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本願一乗とは(2)

『化身土文類』では、「本願一乗」について、

「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。

現代語訳

『観経疏』に「その教えは八万四千を超えている」(玄義分)といわれているのは、「教え」とは八万四千の方便の教えであり、自力聖道門のことである。「超えている」のは本願一乗海の教えであり、他力浄土門のことである。

と、八万四千の仮門の他に、本願一乗海の教えがあることが示された後、二双四重の教判が説かれています。

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。

横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。

現代語訳

総じて釈尊が説かれた教えの中で、この世界で聖者となってさとりを得るのを聖道門といい、難行道という。この聖道門の中に、大乗と小乗、漸教と頓教、一乗と二乗と三乗、権教と実教、顕教と密教、竪出と竪超がある。これらはすべて自力の教えであり、衆生を真実に導くための、仮の手だてとして説かれた教えである。

浄土に往生してさとりを開くのを浄土門といい、易行道という。この浄土門の中に、横出と横超、方便と真実、漸教と頓教、そして助正と雑行、雑修と専修がある。正とは、読誦.観察.礼拝.称名.讃嘆供養の五正行である。助とは、称名以外の読誦.観察.礼拝.讃嘆.供養の五種である。雑行とは、正.助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善.散善や世福.戒福.行福の善を修め、三輩.九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。

横超とは、阿弥陀仏の本願を信じて自力の心を離れることであり、これを横超他力という。これは、専修の中の専修であり、頓教の中の頓教であり、真実の中の真実であり、一乗の中の真の一乗である。これが真宗である。このことは、「行文類」においてすでに明らかにした。


まず、「二双四重の教判」の「教判」とは「教相判釈」のことで、様々な仏教の経典・教理を分類し統一的に理解していくことです。「二双四重」とは、
聖道門を「竪」
浄土門を「横」
で顕し(二双)、それぞれに
「出」(漸教ーさとりを開くのに長い時間を要する教え:権教ー方便)
「超」(頓教ー速やかにさとりをひらく教え:実教ー真実)
を分けた、「竪出」「竪超」「横出」「横超」をいいます。

具体的にあてはめると、
「竪出」ー法相宗など
「竪超」ー禅宗、真言宗、天台宗、華厳宗など
「横出」ー要門(十九願)、真門(二十願)
「横超」ー弘願(十八願)
となります。

聖道門の中にも浄土門の中にも方便の教え(権教)と真実の教え(実教)がある(二権二実)ということになります。しかし、聖道門の頓教(竪超)は理論上は即身成仏が可能ですが、実際は永い時間の修行が必要ですので、漸教とならざるをえません。

こうして、真実一乗の法門は弘願法(十八願)のみになります。「竪出」「竪超」「横出」が方便であり、「横超」のみが真実です(三権一実)。それを、上のお言葉では、

横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。

と教えられています。

したがって、聖道門、要門、真門は決してそこにとどまってはいけない権仮方便の教説であるから、速やかに仏の本意を知って横超弘願の一乗に転入しなければならないと勧められているのです。その意を、親鸞聖人は、『浄土和讃・大経讃』に、

念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ

聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて
諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ


と詠まれました。

本願一乗の法とは、その法門だけで一切のものが速やかに究極のさとりに至ることのできる法門です。そのような最高の成仏道ですから、親鸞聖人は本願一乗(十八願)一つを勧めていかれました。

親鸞聖人から、十八願が真実であることを教えて頂き、十八願によって救われたいと願う人にとっては、竪出・竪超・横出は不要な法門です。そのような人が、蓮如上人が『御文章』にしばしば仰っている宿善の機です。
反対に、十八願による往生を願わない人にとって必要なのが、権仮方便である竪出・竪超・横出の教えなのです。無宿善の機には権仮方便が必要です。

以上を踏まえて、『一念多念証文』の

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

を読まれれば、本願一乗が真実の法門で、それ以外の法門(八万四千の法門)は権仮方便の法門であるという法門の関係を教えられたお言葉であることが分かると思います。
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本願一乗とは(1)「一乗海の釈」

今回は、『一念多念証文』の
この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。
の中の「本願一乗」ということについて書きます。

本願とは十八願のこと。
一乗の一とは、唯一無二。
乗とは運載ということで、人びとを乗せて目的地へ運ぶ乗り物のことです。さとりの境地まで運ぶ乗り物ということで、教法のことです。

ですから、本願一乗とは、阿弥陀仏の十八願は一切の衆生を一人も漏れなく乗せて、完全なさとりの境地へ至らせる唯一無二の教法であることを意味します。


親鸞聖人は、『教文類』には真実の教である『大無量寿経』の教説を「一乗究竟の極説」と讃えられています。「一乗究竟の極説」とは、一切の衆生をことごとく仏のさとりに至らせる一乗教の究極を説きあらわした最高の教えということです。


そして、『行文類』には、一乗海の釈が説かれています。

「一乗海」といふは、「一乗」は大乗なり。大乗は仏乗なり。一乗を得るは阿耨多羅三藐三菩提を得るなり。阿耨菩提はすなはちこれ涅槃界なり。涅槃界はすなはちこれ究竟法身なり。究竟法身を得るはすなはち一乗を究竟するなり。異の如来ましまさず。異の法身ましまさず。如来はすなはち法身なり。一乗を究竟するはすなはちこれ無辺不断なり。大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり。

意訳:聖典セミナー 教行信証 教行の巻(梯實圓著 本願寺出版) 323-324頁より

 一乗海というのは、一乗とは、大乗です。大乗とは、すべてのものが仏になることのできる法を説く教えですから、仏乗ともいいます。一乗を得るものは、最高のさとりを得ます。最高のさとりとは、涅槃の境界です。涅槃の境界とは、究極のさとりそのものである究竟法身のことです。究竟法身を得るということは、一乗の法を究め尽くすことです。このほかに異なった如来はありませんし、異なった法身もありません。如来は、すなわち法身なのです。一乗の法を究め尽くすということは、空間と時間の制約を超えた領域に達することです。真の大乗からいえば、二乗とか三乗というような教えは実体としてあるわけではありません。二乗とか三乗というような教えは、未熟なものを育て導いていくための方便として、仮にしばらく設定された教えであって、唯一無二の真実教である一乗に引き入れようとして説かれただけのものです。一乗は、最高の真実が顕現している教え(第一義乗)です。真の一乗といわれるものは、一切の衆生を平等に救って往生成仏させる阿弥陀仏の誓願一仏乗だけです。

注:二乗とは、小乗の声聞乗・縁覚乗のことで、
  三乗とは、二乗に菩薩乗を加えたものです
  

一乗の法ということについてもう少し詳しく窺ってみましょう。

(1)一乗の法といわれるには、究極のさとりを得る法でなければなりません。そうでないならば、究極のさとりを得るのには、他の乗(教法)が必要なことになり、一乗法とはいえません。上のお言葉では、究極のさとり、最高のさとりを得ることが明らかにされています。

また、『証文類』でも、

つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。

現代語訳

つつしんで、真実の証を顕せば、それは他力によって与えられる功徳の満ちた仏の位であり、この上ないさとりという果である。

と、弘願(十八願)の法門が最高のさとりに至る法門であることが明らかにされています。


(2)一乗の法は、全てのものを運載するものでなければなりません。そうでないならば、運載されない機のために別の乗(教法)が必要となるからです。

『行文類』では、正信偈の偈前に、

おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。
その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。


と説かれ、十八願で救われるものは、「その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり」と、全てのものであることが示されています。


こうして、一乗の法とは、一切のものが究極のさとりに至ることのできる法門であることが分かりました。それが阿弥陀仏の十八願、誓願一仏乗です。


以上のこと、特に(1)で述べたことが理解できれば、弘願(十八願)による往生を願う者に、要門(十九願)、真門(二十願)を必修として教える「三願転入の教え」なるものは、親鸞聖人の教えでも何でもないことはお分かり頂けると思います。本願一乗(十八願)は、他の乗(法門)を必要とせずに、最高のさとりを得ることのできる法門なのです。

弘願(十八願)法だけで一切のものが究極のさとりに至れることを、親鸞聖人は明らかにして下されたのです。

次回の記事では、『化身土文類』で本願一乗が教えられている御文を紹介します。

ここ数日の記事のまとめ

現在は、『一念多念証文』の

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

のお言葉について書いています。

親鸞聖人は要門を勧められているのか?では、『化身土文類』のお言葉から親鸞聖人において要門の行信を勧められているようなお言葉は存在しないことを書きました。

次に、条件付き十八願では、十八願を「(善が)できない(と知らされた)ときに、無条件の救いにあうのだ」と説くことにより、「善ができない自分と知らされなければ」と親鸞会会員に理解させていることを示しました。

この条件をつけることで、「善ができない自分と知らされるところまで善を実行しなさい」という独自の教義が出てくるのです。

しかし、十八願の救いは自分の何か実行したこととは無関係であること、自分の方から進んでいく救いではないことを知って頂くために、

きくことが違う
道はない
難信です。他力だから。

という記事を書きました。要門(19願)の行信をたとえ教説の通りにどれだけ実行しても、十八願に入るということはないのです。



ここ数回書いてきたことのまとめです。

「善ができない自分と知らされてこい」のお慈悲ではありません。
「そのままこい」のお慈悲です。

私には何の要求もされていないのに、私の方で計らって、「そのままこい」の勅命を拒絶することが問題なのです。
善ができない自分と知るか知らないかなどは問題にもされていません。

本願を計らいなく聞き受けて下さい。「必ず助ける」の仰せを計らいなく聞くのが、すなわち信です。




次回の記事では、
この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。
の記事に出てくる「本願一乗」というお言葉について窺ってみたいと思います。

難信です。他力だから。

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。
なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。(信文類)

いま三経を案ずるに、みなもつて金剛の真心を最要とせり。真心はすなはちこれ大信心なり。大信心は希有・最勝・真妙・清浄なり。なにをもつてのゆゑに、大信心海ははなはだもつて入りがたし、仏力より発起するがゆゑに。(化身土文類)



自分の方から18願に入るのは絶対に不可能です。
如来が一方的に与えて下さるものを、自分の方から計らって、信じよう、頂こう、とらえよう、求めていこうとするところに「極難信」ということがいわれているのです。

如来の御回向に対して、自分の方からさしむけるものは何もありません。如来回向の信心なのです。

道はない

私の方から18願に入る道はありません。


如来は、「無有出離之縁」の者と私をみそなわしておられます。私には迷界から離れる手掛りはないのです。


されば、如来の側でお助けを成就なされ、如来の方からあらわれて下さるのです。


そのまま助けるぞの勅命です。
私には何も要求されていません。


南無阿弥陀仏

Appendix

プロフィール

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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