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直の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり

「直ちに」で取り上げた『愚禿鈔』のお言葉
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
について、もう少し見ていきましょう。

まず、
「直」ー如来大願の他力
「回」「迂」ー自力の方便仮門
とし、「方便仮門を捨てて如来大願の他力の法を信受せよ」と喚びづくめなのが阿弥陀仏の御心だと親鸞聖人が解釈されていることを前回説明しました。

次に、「」を「諸仏出世の直説」を顕すお言葉であると親鸞聖人は見られています。

このように、「直」を「諸仏出世の直説」つまり諸仏の出世本懐を示すお言葉として教えられているところは他にもあります。親鸞会が最近盛んに用いている『一念多念証文』の「おほよそ八万四千の法門はみなこれ浄土の方便の善なり」のお言葉の前後がそれに当たります。『一念多念証文』のこのお言葉の少し前には、
「直為弥陀弘誓重」といふは、「直」はただしきなり、如来の直説といふなり。諸仏の世に出でたまふ本意と申すを直説といふなり。
とあり、
「為」はなすといふ、もちゐるといふ、さだまるといふ、かれといふ、これといふ、あふといふ、あふといふはかたちといふこころなり。「重」はかさなるといふ、おもしといふ、あつしといふ。誓願の名号、これをもちゐさだめなしたまふことかさなれりとおもふべきことをしらせんとなり。
と続きます。この部分全体の意訳は、

「直に弥陀弘誓重きが為に」というのは、「直」は正しいということである。如来の正直の説法、すなわち真実にかなった教説ということである。諸仏がこの世に出現された本意を説き表されることを直説というのである。「為」は「なす(作)」ということであり、「もちいる(用)」、「さだまる(定)」、「かれ(彼)」、「これ(是)」、「あう(相)」ということである。「あう」という言葉は、その「相」には「かたち」という意味がある。「重」とは「かさなる(塁)」とも、「おもし(重)」とも。「あつし(厚)」ともいう。すなわち、諸仏がこの世に出現された本意は、阿弥陀仏の本願の名号を用いて、凡夫の往生を定めることを為したもうためであった。そのために名号のいわれを重ね重ね説き示されたのである。その甚厚なる思し召しを思いしれと教えられた言葉である。(『一念多念文意講讃』梯實圓著・永田文昌堂328頁より引用)

となります。

「諸仏の出世本懐」とは、「阿弥陀仏の本願の名号を用いて凡夫の往生を定めること」であると教えられています。このことを証明するために、親鸞聖人は次に『大無量寿経』を引用されたのでした。『一念多念証文』の続きを拝読してみましょう。

しかれば『大経』(上)には、「如来所以 興出於世 欲拯群萌 恵以真実之利」とのたまへり。
この文のこころは、「如来」と申すは諸仏を申すなり。「所以」はゆゑといふことばなり。「興出於世」といふは、仏の世に出でたまふと申すなり。「欲」はおぼしめすと申すなり。「拯」はすくふといふ。「群萌」はよろづの衆生といふ。「恵」はめぐむと申す。「真実之利」と申すは、弥陀の誓願を申すなり。しかれば諸仏の世々に出でたまふゆゑは、弥陀の願力を説きて、よろづの衆生を恵み拯はんと欲しめすを、本懐とせんとしたまふがゆゑに、真実之利とは申すなり。しかればこれを諸仏出世の直説と申すなり。


ここにも「諸仏出世の直説」というお言葉が出てきます。『大無量寿経』の経文から、諸仏の出世本懐は、阿弥陀仏の願力を説き聞かせて全ての者に真実の利益を恵み与えて救うことであると示されています。こうして、諸仏の出世本懐が明らかになったので、次にそれ以外の経説の位置づけを親鸞聖人は教えられました。それが親鸞会で「善の勧め」の根拠として挙げている部分です。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

ここでは八万四千の法門を『観経』におさめて、それを浄土方便の要門・仮門と教えられています。そして、仏が方便仮門によって真実の法門に導いていく有様を「もろもろの衆生をすすめこしらへて」と示されています。つまり、この段では、一切の法門は「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海(阿弥陀仏の第十八願)」に導くための権仮方便の教説であるということが教えられている訳です。

ここで、初めの『愚禿鈔』のお言葉をものさしにすれば、
「直」=「如来大願の他力」=「諸仏出世の直説」=「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海」
「迂回」=「八万四千の法門」=「浄土の方便の善」=「要門・仮門」=「よろづの自力の善業」

であり、「」=「方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰せよ」ですから、「八万四千の法門はみなこれ浄土の方便の善」と親鸞聖人が教えられているのは、浄土の方便の善だから実行せよということではなく、浄土の方便の善だから捨てよということなのです。

さて、『一念多念証文』の今回みてきた部分は、隆寛律師が著された『一念多念分別事』に引かれている『法事讃』の「上尽一形下至十念三念五念仏来迎 直為弥陀弘誓重 致使凡夫念即生」のお言葉を解釈されているところの一部分なのですが、『一念多念証文』でその結論に当たる部分が次のお言葉です。

諸仏出世の直説、如来成道の素懐は、凡夫は弥陀の本願を念ぜしめて即生するをむねとすべしとなり。

(意訳)『一念多念文意講讃』梯實圓著・永田文昌堂390頁より
諸仏出現の正意を顕す説法、如来が成道の本懐とされている教説は、煩悩具足の凡夫をして、阿弥陀仏の本願を信ぜしめ、凡夫が即時に正定聚の位に入ることを本意とされているというのである。

ここにも「諸仏出世の直説」とあります。

このように親鸞聖人は繰り返し繰り返し「諸仏出世の直説」とは何かを教えられているのですが、これを説かずに、先日の日曜日の二千畳座談会でもそうだったそうですが「浄土の方便の善」ばかりを説いているのが親鸞会です。親鸞聖人が明らかにされた「諸仏出世の直説」を伝えている団体ではないということに、会員さんには、はやく気がついてもらいたいです。
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「親鸞会で推進される活動」と「死ぬまで求道の悲劇 」

「善をしなければ信仰は進みませんよ」と言われ、親鸞会で勧められている活動に励んでいるのが親鸞会の会員さんです。会員さんが活動に励む目的は、親鸞学徒聖則の1番目に

一 親鸞学徒は信心獲得することを本と致します

とあるように、信心獲得以外にはないと思います。

「善をしなければ信仰は進まない」といわれる善の中身は、財施(親鸞会への献金)と法施(法話に人を誘うこと)が主なものですが、そのような活動にどれだけ一生懸命励んでも信心獲得はかないません。今日は、そのことについて、親鸞聖人のお言葉を挙げて説明致します。


まず、私たちの行う善によって生じる功徳について、親鸞聖人は、『化身土文類』に『浄土論註』を引かれて、

二種の功徳相あり。一つには有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫、人・天の諸善、人・天の果報、もしは因、もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽なり。ゆゑに不実の功徳と名づく。

(現代語訳)
功徳には二種類がある。一つには、煩悩に汚れた心によって修めた、真如にかなっていない功徳である。いわゆる凡夫が修めるような善を因として、人間や神々の世界に生れる果報を得ることは、因も果もみな真如にかなっておらず、いつわりであるから、不実功徳というのである。

と教えられています。ここは、功徳には二種類(真実功徳・不実功徳)がある内の不実功徳について説かれた部分です。有漏の心、すなわち煩悩から出た善は真如にかなっておらず、善といっても因も果も顛倒・虚偽だといわれています。


一方、真実の信心の徳について、『信文類』では、

たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。

と教えられています。このように真実の信心の徳を不顛倒・不虚偽で表わされたのは、『浄土論註』の真実功徳釈を承けたもので、親鸞聖人は『行文類』に引文されています。

二つには菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入れり。この法顛倒せず、虚偽ならず、真実の功徳と名づく。いかんが顛倒せざる、法性により二諦に順ずるがゆゑに。いかんが虚偽ならざる、衆生を摂して畢竟浄に入るるがゆゑなり。

(現代語訳)
二つには、菩薩の法性に順じる清らかな行からおこって、仏の果報を成就する功徳である。これは、法性にしたがい清浄の相にかなっている。この法は真如にそむいているのでもなく、いつわりでもないから、真実功徳というのである。なぜ真如にそむいていないのかというと、法性にしたがい二諦の道理にかなっているからである。なぜいつわりでないのかというと、衆生を摂め取ってこの上ないさとりに入らせるからである。

ここは、真実功徳について教えられている部分です。煩悩を離れた菩薩のなす清浄な行の果報、すなわち如来・浄土が真実功徳であると言われています。不顛倒とは真如にかなった正しい智慧のことであり、不虚偽とは人々を救済することに嘘も偽りもないことです。

さて、真実の信心が不顛倒・不虚偽の徳をもつということは、それが如来・浄土と同じ真実功徳であり、往生成仏の正因としての徳をもっていることを表わしている訳です。

難しい御文がいくつか出てきましたが言いたいことは、煩悩に汚れた心によって修めた善は因も果も顛倒・虚偽であり、それをどれだけ励んでも真実功徳としての徳(不顛倒・不虚偽の徳)をもつ信心を獲得することはできないということです。

親鸞会がいう「修善の勧めが弥陀の救いと無関係であるはずがない」は完全に誤りです。親鸞会で推進されている財施(親鸞会への献金)と法施(法話に人を誘うこと)をどれだけ行おうと、信心獲得とは無関係なのです。

親鸞会でよく使われる言葉(※)でいうと、親鸞会の活動とは「死ぬまで求道の悲劇」以外の何者でもありません。100パーセント求まらないのに、死ぬまで求め続けさせられているのですから。早くこの事実に気が付いて頂きたいと念じております。


なお、以上のことを理解して頂ければ、親鸞会で最近、盛んに用いられている「善のすすめ」の根拠

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。(一念多念証文)

のお言葉の意味も、決して「阿弥陀仏の救いを求めて善をしなさい」というような意味ではないことがお分かり頂けると思います。我々の行う善では、絶対に本願一乗円融無碍真実功徳大宝海に入ることはできないのです。


※当ブログをご覧の方には、親鸞会の話をほとんど聞いたことのない方もおられると思います。参考までに、親鸞会でよく使われる言葉として挙げた「死ぬまで求道」の用例を以下に示しておきます。

親鸞会公式ホームページ 『特集:人生の目的』
◆第2章◆ 月とスッポンほど違う 「人生の目的」と「生きがい」
http://www.shinrankai.or.jp/jinsei/index.htm
より引用。
 
 剣道、柔道、書道、絵画、華道、茶道、政治、経済、科学、医学、法律など、「趣味や生きがい」にはすべて完成がない。どこまで求めても、「求まった」ということのないものである。それなのに、「死ぬまで求道」が素晴らしいと、信じ込んでいる人が多い。
「死ぬまで求道」とは、100パーセント求まらないと知りつつ、死ぬまで求め続ける悲劇にほかならぬ。
 宝くじを買う人は、「ひょっとしたら大当たりかも……」と思うからこそ買うのである。いくら好きでも、当たりが1本もない宝くじや、3年前の宝くじを買う人はいない。
 しかし、人生に関しては、どうしたわけか、100パーセント求まらないと知りつつ「趣味や生きがい」を追い求めている人がほとんどだ。「死ぬまで求道」が素晴らしいと、無理に思い込まなければ、到底できないことだろう。

ここ数日の記事のまとめ

現在は、『一念多念証文』の

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

のお言葉について書いています。

親鸞聖人は要門を勧められているのか?では、『化身土文類』のお言葉から親鸞聖人において要門の行信を勧められているようなお言葉は存在しないことを書きました。

次に、条件付き十八願では、十八願を「(善が)できない(と知らされた)ときに、無条件の救いにあうのだ」と説くことにより、「善ができない自分と知らされなければ」と親鸞会会員に理解させていることを示しました。

この条件をつけることで、「善ができない自分と知らされるところまで善を実行しなさい」という独自の教義が出てくるのです。

しかし、十八願の救いは自分の何か実行したこととは無関係であること、自分の方から進んでいく救いではないことを知って頂くために、

きくことが違う
道はない
難信です。他力だから。

という記事を書きました。要門(19願)の行信をたとえ教説の通りにどれだけ実行しても、十八願に入るということはないのです。



ここ数回書いてきたことのまとめです。

「善ができない自分と知らされてこい」のお慈悲ではありません。
「そのままこい」のお慈悲です。

私には何の要求もされていないのに、私の方で計らって、「そのままこい」の勅命を拒絶することが問題なのです。
善ができない自分と知るか知らないかなどは問題にもされていません。

本願を計らいなく聞き受けて下さい。「必ず助ける」の仰せを計らいなく聞くのが、すなわち信です。




次回の記事では、
この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。
の記事に出てくる「本願一乗」というお言葉について窺ってみたいと思います。

『一念多念証文』ー「おおよそ八万四千の法門は~」 の意訳

『一念多念証文』の『大経』発起序の文意を釈されたところの前半部分とその意訳です。

しかれば『大経』(上)には、「如来所以 興出於世 欲拯群萌 恵以真実之利」とのたまへり。この文のこころは、「如来」と申すは諸仏を申すなり。「所以」はゆゑといふことばなり。「興出於世」といふは、仏の世に出でたまふと申すなり。「欲」はおぼしめすと申すなり。「拯」はすくふといふ。「群萌」はよろづの衆生といふ。「恵」はめぐむと申す。「真実之利」と申すは、弥陀の誓願を申すなり。しかれば諸仏の世々に出でたまふゆゑは、弥陀の願力を説きて、よろづの衆生を恵み拯はんと欲しめすを、本懐とせんとしたまふがゆゑに、真実之利とは申すなり。しかればこれを諸仏出世の直説と申すなり。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。


意訳(『一念多念文意講讃』(梯實圓著 永田文昌堂)337-338頁より)

そうであるから『大経』には、「如来、世に興出したまふ所以は、群萌を救い、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり」と仰せられている。この経文の意味は、「如来」というのは諸仏のことをいうのである。「所以」というのは、理由という言葉である。「世に興出したまふ」というのは、仏陀が、迷いの世間に出て来られるということである。「欲」は、こうしたいと思われることである。「拯」は、すくうということであり、「群萌」は、すべての生き物ということである。「恵」は、めぐむということである。「真実の利」というのは、阿弥陀仏の本願を指していう言葉である。
 そうであるから、あらゆる仏陀たちが、次々と世間に出て来られる理由は、一切の衆生を救いたまう阿弥陀仏の本顔力を説いて聞かせて、生きとし生けるすべての者に真実の利益を恵みあたえて救うことを本意とされているから「真実の利を恵まんと欲す」といわれているのである。そうであるから阿弥陀仏の本願を説くことを諸仏がこの世間に出てこられた本意、すなわち直説というのである。
 
 総体的にいって八万四千と呼ばれるさまざまな自力の教えは、未熟な者を育てて、浄土真宗に引き入れるための教育的手段としてしばらく説き与えられた仮の教えである。これを真宗に入るための重要な門というので要門という。しかしそれはしばらく用いるだけの権仮(かり)の法門、すなわち仮門と名づけられている。この要門とか仮門という法門が、とりもなおさず『無量寿仏観経』一部にわたって定善や散善によって往生を得ると説かれている教えがそれである。定善とは、心を一点に集中して浄土や如来を観察する修行のことで『観経』には十三種類の観法として説き示されているのがそれである。散善とは、散乱した心のままで、悪を止めて善を修行し、その功徳によって往生しょうとするもので、その行を三福行(世福、戒福、行福)として説き顕し、それを修行する人を九種類に分類して九品とするというような表し方で説かれているあらゆる自力の善行のことである。これらは皆、浄土真宗(第十八願の教え)に導くための教育的な手段として重要な意味をもつ教えであるから方便の要門といい、これを仮門ともいうのである。
 このような要門・仮門によって、未熟な衆生を育て、工夫を凝らして導き、究極的には真実の法門である、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海に入れしめるように教え勧められるのであるから、あらゆる自力の善行のことを仮に設けられた方便の教えであるというのである。


今回引用した御文の前半では、諸仏の出世本懐は、弥陀の願力を説いて聞かせて、一切の衆生に真実の利益を恵み与えてすくうことであったことが述べられています。

これは、先に『法事讃』の「直為弥陀弘誓重」の「直」を直説とし、「諸仏の出世本懐は阿弥陀仏の本願の名号を用いて凡夫の往生を定めることであった」と述べたことを、『大経』の序分のお言葉から証明された段です。

『大経』序分の「真実之利を恵む」は、流通分の付属の文の「為得大利」と対応するものです。『一念多念証文』ー『大経』付属の文意で書いたように、そこには、本願の名号を信受して念仏する者は、無上の功徳が具足せしめられ、往生成仏が決定せしめられるという「大利を得る」と説かれていました。この対応から、「真実之利を恵む」とは、本願の名号を恵み与えることであることがわかります。

本願の名号による救いが諸仏の出世本懐であり、それを顕した経典が『大経』です。



では、『大経』以外の法門は、どのような位置づけになるのでしょうか?
それを述べられたのが、「おほよそ八万四千の法門は~」以下の文です。そこには、八万四千の法門が、『大経』に顕されている本願一乗に導くための権仮方便の教説であることが教えられています。そして、仏が衆生を調機誘引されるありさまが説かれているのです。


親鸞聖人は、聖道門、要門、真門を権仮方便の法門とみられていました。

要門とは、聖道門の機を浄土門に導き入れるための肝要の法門ということで、十九願の法門を開説されたものです。釈尊は『観経』で十九願意を開説されています。『観経』では、往生の行として定善・散善が説かれていますが、散善顕行縁で説かれる三福、つまり世福(世間の善行)、戒福(小乗仏教の行)、行福(大乗仏教の善行)は、
「この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」
と説かれているように、行体は聖道門の行と同じでした。よって、聖道門全体は『観経』におさまります。

また、二十願にあたる真門自力念仏も、それを行っている心は定散心であり、要門と同じ心なので要門におさめられます。

こうして権仮方便の法門は、『観経』の定散二善の法門におさまるので、
「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。」
と教えられたのです。

権仮方便という言葉の意味が分かれば、すでに本願による救いを求めている人には、要門の行信は勧められていないことが分かるのですが、親鸞会の人はそれがわからないようです。
権仮方便ということについて分かられない方は、
「飛雲 善巧方便と権仮方便の意味を教えてあげてください」を参照下さい。

親鸞会 5月15日(土)テレビ座談会のコメント欄

八万の法蔵とは、釈迦一代の教えであり、仏教であり、一切経のことです。
八万の法蔵は、本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に、入れしめんが為に説かれたのですと、何度も何度も教えてくださいました。
一念多念証文意のお言葉は、
教行信証を圧縮されたお言葉と教えてくださいました。
(以下略)


とありましたので、教行信証で要門がどのように教えられているか、勧められているのかどうか、次の記事で書きたいと思います。

如来の直説

「おほよそ八万四千の法門は~」の前後を拝読するの続きです。

「如来の直説」ということについて、『一念多念文意講讃』(梯實圓著 永田文昌堂)331-334頁から説明を引用します。

 「直為弥陀弘誓重といふは、直はただしきなり、如来の直説といふなり。諸仏の世に出でたまふ本意と申すを直説といふなり」といわれたものからあとは、「直為弥陀弘誓重」についての聖人独自の解釈が展開される。すでに述べたように法然聖人が『阿弥陀経』をもって出世本懐の経と定められたのも、この一句があったからであろう。親鸞聖人は「化身土文類」では、この句によって『阿弥陀経』の隠彰義を顕す証文とされていた。ともあれここでは法然聖人の意向を承けて、諸仏がこの世に出現された本意は、阿弥陀仏の本願の名号を説くことにあったという諸仏の出世本懐を顕す文として釈顕される。それはまずここに「直」という文字が用いられているからであった。そこでまず「直」についての字訓をあげられる。

 「直はただしきなり、如来の直説といふなり」といわれたものがそれである。「ただしきなり」とは「正直」のことである。ところで仏の教説について正直という場合は、諸法実相の理にかなった真実ということで、仏の正意、本意を意味していた。また仏がその悟りの内容をあるがままに説き示された仏の本意にかなった教説、すなわち随自意真実の教説という意味を顕していた。それを「如来の直説」といわれたのである。『法華経』「方便品」(『大正蔵』九・一〇頁)には「正直捨方便、但説無上道(正直に方便を捨てて、ただ無上道のみを説く)」といわれていた。未熟の機を誘引調熟するために一乗を分かって三乗を説くが、機根が熟すれば、随他意の方便教を捨て、三乗を開会して随自意真実の一乗法のみを正直に説くというのである。このように方便を捨てて正直に仏の本意にかなった真実の法を説くことを「直説」というのである。すなわち直説とは如来の本意にかなった教説であることを顕す意味があった。

 このように「直」ということばには、「正直」とか「直説」という、如来の正意にかなって説き顕された随自意真実の教説を顕す意味があったから、法然聖人も親鸞聖人も、この句を出世の本意を示す言葉として注目されたのであった。『愚禿鈔』下(『註釈版聖典』五三九頁)に、二河譬に表された招喚の勅命のなかの「直来」の「直」を釈して、
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
といわれていた。この釈は明らかに『法華経』の「正直捨方便」の句を意識しつつ「直」の語を釈されていたことがわかると同時に、それが『法事讃』の「直」の語を釈した今の文と全く同じであることもわかるであろう。

(中略)

 「誓願の名号、これをもちゐさだめなしたまふことかさなれりとおもふべきことをしらせんとなり」というのは、上来の「為」と「重」の字訓釈を結んで、「弥陀弘誓重きが為に」の文意を通釈されるのである。すなわち、諸仏がこの世に出現された本意は、阿弥陀仏の本願の名号を用いて、凡夫の往生を定め為したもうためであった。そのために名号のいわれを重ね重ね説き示されたのである。その甚厚なる思し召しを思いしれと教えられた言葉であるというのである。
 
 ここで『法事讃』の釈文は一時中断する。それはこの「直為弥陀弘誓重」によって、出世本懐が取りあげられたから、そのこころをさらに深く究明するために『大経』の発起序の文をとおして出世本懐論を展開し、さらに出世本懐の法門である本願の名号の徳義を『浄土論』の不虚作住持功徳の文意によって展開されるのである。そうした釈義が終わった後で、再び『法事讃』に戻り、「致使凡夫念即生」の釈が為されるのである。



「如来の直説」「諸仏の本意」とは、阿弥陀仏の本願の名号を用いて、凡夫の往生を定め為したもうことでした。そのために名号のいわれを重ね重ね説き示されたのです。親鸞聖人・蓮如上人も、名号のいわればかりを説き示して下されています。「如来の直説」「諸仏の本意」だからこそ、両聖人は、ひたすら弥陀の名号による救いを勧めていかれたのです。

この後、『一念多念証文』では、『大経』の発起序の「如来所以 興出於世 欲拯群萌 恵以真実之利」
を釈して、出世本懐論が展開されますが、その中で
「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。」
の御文が出てくるのは、非本懐の教法が何であるのか、またそれは真実の教えとどんな関係があるのかを明らかにする必要があったからです。親鸞会がいうように、要門の実行を勧めるために説かれたわけではないことは、お聖教を順番に拝読していけば分かることだと思います。

次回は、『大経』の発起序の釈について取り上げたいと思います。

Appendix

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いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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