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「信心同異の諍論」によって、親鸞会流「善のすすめ」が否定されていることを知らねばならない

親鸞会でよく話をされる内容に「三大諍論」があります。

以前の記事「出拠を知らないから教えの間違いに気が付かないー「平生業成」を例に」では、「体失不体失往生の諍論」を取り上げ、親鸞会で話される内容と『口伝鈔』に書かれている内容が乖離していることを説明しました。

これに対し、「信心同異の諍論」は、親鸞会にしては珍しく、『御伝鈔』の内容に沿って話がなされます。

親鸞会公式ホームページに、「他力の信心から三世十方を貫く教えが説かれる」と題する文章が最近アップされましたが、そこで「信心同異の諍論」が取り上げられていました。

そこで、今回の記事では「信心同異の諍論」を取り上げます。そして、その信心同異の諍論の結論から、実は、親鸞会流の「善のすすめ」が否定されているということを知っていただきたいと思います。

「信心同異の諍論」の経緯は皆さんご存知だと思いますので、そこは省略させていただき、諍論の結論を述べますが、師である法然聖人と、弟子である親鸞聖人の信心が一味であるのは、他力の信心が、
善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまはる信心(御伝鈔)
だからでした。阿弥陀仏から賜る信心だから、智慧が深いとか浅いとかとは無関係に、一味の信心になるというのです。

少し考えればお分かり頂けると思いますが、これと同様に、「阿弥陀仏から賜る信心だから、善をどれくれい実践したかとは無関係に、一味の信心になる」ということがいえるのです。言葉を変えていえば、阿弥陀仏から賜る信心、阿弥陀仏から回向される信心ということは、善を実行したこととは無関係な信心であるということをあらわしています。

信(信心)だけでなく、教も行も証も阿弥陀仏からの回向であることを明らかにされたのが、親鸞聖人の主著である『教行証文類』です。端的には、
それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。 (証文類
(現代語訳)
さて真宗の教・行・信・証を考えてみると、すべて阿弥陀仏の大いなる慈悲の心から回向された利益である。だから、往生成仏の因も果も、すべてみな阿弥陀仏の清らかな願心の回向が成就したものにほかならない。因が清らかであるから、果もまた清らかである。よく知るがよい。
と教えられています。全ては阿弥陀仏からの回向なのですから、私たちの行為(例えば、善をどれくらい実践したか)などは介在する余地が全くないのです。

そして、『信文類』の中で、阿弥陀仏から賜る信心と、善をどれくれい実践したかとは無関係であることを、親鸞聖人は、
おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず
(現代語訳)
総じて、この他力の信心についてうかがうと、身分の違いや出家・在家の違い、また、老少男女の別によってわけへだてがあるのでもなく、犯した罪の多い少ないや修行期間の長い短いなどが問われるのでもない。
と仰っています。「修行の久近を論ぜず」ですから、他力の信心は、どれくらい善に励んできたかは全く関係のない信心です。

善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまはる信心」というお言葉が、実は、「善のすすめ」を否定されたお言葉であったのです。
蛇足ですが、上の親鸞会公式ホームページにアップされた文章の題の書き方を真似すると、「他力の信心から善のすすめが否定される」ともいえるでしょう。
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久しぶりに更新された親鸞会公式ホームページ

半年以上ぶりに親鸞会公式ホームページが更新されていました。
内容は、『顕正新聞』の論説等に掲載された記事と思われるものが2件と動画が1件です。

アップされた動画は、ハワイ大学名誉教授アルフレッド・ブルーム氏が『なぜ生きる』英語版を読んだ感想についてのものです。アルフレッド・ブルーム氏について知りたい方は、ウィキペディア日本語版英語版などを参照してください。

同氏は、動画の中で、
私が『なぜ生きる』英語版を読んでこの本を「素晴らしい」と思うのは
特定の団体の宣伝のために書かれたものではなく
純粋に親鸞聖人のみ教えが明らかにされているところです。

と語っています。

「特定の団体の宣伝のために書かれたものではない」ことを、同氏は「素晴らしい」と思ったと語っているのですが、親鸞会は、ホームページにその動画を掲載し、親鸞会という特定の団体の宣伝のために利用しているので、何とも言えない気持ちにさせられます。

また、同氏は「『なぜ生きる』が日本で何十万部売れている」ということを聞いたそうですが、それが「SK作戦」による虚構の数であると知ったらどう思うでしょうか?
『なぜ生きる』発刊当時、幹部会員だった人ならば、「SK作戦」についてご存知でしょうが、ご存知でない方は、
さよなら親鸞会『なぜ生きる』と虚構の60万
を読んでみてください。虚構の販売部数による宣伝行為であることを知ることができると思います。

更新されない親鸞会公式ホームページ

当ブログのカテゴリーの中で一番記事が多いのは、親鸞会の公式ホームページについてです。

しかし、親鸞会公式ホームページは、昨年の11月18日を最後に、更新されていません(2015年4月4日現在)。

また、各地の親鸞会のサイトをいくつか見てみましたが、以前は掲載されていたはずの法話の会場と日時が載っておらず、予定は問い合わせになっていました。
自分で確認したい方は、以下のサイトなどにアクセスしてみて下さい。
浄土真宗親鸞会 東京
浄土真宗親鸞会 神奈川
浄土真宗親鸞会 石川
浄土真宗親鸞会 長野山梨

親鸞会では、ここ数年で各地に会館を設け、顕正新聞も顕真もその話題でもちきりでしたが、そこで行われている法話の日程は公にはされていないようです。

一方、親鸞会が教えを説いていないと盛んに批判している本願寺ですが、本山の行事予定も別院の行事予定もホームページ上に掲載されています。

インターネットが発達した社会において、ホームページ上に、各地の法話の日程を掲載することすらしていないことから、親鸞会は、布教に対する積極性さえも失ってしまったのかと感じました。また、各地の行事の日程を載せることで、何か不都合があるために、問い合わせてもらって案内するという形式に変えたということなのでしょうか?

さて、話を公式ホームページに戻します。
トップページには、「平生業成」が浄土真宗の一枚看板であること、「なぜ生きる」を明らかにされたのが親鸞聖人であることを記した後、ページの半分以上に渡って、「本当の親鸞聖人の教えを聞かれた喜びの声」が、多数掲載されています。教えを前面に出すのではなく、体験談が前面に出されたトップページです。

人生には、これ一つ果たさなければならない大事な目的がある、それは現在、完成できる。だから、早く完成しなさいよ」と書いていながら、その目的を果たした体験談は皆無であり、教えにあえた喜びの声が掲載されているだけです。見る人が見れば、誰もその目的を果たした人はいないのだなと感じることでしょう。

結局のところ、「平生業成」という看板を掲げながら、実質的には平生業成を説いていないのが親鸞会です。

40周年記念大会の記念品であった『独言』には、以下の言葉があります。

(38) その程度
「噫、弘誓の強縁、多生にも値回く、真実の浄信は、億劫にも獲回し。遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」(教行信証総序)

 永久の闇より救われた親鸞聖人の驚きと慶びである。
 五十年や百年や千年聞いて獲られる信心ではないから、たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べと教えてあるのだ。
「まだ獲信できぬのか」と言う自称信心の行者がいる。
「そんな程度の信心ならね……」と答えてあげねばならぬ。


五十年や百年や千年聞いて獲られる信心ではない」というのですから、生きているときに往生の業事が成弁するということはありません。まさに「平生業成」の否定です。

信心決定、信心獲得は、一念という時剋の極促だが、そこにたどり着くまでには時間がかかるのだというのが、親鸞会会員さんの理解だと思います。上の『独言』の言葉を読んだり、「三願転入の教え」、「善のすすめ」といった高森会長の話を聞いたりしていたら、そのような理解になってしまうのは当然なことです。

上で挙げた『教行信証総序』の親鸞聖人のお言葉は、獲信の現在から過去を振り返って、阿弥陀仏の本願力には多生にもあえなかった、真実の信心は億劫にも獲られなかったと仰っているものです。教行信証を拝読する者に対し、現在から未来に向かって、五十年や百年や千年聞いて獲られる信心ではないぞと仰ったものではありません。

横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり」(信文類)と親鸞聖人が教えられているように、阿弥陀仏の本願は既に成就し、すべての衆生が平等にさとりを開く唯一の真実円満の教えが完成しているのです。その教えこそが浄土真宗の教えです。

法蔵菩薩は南無阿弥陀仏一つで衆生を救うという本願を建てられました。そして、その本願が成就して、南無阿弥陀仏の名号となって、いつでも、どこでも、すべての衆生に喚びづくめなのです。「いつでも」とは、「いま」であり、「どこでも」とは、「ここ」であり、「すべての衆生」とは「私」のことです。本願成就の南無阿弥陀仏が、いま、ここの、私に届いているのですから、いま、ここにいる私が、何のようもなく、救われるのです。これが、「平生業成」です。

すなわち、本願成就の南無阿弥陀仏を抜きにして、「平生業成」はないのです。

親鸞聖人は、『化身土文類』で、
本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。
(現代語訳)
本願成就の尽十方無碍光如来を信知すべきである。
と教えられています。

本願成就の南無阿弥陀仏を、今、ここで、何も計らいも雑えずに聞きうけるのです。

しかしながら、その本願成就の南無阿弥陀仏のこころが、親鸞会では全く説かれていません。

だから、「平生業成」という言葉があるだけ、看板があるだけで、中身がないのです。救われる人がいないのです。

会員の人ならば何度も聞いているであろう「平生業成」の10分説法でいうならば、親鸞会は、「タバコ店という看板を出した魚屋」です。そこには、タバコがありませんから、タバコを買いに来た人は腹を立てて帰って行くという結末が待っています。

「平生業成」という看板を掲げていても、中で説かれている実質的な教えは「死ぬまで求道の教え」だと気がついた人から、親鸞会を去っていきます。私もそれに気がついて親鸞会を離れました。

「平生業成」という看板を掲げながら、中で説かれている教えは「平生業成」でない、
「浄土真宗」という看板を掲げながら、中で説かれている教えは「浄土真宗」でない、
「親鸞会」と名乗りながら、中で説かれている教えは「親鸞聖人の教え」でない、
それが「浄土真宗親鸞会」と名乗る団体であることに早く気がついていただきたいと思います。

「宿善の意味を聞くための聞法道場が二千畳」という論説に親鸞会会員は疑問を持たねばならない

親鸞会公式ホームページに「まことに宿善まかせ 蓮如上人のご遺言」という記事がアップされていました。これは、顕正新聞1月1日号の論説で、既に親鸞会を脱会した人(したい人)へでも取り上げられていましたが、あまりにも酷い内容なので当ブログでも取り上げたいと思います。

まず、今回取り上げる部分についての抜粋です。全文を読みたい方は、リンク先をご覧ください。

「これによりて五重の義を立てたり。一には宿善、二には善知識、三には光明、四には信心、五には名号、この五重の義成就せずは、往生は叶うべからずと見えたり」
(御文章2帖目11通)

 親鸞聖人のみ教えを、一器の水を一器に移すがごとく、伝えられた蓮如上人のご金言である。

(中略)

 冒頭の『御文章』で蓮如上人は、「五つのものがそろわなければ、極楽往生はできないし、仏にはなれない」と厳しく仰っている。

(中略)

 では「五重の義」とは何か。
その第一が「宿善」である。

(中略)

 では、それほどに重要な宿善とは何か。全人類の最大関心事でなければならぬであろう。

(中略)
 
「宿善まかせ」とまで蓮如上人が仰る「宿善」を、親鸞学徒は当然、熟知していなければならない。それを聞くための聞法道場が、二千畳なのである。


なお、今回、省略した部分に挙げられている御文章のお言葉の正しい意味を知りたい方は、『親鸞会教義の誤り』宿善とはを参考にされるとよいと思います。

本題に入ります。一番問題だと思ったのは、論説の結論
「宿善まかせ」とまで蓮如上人が仰る「宿善」を、親鸞学徒は当然、熟知していなければならない。それを聞くための聞法道場が、二千畳なのである。
です。「宿善の意味を聞くための聞法道場が二千畳なのだ」という主張ですが、これは蓮如上人にも、論説の最初に挙げられた五重の義の御文章(御文章2帖目11通)にも反する邪義です。

論説では「五重の義」の意味について全く解説されていませんが、五重の義の「重」の意味を親鸞会の会員さんは、よく知らなければなりません。この「重」とは、前のものが後をおこし、後のものが前に重なってゆくという意味です。すなわち五重の義とは、「宿善」によって「善知識」に遇い、「光明」のはたらきによって「信心」を獲得し、その信心の相続するすがたが称名念仏(「名号」)となってあらわれるということを教えられたものです。そして、このような五重の義を立てることによって、「十劫安心」と「善知識だのみ」の誤りを正されたものが五重の義の御文章です。

宿善があって善知識に遇うのであって、善知識に遇って宿善について聞くのではありません。この順番に注意してください。親鸞会では、ここを間違ってしまっているのです。
そもそも、善知識の役目は、五重の義の御文章に
そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。
善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。
と教えられている通り、「弥陀に帰命せよ」と勧めることただ一つです。聞く立場の者からいえば、「弥陀に帰命する」こと一つを聞くのです。

「われをたのめ(南無)、必ず助ける(阿弥陀仏)」の如来の仰せをお取次ぎするのが善知識であり、如来の仰せを聞いたそのままが信心です。宿善の意味を説くのが善知識の任務ではなく、宿善の意味を聞くために聞法するのでもありません。

蓮如上人が、80通の御文章のどこに宿善の意味を解説されているというのでしょうか?蓮如上人は、「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」、このこと一つを御文章にお書き下さいました。

そのような蓮如上人の姿勢に反し、御文章の御教導に反し、「宿善の意味を聞くための聞法道場が二千畳」と書く親鸞会。蓮如上人を親鸞学徒の鑑と尊敬している親鸞会の会員さんならば、説法の目的・聞法の目的がずれてしまっている今回のような論説を読んだら疑問をもたねばなりません。

最後に、五重の義の御文章を拝読しましょう。

それ、当流親鸞聖人の勧化のおもむき、近年諸国において種々不同なり。これおほきにあさましき次第なり。そのゆゑは、まづ当流には、他力の信心をもつて凡夫の往生を先とせられたるところに、その信心のかたをばおしのけて沙汰せずして、そのすすむることばにいはく、「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることをわすれぬがすなはち信心のすがたなり」といへり。これさらに、弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。さればいかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは、極楽には往生すべからざるなり。またあるひとのことばにいはく、「たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と[云々]。これもうつくしく当流の信心をえざる人なりときこえたり。そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。これによりて五重の義をたてたり。一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

信心為本の教えが宿善為本の教えになっていないか、帰するところの弥陀を捨ててただ高森会長ばかりを本としてはいないか、会員さんは我が身を振り返ってみる必要があるでしょう。

「本願寺 なぜ説かぬ 信心一つの弥陀の救い」と言いながら、信心についての無理解を曝け出している親鸞会公式ホームページ

相変わらず親鸞会は、本願寺を称名正因の異安心と非難しています。公式ホームページ上で、「戦後は既に間違ってた教えを説いていた本願寺」と、本願寺派の文章を3つ挙げ、 批判していました。今日はその文章の一部分を取り上げたいと思います。

なぜ説かぬ 信心一つの弥陀の救いより引用。

龍谷大学元学長であり、本願寺派の勧学寮頭を務めた武邑尚邦氏が、昭和40年頃、ラジオ放送した説教記録にこんな発言がある。

「『名号をとなえるものを浄土に迎えとって仏にする』というのが、この仏様の本願であった」
(武邑尚邦著『自覚と信仰』より)

「お念仏をとなえても、また聞いても、それはすでに阿弥陀如来のお誓いのままに、となえさせていただいているのだ、お聞かせにあずかっているのだと、素直にお念仏を喜ばせていただくのが、親鸞聖人の喜ばれたお念仏であります」
(同)

「尊いお念仏が、もし私の口から称名として出ていただき、となえさせていただくことになりますならば、(中略)それこそ、『聞かさねば』の仏様のみ心のままにとなえさせられた他力のお念仏であると味わわざるをえないのであります」
(同)

 出てくるのは「念仏」ばかりで、親鸞聖人の教えの肝要である「信心」はどこにも出てこない。こんな説教を繰り返し聞かされれば、誰でも、念仏を称えることこそ救いの正因と思うだろう。


ここでは、武邑尚邦氏の文章を挙げて、親鸞聖人の教えの肝要である「信心」はどこにも出てこないと指摘しています。しかし、本当にどこにも「信心」は出ていないのでしょうか?
このことを検証するために、親鸞会発行の『教学聖典(8)』に掲載されている親鸞聖人のお言葉をみてみましょう。

問(28)
弥陀の本願の名号を聞くとは、どんなことか。親鸞聖人のお言葉と、その根拠を示せ。

答(28)
○「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。「きく」というは、本願をききて疑う心なきを聞というなり。また「きく」というは、信心をあらわす御法なり。(一念多念証文)


これは、18願成就文の「聞其名号」を親鸞聖人が解釈されたお言葉です。

まず、『「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり』と、「聞其名号」とは本願の名号、すなわち南無阿弥陀仏を聞くことであると示されています。
次に、『「きく」というは、本願をききて疑う心なきを聞というなり』とは、信心(無疑心)をもって「聞」を解釈されたお言葉で、18願成就文の「聞」とは、自らのはからいを雑えずに本願の名号を聞き受けている「聞」であるということを顕されたお言葉です。
最後に、『「きく」というは、信心をあらわす御法なり』とは、「聞」をもって信心を顕されたお言葉であり、「南無(我をたのめ)阿弥陀仏(必ず助ける)」という本願の名号を疑いを雑えずに聞いていること以外に信心はないのだということを教えられています。

以上のお言葉から分かりますように、浄土真宗の信心というのは、南無阿弥陀仏を計らいを雑えずに聞いているより他にはないのです。

ここで、最初に挙げた武邑氏の文章に戻ると、
お念仏をとなえても、また聞いても
阿弥陀如来のお誓いのままに、となえさせていただいているのだ、お聞かせにあずかっているのだ
と、お念仏を聞くという表現がなされています。お念仏を聞くとは、南無阿弥陀仏を聞くということです。しかも、「阿弥陀如来のお誓いのままにお聞かせにあずかっているのだ」とありますから、名号のいわれの通りに疑いを雑えずにお聞かせにあずかっているということでありましょう。

そうしますと、武邑氏の文章にある「お念仏を聞く」の「聞」とは、親鸞聖人が『一念多念証文』で教えられている、信心であるような「聞」であることが分かります。つまり、「信心」という言葉はなくても、信心をあらわす表現がなされているのが武邑氏の文章だったのです。

親鸞会は『親鸞聖人の教えの肝要である「信心」はどこにも出てこない』と批判していますが、親鸞聖人の教えられた「信心」に暗きが故の的はずれの非難と言わざるをえません。

このことを通して、「信心一つの弥陀の救い」と言いながら、その信心についてまともに理解していないのが親鸞会であるということを知って頂きたいと思います。

Appendix

プロフィール

いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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