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私がこの先生についていってもダメだと感じた「高森先生のお言葉」

以前の記事『多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない』で少し書きましたが、平成20年3月に『清森問答』「私の白道」が掲載され始めると、その後、講師部員からときどき伝えられる「高森先生のお言葉」に明らかにそれを意識したと思われるものが出てきました。

その中で、この先生についていってもダメなのではないかと感じたのが、平成20年5月25日付けの次の「高森先生のお言葉」です(当時電話で聞きながら手帳に筆記した文章を打ち込んだので、一部表記に誤りがあるかもしれません)。

●そらごとたわごと真あることなし

閉じた写真をバッチリ写真に修正したり、居なかった人を隣に座わらせる合成写真も自由自在のご時勢である。ネット上などは言うに及ばず、斬り捨てゴメンの言いたい放題、書きたい放題、覆面殺人鬼の横行だ。まさに無法地帯そのもの。五濁悪世である。便利というか重宝というべきか、怖るべし、犯罪激増も頷ける。文章の改ざんや捏造など問題にもならぬわけだ。そんな世情を反映してか誰も真相を知らないことをいいことに、半世紀以上前のことまで引っぱり出して何を言おうと書こうと勝手次第無責任放言が多すぎる。


これをメモしながら、高森先生と華光会との関係、華光会時代に「獲信の記録」という本を高森先生が出版していたことなどを、私の白道で書かれたことに対しての言葉だと思いました。

そして、これが、
『まかぬ種は生えぬ。 刈り取らねばならない一切のものは自分の撒いたものばかり。』
『因果の道理を深く信ずれば、順境のときは感謝し、ますます努力せずにおれなくなる。逆境のときは懺悔となり、反省になる』
と会員の前で、因果の道理を説いている「高森先生のお言葉」なのかと思いました。

「半世紀以上前のことまで」と言っているが、自分の行為の報いではないのか?
高森先生は因果の道理を説いてはいるが、はたして信じているのだろうか?
ネット上で言われていることは、改ざんや捏造といった類いのものではなく、信憑性の高い情報もかなりあるのではないか?
この先生は自分が信じてもいないことを説いているのではないか?
この先生についていってもダメなのではないか?
などと感じました。

しかし、「ダメなのではないか?」と思う一方、「それでも高森先生は正しいのでは?」という思いもありました。
今まで自分のやってきたことが間違いだったとは認めたくないという気持ちもありました。そのため、様々なネット情報に触れていながらも、まだ親鸞会のことを冷静に見つめることができていなかったのだと思います。

そして、私はそこから退会するまで1年以上かかってしまいました。

さよなら親鸞会『勇気を出して』に書かれているように、退会するに当たり最後に必要なのは「勇気」だと思います。

人生の多くの時間、多くのお金を親鸞会の活動に費やしてしまったことが無駄になってしまうと思って退会を決断できない人もいるかもしれません。しかし、教義批判にも答えられず、組織運営もおかしい団体にいつまでも在籍し続けることは、それこそ無駄ではないでしょうか?

最近の親鸞会の状況として、一度に5000個の弁当を製造できる工場を造ろうとしていることや同朋の里第3期工事後期御報謝というものがあることなどが聞こえてきます。
本当にそんなものが必要だと会員の皆さんは思っているのですか?
なぜ、こんなに財施が度重なるのか疑問に思われないのでしょうか?
何らかの名目で財施を募ったならば、それがどのように使われたのかの報告があってしかるべきです。しかし、それが為されたということは一向に聞きません。まさに無法地帯そのものではないでしょうか?

親鸞会の教義は、当ブログも含め、当ブログのリンク先のブログなど複数のブログで批判されています。親鸞会の教義は、親鸞聖人の教えとは全く異なるものです。当ブログで何度も指摘しているように、親鸞会の説いていることは、親鸞聖人の教えられていることと正反対のことが多々あります(今後も指摘を続けていきます)。

「親鸞聖人の教えの一枚看板は平生業成」と会員の皆さまは聞いていることでしょう。そして、平生業成とは「いま救われる」ということだと聞いていることだと思います。現在の親鸞会では、本当に「いま救われる」教えが説かれていますか?
冷静に教えられていることを見つめてみて下さい。

「本当に高森先生についていって大丈夫なのか?」と会員の皆さま一人一人が、親鸞会の運営面からでも、教義面からでもいいと思いますので、様々なインターネット上の批判と向き合って冷静に判断していただきたいと思います。そして、本当の親鸞聖人の教えを求めたいならば、親鸞会・高森会長を客観的に見る勇気、親鸞会を離れ出る勇気をもって、大きな一歩を踏み出して頂きたいと念じております。
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善知識 なぜか記した 体験記

「善知識 なぜか記さぬ 体験記」という言葉をあるブログでみました。

このブログを見ている人のほとんどの人はご存知でしょうが、最近になって親鸞会批判ブログを見はじめたという方もあるようですので、一部の人に善知識と言われている高森顕徹氏がなぜか記した体験記を引用します。

浄土真宗親鸞会ナビ 辞書より引用

親鸞会発行『列島燃ゆ』には「仏教の小冊子の中に、高森先生の獲信の体験を書かれた原稿投書を読まれ」という記述があるが、この「仏教の小冊子」とは高森氏が獲信体験当時に属していた華光会が発行していた同人誌のことである。

高森氏はそこに次のような獲信体験談を投稿していた。
「生れ落ちるより仏教王国に育ち、なかんずく真宗寺院に生まれさせて戴いたことを、私は、いかなる前世の因縁であってかしれないが、生まれて十数年の後の今頃になって初めて嬉しさと不思議さとに驚き、私自身私の最上の幸福を感じるのであります。否、感じさせて頂いたと言いたいのであります。
小学生時代、進んで中学生当時は、親の言うことも聞かず、それに反対・敵対することをもって英雄豪傑のごとき考えを持ち、尊くも勿体ない如来の存在をもこの汚口にて否定し、永劫の長い間の声をからしての真実の親の叫び声にも耳を傾けず、今日考える時、実に危険きわまる思想を持った哀れな私であったことを、深く恥じるのであります。
中学生当時は戦局ますます深刻苛烈なる状態となり、指導者等の青年奮起の掛け声におどらされて、青年の一時的情熱に動かされ、学業なかばに予科練を志願し、後生真っ暗なそのまま、形式的にとらわれ雄躍入隊、実に今日から考えて滅茶苦茶精神を出し猪的真突自殺的盲進、まことに身のひきしまる、真に永劫に苦しみ、親を悲しませることを敢えて考えることもなく、今日も明日もと特攻隊特攻隊と猛練習を重ね、出て行く未来に目もくれず、なんと無茶な気違いじみた所作をやっていたのであろう。反省するたびに、私の体は何かしら縄にでも縛られ、だんだん締め付けられるような、実に苦しい思いを感じ、その当時を思い浮かべることができなくなるのであります。
幸いにも如来の大悲摂化の願心は、この可愛そうな、情けない、仏までののしったところの極悪人のこの私を、どうかして救うてやろうと、終戦の詔勅となり、ここに復員を許され、はからずも真理仏教の扉を打たせていただいたのでありますが、いまさら無限のお慈悲に感泣せざるを得ないのであります。この懺愧とともに、私は真に最上の幸福者であった、立派な親様を持ったことを、歓喜せずにはいられないのであります。
敗戦後復員して、今まで熱し切っていた心は急に冷めた時に、つくづく、今までの目当てのものは一つとして当てにはならず、すべて永久性のないものであることが静かになるにつれて私のような愚か者にも分かりかけたのでありますが、それと同時に、何か真実なるものを求めたい、そしてそれを頼りに生活したいと思い立ち、一体何が永久不変のものか、毎日それが私の脳天をかすめるものとなり、遂には苦しみをも感じるようになりました。
それについても、社会のすべてのものは私に常に反抗的であり、矛盾性を有するものであるのに、いっそう私を苦悩せしめるのでありました。一時は自分には燃ゆるが如き予科練精神がある、全てのものが反抗的ならば自分はそれに打ち合ってやろう、何が恐ろしいものか、少しでも我が身に対してかかってくるものに徹底的に伸してしまってやろう、畜生!!と思ってはみるが、何だか恥ずかしいような気がする。自分にはそれだけのことができるか?・・・時間の経過につれて今までの一時的情熱は冷えて、今ふらふらと浮雲の如く、群集心理に駆られ、世人の迷夢に賛同し、永劫の親を泣かせていたのであります。
いっそのこと、私自身本来の姿に立ち返ったらどうかと思い、今日からは親の言葉には絶対にそむかないようにやろうと、急に孝行じみたことをやり出したこともありました。しかしなかなかそれも長続きしないことを非常に悲しく寂しく感じ、やはり何かもっと不動なものをほしいと、その心は強くなってきました。そして堅い信念に生きたいなあとも思った。そこで私は、もとより寺院に生まれたのであるから仏法を信仰しようと考え、無理やりに仏を拝み、そして念仏を称えた。ところが少しも有難くないどころか、それをあざけり笑っている或る者を私は心中に感じ、馬鹿馬鹿しくなりました。いまだに如来が信じられなかったのです。即ち如来の存在を疑っていたのであります。
なんとかこの疑を晴らして安心決定したい一念は、あらゆる方向から工夫をこらしてみたが、やはり駄目だ、永久性がない。まず今日から口の仕事に南無阿弥陀仏を忘れる暇なく称えてみようとも思い、実際やってみると、嬉しいこと、悲しい時、困った折には忘れてしまう。しかしそのまま止めてみるが自分の気がすまない。されば今度は仏法の伝道によって私自身信じたいものだと考えた。
学校の伝道部に入り、一意誠らしく話してみたが、真の安心はできない。或る人は信心を戴かない伝道は奇弁だと非難する。それについても私は非常に恥ずかしかった。穴があれば入りたい気もしたが、どうにも私を迷わせただけでありました。
名誉獲得に常に走る我が心を哀れと思いながら、なおそれを覆い隠そうとする迷雲は、なかなか私を仏道に近づけなかった。そこでまた私は、聞くということが我が真宗では大切であると言われるから、大いに聞こうと毎晩毎晩総会所にお参りさせていただきました。ところがいかに説教を聞いても「うまく言うない」「フフン」とあざける内心に何だかいやになり、或る晩もあまりに自分の立場に苦しみ、ひとつ徹底的に私の理解を促したいと、布教使さんのもとに行き、自分の疑っていたことを問いただしてみたが、これも明解を得ず、満足せずに悲しく淋しい闇夜を帰ったこともありました。
何とかして私達に、地獄の存在、極楽の有無を確実に指してくれる人はないか。
求めつつ、ややもすればこの解答をなし得ざるを自身の偉きが如く考え、人をも迷わし、自分も迷いながら、実に毎日仮夢をやっていたのであります。はからずも夏休み数日前に、増井君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、さらにまた華光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。
南無阿弥陀仏々々々々々々
これも諸兄の方々のお骨折りによるものと、さらに大悲の無限の方便摂化に、ただ感泣するのみであります。毎日毎夜、念仏は楽しい時に苦しい時に、無造作に口より出づる蓄音機にさせていただいて、有難き弥陀の呼び声を聞かせていただけます・・・ただただうれしさで一杯なのであります。南無阿弥陀仏
今や、地獄極楽の存在など疑ってみようとする心の恐ろしさに身をば悶えるのであります。ただ南無阿弥陀仏々々々々々々
しかし日常生活は煩悩の起こりづめで、ことさらに変わったところもなく、といってそれとて一時の間で、後は悲しみも楽しみにさせていただいております。今後ともますます諸兄の御指導をお願い致す次第であります。」


ここに記されている『仏敵』とは、華光会創始者の伊藤康善氏の著書である。
ちなみに高森氏は獲信間もない頃、学友や同行の獲信を念じて伊藤氏の著書を薦めていた。また、親鸞会の古くからの幹部の中には高森氏から伊藤氏の著書を手渡されていた人もいた。



また、なぜか編集した体験記もあるので、読んだことがない方は、
『獲信の記録』(高森顕徹・編)
も読んでみるとよいと思います。


「善知識 なぜか記した 体験記」
「善知識 なぜか編集 体験記」

クズの時間とクズの体力とクズのお金で・・・

先日ある人と話をしていたときのことです。

ある時期の学友部の幹部会合(L1Dと言われていました)で「財施の話をする時には必ず後生の一大事の話をするように」と呼びかけられていたのは、今振り返ってみると脅しだと言われていました。

それを聞いて私が思い出したのが、遺弟の会合でM布教局長(当時)が「最近の高森先生のお言葉を覚えている人」と挙手をさせて、暗記しているかどうか確認された次の「高森先生のお言葉」です。

●クズを集めて

クズの時間と
クズの体力と
クズのお金で
未来永劫の一大事を
解決しようとしている横着者


(記憶で書いているので、時間・体力・お金の順番が違うかもしれません)

そして、「このお言葉をもとに、地に足のついた求道をするように」との話がなされました。


現役会員の皆さんは、このような高森先生のお言葉を聞くと、

・自分は、世間事には時間や体力、お金を多く費やしているが、未来永劫の一大事(後生の一大事)を解決を教えられた仏法には全然時間も体力もお金も使っていない。こんな求道ではダメだ。
・未来永劫の一大事(後生の一大事)を解決するために、もっともっと時間、体力、お金を使わなければならない。そうしたら、信仰が進むだろう。

などと思うことだと思います。


「自分のやった善は往生(後生の一大事の解決)の資助にはならない」と親鸞会でも説かれていますが、現役の会員さんに「親鸞会で推進されている活動に励むのは何のためですか?」と尋ねたら、ほとんどの人は「後生の一大事の解決(信心決定)のため」と答えると思います。つまり、親鸞会での活動に、時間・体力・お金を使えば、「後生の一大事の解決(信心決定)に近づく」、「後生の一大事の解決にはしないよりはした方がよい」、「後生の一大事の解決に対して少なくともマイナスにはならない」というように思い込まされている訳です。

ところが、そのような「自分が○○したから救いに近づく」とか「自分は○○していないから救いから遠い」という思いは、阿弥陀仏の第18願の救いを善悪因果の道理に基づいて計らっている姿です。それを親鸞聖人は「信罪福心」と言われました。『化身土文類』には、

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

(現代語訳)
定善の専心・散善の専心とは、罪を恐れ自分の善をあてにする心で本願力を願い求めるのであり、これを自力の専心というのである。

と説かれています。「信罪福心」は、自力心の異名です。ですから、当然、誡められているのです。

その信罪福心を煽っているのが、上の「クズを集めて」という言葉であり、親鸞会で使われている「これだけとはどれだけか」などという言葉です。


そして、「自分が○○した」とか、「自分は○○しなかった」という私の行為の善し悪し(親鸞会の人が使う言葉でいうと、私の「たねまき」)は、阿弥陀仏の第18願の救いには全く関係ありません。『信文類』には、

おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず。

(現代語訳)『聖典セミナー 教行信証[信の巻]』(梯實圓著・本願寺出版)259頁
おおよそこの海のように広大な徳を持っている偉大な信心について味わってみると、身分の違いや出家在家の違いを分け隔てせず、男女とか老少を区別せず、犯した罪の多少を問題にせず、修行期間の長短を問題にせずに救いをもたらします。

会費の燈、財施の額、顕正活動にどれくらい参加したか、聴聞会場に足を運んだ回数など、これらは一切、阿弥陀仏の本願の救いには関係ないということです。

「クズを集めて」という言葉などは、救い(後生の一大事の解決)とは全く関係のないこと(私がどれだけの時間、体力、お金を使ったか)を、あたかも関係あるかのように錯覚させる意味でも悪質な言葉であると言わざるを得ません。


結局、信罪福心を煽られ、本願の救いとは無関係な活動を関係あるかの如くに勧められ、それに励ませられているのが親鸞会会員です。


そもそも、阿弥陀仏の本願の救いに対して、進むとか進まないとか、遠いとか近づくとかはありません。そんなことを思っているのは、救いを未来のことととらえているすがたです。会員の皆様がそのように理解させられているのは、「クズを集めて」のような言葉を作る説く者に責任があるのです。

今晩聞いて今晩助かるご法義、「平生業成」のご法義が、親鸞聖人の教えなのだということを、現役会員の皆様にはよく知って頂きたいと念じております。

百年や千年聞いて獲られる信心ではない!

『飛雲』漸教と放言する親鸞会
『真偽検証』2chより転載
で先日の講師試験の問題が取り上げられていました。その問題とは、

「30年聞いても助からなかった、50年求めても獲られなかったものが此処にきて求まった」と放言する者がいるが、これらの者と次元の異なる親鸞聖人の流転の告白とその根拠を書け。

です。この問題を見ると、高森会長の『独言』にあった文章を思い出します。
高森顕徹先生の独言より引用します。

(38) その程度

「噫、弘誓の強縁、多生にも値回く、真実の浄信は、億劫に
も獲回し。遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」
                  (教行信証総序)

 永久の闇より救われた親鸞聖人の驚きと慶びである。
 五十年や百年や千年聞いて獲られる信心ではないから、たま
たま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べと教えてあるのだ。
「まだ獲信できぬのか」と言う自称信心の行者がいる。
「そんな程度の信心ならね……」と答えてあげねばならぬ。



「遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」とは、親鸞聖人が獲信の現在から過去を振り返って、遠い過去からの阿弥陀仏のお育てを喜ばれたお言葉です。

その宿善(宿縁)という言葉の方向性を反対にして、『獲信の因縁(宿善)として善を修せよ』と現在から未来に向けた意味に使うのが親鸞会です。そういう意味では、「多生にも値回く」、「億劫にも獲回し」も未来に向かって使い、「五十年や百年や千年聞いて獲られる信心ではない」と、あたかもこれから何千年もかかって獲られる信心のように説くことは、首尾一貫しているといえば首尾一貫しています。


一方で、現役会員の皆様は、「親鸞聖人のみ教えの一枚看板は「平生業成」、「平生」とは「いま」のことだ」とも繰り返し聞いていることと思います。
阿弥陀仏は、短命の根機、いのち一刹那につづまる無常迅速の機を目当てに、一念で救うという本願を建てられていることも『口伝鈔』の
如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。
のお言葉から聞いていると思います。


この二通りの説き方によって、「救いは一念だが、それまでは時間がかかる」と思い込まされてしまってはいませんか?
しかし、「救いは一念だが、それまでは時間がかかる」とは、結局「多念の救い」です。これは、阿弥陀仏の本願ではありません。口では「平生業成」とは言いながら、そうはなっていない説き方が多々なされている事実に早く気が付いて下さい。

阿弥陀仏は「そのまま助ける」との仰せです。
そのままですから、私に何の要求もされてはいません。
今のそのままのお助けです。

本願のこころを聞いて頂きたいと念じております。

破れ茶碗を合わせてみるのは

昭和33年発行の高森顕徹著『顕正』(132-133頁)に、以下の話があります。

或る同行が、ある和上に「自力の念仏は一方では、不果遂者の誓願があるから称えて居れば信心が獲られるという人もあれば、又一方では自力念仏は、如来聖人さまがおきらいなれば江戸ウタを謡うよりも悪いという人もあるが、何れがよろしいか」と尋ねた時、和上は「破れ茶碗は捨てもので、それを合わせてみるのは未だ使ってみるつもりがあるからじゃ、お前は自力念仏の間に合うか、合わぬかを尋ねるのは間に合わす気であろう」と喝破せられたという。


さて、ここで、以前このブログで引用した公式サイトの『三願転入は弥陀のお計らい』を見てみましょう。


「善をしなければならないのか」と尋ねる人がいる。
 言下に、こう答えたらよい。
「阿弥陀仏が、お勧めになられていることなのだ」と。
(以下略)



この「善をしなければならないのか」と尋ねた人が、「獲信の因縁として」善をしなければならないのかという意味で尋ねたならば、言下に、こう答えたらよいですね。

「破れ茶碗は捨てもので、それを合わせてみるのは未だ使ってみるつもりがあるからじゃ、お前は自力諸善の間に合うか、合わぬかを尋ねるのは間に合わす気であろう」と。

『顕正』では、20願に当たる自力念仏を誡めています。
それならば、19願に当たる自力諸善も誡めなければ論理が一貫しません。


また、同じ『顕正』に高森会長が「教家は常に虎の説法をしなければならない」と、法を説くものは常に18願の説法をしなければならないと書いていたことが、
『親鸞会教義の誤り 宿善とは5』
『真偽検証 時代と共に変わる教え(2)』
『飛雲 三重廃立』
で取り上げられています。


ところが、現在では「親鸞聖人の教えの根基は三願転入」というところに腰を据えて話をしています。これは、『顕正』の文章からは考えられないことです。


では、昔の説き方と今の説き方のどちらがよいのでしょうか?
このブログで繰り返し書いてきたことですが、親鸞聖人は18願一つ勧めておられます。したがって、「教家は常に虎の説法をしなければならない」という説き方が親鸞聖人の御心にかなっているのです。


現役会員の皆様には、まず、「高森会長の説いていることは一貫していない」という事実をあきらかにみて頂きたいと思います。

Appendix

プロフィール

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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