆゑに、かの蓮華のなかに化生することを受けて結跏趺座せん。なんぢ下劣の輩を観ずるに、{乃至} もろもろの功徳を修習することあたはず。ゆゑに因なくして無量寿仏に奉事せん。このもろもろの人等は、みな昔の縁、疑悔をなして致すところなればなり〉と。{乃至}
仏、弥勒に告げたまはく、〈かくのごとし、かくのごとし。もし疑悔に随ひて、もろもろの善根を種ゑて、仏智乃至広大智を希求することあらん。みづからの善根において信を生ずることあたはず。仏の名を聞くによりて信心を起すがゆゑに、かの国に生ずといへども、蓮華のうちにして出現することを得ず。かれらの衆生、華胎のうちに処すること、なほ園苑宮殿の想のごとし〉」と。{抄要}

(現代語訳)
『如来会』に説かれている。
「釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。<もし人々が疑いの心を持ちながら功徳を積んで、この上なくすぐれた仏の智慧を願い求めるなら、自ら積む功徳にとらわれて他力の信を生じることができない。
このようなわけで、五百年の間宮殿の中にとどまるであろう。(中略)弥勒よ、そなたはすぐれた智慧のものを見たであろう。彼らは信心の広大な智慧のはたらきによりさとりの花の中に化生して結跏趺座しているのである。また、そなたは智慧のない劣ったものを見たであろう。(中略)彼らはさまざまな功徳を修めることができず、正しい因である信心を得ることもなく無量寿仏にお仕えしているのである。この人々は過去の世に仏の智慧を疑ったためにそうなっているのである>(中略)
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。<その通りである。疑いの心をもってさまざまな功徳を積み、この上なくすぐれた仏の智慧を願い求めるなら、 自ら積む功徳にとらわれて他力の信をおこすことができない。また、仏の名号を聞いても自力の信をおこすのであるから、浄土に生れても蓮の花の中に閉じこめられて外に出ることができない。その人々は花の中にいることを、花園の宮殿の中にいるかのように思っている>」


『大経』と同じく、『如来会』でも、仏智を疑う者は、五百年の間宮殿の中にとどまる、すなわち胎生(化土往生)であることが教えられています。

そして、『大経』との違いに着目するならば、2度書かれている「みづからの善根において信を生ずることあたはず」というお言葉が目に飛び込んでくるでしょう。ここで、親鸞聖人は、自らが積む善根では他力の信心を生じることができないことを、釈尊のお言葉により、明確にされています。すなわち、「善をすること」と「救われること」を結びつけて記述する『なぜ生きる2』の完全否定であり、親鸞会流の善のすすめの完全否定です。

なお、「仏の名を聞くによりて信心を起すがゆゑに」の信心は、後に「かの国に生ずといへども、蓮華のうちにして出現することを得ず」と書かれていることから、自力の信心であることに注意して下さい。

みづからの善根において信を生ずることあたはず」とハッキリ釈尊、親鸞聖人が教えられていても、それでもなお高森会長についていくのでしょうか?

『なぜ生きる2』を読む(10)-十九願、二十願は回り道と教えられたのが親鸞聖人

日が開いてしまいましたが、『なぜ生きる2』を読む(9)の続きです。

『なぜ生きる2』を読む(4)で、『化身土文類』に引かれている『大経』の胎化得失の文を取り上げ、「(3)十九願、二十願の者も、化土にて、仏智疑惑の罪を知り、その罪を改め仏智不思議を信ずれば、報土往生を遂げること」という点を説明し、『なぜ生きる2』の誤りを指摘すると書きました。今回は、それについてです。

『大経』の胎化得失の文では、
仏、弥勒に告げたまはく、〈たとへば転輪聖王のごとし。七宝の牢獄あり。種々に荘厳し床帳を張設し、もろもろの繒幡を懸けたらん。もしもろもろの小王子、罪を王に得たらん、すなはちかの獄のうちに内れて、繋ぐに金鎖をもつてせん〉と。{乃至}仏、弥勒に告げたまはく、〈このもろもろの衆生、またまたかくのごとし。仏智を疑惑するをもつてのゆゑに、かの胎宮に生れん。{乃至}もしこの衆生、その本の罪を識りて、深くみづから悔責して、かの処を離るることを求めん。{乃至}弥勒まさに知るべし、それ菩薩ありて疑惑を生ぜば、大利を失すとす〉」と。
(現代語訳)
釈尊が弥勒菩薩に仰せになった。<たとえば転輪聖王が七宝でできた牢獄を持っているとしよう。そこにはさまざまな装飾が施されており、立派な座が設けられ、美しい幕が張られ、さまざまな旗がかけられている。その国の王子たちが罪を犯して父の王から罰せられると、その牢獄の中に入れられて黄金の鎖でつながれる>(中略)釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。<胎生のものもまたその通りである。仏の智慧を疑ったためにその宮殿に生れるのである。(中略)これらのものは、仏の智慧を疑った罪を知り、深く自分のあやまちを悔い、その宮殿を出たいと願う。(中略)弥勒よ、よく知るがよい。仏の智慧を疑うものはこれほどに大きな利益を失うのである>
と教えられていました。

ここで、化土に往生した者は、七宝の牢獄に閉じ込められたような状態であり、大利を失う者であるあると、釈尊は説かれています。そして、そのような者は、仏智を疑った罪を知り、深く自分のあやまちを悔い、化土を離れることを求めるのならば、真実報土へ化生することができるのです。

このように、化土とは、自力諸善、自力念仏に執着する十九願、二十願の行者に、仏智疑惑の罪を知らせ、真実報土へと導くための阿弥陀仏の随他意の方便でした。ですから、化土のことを、方便化身の浄土などと言われます。この方便は、相手の機に応じて用いられる方便ですから、「権仮方便」です。『なぜ生きる2』を読む(8)で触れた、安楽仏国(真の報土)を「無上の方便」と言われたときの方便(善巧方便・随自意の法門)とは、意味が異なりますので注意してください。

つまり、十九願、二十願の行者は、化土を経なければ、報土に往生することはできません。
一方、十八願の行者は、『信文類』に「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」と教えられているように、この世の命が終わると報土に往生し、仏覚を成就します。

すなわち、仏のさとりを開くのは、十九願(二十願)の行者よりも、十八願の行者の方が速く、十九願(二十願)は回り道ということになります。このことについては、親鸞聖人はいろいろなところで教えられています。

しかるに教について念仏諸善比挍対論するに、(中略)径迂対捷遅対。(行文類
(現代語訳)
しかるに教法について、念仏と諸善とを比較し、相対して論じると、次のようになります。 (中略)
念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。 念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である。


横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。 (信文類
(現代語訳)
横超というのは、本願が成就して、すべての衆生が平等にさとりを開く唯一の真実円満の教え、すなわち真宗である。また、浄土門の中に横出がある。それは三輩・九品の機が定善・散善を修め、方便化土である懈慢界に往生する遠まわりの善の教えである。本願によって成就された清らかな報土は、三輩・九品の別を問わない。往生すると同時に、速やかにこの上ないさとりを開くから横超というのである。

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。 (化身土文類

(現代語訳)
浄土に往生してさとりを開くのを浄土門といい、易行道という。この浄土門の中に、横出と横超、方便と真実、漸教と頓教、そして助正と雑行、雑修と専修がある。
正とは、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五正行である。助とは、称名以外の読誦・観察・礼拝・讃嘆・供養の五種である。雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。
横超とは、阿弥陀仏の本願を信じて自力の心を離れることであり、これを横超他力という。これは、専修の中の専修であり、頓教の中の頓教であり、真実の中の真実であり、一乗の中の真の一乗である。これが真宗である。このことは、「行文類」においてすでに明らかにした。


このように、諸善の法(十九願)、横出(十九願、二十願)は、回り道と一貫して教えられています。

さらに、親鸞聖人は、二河白道の譬えで説かれている弥陀の招喚(十八願意)の「汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん」の「直ちに」について、『愚禿鈔』で、
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
と示されています。
「直」という言葉は、「回」、「迂」に対しているということは、迂回の善、漸教である横出(十九願、二十願)に対しているということです。
さらに、「直」という言葉は、横出のような方便仮門を捨てよ、如来の大願他力(十八願)に帰せよと言われた言葉であるとも教えられています。すなわち、本願(十八願)を説くとは、このような回り道である十九願、二十願を捨てよと教えることに他なりません。換言すれば、本願(十八願)を説き勧めるということは、十九願などの方便仮門は捨てよと勧めることになるのです。

さて、『なぜ生きる2』11章225頁には、
三願転入の道程は、決して特別の人だけの道でもなければ、回り道でもない。
と書かれていますが、これが大間違いなことは、今回の記事で理解していただけると思います。十九願、二十願は回り道なのですから、十九願→二十願→十八願という道程を説くことは、明らかに回り道なのです。

同様に、親鸞会発行の『顕正新聞』に、
熊「あたぼうよ。『善を勧めるのは遠回り』だあ?だいたい阿弥陀さまが、善を勧めていらっしゃるのに何言ってやんでえ。これ以上の近道があるもんか。このポンポコなす!」
演目「善の勧め」より引用)
と書かれていたこともありました。親鸞会では、「善を勧めるのは遠回り」、言い換えれば「十九願は遠回り」と説くことを批判しているのです。この点でも、「浄土真宗」、「親鸞会」と名乗りながら、親鸞聖人と真逆のことを教え、さらには宗祖親鸞聖人を誹謗しているのです。

そういえば、親鸞会発行の『教学聖典(4)』には、
問(19)
「私の信心はこうだ」と言うのは悪い、と言う人を破邪するには、どう言えばよいか。
答(19)
◎親鸞聖人が悪くなる。
○弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり。
○親鸞が信心におきてはかくの如し。(歎異鈔)

という問答がありました。それを真似して書くならば、

「十九願を回り道」と言うのは悪い、と言う人を破邪するには、どう言えばよいか。

◎親鸞聖人が悪くなる。
○径迂対、捷遅対。(教行信証行巻)
○また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。(教行信証信巻)

となります。

親鸞聖人は、回り道である十九願を捨てよと一貫して教えられました。そして、速やかにさとりを開く道である十八願一つを教え進められたのでした。皆様には、親鸞聖人の御心に反して、回り道を進めているのが、『なぜ生きる2』の著者である高森会長であるということをよくよく知って頂きたいと思います。

高森顕徹会長は「大悲を行ずる人」といえるのか?

頻繁なことではありませんが、機関紙等で、高森会長を「常行大悲の益」に生かされている人と讃える記事が掲載されることがあります。例えば、過去、『顕真』で連載されていた「親鸞会黎明期の証言」という記事の中で何回か見たことがありました。現在ネット上には、その一部が掲載されていますが、引用しますと、
高森顕徹先生はいつも、「常行大悲の益」に生かされておられるために、どんな非難をも乗り越えてのご教導でありました。
浄土真宗親鸞会黎明期の証言より引用)
と書かれています。

これは、親鸞聖人が、『信文類』において、「金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲」と説かれ、その九番目に「常行大悲の益」を挙げておられることに基づいてのことでしょう。

「常行大悲」とは、「常に大悲を行ずる」ということです。親鸞会黎明期はどうであったか分かりませんが、現在の高森会長は、果たして「大悲を行ずる人」といえるのでしょうか?

大悲を行ずる人」について、『信文類』では、道綽禅師の『安楽集』を引いて教えられています。
『大悲経』にのたまはく、〈いかんが名づけて大悲とする。もしもつぱら念仏相続して断えざれば、その命終に随ひてさだめて安楽に生ぜん。もしよく展転してあひ勧めて念仏を行ぜしむるは、これらをことごとく大悲を行ずる人と名づく〉と。
(現代語訳)
『大悲経』には<どのようなことを大いなる慈悲というのであろうか。もし、もっぱら念仏してやむことがなかったなら、その人は、命を終えると間違いなく浄土に往生するであろう。この念仏を次々に人々に勧めて行じさせるなら、このような人をすべて大いなる慈悲を行じる人というのである>と説かれている。
このお言葉から明らかなように、人に念仏を勧めて行じさせる人が、「大悲を行ずる人」です。

親鸞聖人が『教行証文類』を著されたのも、総序に、
穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。
と教えられているように、本願力回向の行(念仏)と信(信心)を勧められるためでした。

七高僧が教え勧めていかれたことも、
ここをもつて四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて、濁世の邪偽を導く。 (化身土文類
(現代語訳)
このようなわけで、すべての衆生のよりどころとなる浄土の教えを広めてくださったインド・中国・日本の七人の祖師方は、他力念仏を説き示し、五濁の世のよこしまな心を持つ人々を導かれるのである。
と、親鸞聖人が明らかにされているように、他力念仏の教えでした。

七高僧、親鸞聖人は、まさに「大悲を行じられた方々」でありました。

ところが、現在の高森会長が教え勧めているのは、言葉の上では「信心決定」「信心獲得」ですが、実態は、獲信に至るまでの道程、すなわち親鸞会流「三願転入の教え」を説き、十九願の行と信を勧めています。つまり、行は念仏ではなく、諸善(特に、布施とは名ばかりの親鸞会への献金と、勧誘)を勧め、信は他力の信心ではなく、自力の信心を勧めていることになります。

また、高森会長の御心を会員に徹底する講師部員が、各地の会合で勧めているのは、何でしょうか?
言うまでもなく、御報謝、行事へのお誘いです。会合の中で、念仏を勧める講師部員は、皆無といってもよいのではないでしょうか?

念仏を勧めず、十九願を強調する会長の姿勢が、講師部を通じて、末端の会員にまで徹底されるのが親鸞会です。だから、末端の会員に至るまで親鸞会の人々は、念仏を非常に軽視しています。

つまり、人に「展転してあひ勧めて念仏を行ぜしむる」には、程遠いのが高森会長、親鸞会であることがよく分かります。ですから、高森会長のことを、「大悲を行ずる人」とはとてもいえません。

ところで、『なぜ生きる2』にも、「常行大悲の益」について書かれている箇所があります。3章の93-98頁です。その中で、
聖人は、伝える大悲について、こう教誡されている。(95頁)
と書き、大悲の内容を、
他力の信をえんひとは 仏恩報ぜんためにとて
如来二種の回向を 十方にひとしくひろむべし (正像末和讃

のお言葉から、「如来二種の回向」であると書いています。

大悲を伝えるとは、「如来二種の回向」を伝えることだということについては、特に問題はありませんが、その親鸞聖人のお言葉に違背しているのが『なぜ生きる2』という本です。

「如来二種の回向」とは、往相の回向と還相の回向の二種のことですが、阿弥陀仏の願の上でいえば、親鸞聖人は、往相の回向については、十七願、十八願、十一願を、還相の回向については、二十二願を挙げて教えられています。例えば、『如来二種回向文』には、
(前略)この本願力の回向をもつて、如来の回向に二種あり。一つには往相の回向、二つには還相の回向なり。
往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あり。
真実の行業といふは、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。(中略)
真実信心といふは、念仏往生の悲願(第十八願)にあらはれたり。(中略)
真実証果といふは、必至滅度の悲願(第十一願)にあらはれたり。(中略)
これらの本誓悲願を、選択本願と申すなり。

二つに、還相回向といふは、『浄土論』にいはく、「以本願力回向故是名出第五門」と。これはこれ還相の回向なり。
このこころは、一生補処の大願(第二十二願)にあらはれたり。(後略)

と書かれています。

しかし 、『なぜ生きる2』のテーマは三願転入であり、書かれているのは、十八願、十九願、二十願であり、中でも中心は十九願です。親鸞聖人の「如来二種の回向を十方にひとしくひろむべし」のお言葉に反しているのが『なぜ生きる2』であることが分かります。

このように書くと、「親鸞聖人は、十九願について教えられているではないか、三願転入を説いているではないか」と、気がきいているようで、間の抜けた反問をする人もあるかもしれません。しかし、親鸞聖人が十九願について書かれたのは、それを勧めるためではなく、その行者を誡めるためです。同様に、三願転入を書かれたのも、「三願転入せよ」と勧めるためではなく、十九願、二十願を廃捨し、十八願に帰すことを勧めるためです。要するに、十九願、三願転入について教えられているといっても、勧められたのは、真宗念仏であり、如来二種の回向によって救われることです。十九願の善を勧め、三願転入を勧める『なぜ生きる2』とは正反対なのが、親鸞聖人なのです。

現在の高森会長の説いていることが凝縮されているのが、この『なぜ生きる2』です。現在の高森会長が「大悲を行ずる人」であるとは決して認めることはできません。

『なぜ生きる2』を読む(9)-「七深信」を十八願、十九願、二十願の三願に対する疑心がなくなったことと解釈する誤りについて

『なぜ生きる2』を読む(5)で述べたように、『なぜ生きる2』9章では、「仏願の生起本末」の「本=十八願」「末=十九願・二十願」と解釈しています。これに対応して、間違いを犯しているのが17章で書かれている「七深信」の解釈です。同書311、312頁では以下のように「七深信」が解説されています。

 他力の信心は「七深信」であると『愚禿鈔』に聖人は明かされている。
 「七深信」とは、阿弥陀仏の本願の「生起」、「本」(十八願)、「末」(十九願・二十願)に「疑心あることなし」になったことをいう。


そして、その文証として挙げられているのが、『愚禿鈔』のお言葉です。

第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。
第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。
第三には、「決定して『観経』を深信す」と。
第四には、「決定して『弥陀経』を深信す」と。
第五には、「唯仏語を信じ決定して行による」と。
第六には、「この『経』(観経)によりて深信す」と。
第七には、「また深心の深信は決定して自心を建立せよ」となり。


ここで、「七深信」の中に「十九願・二十願に疑心あることなし」となったという意味があるかのように、『なぜ生きる2』の中では書かれていますが、それが重大な誤りです。

そもそも、「七深信」は、善導大師の『観無量寿経疏』散善義の深心釈に明らかにされているものです。そして、この深心釈のお言葉を、親鸞聖人は『教行証文類』において、『信文類』と『化身土文類』に分けて引かれています。『信文類』に引かれているお言葉が、親鸞聖人が他力の信心をあらわされていると見られたお言葉に相当します。以下に、『信文類』に引かれた深心釈のお言葉を挙げますが、それを読んでいただければ、十九願、二十願に疑いがなくなったという意味がどこにもないことをご理解頂けると思います。少々長くなりますが、現代語訳だけでも読んで意味をとっていただければと思います。

●第一深信
一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
(現代語訳)
一つには、わが身は今このように罪深い迷いの凡夫であり、はかり知れない昔からいつも迷い続けて、これから後も迷いの世界を離れる手がかりがないと、ゆるぎなく深く信じる。

●第二深信
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。
(現代語訳)
二つには、阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂め取ってお救いくださると、疑いなくためらうことなく、阿弥陀仏の願力におまかせして、間違いなく往生すると、ゆるぎなく深く信じる。

第一深信、第二深信は、それぞれ、親鸞会でも話がされる「機の深信」、「法の深信」です。
なお、『なぜ生きる2』では、上の『愚禿鈔』のお言葉の「自利の信心」には「機の深信」、「利他の信海」には「法の深信」と注釈をしています。親鸞聖人が、『教行証文類』や『愚禿鈔』で、『散善義』の至誠心釈の「また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。」の「自利」を「自力」、「利他」を「他力」の意味とされていることと合わせれば、「自利の信心」は「自力の信心」、「利他の信海」は「他力の信心」の意味とするのが適切でしょう。この意味でいうと、第一深信単独では自力の信心、第二深信は単独でも他力の信心ということになります。それがどういうことをあらわしているのかについては、本題からずれてしまいますので、ここでは、これ以上突っ込んだ議論はしません。関心がある方は、二種深信(『観経疏散善義講讃』深川倫雄著より)等を参照して下さい。

●第三深信
また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。
(現代語訳)
また、釈尊は『観無量寿教』に、世福・戒福・行福の三福、浄土を願うもののそれぞれの資質、定善・散善についてお説きになり、浄土や阿弥陀仏および聖者たちをほめたたえて、人々に浄土を求めさせておられるのであると、疑いなく深く信じる。

第三深信は、『観経』についての深信です。『なぜ生きる2』を読む(2)で既に述べましたが、『観経』の三福・九品・定散二善の教えは、聖道門の人に対して、浄土を願わせるためのものであると深信することです。『観経』の教えを、すべての人に諸善を勧められたと解釈する『なぜ生きる2』は、このお言葉に反しています。

●第四深信
また決定して、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生ずることを得と深信するなり。
(現代語訳)
また、『阿弥陀経』に、あらゆる世界の数限りない仏がたが、すべての凡夫が間違いなく往生できることを証明して勧めておられると、疑いなく深く信じる。

第四深信は、『阿弥陀経』についての深信です。内容は、上のお言葉から分かるように、諸仏の証誠を深信するということであり、二十願を深信するという意味ではありません。

●第五深信
また深信するもの、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。
(現代語訳)
また、深く信じるものよ、仰ぎ願うことは、すべての行者たちが、一心にただ仏の言葉を信じ、わが身もわが命も顧みず、疑いなく仏が説かれた行によって、仏が捨てよと仰せになるものを捨て、仏が行ぜよと仰せになるものを行じ、仏が近づいてはならないと仰せになるものに近づかないことである。これを、釈尊の教えにしたがい、仏がたの意にしたがうという。これを阿弥陀仏の願にしたがうという。これを真の仏弟子というのである。

第五深信は、一心に(二心なく)唯、仏語を深信するということです。法然聖人の『往生大要抄』には、「又つぎの文に、「ほとけのすてしめ給はんをばすてよ」といふは、雑修・雑行なり。「ほとけの行ぜしめ給はん事をば行ぜよ」と、いふは、専修正行也。「ほとけのさら(去)しめたまはん事をばされ」といふは、異学・異解・雑縁乱動のところ也。」と教えられています。要するに、『なぜ生きる2』で盛んに勧められている雑行(=十九願の善、定散二善)は、捨てよとしか教えられていません。

●第六深信
また一切の行者、ただよくこの『経』(観経)によりて行を深信するは、かならず衆生を誤らざるなり。なにをもつてのゆゑに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆゑに、実語なるがゆゑに。仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによつて、果願いまだ円かならず。これらの凡聖は、たとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。平章することありといへども、かならずすべからく仏証を請うて定とすべきなり。もし仏意に称へば、すなはち印可して〈如是如是〉とのたまふ。もし仏意に可はざれば、すなはち〈なんだちが所説この義不如是〉とのたまふ。印せざるはすなはち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまふは、すなはち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなはちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多もしは少、すべて菩薩・人・天等を問はず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなはちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり、知るべし。このゆゑに今の時、仰いで一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑碍をなし、惑ひを抱いて、みづから迷ひて往生の大益を廃失すべからざれ。
(現代語訳)
また、すべての行者たちよ、ただこの『観無量寿経』に示される行を深く信じることだけが、決して人々を誤らせないのである。なぜなら、仏は大いなる慈悲をまどかにそなえた方だからであり、その説かれた言葉はまことだからである。仏以外のものは、智慧も行もまだ十分でなく、それを学ぶ位にあり、煩悩もその習気もまだすべては除かれていないので、さとりを求める願いも、まだまどかに成就していない。したがって、これらのものは、たとえ仏のおこころを推しはかっても、確かに知ることはまだできないのである。ものごとの道理を正しく明らかに理解することがあったとしても、必ず仏にその証明をお願いして、当否を定めるべきである。もし、仏のおこころにかなえば、仏はこれを認められて<その通り>といわれる。もし、仏のおこころにかなわなければ、<あなたがたのいうこの理解は正しくない>といわれるのである。仏がお認めにならない説は、無意味で利益のない言葉と同じである。仏がお認めになる説は、仏の正しい教えにかなうものなのである。仏のお言葉はすべて、正しい教であり、正しい義であり、正しい行であり、正しい領解であり、正しい行業であり、正しい智慧なのである。多数のものでも少数のものでも、菩薩であっても人間であっても神々であっても、その説の善し悪しを定めることなどできない。仏の説かれた教えは、完全な教えであり、菩薩などの説は、すべてみな不完全な教えというのである。よく知るがよい。だから、今この時、往生を願うすべての人々に勧める。ただ深く仏のお言葉を信じて、ひとすじに行を修めるがよい。菩薩などの説く、仏のお心にかなっていない教えを信じて、疑いをおこし、惑いをいだいて、自ら往生という大いなる利益を失ってはならない。

第六深信は、『観経』によって行を深信するということです。『観経』に示される行を深信することは、人々を誤らせなく往生させる、それは、仏が満足大悲の人であり、仏語が実語(真実の言葉)だからです。ここでいう『観経』に示される「行」とは、定散二善のことではありません。上のお言葉の終わりの方に、「ただ仏語を深信して専注奉行すべし」とあり、この「ただ仏語を深信して」は第五深信を承けていますから、「専注奉行すべし」と言われているのは、専ら念仏せよということで、「行」とは念仏のことです。ですから、第六深信には、『観経』の行が出てくるのですが、諸善をせよという意味はどこにもありません。

●第七深信
釈迦一切の凡夫を指勧して、この一身を尽して専念専修して、捨命以後、さだめてかの国に生るれば、すなはち十方諸仏ことごとくみな同じく讃め、同じく勧め、同じく証したまふ。なにをもつてのゆゑに、同体の大悲なるがゆゑに。一仏の所化は、すなはちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。すなはち『弥陀経』のなかに説かく、〈釈迦極楽の種々の荘厳を讃嘆したまふ。また一切の凡夫を勧めて一日七日、一心に弥陀の名号を専念せしめて、さだめて往生を得しめたまふ〉と。次下の文にのたまはく、〈十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪・無信の盛りなるときにおいて、弥陀の名号を指讃して衆生を勧励せしめて、称念すればかならず往生を得と讃じたまふ〉と、すなはちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんをおそれて、すなはちともに同心同時におのおの舌相を出して、あまねく三千世界に覆ひて誠実の言を説きたまはく、〈なんだち衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問はず、ただよく上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念して、さだめて往生を得ること、かならず疑なきなり〉と。このゆゑに一仏の所説をば、すなはち一切仏同じくその事を証誠したまふなり。これを人について信を立つと名づくるなり。{乃至}
またこの正のなかについてまた二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。もし礼・誦等によらば、すなはち名づけて助業とす。この正・助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。{乃至}すべて疎雑の行と名づくるなり。ゆゑに深心と名づく。

(現代語訳)
釈尊はすべての凡夫に対して、命のある限り、ひとすじに念仏して、命終れば間違いなく阿弥陀仏の国に生れることを示してお勧めになるが、すべての世界の仏がたもみなこれと同じようにほめたたえ、同じように勧め、同じように証明されるのである。なぜならそれは、同じさとりからおこる大いなる慈悲のはたらきだからである。釈尊が教え導こうとされているものは、そのまま、すべての仏がたが救おうとされているものであり、すべての仏がたが救おうとされているものは、そのまま、釈尊が教え導こうとされているものなのである。 すなわち『阿弥陀経』の中に、<釈尊は極楽の種々の荘厳をほめたたえておられる。またすべての凡夫に、一日でも七日でも、ただ一心に阿弥陀仏の名号を称えて、間違いなく往生するがよいと、お勧めになる>と説かれている。その次の文には、<すべての世界にそれぞれ数限りない仏がたがおいでになって、釈尊をほめたたえておられる。すなわち、さまざまな濁りに満ちた時代にあって、人々は悪事を犯すばかりであり、思想は乱れ、煩悩は激しく盛んとなり、仏法を聞いても疑い謗るばかりで信じようとしない。そのような世の中に釈尊はお出ましになって、阿弥陀仏の名号を指し示してほめたたえられ、念仏すれば必ず往生を得ると衆生を勧め励まされている。このことを仏がたはみな同じくほめたたえておられる>と説かれている。これがその証拠である。また、すべての世界の仏がたは、衆生が釈尊の説かれた教えを信じないことをおそれて、みなともに同じ慈悲の心から、同時に、それぞれの国で広く舌相を示して、世界のすみずみにまで阿弥陀仏のすぐれた徳が真実であることをあらわし、まごころをこめて、<そなたたち衆生はみな、釈尊が説かれ、ほめたたえられ、証明されたこの法を信じるがよい。すべての凡夫は、罪や功徳の多少、念仏する時の長短を問うことなく、長ければ一生涯から短ければ一日・七日に至るまで、ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えれば、必ず往生を得る。それは決して疑いのないことである>と仰せになっている。 こういうわけで、一仏すなわち釈尊の教えを、すべての仏がたがみな同じく証明されるのである。これを、勧める人について信を立てるというのである。(中略)
また、この正行の中に二種がある。一つには、ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えるのである。いついかなるときにも、また時の長短を問わず、他力回向の念仏を行じるのを正定業という。阿弥陀仏の本願にしたがうからである。礼拝や読誦などは助業という。この正定業と助業以外のすべての行は、みな雑行という。(中略)すべて、仏の本意にかなっていない自力の行というのである。以上のようなことから、深信というのである。


第七深信には、就人立信と就行立信の二つが説かれています。
就人立信とは、勧める人について信を立てるということです。釈尊も、一切の諸仏も、念仏によって必ず往生を得ることを、同じように勧め、同じように証明されています。すなわち、就人立信の「人」には、念仏で往生することを勧め、それを証明する釈尊、一切の諸仏が含まれています。諸善の勧めは全くありません。
就行立信とは、行について信を立てるということです。行には、正行と雑行があり、正行には正定業と助業がある中、『散善義』においては、正定業の先に五正行が明かされていました。『信文類』において、それが省略されているのは、立信の行は、正定業である称名念仏であることを明らかにされるためです。そして、「これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに」ですから、十八願の念仏であり、二十願の念仏ではありません。
つまり、第七深信にも、十九願、二十願の意味はどこにもありません。

『なぜ生きる2』には、「七深信」という高森会長が普段全く話をしないことが書かれていますが、その解釈は全くの出鱈目です。「七深信」=「二種深信」=「他力の信心」(『なぜ生きる2』313頁)とするならば、親鸞聖人の『信文類』のお言葉に従って「七深信」を解釈したとき、十九願や二十願に疑いがなくなるという意味を見出すことは全く出来ないのです。

『なぜ生きる2』を読む(4)で『大経』の胎化得失の文を挙げ、そのお言葉をきっかけとして「(2)十九願、二十願の者は、仏智疑惑の者であり、十八願を疑っているものである」という点から、『なぜ生きる2』の「仏願の生起本末」及び「五劫思惟」の説明の誤りについて何回かに分けて述べてきましたが、この点については、ここで一区切りとしたいと思います。

Appendix

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いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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