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本願一乗とは(5)「すべての往生を願う人びとに」

本願一乗とは(4) 「一乗の機教」の続きです。

『行文類』では、誓願一仏乗において、法(念仏)が比較を超えた唯一絶対の教法であり、それを与えられた機(信心)も比較を絶した絶対不二の機であることを明らかにされた後、「敬つて一切往生人等にまうさく」(謹んですべての往生を願う人びとに申し上げます)と仰り、これまで説き明かしてきた弘誓一仏乗を28の譬えと10句をもって讃嘆されてます。本文と現代語訳を交互に紹介します。現代語訳は『聖典セミナー 教行信証[教行の巻]』(梯實圓著 本願寺出版)352-354頁からの引用です。

敬つて一切往生人等にまうさく、弘誓一乗海は、無碍無辺最勝深妙不可説不可称不可思議の至徳を成就したまへり。なにをもつてのゆゑに。誓願不可思議なるがゆゑに。
(謹んですべての往生を願う人びとに申し上げます。弘誓一乗海は、何ものにもさまたげられることなく人びとを救う法であり、きわも辺もなく、最も勝れており、奥深くて、説き尽くすことも、たたえ尽くすことも、思いはかることもできない最高の徳が成就されています。なぜならば、不可思議なる誓願によって成就されたものであるからです。)

悲願はたとへば太虚空のごとし、もろもろの妙功徳広無辺なるがゆゑに。
(その誓願の不可思議なるありさまを誓えで表せば、悲願は大空のようです、広大無辺のさまざまな素晴らしい功徳を包んでいるからです。)
なほ大車のごとし、あまねくよくもろもろの凡聖を運載するがゆゑに。
(ちょうど大車のようです、凡夫であれ聖者であれ、あらゆる人を乗せて、さとりの世界へ運んで行くからです。)
なほ妙蓮華のごとし、一切世間の法に染せられざるがゆゑに。
(ちょうど美しい蓮華のようです、一切の世俗の事柄に汚染されることがないからです。)
善見薬王のごとし、よく一切煩悩の病を破するがゆゑに。
(善見薬王樹のようです、すべての煩悩の病を見抜いて退治するからです。)
なほ利剣のごとし、よく一切驕慢の鎧を断つがゆゑに。
(ちょうど利剣のようです、人びとが纏っている一切の僑慢の鎧を断ち切るからです。)
勇将幢のごとし、よく一切のもろもろの魔軍を伏するがゆゑに。
(勇将帝釈天の幡(軍旗)のようです、一切の悪魔の軍勢を降伏させるからです。)
なほ利鋸のごとし、よく一切無明の樹を截るがゆゑに。
(ちょうど鋭い鋸のようなものです、よく一切の無明の樹を切り倒すからです。)
なほ利斧のごとし、よく一切諸苦の枝を伐るがゆゑに。
(ちょうどよく切れる斧のようです、よく一切の苦しみの枝を伐るからです。)
善知識のごとし、一切生死の縛を解くがゆゑに。
(善知識のようです、よく人びとを生死に縛りつけている迷妄の絆から解放してくれるからです。)
なほ導師のごとし、よく凡夫出要の道を知らしむるがゆゑに。
(ちょうど導師のようです、よく凡夫に生死を超える肝要な道を知らせるからです。)
なほ涌泉のごとし、智慧の水を出して窮尽することなきがゆゑに。
(ちょうど涌き出る泉のようです、はてしなく智慧の水を出し続けるからです。)
なほ蓮華のごとし、一切のもろもろの罪垢に染せられざるがゆゑに。
(ちょうど泥沼に咲く蓮華のようです、一切の罪の垢に汚染せられることがないからです。)
なほ疾風のごとし、よく一切諸障の霧を散ずるがゆゑに。
(ちょうど疾風のようです、一切衆生の罪障の霧を吹き払うからです。)
なほ好蜜のごとし、一切功徳の味はひを円満せるがゆゑに。
(ちょうど美味しい蜜のようです、一切の功徳の味わいが円かに具わっているからです。)
なほ正道のごとし、もろもろの群生をして智城に入らしむるがゆゑに。
(ちょうど正しい道のようです、あらゆる人びとをさとりの智慧の領域に入れしめるからです。)
なほ磁石のごとし、本願の因を吸ふがゆゑに。
(ちょうど磁石のようです、本願に誓われたとおりに信心の行者を吸いつけていくからです。)
閻浮檀金のごとし、一切有為の善を映奪するがゆゑに。
(また閻浮檀金(純度の高い金)のようです、常住無為の善である本願の名号の光は、煩悩に汚れた世間の無常有為の善の光を奪い取ってしまうからです。)
なほ伏蔵のごとし、よく一切諸仏の法を摂するがゆゑに。
(ちょうど伏蔵(地下の宝庫)のようです、よく一切の諸仏の法を摂めているからです。)
なほ大地のごとし、三世十方一切如来出生するがゆゑに。
(ちょうど大地のようです、過去・現在・未来の三世にわたって、十方に出現されるすべての仏陀たちが、そこから出生されるからです。)
日輪の光のごとし、一切凡愚の痴闇を破して信楽を出生するがゆゑに。
(太陽の光のようです、一切の凡夫の愚痴の闇を破って、信心を起こさせるからです。)
なほ君王のごとし、一切上乗人に勝出せるがゆゑに。
(ちょうど大王のようです、大王が諸侯に超え勝れているように、一切の諸仏(上乗人)に超え勝れているからです。)
なほ厳父のごとし、一切もろもろの凡聖を訓導するがゆゑに。
(ちょうど厳しい父のようです、一切の凡夫や聖者を教え導くからです。)
なほ悲母のごとし、一切凡聖の報土真実の因を長生するがゆゑに。
(ちょうど慈愛に満ちた母のようです、一切の凡夫や聖者が報土に往生するまことの因である信心をはぐくみ育てるからです。)
なほ乳母のごとし、一切善悪の往生人を養育し守護したまふがゆゑに。
(ちょうど乳母のようです、善人であれ悪人であれ、往生しょうと願うすべての人を守り育てるからです。)
なほ大地のごとし、よく一切の往生を持つがゆゑに。
(ちょうど大地のようです、すべての往生人をしっかりと支えているからです。)
なほ大水のごとし、よく一切煩悩の垢を滌ぐがゆゑに。
(ちょうど洪水のようです、よく一切の煩悩の垢を洗い流してしまうからです。)
なほ大火のごとし、よく一切諸見の薪を焼くがゆゑに。
(ちょうど大火のようです、火が薪を焼くように、あらゆる邪見や偏見などの誤った見解を焼き尽くすからです。)
なほ大風のごとし、あまねく世間に行ぜしめて碍ふるところなきがゆゑに。
(ちょうど大風のようです、あまねく世界に行きわたって、何ものにも妨げられないからです。)

(このような誓願一仏乗は、)

よく三有繋縛の城を出して、
(迷いの境界(三界)に繋ぎとめられている衆生をよく救い出し、)
よく二十五有の門を閉づ。
(ふたたび迷界へ転落しないように、すべての迷いの境界(二十五有)への門を閉じ、)
よく真実報土を得しめ、
(よく真実報土へ往生させ、)
よく邪正の道路を弁ず。
(邪なる路と正しい道とをはっきりとわきまえさせ、)
よく愚痴海を竭かして、
(本願を疑う疑惑の海を干上がらせて、)
よく願海に流入せしむ。
(信心を獲て本願の海に流れ入れしめられます。)
一切智船に乗ぜしめて、
(浄土に至れば、完全なさとりの智慧をきわめて、大悲をおこし、さとりの船に乗ぜしめて、)
もろもろの群生海に浮ぶ。
(迷える人びとを救うために衆生海に浮かび、)
福智蔵を円満し、
(福智蔵と呼ばれる『無量寿経』を説いて、完全な真実を知らせます。)
方便蔵を開顕せしむ。
(しかし、ただちに真実を受けいれられないものには、方便蔵と呼ばれる『観無量寿経』や『阿弥陀経』を説いて、未熟な人を導くはたらきをさせていきます。)

まことに奉持すべし、ことに頂戴すべきなり。
(まことに信奉すべき教えであり、ことに頂戴しなければならない法であります。)


最後の10句のうち、はじめの6句は往相回向の徳をたたえ、あとの4句は還相回向の徳をたたえたものです。

このようなお言葉を拝読すると、親鸞聖人は本願一乗海一つを勧めていかれたことがよく分かると思いますが、いかがでしょうか?


最近、何回か引用している『化身土文類』のお言葉

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。


でも、第18願の教法(横超)は、専修の中の専修であり、頓教の中の頓教であり、真実の中の真実であり、一乗の中の真の一乗であることが教えられています。

今まで、本願一乗ということについて、
本願一乗とは(1)「一乗海の釈」
本願一乗とは(2)
本願一乗とは(3)
本願一乗とは(4) 「一乗の機教」
と、4回(この記事を合わせて5回)にわたって書いてきました。

親鸞聖人が誓願一仏乗(阿弥陀仏の誓願によって成就された南無阿弥陀仏は、善悪・賢愚を簡ばず生きとし生けるすべてのものを平等に成仏せしめる絶対唯一の教法である)と教えられた御心をよく知れば、高森会長の説く「三願転入の教え」なるものは親鸞聖人の教えでも何でもないことがわかるでしょう。
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本願一乗とは(4) 「一乗の機教」

本願一乗とは(1)「一乗海の釈」
本願一乗とは(2)
本願一乗とは(3)
の続きです。

『行文類』では、一乗海の釈が示された後、念仏と諸善とが比校対論されています。これは、弘願法(18願)を念仏で顕し、八万四千の法門を『観経』におさめ、要門法を諸善で顕された比較です。さらに、念仏の機と諸善の機についても比較されています。

しかるに教について念仏諸善比校対論するに、難易対、頓漸対、横竪対、超渉対、順逆対、大小対、多少対、勝劣対、親疎対、近遠対、深浅対、強弱対、重軽対、広狭対、純雑対、径迂対、捷遅対、通別対、不退退対、直弁因明対、名号定散対、理尽非理尽対、勧無勧対、無間間対、断不断対、相続不続対、無上有上対、上上下下対、思不思議対、因行果徳対、自説他説対、回不回向対、護不護対、証不証対、讃不讃対、付属不属対、了不了教対、機堪不堪対、選不選対、真仮対、仏滅不滅対、法滅利不利対、自力他力対、有願無願対、摂不摂対、入定聚不入対、報化対あり。
この義かくのごとし。しかるに本願一乗海を案ずるに、円融満足極速無碍絶対不二の教なり。

 また機について対論するに、信疑対、善悪対、正邪対、是非対、実虚対、真偽対、浄穢対、利鈍対、奢促対、豪賤対、明闇対あり。この義かくのごとし。しかるに一乗海の機を案ずるに、金剛の信心は絶対不二の機なり、知るべし。


(訳はこの記事の最後に引用しました)


このように、念仏が比較を超えた唯一絶対の教法であり、それを与えられた機(信心)も比較を絶した絶対不二の機であることが明らかにされています。本願一乗の法と機を明らかにされることで、本願一乗はそれ自体で完結した最高の成仏の道であることを教えられているのです。

ですから、親鸞聖人のお勧めは、本願一乗(18願)の行信以外にはありません。


そして、その行も信も、本願力の回向によるのです。
本願力回向の南無阿弥陀仏につかえているのが称名念仏(行)であり、本願力回向の南無阿弥陀仏が到り届いているのが信心(信)ですから、『教行証文類』総序では、

穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。

と、如来を主体にされた説かれ方で「もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ」と、本願力回向の行信一つを勧めていかれたのでした。

私から差し出すものは何もありません。
私は如来回向の南無阿弥陀仏につかえるばかり、如来回向の南無阿弥陀仏を崇めるばかりです。
つまり、無上甚深の功徳利益が一方的に与えられるのです。




(現代語訳)『聖典セミナー 教行信証 [教行の巻]』(梯實圓著 本願寺出版)341-347頁より

しかるに教法について、念仏と諸善とを比較し、相対して論じると、次のようになります。
難易対、諸善は難行であり、念仏は易行である。
頓漸対、念仏は速やかに成仏し、諸善は長い時間を要する。
横竪対、念仏は他力によって横さまに迷いを超え、諸善は自力によって、竪さまに順を迫って迷いを離れていく。
超渉対、念仏は迷いの世界を飛び超えるが、諸善は歩いて渡るようなものである。
順逆対、念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている。
大小対、念仏は大功徳であるが、諸善の功徳は小さい。
多少対、念仏は多善根であるが、諸善は少善根である。
勝劣対、念仏は最勝の行であり、諸善は劣行である。
親疎対、念仏は仏に親しく馴染み深いが、諸善は疎遠である。
近遠対、念仏は仏に近く、諸善は遠く離れている。
深浅村、念仏は深い法であり、諸善は浅薄である。
強弱対、念仏は強い本願に支えられているが、諸善を支える自力は弱い。
重軽対、念仏は重い願力に支えられているが、それのない諸善は軽い。
広狭対、念仏は一切を救うから広く、諸善は善人にかぎるから狭い。
純雑対、念仏は純粋な往生行であるが、諸善は三乗に通ずる行である。
径迂対、念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。
捷遅対、念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である。
通別対、諸善は聖道に通ずる通途の法であり、念仏は特別の法である。
不退退対、念仏は不退転の法であり、諸善は退転のある法である。
直弁因明対、念仏は仏の出世の本意としてただちに説かれた法であり、諸善は自力の機に止むを得ず説かれた法である。
名号定散対、念仏は釈尊が付属された名号であり、諸善は付属されなかった定散二善である。
理尽非理尽対、念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説にすぎない。
勧無勧対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。
無間間対、念仏は他力に支えられているからその信心は途切れることがないが、諸善を修するものの信は途切れることがある。
断不断対、念仏は摂取されているから信心断絶しないが、諸善は断絶する。
相続不続対、念仏は法の徳によって臨終まで相続するが、諸善は相続しない。
無上有上対、念仏は無上の功徳を具しているが、諸善は有上功徳でしかない。
上上下下対、念仏は最も勝れた上上の法であるが、諸善は下下の法である。
思不思議対、念仏は不可思議の仏智の顕現であり、諸善は分別思議の法である。
因行果徳対、諸善は不完全な因人の行であるが、念仏は阿弥陀仏の果徳を与えられた完全な法である。
自説他説対、念仏は阿弥陀仏自身が説かれた行法であり、諸善はそうではない。
回不回向対、諸善は衆生が回向しなければ往生行にはならないが、念仏は如来回向の法であるから、衆生は回向する必要がない。
護不護対、念仏は如来に護念せられる法であるが、諸善には護念はない。
証不証対、念仏は諸仏が証明されているが、諸善には諸仏の証明がない。
讃不讃対、念仏は諸仏に讃嘆される法であるが、諸善は讃嘆されない。
付嘱不嘱対、念仏は釈迦・弥陀二尊の本意にかなった法であるから付属されたが、諸善は付属されなかった。
了不了教対、念仏は仏の本意が完全に説き示された法であるが、諸善はそうではなかった。
機堪不堪対、念仏はどのような愚劣の機にも堪えられるように成就された法であるが、諸善は劣機には堪えられない法である。
選不選対、念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である。
真仮対、念仏は真実の法であり、諸善はしばらく仮に用いられる方便の法である。
仏滅不滅対、諸善のものは往生しても入滅する応化仏を見るが、念仏往生のものは永久に入滅しない真仏を見る。
法滅利不利対、法減の時になっても念仏は滅びることなく衆生を利益し続けるが、諸善は滅びるから利益がない。しかし、これを法減不滅対と利不利対の二対に分ける説もある。
自力他力対、諸善は自力の法であり、念仏は他力の法である。
有願無願対、念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない。
摂不摂対、念仏は摂取不捨の利益があり、諸善は摂取されない。
入定聚不入対、念仏は正定聚に入る法であるが、諸善は正定聚に入れない。
報化対、念仏は真実報土に往生する行であるが、諸善は化土にとどまる行である。
教法について念仏と諸善を比較すると、このような違いが明らかになってきます。ところで本願一乗海である念仏について考えてみると、あらゆる善根功徳が円かに融け合って、衆生の煩悩悪業にもさまたげられることなく、速やかに満足せしめていくという、比較を超えた唯一絶対の教法であることがわかります。

また機について、念仏の機と諸善の機とを比較し、対論すると、次のようになります。
信疑対、念仏者は本願を信じているが、諸善の人は疑っている。
善悪対、念仏者は名号の大善を領受しているから善人であり、諸善の人は雑毒の善しかないから悪人と貶称される。
正邪対、念仏者は正定聚の機であり、諸善の人は邪定聚の機である。
是非村、念仏者は仏意にかなうから是であり、諸善の人は仏意にかなわないから非である。
実虚対、念仏者は仏の真実心を得ているから実といい、諸善の人は自力虚偽の人であるから虚という。
真偽対、念仏者は真実、諸善の人は虚偽であるから、真といい、偽という。
浄穢対、念仏者は浄心を得ているから浄といい、諸善の人は疑濁の人であるから穢という。
利鈍対、念仏者は仏智を得ているから利根であり、諸善の人は仏智を得ていないから鈍根である。
奢促対、諸善の人の成仏はおそいから奢といい、念仏者の成仏はすみやかであるから促という。
豪賤対、念仏者は名号の功徳を得ているから豪富であり、諸善の人は大功徳を失っているから貧賤である。
明闇対、念仏者は仏智を得て無明を破られているから明であり、諸善の人は無明の闇に閉ざされているから闇である。
このような十一対が成立します。以上のことから、本願一乗海である念仏を疑いなく受けいれている一乗海の機を考えてみると、その体が仏智であるような金剛の信心は比較を絶した絶対不二の機であることがわかります。

本願一乗とは(3)

本願一乗とは(2)に関連して。

『愚禿鈔』にも二双四重の教判が説かれていますが、そこでは仏教を大乗と小乗に分け、大乗教に頓教と漸教があるといい、頓教に聖道の頓教(竪超)と浄土の頓教(横超)があり、漸教に聖道の漸教(竪出)と浄土の漸教(横出)があるという説き方で教えられています。

聖道・浄土の教について、二教あり。
一には大乗の教、      二には小乗の教なり。

大乗教について、二教あり。
一には頓教、        二には漸教なり。

頓教について、また二教・二超あり。
二教とは、
一には難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。
二には易行浄土本願真実の教、『大無量寿経』等なり。
二超とは、
一には竪超  即身是仏・即身成仏等の証果なり。
二には横超  選択本願・真実報土・即得往生なり。

漸教について、また二教・二出あり。
二教とは、
一には難行道聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。
二には易行道浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教なり。
二出とは、
一には竪出  聖道、歴劫修行の証なり。
二には横出  浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生なり。

小乗教について、二教あり。
一には縁覚教    一に麟喩独覚、二に部行独覚。
二には声聞教なり。 初果・預流向、第二果・一来向、第三果・不還向、第四果・阿羅漢向、八輩なり。

ただ阿弥陀如来の選択本願を除きて以外の、大小・権実・顕密の諸教は、みなこれ難行道、聖道門なり。また易行道、浄土門の教は、これを浄土回向発願自力方便の仮門といふなりと、知るべし。



ここで、親鸞会の人に知って頂きたいことは、

・竪超、横超、竪出、横出は独立した法門であること。
・横超(18願の法義)は頓教。横出(19願、観無量寿経の教え)は漸教。
・横超は報土往生。横出は胎宮・辺地・懈慢の往生。
・選択本願(18願)以外の法門(聖道門、要門、真門)は、18願に帰すべき権仮方便の教説であること。

です。「権仮方便」の意味が分かれば18願を求めている人に19願を勧められていないことは明らかなのですが、18願と19願では成仏の遅速も、往生するところも違うということが分かれば親鸞聖人が19願を勧められていないことが分かると思います。


そして、『愚禿鈔』では、18願(本願一乗)ついて、次のようにも説かれています。

本願一乗は、頓極・頓速・円融・円満の教なれば、絶対不二の教、一実真如の道なりと、知るべし。専がなかの専なり、頓がなかの頓なり、真のなかの真なり、円のなかの円なり。一乗一実は大誓願海なり。第一希有の行なり。

聖道門の頓教と比ぶべくもなく速やかに仏のさとり至らせる法門が本願一乗(18願)なのです。絶対に比較すべきものがないから、絶対不二の教とも説かれています。


仏教の目的は成仏です。
そして、最高の成仏の道が本願一乗(18願)であると、親鸞聖人は説かれました。
最高の成仏の道が本願一乗(18願)と示されているのですから、その御教示に従い18願一つを求めるのが本物の親鸞学徒です。

頓教(18願)に入るのには漸教(19願)を経なければならないと説くのは、親鸞聖人の御教示を無視した説き方なのです。

誓願一仏乗

法からいえば本願の念仏。

機からいえば金剛の信心。

その体は南無阿弥陀仏。


大千世界ただ一つのまことである。


「ただ念仏のみぞまこと」と仰った聖人が偲ばれる。


南無阿弥陀仏

本願一乗とは(2)

『化身土文類』では、「本願一乗」について、

「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。

現代語訳

『観経疏』に「その教えは八万四千を超えている」(玄義分)といわれているのは、「教え」とは八万四千の方便の教えであり、自力聖道門のことである。「超えている」のは本願一乗海の教えであり、他力浄土門のことである。

と、八万四千の仮門の他に、本願一乗海の教えがあることが示された後、二双四重の教判が説かれています。

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。

横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。

現代語訳

総じて釈尊が説かれた教えの中で、この世界で聖者となってさとりを得るのを聖道門といい、難行道という。この聖道門の中に、大乗と小乗、漸教と頓教、一乗と二乗と三乗、権教と実教、顕教と密教、竪出と竪超がある。これらはすべて自力の教えであり、衆生を真実に導くための、仮の手だてとして説かれた教えである。

浄土に往生してさとりを開くのを浄土門といい、易行道という。この浄土門の中に、横出と横超、方便と真実、漸教と頓教、そして助正と雑行、雑修と専修がある。正とは、読誦.観察.礼拝.称名.讃嘆供養の五正行である。助とは、称名以外の読誦.観察.礼拝.讃嘆.供養の五種である。雑行とは、正.助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善.散善や世福.戒福.行福の善を修め、三輩.九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。

横超とは、阿弥陀仏の本願を信じて自力の心を離れることであり、これを横超他力という。これは、専修の中の専修であり、頓教の中の頓教であり、真実の中の真実であり、一乗の中の真の一乗である。これが真宗である。このことは、「行文類」においてすでに明らかにした。


まず、「二双四重の教判」の「教判」とは「教相判釈」のことで、様々な仏教の経典・教理を分類し統一的に理解していくことです。「二双四重」とは、
聖道門を「竪」
浄土門を「横」
で顕し(二双)、それぞれに
「出」(漸教ーさとりを開くのに長い時間を要する教え:権教ー方便)
「超」(頓教ー速やかにさとりをひらく教え:実教ー真実)
を分けた、「竪出」「竪超」「横出」「横超」をいいます。

具体的にあてはめると、
「竪出」ー法相宗など
「竪超」ー禅宗、真言宗、天台宗、華厳宗など
「横出」ー要門(十九願)、真門(二十願)
「横超」ー弘願(十八願)
となります。

聖道門の中にも浄土門の中にも方便の教え(権教)と真実の教え(実教)がある(二権二実)ということになります。しかし、聖道門の頓教(竪超)は理論上は即身成仏が可能ですが、実際は永い時間の修行が必要ですので、漸教とならざるをえません。

こうして、真実一乗の法門は弘願法(十八願)のみになります。「竪出」「竪超」「横出」が方便であり、「横超」のみが真実です(三権一実)。それを、上のお言葉では、

横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。

と教えられています。

したがって、聖道門、要門、真門は決してそこにとどまってはいけない権仮方便の教説であるから、速やかに仏の本意を知って横超弘願の一乗に転入しなければならないと勧められているのです。その意を、親鸞聖人は、『浄土和讃・大経讃』に、

念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ

聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて
諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ


と詠まれました。

本願一乗の法とは、その法門だけで一切のものが速やかに究極のさとりに至ることのできる法門です。そのような最高の成仏道ですから、親鸞聖人は本願一乗(十八願)一つを勧めていかれました。

親鸞聖人から、十八願が真実であることを教えて頂き、十八願によって救われたいと願う人にとっては、竪出・竪超・横出は不要な法門です。そのような人が、蓮如上人が『御文章』にしばしば仰っている宿善の機です。
反対に、十八願による往生を願わない人にとって必要なのが、権仮方便である竪出・竪超・横出の教えなのです。無宿善の機には権仮方便が必要です。

以上を踏まえて、『一念多念証文』の

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

を読まれれば、本願一乗が真実の法門で、それ以外の法門(八万四千の法門)は権仮方便の法門であるという法門の関係を教えられたお言葉であることが分かると思います。

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Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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