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白道とは、聞法心・聞法善、廃悪修善のこと?????

『顕正新聞』1月1日号、12月の二千畳ご法話の法友通信の中に以下の文章がありました。

 「白道」で示されるのは、聞法心・聞法善であり、廃悪修善も収まると教えていただきました。合点にとどまっていては、信仰は進みません。アニメ弘宣も、翻訳大事業も、与えていただく全ての勝縁は、釈迦弥陀の善巧方便です。 

外部からの教義批判に反省することもなく、「白道」とは、聞法心・聞法善であり、廃悪修善も収まると会の機関紙に掲載する親鸞会。七高僧や親鸞聖人のお言葉に従おうという心は微塵もないようです。

善導大師は二河白道の譬えの中で、白道とは、他力の信心のことであり、如来の願力のことであるとしか説明されていません。まず、白道とは、他力の信心のことであると教えられたお言葉です。

〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。(『信文類』・散善義引文

白道=清浄願往生心であり、清浄願往生心とは『愚禿鈔』(下)
「能生清浄願往生心」といふは、無上の信心、金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。
と教えられているように、
清浄願往生心=無上の信心=金剛の真心=如来回向の信楽
すなわち他力の信心弘願(18願)の信心のことです。

次に、白道とは如来の願力のことだと教えられているのは、二河白道の譬えの合法の文の最後に書かれている次のお言葉です。

仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまふによつて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見て慶喜すること、なんぞ極まらんと喩ふるなり。 (『信文類』・散善義引文

この中に「かの願力の道」とあります。

このように、白道とは、如来の願力のことであり、他力の信心のことであると喩えることで、衆生の信心と如来の願力は一つのものであることを明らかにされているのです。つまり、如来の側からいえば「かならず助ける」という名号願力の白道、衆生の側からいえば「かならず助かる」という信心の白道であって、如来の勅命(南無阿弥陀仏)のほかに信心はないという18願の信心の構造を譬えであらわされているのです。

このような「白道」に聞法心・聞法善の意味などあろうはずもありません。
「廃悪修善も収まる」という意味がないことも、善導大師が『観無量寿経疏』で廃悪修善の語をどこで使われているのかを知れば明白になります。廃悪修善の語は、善導大師の『観無量寿経疏』おいて、要門の散善を説かれる中に出てきます。『玄義分』の序題門に、

娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。
その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。 「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。 「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す。
弘願といふは『大経』(上・意)に説きたまふがごとし。 「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。


とあるのがそれです。ここでは、『観無量寿経』の大意について述べられていますが、釈尊はイダイケ夫人の要請によって要門の法義を説かれ、阿弥陀仏は別意の弘願をあらわされたと仰っています。そして、「要門」=「定散二門」と明らかにされた後、散善を解釈される中に、廃悪修善の語が見えます。

このように釈尊と阿弥陀仏の二尊は要門と弘願という別の法義を説かれたと善導大師は教えられたのですが、この序題門の最後では、

仰ぎておもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎したまふ。 かしこに喚ばひここに遣はす、あに去かざるべけんや。 (『観無量寿経疏』玄義分

と仰っています。このお言葉は、先に挙げた二河白道の譬えの合法のお言葉に対応しており、このことについて譬えで詳説されたのが二河白道の譬えなのです。釈尊は娑婆にあって「きみただ決定してこの道を尋ねて行け」(『信文類』・散善義引文)と発遣し、弥陀は極楽浄土から来迎して「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん」(『信文類』・散善義引文)と招喚されていることを教えられたのが序題門の最後のお言葉です。釈尊の発遣のお言葉の中にある「この道」は、「白道」・「かの願力の道」とイコールですから、如来の願力のことであり、釈尊は弘願(18願)の信心を勧められたことが分かります。弥陀の招喚も当然、弘願(18願)のことです。したがって、ここでは、釈尊も阿弥陀仏も弘願(18願)を説くということで一致しています。

以上を踏まえますと、釈尊が「この道を行け」と勧められたのは、弘願(18願)を勧められたのであって、弘願とは別の法義である要門を顕す中に説かれた「廃悪修善」を勧められたのではないことが分かります。白道に廃悪修善が収まるというのは珍説に過ぎません。

なお、アニメ弘宣も、翻訳大事業も、釈迦弥陀の善巧方便ではありません。
二河白道の譬えでいえば、釈尊の善巧方便とは「決定してこの道を尋ねて行け」という発遣であり、弥陀の善巧方便とは「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ」という招喚の勅命です。

白道とは・・・
 親鸞会:聞法心・聞法善であり、廃悪修善も収まる
 善導大師:他力の信心・如来の願力


度重なる教義批判にはだんまりを決め込み、内に向かっては善知識方のお言葉に反する創作教義を会員に信じ込ませているのが親鸞会です。会員の皆様におかれましては、早く教義の誤りに気が付き、親鸞会を離れ、本当の釈迦弥陀二尊の意に信順して頂きたいと念じております。
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善を説かれたのは・・・(親鸞会:実行させるため、法然聖人:廃せんがため)

最近の顕正新聞を読む機会がありました。法友通信に自分と縁があった人が載っているのを見ると、早くこれらの人達も親鸞会教義の誤りに気がついて、親鸞会から離れてもらいたいと気持ちが起こってきます。私は、親鸞会会員の人が同じ空間に存在することが許されない者という位置づけに親鸞会内部でなっているようですので、こちらから働きかけることはほぼ不可能になってしまっています。そんな会員の人達も、何らかのきっかけでネットを見ることもあるでしょうから、時折、親鸞会教義の誤りについてこのブログに綴っていきたいと思います。

さて、顕正新聞平成24年12月1日号に、以下の文章が掲載されていました。

●善を説くのは実行させるため
 
 当然だが、弥陀も釈迦も善を説かれたのは、善を止めさせるためではない。
 善を実践させるためである。
 孝行を説くのは、孝行させるためであって不孝者になれということではない。
 雑行をやってもいない者に、雑行を捨てよという人はない。タバコ飲まない人に、タバコ飲むなと注意する人がないのと同じである。


善知識方のお言葉を知らない親鸞会会員の人がこれを読めば、その通りだと納得してしまうことだと思います。しかし、善知識方のお言葉を知れば、「善を説くのは実行させるため」という親鸞会の主張は、浄土真宗に反する邪義であることが分かります。

諸善(=諸行)について、親鸞聖人が、本師と仰がれる法然聖人は『選択本願念仏集』で次のように教えられています。

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。(三輩章

諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。(三輩章


諸善(=諸行)を説かれたのは「廃せんがため」と明確に教えられています。また、定散二善について教えられた次のようなお言葉もあります。

定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。(念仏付属章

ここでは、念仏を引き立てるために説かれたのが定散二善であると教えられています。

かつてこれらの『選択集』のお言葉をある会員さんに提示したことがあるのですが、そのとき、その会員さんは、「親鸞聖人が諸行を廃せとか捨てよと仰ったところはどこにもない。諸行を、雑行と言い換えて、雑行を捨てよと親鸞聖人は教えられているのだ」と言ってきました。しかし、このような論難も親鸞聖人の教えを知らないところから出てくるもので、親鸞聖人は、

おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚(道綽)は「万行」(安楽集・下)といひ、導和尚(善導)は「雑行」(散善義)と称す。感禅師(懐感)は「諸行」(群疑論)といへり。信和尚(源信)は感師により、空聖人(源空)は導和尚によりたまふ。(化身土文類

と「諸行」=「万行」=「雑行」であると教えられています。つまり、「雑行を捨てよ」も「諸行を廃せよ」も同じことなのです。

諸行は廃せんがために説く」と教えられた法然聖人から教えを承けられたのが親鸞聖人ですから、当然、親鸞聖人の教えには、親鸞会の説くような「善のすすめ」はありません。親鸞聖人は、『教行信証』に、『選択集』から引文されて次のように教えられています。

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに。(行文類

「聖道門はさしおけよ、雑行はなげうてよ、助業はかたわらにせよ」と教えられて、「正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり」と称名念仏の一行を勧められています。称名念仏の一行を勧められたのは、それが阿弥陀仏が本願において選び取られた行だからです。阿弥陀仏は、私たちを往生させるために、最勝にして至易なる称名念仏の一行を選取され、他の一切の余行は選び捨てられました。その阿弥陀仏の御心に信順し、念仏称えるものは、かならず報土往生できるのです。それが、阿弥陀仏の本願だからです。そのことを、法然・親鸞両聖人は、「称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」と言い切られたのでした。

さて、上で紹介した顕正新聞の言葉には、親鸞会のお決まりの文句である「雑行をやってもいない者に、雑行を捨てよという人はない」が出てきます。そのように親鸞会の人が言ってきたら、親鸞聖人は、上の『行文類』のお言葉の最初に「聖道門はさしおけよ」と言われていますから、「聖道門の修行をやってもいない親鸞会の皆さんは、まず聖道門の修行から始めなければなりませんね」とでも言ってみるのがいいでしょう。

また、「タバコ飲まない人に、タバコ飲むなと注意する人がないのと同じである」とも書いていますが、これも完全に破綻しています。中学校の先生が生徒に向かって「タバコ吸うな」と言うのは、吸っていない生徒にも、陰でこそこそ吸っている生徒にも「吸うな」と言っているのです。この場合「吸うな」と言われている対象は、中学校の生徒全体です。

上で示した『行文類』のお言葉から明らかなように、法然・親鸞両聖人が、「聖道門はさしおけよ、雑行はなげうてよ、助業はかたわらにせよ」と教えられて、称名念仏一行の専修を勧められた対象は、「すみやかに生死を離れんと欲っている」人々です。雑行をやっている者にも、やっていない者にも、すみやかに生死を離れようとおもうならば、雑行をなげうてよと教えられているのです。「雑行をやってもいない者に、雑行を捨てよという人はない」という親鸞会の詭弁に引っかからないようにして下さい。

さらに、「親鸞聖人の教えには善のすすめがない」というと、「善をしなければ善果はかえってきませんよ」と言ってくる親鸞会の会員さんがいますが、これは論点のすり替えです。親鸞聖人の教えの目的は、上の『行文類』のお言葉でいうと、「すみやかに生死を離れる」ことです。「親鸞聖人の教えには善のすすめがない」というのは、「親鸞聖人は、すみやかに生死を離れるために、善をすすめてはおられない」ということです。ここで、「善をしなければ善果はかえってきませんよ」と言い出すのは、日常の生活面のことでしょうから、親鸞聖人の教えの目的から外れた論点のすり替えなのです。

顕正新聞の「善を説くのは実行させるため」の言葉の中には、一言も善知識方のお言葉が出てきません。それどころか、善知識方のお言葉に反することが堂々と書かれているのです。

善を説かれたのは、
  親鸞会:実行させるため
  法然聖人:廃せんがため


親鸞会が、善知識方のお言葉よりも、高森会長の考えを優先させている証拠の一つです。

加茂和上の文章を断章した昭和50年の「顕正新聞」(頂いたコメントより)

ブログ読者の方から情報を頂きました。有り難うございました。
そのまま記事にさせて頂きます。

昭和50年の「顕正新聞」で会長は加茂和上の文章を断章しています。

一心一向とは我々の心ではないのか

○問
 本願寺の加茂仰順という司教が、「『御文章』に『心を一つにして』と申されてあるのは如来のお心一つで助かるということで、こちらの心は幾つあってもよいのである」と書いていますが、これでよいのでしょうか。お尋ねいたします。

○答
 蓮如上人の『御文章』には、
「二心なく弥陀をたのめ」
とか、
「心を一つにして阿弥陀如来をたのみたてまつるべし」
というお言葉が散見されます。
 これは大変大切なことだからです。
 この意味は『御文章』五帖目十九通にも、
「みなみな心を一つにして、阿弥陀仏を深くたのみたてまつるべし。その他には何れの法を信ずというとも、後生の助かるという事、ゆめゆめあるべからず」
と明らかなように、
「阿弥陀如来一仏に心を向け、こんな極悪人を助け給う仏は、阿弥陀如来の他には絶対ないと、心を阿弥陀如来一つになりなさい、それより他に助かる道は絶対にありませんよ」
ということです。

  娘一人にムコ八人

 例えて申しますと、世間には娘一人にムコ八人ということがありますが、そんなときはどの人にしようかと娘の心は千々に分かれます。
 東へ行こうか、西にしようか、南にしようか、北へ行こうかと心は幾つにも乱れます。東の人は男が良いが金がない。西の男は金があるが男がつまらぬ。南は金も男もよいが姑が強く辛そうだ。北に貰って貰おうかと思えば、何もかもよいが血統が気に入らぬ。
 さてどの人にしようかと、迷うているときが二心の状態です。
 それが、いつまでも考えたとて仕方がない。東へ行くことにしようと心を一つに決定したすがたを一心というのです。

  行かず後家に求婚

 また三十歳にもなるのに何処からも貰いに来てくれず、学校の友だちは二人も三人もの子持ちになっているのに、自分は嫁入りもできぬ。
 貰ってくれと催促もできず、広告も出せぬ。派手な着物に若作りして売りものと書いておきたいほどあせっていても、誰一人プロポーズしてくれない。
 行かず後家で一生暮らさにゃならぬのか、と絶望しているところへ近所のおばさんがやって来て、
「どうもあなたの娘さんでなければならぬ、ぜひお貰いしたいと先方たっての頼みです。どうか承知してください」
と、母親に頼んでいるのを隣室で聞いた娘は、
「マァ、嬉しい」
と即座にその人に心が定まったのが、一心になったときのすがたです。

  一向専念のご教示

 これを『御文章』二帖目九通には、
「一心一向というは、阿弥陀仏に於て二仏を並べざる意なり。この故に、人間に於ても、まず主をば一人ならではたのまぬ道理なり。されば『外典』の語に云わく、『忠臣は二君につかえず、貞女は二夫をならべず』といえり」
と、真実の信を求め、真実信心を獲得した仏法者は一心一向であり、阿弥陀如来一仏に向かい、弥陀以外の一切の諸仏・菩薩・諸神に向かう心はないのだ。またあってはならないことを、ねんごろにご教示なされています。
 さらに『御文章』五帖目一通には、
「心を一つにして、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、更に余の方へ心をふらず、一心一向に『仏助けたまえ』と申さん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも、必ず弥陀如来は救いましますべし」
と、諸仏や菩薩に心をふらず、弥陀一仏に向かってこそ助かることができるのだ、明白に教えられています。
 一切の諸仏・菩薩・諸神に捨て果てられた私たちは、このような極悪深重の悪鬼を救い給うのは、阿弥陀如来ばかりであると心を弥陀一仏に向けて進めと、お勧めになったのが、親鸞聖人や蓮如上人の生涯を貫かれたご教化でありました。
 余りにも激しくこれを叫ばれたがために、親鸞聖人は流刑に遭われました。そして、世間の人は一向宗とまでいうようになりました。
 このような真実を踏みにじって、
「こちらの心は幾つあってもよいのだ」
などと公言する者は浄土真宗を殺している仏敵であり、司教ではなくて死教と言わずにはおれないでありませんか。
 かかる百鬼夜行の五濁悪時において、真実を求めぬくことは難中の難事であり、余程の厚い宿善と強い覚悟が必要であることが知らされるばかりではありませんか。
(『顕正新聞』昭和50年11月20日号)

書かれた時期は異なりますが、加茂和上は以下のように書かれています。

こころをひとつにしての意味

そなたの心を一つところに定めよ、そなたの心をよそに向けるな。そうでなければ、われは救わないと申されても仕方がないのに、そなたの心のいかなるときでも、その一々の心をそのままひきうけるぞと仰せられる。
「御文章」に「心を一つにして」と申されてあるのは、如来のお心一つで助かるということである。こちらの心はいくつ有ってもよい、というのである。
私の心に合わせてのお助けである。私は如来にそむきづめで、それでお慈悲に遇わせていただくのである。

『親鸞の世界-信の領解-』永田文昌堂 昭和58年
P333~4

仏教の受け持ちは後生の一大事だというならば、、、

先日の学生大会の演題は「後生の一大事」で、「仏教の受け持ちは後生の一大事」という話があったそうです。
(参考)
『浄土真宗親鸞会 宇治金時にあこがれて』親鸞会館で、後生の一大事について教えて頂きました
『カボチャプリン☆親鸞会講師のわくわく日記』親鸞会のみ明らかに☆
『親鸞会イミズム』親鸞会で知る仏教の受け持ち「後生の一大事」

そういえば、1月の座談会の内容をまとめた顕正新聞2月15日号の記事が、『安心問答』顕正新聞2月は15日号より、「生活に必要なチケット」が必要な理由に書かれていました。

雑毒の善
●地球上のどんな乗り物(JR、バス、飛行機など)にも乗れるが、月(弥陀の浄土)へは行けない。
●多種多様で多い程よい、生活に必要なチケット

真実の善
●月へは行くことができる。
●弥陀から頂く、たった一枚のチケット(南無阿弥陀仏の名号)


蓮如上人の『白骨の御文章』
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。
を高森会長は話していながら、また会員の人は聞いていながら、1月の座談会では仏教の受け持ちである後生の一大事はそっちのけで、「多種多様で多い程よい、生活に必要なチケット」の話を重点的に話していた、聞いていたということです。老少不定の世であるという自覚があったならば、そんなのんきな話ができるはずがありません。

後生の一大事(=往生の一大事)が仏教の受け持ちということが分かれば、「地球上のどんな乗り物にも乗れるが、月(弥陀の浄土)へは行けない」諸善の勧めの話ばかりの座談会を聞いて満足できるはずはありません。月(弥陀の浄土)へ行ける「南無阿弥陀仏の名号」について、聞きたいと思うはずです。

1月の座談会から3月の学生大会まで、ほんの数ヶ月の間のことです。会員の皆様は、毎回毎回の話が一貫していないことに気が付かないのでしょうか?
1回の話のその一部分だけを聞いて、「今日は今まで聞いたことのないことを聞けてよかった」とか「いい話だった」という程度にしか聞いていないとしたら、高森会長の話のおかしさに気が付かないのかもしれません。

仏教の受け持ちは後生の一大事(=往生の一大事)ということに腰を据えて、高森会長の話の全体をしっかり聞いてみて下さい。月(弥陀の浄土)へ行ける「南無阿弥陀仏の名号」についての話とは無関係なことばかりを話していることに気が付くことと思います。

大本営発表を繰り返す親鸞会

『顕正新聞』3月1日号に掲載されているお言葉です。

●教えを説いているだけ

親鸞聖人の教えを説いているだけで、あんなに繁栄するはずがないと思うのが当然。

親鸞聖人の教えを伝えているだけで、あんなに群参するはずがないと思うのも当然。

親鸞聖人の教えを話しているだけで、あんなに金品が集まるはずがないと思うのも当然。

何かあると訝るのは、税務署だけでないのも当然なのだ。だが、知る人ぞ知る親鸞会は、更に親鸞聖人の教え以外説いたことがないのが事実である。


「親鸞会は親鸞聖人の教えをねじ曲げて伝えている」、「親鸞会教義は浄土真宗の破壊である」、「法論から逃げた親鸞会」などの外部からの批難には何ら答えることなく、内部に向けては「親鸞会は親鸞聖人の教えを説いているのだ」ということを繰り返し徹底しています。

何をもって上で繁栄といっているのか分かりませんが、一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはなく候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふの『御一代記聞書』のお言葉と照らし合わせれば、信をとる者が全くといっていいほど現れない親鸞会は、決して繁昌しているとか、繁栄しているとはいえません。仮に人が多く集まることを繁栄といっているとしても、10年・20年以上幹部として活動していた人の退会が続く親鸞会が繁栄しているとは言い難いです。

人が群参しているといっても、二千畳の常時満堂という目標には程遠く、特別な行事のときだけ何とか会場が一杯になっているように見えるというのが、私が退会した1年半程前の状況でした。今はもっと少なくなっているかもしれません。

また、金品が集まるのは、次々と財施を募るからでしょう。1度募っても足りないので、あれこれと名目をつけて、集めているのではないでしょうか?

「繁栄する」も「群参する」も「金品が集まる」も親鸞会の実態を表わしているとは思えません。むしろ、そのような言葉を使うのは、そうなって欲しいという願望のあらわれではないかとさえ思います。


外部の情報に全く触れたことのない人は、上のような高森先生のお言葉を読むと、親鸞会は親鸞聖人の教えを伝えているから繁栄している、人が群参している、金品が集まっていると思いこみ疑うことはないのでしょう。しかし、それは現実を知らされていないからそう思い込んでいるだけです。

反対に、親鸞会外部の情報に触れた人の中から、親鸞会の組織面や教義面のおかしさに気がつき、退会する人が相次いでいます。

それにしても、外部の情報に触れながら、なおも親鸞会に止まり続ける人は、本当に親鸞会が繁栄している、人が群参している、金品が集まっている、そして親鸞聖人の教えを正しく伝えていると思っているのでしょうか?
そのような人にこそ、現実をありのままに見つめて頂きたいと願います。

外部からの批判に全く答えることの出来ない親鸞会。
内部に向けて大本営発表を繰り返すだけ。
もはや末期症状と感じます。

Appendix

プロフィール

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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