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根拠のある話と根拠のない話

親鸞会の会員さんは、高森会長に間違いないと堅く堅く信じています。それが、信じているだけ、思い込んでいるだけということに気がつかないくらいの堅い信心です。

「高森先生がそのように言われたのだからそうなのだ」と覚え込み、それを他人にも話をしています。決して、理解しているのではありません。覚え込んでいるだけです。覚えたことをそのまま他人に話をしているだけです。ですから、会員さんの話は、まるでテープレコーダーのように皆同じです。

自らが聞いていること、また話していることが、親鸞聖人や善知識方のお言葉に合致しているのかどうか自分で判断することはありません。自分で勝手にお聖教を解釈してはいけないということが徹底されているからです。また、善知識方のお言葉に触れるのはせいぜい『教学聖典』に掲載されているお言葉だけでは、他は何も知りません。お聖教を通して拝読することをしないからです。

そのような会員さんですが、親鸞会や高森会長が批判されているということを聞く機会もあります。しかし、批判の内容を聞かされると同時に、それに対する模範回答も与えられます。そうすると、模範回答を覚え込むのみで、自ら思考することはありません。だから、本当は何が批判されていて、それについてお聖教上ではどのように教えられているのかを知ることはありません。

しかし、高森会長の説く教えが、親鸞聖人の教えに合致しているかどうかは、お聖教上のお言葉によってしか判定できません。どうしても、自分でお聖教を拝読する必要があるのです。

(1)まず、高森会長の説くことに対応するお聖教上のお言葉が存在するのかどうかが大事です。お聖教上のお言葉が存在しなければ、それは「高森会長の教え」であって、親鸞聖人の教えではありません。
(2)次に、高森会長の説くことに対応するお聖教上のお言葉が提示されている場合、その意味が正しく説明されているかどうかが問題になります。これには、提示されたお言葉を前後も含めて拝読し、解釈が妥当かどうかを検討する必要があります。高森会長が意味を誤って説明しているならば、それも「高森会長の教え」であって、親鸞聖人の教えではありません。

なぜこんな当然なことを書くのかと思われる方もあるかもしれませんが、親鸞会の会員さんの中には「根拠のある話」と「根拠のない話」の区別がついていない人がいるように感じられるので、このようなまわりくどいことを今回の記事では書いています。

簡単な例を挙げて説明していきます。

親鸞聖人の教えは信心為本の教え」と聞いたとします。それに対応するお聖教上のお言葉は何かといえば、『御文章5帖目10通』の
聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ。
などがすぐに思いつくことでしょう。

では、「親鸞聖人の教えは平生業成の教え」の根拠は何かといえば、 『御文章1帖目4通』の
 そもそも、親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして、来迎をも執せられ候はぬよし、承りおよび候ふは、いかがはんべるべきや。その平生業成と申すことも、不来迎なんどの義をも、さらに存知せず。くはしく聴聞つかまつりたく候ふ。
 答へていはく、まことにこの不審もつとももつて一流の肝要とおぼえ候ふ。 おほよそ当家には、一念発起平生業成と談じて、平生に弥陀如来の本願のわれらをたすけたまふことわりをききひらくことは、宿善の開発によるがゆゑなりとこころえてのちは、わがちからにてはなかりけり、仏智他力のさづけによりて、本願の由来を存知するものなりとこころうるが、すなはち平生業成の義なり。されば平生業成といふは、いまのことわりをききひらきて、往生治定とおもひ定むる位を、一念発起住正定聚とも、平生業成とも、即得往生住不退転ともいふなり。

などが挙げられます。

当ブログでは、特に「親鸞聖人の教えは他力回向の教え」であることを基軸にして、親鸞会教義の誤りを指摘し続けています。この「親鸞聖人の教えは他力回向の教え」に対応するお聖教上のお言葉として、存覚上人が『教行信証』を解釈された『六要鈔』の
今家特に如来他力回向の義を立つること、専らこの文に依るなり。
などが挙げられます。

以上のように、「親鸞聖人の教えは信心為本の教え」、「親鸞聖人の教えは平生業成の教え」、「親鸞聖人の教えは他力回向の教え」は「根拠のある話」です。

さて、高森会長は、「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」といい、これを大前提として話を展開します。「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」に対応するお聖教上のお言葉は存在するのでしょうか?
三願転入の御文は当然ありますが、今問題にしているのは「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」ということを示すお言葉です。
真宗聖典をくまなく調べてみれば分かりますが、そんなお言葉はどこにも存在しません。
結局、高森会長は、「根拠のない話」を大前提にしているということです。それは「高森会長の教え」であって、親鸞聖人の教えではないのです。

(なお、「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」は、大沼法龍師の著書の中の「大沼は三願転入を根基として布教している居るのだ」をもとにしていることは飛雲で既に指摘されています。)

3年前の『顕真』2月号の巻頭言には、高森会長から会員に向けた以下のメッセージが掲載されていました。

●人間の仕分けと逆謗の一機

阿弥陀仏が五劫思惟の徹底調査の末、
全人類(十方衆生)は助かる縁なき逆謗の一機と診断なされ、
その逆謗を助ける十八願を建てられたのだが、
自惚れ強い人類は自分が助かる縁なき極悪人とはユメにも思っていないのだ。

そんな我々を見抜いた弥陀が、自惚れ心を打ち砕き真実の機を知らせるために
建てられたのが十九願である、と親鸞聖人は教えられる。
その弥陀の十九の願意を開顕するために、
全人類(十方衆生)をはじめは八十一種類(八十一品)に分けられた釈迦が
『観無量寿経』では、「定善の一機」と「散善の九機」(上品上生、上品中生、
上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生)
の十種類に要約されている。
『大無量寿経』にはそれをまた、上輩者・中輩者・下輩者の三種類にまとめ、
遂には弥陀が見抜いた逆謗の一機を知らせるために
種々に方便なされているのが一切経である。

自惚れ強い人類に頭から「お前たちは、みな助かる縁なき逆謗だよ」と
どれだけ教えても聞く耳全く持たないから、
全人類を八十一種類に分類したり九種類になされたり三種類に分けたりされたのは、 十方衆生は逆謗の一機である真実を知らせるための、
釈迦弥陀の善巧方便の人間の仕分けであったのである。


この文章を読んだ会員さんは、これが親鸞聖人の教えかどうかについて何の疑問を抱かないかもしれません。親鸞会では、「親鸞聖人の教え」として繰り返し教え込まれていることだからです。しかし、ここで聖教上の根拠を全く挙げずに書かれていることに注意しなければならないのです。

・「弥陀が全人類を逆謗の一機と見抜かれた」に対応するお聖教上のお言葉は?
・「自惚れ心を打ち砕き真実の機を知らせるために建てられたのが十九願である」と教えられた親鸞聖人のお言葉は?
・「全人類は助かる縁なき逆謗だ」に対応するお聖教上のお言葉は?
・「全人類を八十一種類に分類したり九種類になされたり三種類に分けたりされたのは、 十方衆生は逆謗の一機である真実を知らせるための釈迦弥陀の善巧方便」であることを教えられたお聖教上のお言葉は?


以上の4点について、
(1)対応するお聖教上のお言葉が存在するのか?
(2)親鸞会で根拠が提示されている場合、前後も含めて読んだとき、その解釈は正しいのか?

を検討してみてください。当ブログをはじめ、多くのブログで既に何度も取り上げられていることばかりです。
検討すれば、今回取り上げた『顕真』巻頭言の内容は親鸞会の会員ならば何度も聞かされていることだと思いますが、実は「根拠のない話」で、「親鸞聖人の教え」でないことが分かります。つまり、会員の皆さんは「高森会長の教え」を聞かされているだけなのです。

(なお、上記の巻頭言の文章は、「高森会長の教え」「親鸞会の教え」を貫く重要な教義ですが、以上の4点だけがおかしいのではなく、他にもおかしな点・問題点があります。)

会員の皆様が、一刻もはやく、「高森会長の教え」を離れ、正しい親鸞聖人の教えを知り、弥陀の本願に遇われることを願っております。
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他力回向にも平生業成にも反する能登会館落慶祝賀会での高森会長の話

能登会館落慶式(7月29日)の翌日の祝賀会において、高森会長が話した内容が『顕真9月号』に掲載されていました。その内容が、浄土真宗の他力回向のご法義を根本から破壊する邪義でしたので、以下に引用し、誤りを指摘したいと思います(顕真9月号 20、21頁より引用)。

質問 能登会館にお越しくださって感激しています。このように、各地にお越しくださる心をお聞かせください。

 皆さんの尊い布施によって能登会館が造られました。いろいろなご苦労があったと思います。
 布施とは、お釈迦さまが説かれた諸善の一つです。たくさんの善を六つにまとめられた六度万行の、最初に教えられているのが布施行です。
 煩悩具足の私たちに、布施はなかなかできることではありません。それなのに、させていただけたのは、無上仏のお働き以外にありません。
 間違いなく無上仏に動かされて、皆さんは尊い布施をなされた。それを見せていただき、私もぜひ参加させていただきたいと、参りました。
 お釈迦さまの時代、祇園精舎が造られました。給孤独長者が寄進したものです。その尊い布施を、釈尊は大変喜ばれ、そこで幾度もご説法をなされています。
 このたびは、皆さんが布施された。そういうことをさせられた無上仏の偉大なお力に、私も、動かされたに違いありません。
 無上仏は、皆さんがなされたことをよくご存じです。やがて必ず、無上仏からのご褒美があることでしょう。この会館で、真剣に聞法し、無上の宝を獲得してもらいたいと思います。

(文責記者)


問題なのは、最後の段落です。

「阿弥陀仏は皆さんが布施をされたのをよくご存知で、やがて必ず阿弥陀仏からのご褒美がある」という意味のことが書かれています。これは、私が行った行為に応じて阿弥陀仏の救いがえられるという考えであり、他力回向に真っ向から反する邪義です。

また、「やがて必ず、無上仏からのご褒美がある」と書かれていることは、「平生業成」に反しています。救われるのは「今」ではなくて「やがて(未来)」なのですから。こんなことを聞かされている会員さんは、「がんばって生きていれば、きっとそのうちいいことあるよ」(『なぜ生きる』32頁)と同じ思考に陥ってしまっていて、変わりばえのしない求道生活が続いているだけなのではないでしょうか?

浄土真宗とは、阿弥陀仏の第18願の法義であり、それは他力回向の教えであって、私の側から阿弥陀仏に差し向けるものは何もないことをこのブログでは再三再四書いてきました。他力回向の浄土真宗の教えが自力回向の教えになり、平生業成の親鸞聖人の教えが「やがて」助かる教えになってしまっているのが、親鸞会で説かれている教えです。浄土真宗を名乗りながら、肝心要の18願について反することばかりが説かれている実態に現役会員の皆さまには早く気がついて頂きたいと思います。

『顕真』1月号法友通信を読む

昨年の10月31日のテレビ座談会では、「弥陀の呼び声」が、いつ、どんな人に届くのかという話があったようです。今回は『顕真』1月号に掲載されている法友通信をテキストにして親鸞会教義の誤りを指摘します。

「水火の難に堕することを畏れざれ」という弥陀の呼び声の聞こえない理由がよく分かりました。地獄へ堕ちるのではなかろうか……と自分の罪悪を畏れている人にこそ届くのであって、そうでない者には聞こえないのです。
 では、どうすれば、悪を畏れる心が起きるのか。それは、教えを聞き、実行しなければならないと教えていただきました。
 救われた一念で本願に疑い晴れ、地獄一定の自己と極楽一定の自己が同時に知らされるのだと分かりました。(26、27頁より引用)


この人の感想から、弥陀の呼び声を聞くには「自己の罪悪に畏れる心がなければならない」と思いこまされてしまっていることが読み取れます。これは、親鸞会の会員さんのほとんどが持っている思いだと思います。私も会員時代そうでした。

しかし、この心は、まず「自分の罪悪を畏れなければならない」と、無条件の弥陀の救いに条件をつけ、救いを拒絶してしまっている心です。また、このような理解ですと、「自分の罪悪」だけに心が向き、私を間違いなく助けて下さる法は完全に抜け落ちてしまいます。

今述べたような親鸞会教義とは反対に、蓮如上人は、しばしば「自己の罪悪を問題にするな」と教えられています。そのように教えられた『御文章』をいくつか紹介します。引用したお言葉の赤字に注目してください。

そもそも、当流の他力信心のおもむきと申すは、あながちにわが身の罪のふかきにもこころをかけず、ただ阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、かかる十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人までも、みなたすけたまへる不思議の誓願力ぞとふかく信じて、さらに一念も本願を疑ふこころなければ、かたじけなくもその心を如来のよくしろしめして、すでに行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまふなり。このいはれをもつて仏心と凡心と一体になるといへるはこのこころなり。(御文章2帖目10通)

これによりて、この仏をばなにとたのみ、なにとこころをももちてかたすけたまふべきぞといふに、それわが身の罪のふかきことをばうちおきて、ただかの阿弥陀仏をふたごころなく一向にたのみまゐらせて、一念も疑ふ心なくは、かならずたすけたまふべし。(御文章3帖目1通)

それ在家止住のやから一生造悪のものも、ただわが身の罪のふかきには目をかけずして、それ弥陀如来の本願と申すはかかるあさましき機を本とすくひまします不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、他力の信心といふことを一つこころうべし。(御文章3帖目5通)

さてわが身の罪のふかきことをばうちすてて、弥陀にまかせまゐらせて、ただ一心に弥陀如来後生たすけたまへとたのみまうさば、その身をよくしろしめして、たすけたまふべきこと疑あるべからず。たとへば十人ありとも百人ありとも、みなことごとく極楽に往生すべきこと、さらにその疑ふこころつゆほどももつべからず。(御文章5帖目14通)

当流聖人(親鸞)のすすめまします安心といふは、なにのやうもなく、まづわが身のあさましき罪のふかきことをばうちすてて、もろもろの雑行雑修のこころをさしおきて、一心に阿弥陀如来後生たすけたまへと、一念にふかくたのみたてまつらんものをば、たとへば十人は十人百人は百人ながら、みなもらさずたすけたまふべし。これさらに疑ふべからざるものなり。かやうによくこころえたる人を信心の行者といふなり。(御文章5帖目18通)


「あながちにわが身の罪のふかきにもこころをかけず」「わが身の罪のふかきことをばうちおきて」「ただわが身の罪のふかきには目をかけずして」「わが身の罪のふかきことをばうちすてて」「まづわが身のあさましき罪のふかきことをばうちすてて」、弥陀におまかせしなさいと繰り返し教えられています。我が機、自己の罪悪に向くのではないのです。私を助けて下さる法、阿弥陀仏におまかせすることばかりを蓮如上人教えられているのです。

以上のことから、蓮如上人は、親鸞会で教えられていることとは真逆のことを教えられていることがお分かり頂けると思います。

『御文章』には「まづわが身は十悪・五逆、五障・三従のいたづらものなりとふかくおもひつめて」などと、自己の罪悪を問題にせよとも受け取れるお言葉もあるではないか?』という意見もあるでしょうから、それについても述べておきます。今、引用したお言葉は『御文章2帖目15通』に出てくるものです。前後を読みますと、

それ当流の安心のすがたはいかんぞなれば、まづわが身は十悪・五逆、五障・三従のいたづらものなりとふかくおもひつめて、そのうへにおもふべきやうは、かかるあさましき機を本とたすけたまへる弥陀如来の不思議の本願力なりとふかく信じたてまつりて、すこしも疑心なければ、かならず弥陀は摂取したまふべし。このこころこそ、すなはち他力真実の信心をえたるすがたとはいふべきなり。

となります。ここは、「それ当流の安心のすがたはいかんぞなれば」と始まり、「すなはち他力真実の信心をえたるすがたとはいふべきなり」で結ばれている文章です。つまり、全体としては他力真実の信心のすがたを教えられた文章であり、他力の信心(二種深信)を
・「まづわが身は十悪・五逆、五障・三従のいたづらものなりとふかくおもひつめて」(機の深信)
・「そのうへにおもふべきやうは、かかるあさましき機を本とたすけたまへる弥陀如来の不思議の本願力なりとふかく信じたてまつりて」(法の深信)
と機法二種に開いて教えられているのです。決して、自己の罪悪を畏れなければならないと教えられたものではありません、そして、2帖目15通は次のように続きます。

かくのごときの信心を、一念とらんずることはさらになにのやうもいらず。あら、こころえやすの他力の信心や、あら、行じやすの名号や。しかればこの信心をとるといふも別のことにはあらず、南無阿弥陀仏の六つの字をこころえわけたるが、すなはち他力信心の体なり。

このような他力の信心をとるのには「さらになにのやうもいらず」と教えられているように、「私の側の造作は何も要しない」のです。「教えを聞き、実行しなければならない」と説くのは、私の側の造作を要すると教えていることですから、これまた蓮如上人と正反対です。

衆生の側の造作を何も要しない本願力回向の信心ですから、「こころえやすの他力の信心」と蓮如上人は仰せです。よって、無条件の救いといわれるのです。ところが、「教えを聞き、実行しなければならない」と自分の法から如来に向かっていって信心を得ようとすると、永久に信心をうることは出来ません。先手の法を拒絶することになるのです。私の側から進んでいって獲得できる信心ではないので、「難信」と親鸞聖人は教えられました。

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。(信文類)

先手の南無阿弥陀仏を計らいなく聞き受けている状態が信心です。先手の法(南無阿弥陀仏)を聞くところに、自力心は否定され、残るのは南無阿弥陀仏だけです。ゆえに、他力の信心といっても南無阿弥陀仏の六字の他にありません。「しかればこの信心をとるといふも別のことにはあらず、南無阿弥陀仏の六つの字をこころえわけたるが、すなはち他力信心の体なり」と蓮如上人は教えられています。

最近、繰り返し書いていることは、親鸞会では「仏願の生起・本末(南無阿弥陀仏の六字の謂)」が、正しく説かれていないということです。

そして、『信文類』に「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」と教えられているように、仏願の生起本末を疑いなく聞き受けている状態が信心(二種深信)ですから、「仏願の生起・本末」を正しく説けない人は、「二種深信」も間違って説くことになります。「救われた一念で本願に疑い晴れ、地獄一定の自己と極楽一定の自己が同時に知らされる」という会員さんの感想も、高森会長の二種深信の誤解に基づく誤りですが、この件については多くのブログで取り上げられているので今回は省略します。

「自己の罪悪を問題にするな」という蓮如上人に反し「自己の罪悪を畏れなければならない」と説き、無条件の救いに反して「教えを聞いて実行しなければならないことがある」「自分の罪悪を畏れなければならない」と条件をつけてしまうとんでもない間違った教えを説いているのが親鸞会であると知っていただければ思います。

親鸞会の教義はまさに三業派と共通する教え(コメント欄より)

前回の記事、『顕真』10月号『御文章2帖目8通』の意訳を読むで引用した
阿弥陀仏は、「崇高な願いをかかげ、実現できる準備を完了されている」と教えていただきました。ますます、「では、どうすればよいのか」という思いになります。
という会員さんの感想に関連して、Rudel様、広島の名無し様よりコメントを頂きましたので、紹介したいと思います。

[163]
>ますます、「では、どうすればよいのか」という思いになります。

聞法者の罪福心をつのるのみで、弥陀をたのむ(信順する)という事を教えない、悪い説法と言う他ないですね。
こちらの「どうすればよいのか」には一切用事はないのに。

なぜ御文章には端的に「自力を捨てて、助けてくださる阿弥陀如来に信順せよ」としか教えられていないのか。会員さんには一度よく考えていただきたいと思いますね。
2011-01-20 06:34 Rudel URL 編集

[164] 捧げ物が肝要?
「どうすればよいのかという思い」が会員さんの心に生じた時、親鸞会講師は勇躍してこう言うでしょう。「それには善です。財施です。破邪顕正です」と。と言っても、これは某アニメ第4部に出てきた「捧げ物じゃ~」を上品に言い換えただけです。
2011-01-20 21:45 広島の名無し URL 編集

[165] 追伸
名号願力の衆生に対する働き掛けを否定して、「どうすればよいのか」という、衆生の行為に問題を持っていくあたり、実にS会らしい(会長らしい)解釈ですよね。

S会は、三業惑乱のビデオを造ったり公式サイトに取り上げてますけど、功存師の『願生帰命弁』を読むと、「様々の事処諸縁に隔てられて、三業を揃えてたのめない者は、必ずしも三業を用いよと言うわけではない」と書かれており、三業派の主張の本質は「三業をそろえて云々」ではなく、実は
「タノムは希願請求である」
「衆生の側からの何らかの行為(意業含む)が獲信に関わる」
という二点なんですよね。

つまり、S会の教義こそ、まさに三業派と共通する教えなんですよね

会長は「タノムはお願いという意味ではなく、あてにする、うちまかせるという意味である」とは説明するけども、その一方で本派に対して
「本願寺は後生の一大事とは往生の意味だというが、ではなぜ領解文には『一大事の後生おん助け候えとたのみ』とあるのか」などというトンチンカンなツッコミをしてますからねぇ…(つまり、会長は「地獄に堕ちてしまうのを助けて下さい」と解釈している。これだと許諾ではなく希願請求になってしまう)
会長の所説には、とんでもない自己矛盾があります。

先手の本願(阿弥陀様の『助けるぞよ、引き受けたぞ』の勅命)があってこそ、その仰せに「お望み通りお助けになってください」とうちまかせる、あてにするという事があるわけですけど、会長の話には先手の本願という事が一切出て来ず、タノムとはどなたに何をまかせるのかという、肝心の「タノム」の内容を説いてないですよね。

S会の説く教えだと、聞法者は
地獄行きの自分と知らされるという行為の結果として、阿弥陀様が助けると申し出てくださる→それによって、何だかよくわからんがおまかせできる

という神秘体験のようにしか受け取れないですね…

まぁ、あのビデオの制作意図は結局「正意の安心を明らかにする」という所にあるのではなく、「ホンガンジは十劫安心(無帰命安心)だ!」という、会員さんに対する印象操作でしかありませんからね…
2011-01-21 08:25 Rudel URL 編集


Rudel様のコメントの中に「タノム」「タスケタマへ」ということが書かれているので、それについて思うところを述べます。

親鸞会では「タスケタマへ」という言葉の意味の説明が全くなされませんので、『領解文』の「われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ」を正しく理解することができていません。蓮如上人が使われている「タスケタマへ」には、こちらからお願いするという希願請求の意味は全くありません。阿弥陀仏の「そのまま助けるぞ」の先手の勅命に対し、仰せのままに受け入れた許諾の意味です。つまり、「タノム」と同義であり、無疑信順の意味なのです。

前回の記事の最後にも書きましたが、南無阿弥陀仏が先手で私が後手ということが大事です。反対に、私が先手になってしまうと「タスケタマへ」は請求の意味になってしまい、先手の法を拒絶することになってしまいます。

蓮如上人は「タノム」の内容を、「後生たすけたまえと弥陀をたのめ」とお示しになられました。如来の先手の勅命を仰せのままに受け入れた心相を表わされたお言葉が、「後生たすけたまえと弥陀をたのめ」なのです。『御一代記聞書』に、

聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせられ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。

とあるように、このお言葉によって蓮如上人は御再興の上人と尊敬されているのです。それほど重要なお言葉の意味を正しく説いていないのが親鸞会(高森会長)だということです。

Rudel様のコメントの中の最後に、

S会の説く教えだと、聞法者は
地獄行きの自分と知らされるという行為の結果として、阿弥陀様が助けると申し出てくださる
→それによって、何だかよくわからんがおまかせできる


と書かれていますが、親鸞会教義をよくあらわしていると思います。このような会員の思考が、『顕真』1月号の法友通信によくあらわれているので、次回の記事で取り上げたいと思います。

『顕真』10月号『御文章2帖目8通』の意訳を読む

親鸞会の法話などで最も多く提示される根拠は『御文章2帖目8通』だと思います。その意訳が『顕真』平成22年10月号に掲載されていたのですが、ちょっと違和感がある訳でした。まず、その部分の引用です。

【夫、十悪・五逆の罪人も、(乃至)、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。
 然れば、爰に弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、(乃至)、弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」という超世の大願を発して、われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、無上の誓願を発して、已に阿弥陀仏と成りましましけり。この如来を一筋にたのみたてまつらずば、末代の凡夫、極楽に往生する道、二も三も、有るべからざるものなり】
(御文章)

(意訳)
「すべての人は、大宇宙の一切の仏方から『救い難き者』と見捨てられた者である。その我々を、阿弥陀如来という大宇宙の仏方の師匠が、ただお一人『私が助けよう』と立ち上がられ、崇高な願いをかかげ、実現できる準備を完了されている。
 だからこの阿弥陀如来の救いによらなければ、我々の後生の一大事助かる道は、二つとないのである」
(12、13頁より引用)


どこに違和感を持ったのかというと、「ただお一人『私が助けよう』と立ち上がられ、崇高な願いをかかげ、実現できる準備を完了されている」の部分です。

「準備を完了されている」と聞くと「本番はまだ先のこと」という印象をどうしても受けてしまいます。「会議の準備は完了している」という場合、会議本番は先のことです。また、「運動会の準備は完了している」と言ったら、運動会本番はまだ先のことです。同じように、「助けようという願いを実現できる準備を完了されている」というと、救いが実現されるのは先のことと受け取る人も出てくるかもしれません。

さらには、「阿弥陀仏が準備を完了されている」と聞くと、準備だけが完了しているのですから、そこに何かを足さなければ願いが実現されないと思う人もいるかもしれません。例えば、「自己の罪悪を知らねばならない」とか、「後生に驚きが立たなければ」とか、「私の方では何をすればよいのですか?」などと思う人が出てくる可能性もあります。

この『顕真』の記事を読んだ会員さんの感想が『顕真』平成22年11月号に掲載されています。

後生の一大事、どうすれば解決できるのか。釈迦も、親鸞聖人も、蓮如上人も、阿弥陀仏しか解決できる仏はない、と仰せです。
 阿弥陀仏は、「崇高な願いをかかげ、実現できる準備を完了されている」と教えていただきました。ますます、「では、どうすればよいのか」という思いになります。
 あっという間に、ここまで、お連れいただきました。釈迦一代のご苦労を収められた1章と拝さずにおれません。
(15頁より引用)


実際、この会員さんは「ますます、では、どうすればよいのかという思いに」させられてしまっているのです。そして、この感想を読まされた他の会員さんも「私はどうすればよいのか?」という思いにさせられてしまうことでしょう。

会員さんがこのような思考に陥ってしまうもとは、『御文章2帖目8通』の「已に阿弥陀仏と成りましましけり(すでに阿弥陀仏になられた)」ということがどんなことを意味するのかについて知らないことにあります。法蔵菩薩が阿弥陀仏になられたことは、『御文章4帖目8通』には、次のように教えられています。

阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。

ここで、阿弥陀仏が仏になられたすがたこそ、「いまの南無阿弥陀仏」であると教えられています。「いまの南無阿弥陀仏」ですから、未来のことではありません。すなわち、すでに南無阿弥陀仏となって、今、ここにいる私の上にはたらいて下さっているのです。「我をたのめ(南無)必ず助ける(阿弥陀仏)」の招喚の勅命となって、喚びづくめなのです。わが往生の定まりたる証拠がつきつけられているのです。往生の定まりたる証拠がつきつけられているのですから、私の側の「どうすればよいのかという思い」は否定されてしまうのです。

「実現できる準備を完了されている」どころではありません。自らが求めるのに先行して、私を助けて下さる法が与えられているのです。

弥陀のお慈悲を聞いてみりゃ、聞くより先のお助けじゃ(お軽同行)

わしはつまらぬあとばかり(才市同行)


南無阿弥陀仏が先手で、私は後手だとお軽同行も才市同行も言っています。

Appendix

プロフィール

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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