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破れ茶碗を合わせてみるのは

昭和33年発行の高森顕徹著『顕正』(132-133頁)に、以下の話があります。

或る同行が、ある和上に「自力の念仏は一方では、不果遂者の誓願があるから称えて居れば信心が獲られるという人もあれば、又一方では自力念仏は、如来聖人さまがおきらいなれば江戸ウタを謡うよりも悪いという人もあるが、何れがよろしいか」と尋ねた時、和上は「破れ茶碗は捨てもので、それを合わせてみるのは未だ使ってみるつもりがあるからじゃ、お前は自力念仏の間に合うか、合わぬかを尋ねるのは間に合わす気であろう」と喝破せられたという。


さて、ここで、以前このブログで引用した公式サイトの『三願転入は弥陀のお計らい』を見てみましょう。


「善をしなければならないのか」と尋ねる人がいる。
 言下に、こう答えたらよい。
「阿弥陀仏が、お勧めになられていることなのだ」と。
(以下略)



この「善をしなければならないのか」と尋ねた人が、「獲信の因縁として」善をしなければならないのかという意味で尋ねたならば、言下に、こう答えたらよいですね。

「破れ茶碗は捨てもので、それを合わせてみるのは未だ使ってみるつもりがあるからじゃ、お前は自力諸善の間に合うか、合わぬかを尋ねるのは間に合わす気であろう」と。

『顕正』では、20願に当たる自力念仏を誡めています。
それならば、19願に当たる自力諸善も誡めなければ論理が一貫しません。


また、同じ『顕正』に高森会長が「教家は常に虎の説法をしなければならない」と、法を説くものは常に18願の説法をしなければならないと書いていたことが、
『親鸞会教義の誤り 宿善とは5』
『真偽検証 時代と共に変わる教え(2)』
『飛雲 三重廃立』
で取り上げられています。


ところが、現在では「親鸞聖人の教えの根基は三願転入」というところに腰を据えて話をしています。これは、『顕正』の文章からは考えられないことです。


では、昔の説き方と今の説き方のどちらがよいのでしょうか?
このブログで繰り返し書いてきたことですが、親鸞聖人は18願一つ勧めておられます。したがって、「教家は常に虎の説法をしなければならない」という説き方が親鸞聖人の御心にかなっているのです。


現役会員の皆様には、まず、「高森会長の説いていることは一貫していない」という事実をあきらかにみて頂きたいと思います。
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本願に遇うのは「今」です

ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。(教行証文類総序)

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。(化身土文類)


本願に遇う場は今をおいて他にありません。

親鸞聖人は
いま遇ふことを得たり
いま選択の願海に転入せり
と教えられています。


この「今」は、過去のある時点の今のことでもありません。

只今喚びづくめの「そのまま来い」の勅命を疑いなく聞き受けている「今」であります。
只今弥陀の招喚の勅命を疑いなく聞き受けているのが信心ですから、信心が成就しているのは、過去でも未来でもなく、「今」です。


「ああなった」とか「こうなった」という過去の体験をあてにするのでもなく、未来の救いにあこがれるのでもなく、今、仏勅に信順するのです。


光に向かって進むのではありません。
今、光を受けるのです。

弥陀の呼び声を「聞」ときくところまで進むのでもありません。
今、南無阿弥陀仏を計らいをまじえず聞くのです。


今、ここ以外に私が本願に遇う場はありません。

降誕会?ーこんな説き方も浄土真宗の教えに反する例です

親鸞会公式サイトの記事親鸞聖人が明らかにされた完成・卒業のある信心は、降誕会の写真が掲載されていますが、そのときの説法の内容なのでしょうか?

その内容に、「本願力回向」や「平生業成」の御法義に反すると思われるところがあるので、記事の一部を引用してそれらを指摘したいと思います。

 では、どうすれば信心獲得できるのか。親鸞聖人は、どう教えておられるか。
「聖人一流章」には、

「もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたまう」

と教示されている。

 まず、「もろもろの雑行をなげすてて」とは、どういうことか。

「仏法は聴聞に極まる」

 同じ「きく」でも、聴と聞とは、聞き方が違う。聴は、善知識から教えを聞くことだが、聞は、弥陀の呼び声を聞くのだ。聴なくして聞はない。

「雑行を捨てよ」とは、「自力の心を捨てよ」ということだが、自力の心とは、
「どうしたら信心獲得できるのか」
「どうしたら聞けるのか」
「どうしたら助かるのか」
という心。これは、「自分には、南無阿弥陀仏を受け取れるまことの心がある」という自惚れ心である。

 親鸞聖人は、これを『正信偈』に、「邪見◎慢の悪衆生」と言われている。
この自力の心がある間は、南無阿弥陀仏を頂くことは絶対できないから、「雑行を捨てよ」と言われているのだ。

 ◎…りっしんべんに喬と書く漢字。「きょう」と読む。



●「では、どうすれば信心獲得できるのか」という言い方がよろしくありません。

その理由は、私の側に信心獲得するための方法論(どうすれば)があるかのように思わせる表現だからです。このブログで繰り返し書いているように、私の側に信心獲得する方法論(どうすれば)はありません。

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(信文類)

と説かれているように、親鸞聖人が教えられている信心は本願力回向の信心です。こちらから差し出すものは何もありません。つまり私の側に信心獲得の方法論(どうすれば)はないのです。


親鸞会では「どうすれば助かるのか判らぬ」とか、「どうすればここ(一念の決勝点)まで進めるか」などと説き、きく者に方法論を与えてしまっているのが問題です。そして、会員は信心獲得の方法論に迷わされている訳です。方法論を説き与えている典型的な例が、批判を浴びている「三願転入の教え」でしょう。


●次に、上の文章では、次のような表現で方法論を与えてしまっています。

聴なくして聞はない

善知識から教えを聞く「聴」を重ねて、弥陀の呼び声を聞く「聞」に到達するというのが、多くの親鸞会会員の理解だと思います。これでは、信心獲得(「聞」)のための「聴」という方法論になってしまっているのです。

さらに、このようにきいた人は、聴の先に聞があると理解するでしょう。しかし、それでは「平生業成」にならないのです。


浄土真宗は、聴を重ねて重ねて聞に辿り着くという教えではありません。

呼吸のあひだにすなはちこれ来生なり。ひとたび人身を失ひつれば万劫にも復せず。このとき悟らずは、仏もし衆生をいかがしたまはん。願はくは深く無常を念じて、いたづらに後悔を貽すことなかれ(行文類)

のお言葉から、吸う息吐く息に触れ合っているのが後生だと、現役親鸞会会員の方は聞いていると思います。そのような無常迅速の機を救うために建てられたのが阿弥陀如来の本願です。

如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。(口伝鈔)

聴を重ねた先の救いではないのです。ただいま救う本願です。

次の瞬間の命を誰が保証してくれるのでしょうか?
今救われずしていつ救われるというのでしょうか?


上で引用した公式サイトの文章は以下のように続いています。


 次の「一心に弥陀に帰命すれば」とは、阿弥陀仏に信順したこと。

 善導大師は、二河白道の譬えで弥陀の呼び声を、「汝、一心正念にして直に来れ」と教えられている。

 親鸞聖人はこれを、「弥陀の招喚の勅命」と仰る。弥陀の「そのまま来い」のご命令に順ったことを「一心に弥陀に帰命」と蓮如上人は言われているのである。


弥陀の「そのまま来い」の勅命という表現はその通りですが、招喚の勅命に信順するのは遠い先のことではありません。

西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく(信文類)
と二河白道の譬えで教えられているように、弥陀の喚びづくめなのです。今までも今も喚びづくめということです。

「そのまま来い」の勅命ですから、私には何も要求されてはいません。○○してから来いの勅命ではないのです。すなわち、「そのまま来い」とは、「ただいま救う」ということであります。

「そのまま来い」の弥陀の仰せを、ただいま聞くのです。
弥陀は、ただいま「そのまま来い」との仰せです。
その仰せを疑いなく計らいなく聞き受けるのが、信です。

吸う息吐く息と触れ合っているのが後生なのですから、ただいま聞くしかありません。
本願の思し召しは「ただいま救う」ということであります。
ただいま「そのまま来い」の本願の仰せを聞くのです。

「聴なくして聞はない」ではありません。
聴という過程を経ると思っているのは誤りです。

ただいま聞かせると、本願力が私の上にはたらいているのです。


●今回は、二つの表現を取り上げましたが、親鸞会では
・方法論を与える説き方(「本願力回向」に反する説き方)
・平生業成に反する説き方
が多々なされています。


このような話ばかりをきいていると、

求めてゆく過程は、時間がかかりますが、救い摂られるのには、時間がかかりません。
浄土真宗親鸞会 射水市周辺地区の紹介 信心獲得は聴聞に極まるより引用)

という理解に陥ってしまいます。多くの現役会員の方は上のような理解ではないでしょうか?

・求めるプロセスがある(つまり方法論があるということ)
・今は救われずに、未来のあるときに救いがある(つまり平生業成に反している)
という理解が、上の短い言葉の中に浮き彫りになっています。

このような理解になってしまうのは、説く者の説き方に問題があると言わねばなりません。
浄土真宗を名乗りながら、説く者が18願のこころを全く伝えていないのです。

本願のこころが誤って伝えられているという事実に、はやく気づいて頂きたいと念じております。

公式サイトでも「取引場」

降誕会ーこんな説法は「浄土真宗の破壊」ですで取り上げた内容が親鸞会公式サイトでも掲載されていました。

親鸞聖人が明らかにされた完成・卒業のある信心より引用。

 阿弥陀仏は、この名号の大功徳を私たちに与えて助けようと全力を挙げておられる。二千畳に参詣する目的も、阿弥陀仏から南無阿弥陀仏の大功徳を頂くためなのだ。

 まさにこの二千畳は、無上甚深の功徳利益の取引場なのである。

 二千畳は、南無阿弥陀仏の大功徳を獲得するために建てられた法城なのだ。



「自分が二千畳に参詣するということ」と「南無阿弥陀仏の大功徳を頂くこと」を取引するとでも言いたいのでしょうか?


本願力回向のご法義に反する言葉を平然と公式サイトに載せるような団体は、団体名から「浄土真宗」や親鸞聖人のお名前をなくして頂きたいと思います。

「選び抜かれた最短の道」の誤解

高森顕徹著『光に向かって123のこころのタネ』54頁より引用。

選び抜かれた最短の道が、

善知識方の
教えである。


会員時代に覚えた高森会長の言葉の一つです。あのころは、「選び抜かれた最短の道」とは「三願転入の教え」のことだと思い込まされていました。

しかし、その理解は間違いでした。


仏教の目的は、「成仏」。換言すれば、「生死を離れること」です。
ですから、最短の道とは、「成仏」の最短の道、生死を離れる最短の道のことでしょう。

その「速やかに生死を離れる道」を、親鸞聖人は、『行文類』に『選択本願念仏集』の結論ともいうべき「三選の文」を引文されて教えられています。

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに。

高森会長も、このお言葉が重要なお言葉であることを知っているのか、『世界の光 親鸞聖人』のアニメ第2部で親鸞聖人が『選択集』の書写をしている場面で、親鸞聖人が書写しているのはこの「三選の文」です。しかし、親鸞会には10年以上所属していましたが、高森会長より、なぜか「三選の文」についての解説を一度も聞いたことはありません。

さて、上のお言葉ですが、「すみやかに生死を離れんと欲はば」とはじまることから分かるように、速やかに生死を離れようとしている人に対して、こうしなさいと教えられたお言葉です。まさに、「生死を離れる最短の道」を示されたお言葉なのです。「三選の文」の意味は以下のようになります。

速やかに生死を離れようと思うならば、この穢土でさとりの完成を求める聖道門と、浄土に往生してさとりを完成しようとする浄土門との二門があるなかで、しばらく聖道門をさしおいて、選んで浄土門に入って往生することを求めなさい。浄土門に入ろうと思えば、経典には往生の行として正行と雑行という二種の往生行が説かれているが、本来は聖道門の行であった非往生行を往生行に転換しているような雑行を抛て、もともと往生の行である正行を選んで修行しなさい。その正行に読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養という五種の行があります。しかし、阿弥陀仏の名号を称える称名以外の四行は、称名するところに自然に付き随ってくる助業です。それに引き替え、阿弥陀仏が第十八願において一切の衆生が必ず往生することができる決定往生の行として選び定められた正定業は、第四の称名だけです。ですから正行を実践しようとするならば、助業を傍らにさしおいて、専ら正定の業である称名念仏だけを行うようにしなさい。称名すれば必ず往生することができます。阿弥陀仏が本願においてそのように選び定めていてくださるからです。
『念仏と流罪 承元の法難と親鸞聖人』(梯實圓他著 本願寺出版社)33-34頁から引用


厳しい二者択一を三度迫り、「もっぱら正定業を修めよ」と他力念仏一つが勧められています。
つまり、速やかに迷いの世界を離れようと思う人に対して、18願一つを勧められているのです。

往生のために修する諸善を雑行といいますが、それは「抛てよ」です。「至心・発願・欲生」の心で諸善を修める者を臨終に迎えとると誓われたのが19願です。したがって、「三選の文」の意味が理解できれば、19願を根拠に、早く弥陀の救いにあいたいならば諸善をしなさいという教えは出てきようがないことがお分かり頂けると思います。


この厳しい法然聖人の「選択本願念仏」のご法義に対し、聖道諸宗の人々は論難を加え、法然・親鸞両聖人は流刑にあわれました。

その聖道諸宗の人々の批判に対して、法然聖人の「選択本願念仏」のご法義を守るために、親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』六巻をあらわされました。その中でも『行文類』では、七高僧のお聖教のすべてを引文され、さらには各宗派の祖師方の念仏を讃えた御文も引かれて、法然聖人から受け継がれた念仏の一行こそが、弥陀、釈迦、諸仏の本意にかなった大行であり、浄土真実の行であることを証明なされています。その大行を証明するための、経、論、釈の最後の引文が上の「三選の文」です。

そして、それに続いて、

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

現代語訳 『聖典セミナー 教行信証 [教行の巻]』(梯實圓著 本願寺出版)249頁より

上来引用された経、論、釈の文によって、本願の念仏は、凡夫であれ聖者であれ、自らのはからいによって往生の行にしていくような自力の行ではないということが明らかにわかりました。阿弥陀仏より与えられた往生行ですから、行者のほうからは不回向の行と名づけられています。大乗の聖者も小乗の聖者も、自らの善をたのまず、また悪人も罪の重い軽いをあげつらうことなく、同じく自力のはからいを離れて、大海のような広大無辺の徳をもって一切を平等に救いたまう選択本願に帰入して、念仏し成仏すべきです。

と述べられてこの一段を結んでいかれたのでした。こうして、親鸞聖人は法然聖人から受け継がれた選択本願念仏の真実性を膨大な数の経、論、釈によって証明し、聖者も凡夫もひとしく成仏せしめる念仏の法を勧めていかれたのです。


それでは、最初の高森会長の言葉に戻りましょう。

七高僧から親鸞聖人に受け継がれた成仏の最短の道とは、阿弥陀仏の第18願の法義です。その法を親鸞聖人は「誓願一仏乗」とお示し下されたことは、
本願一乗とは(1)「一乗海の釈」
本願一乗とは(2)
本願一乗とは(3)
本願一乗とは(4) 「一乗の機教」
で述べてきた通りです。第18願の法門は、一切の衆生を速やかに成仏せしめる法門であり、それには他の法門を要しない最高の成仏道なので、「誓願一仏乗」と言われるのです。


しかし、今日、
・善をしなければ信仰はすすみませんよ
・獲信と修善はよい関係にある
・修善は獲信の因縁になる
という珍説をとなえ、成仏の最短の道を閉ざしてしまっているのが高森会長です。


親鸞会現役会員の皆さんよく考えてみてください。
法然・親鸞両聖人が命をかけて守って下された、成仏の最短の道を閉ざす人は、善知識でしょうか?悪知識でしょうか?


また、目的が一番大事ということは高森会長がいつも話をすることです。
では、親鸞会会員の皆様は、何を目的に仏教を求めていますか?

それが、生死を離れることならば、善知識方の仰る通りにさせていただきましょう。
念仏の法こそが、弥陀選択の行法であり、釈迦出世の本懐であり、諸仏証誠の法であり、七高僧・親鸞聖人のお勧めであり、その法こそが成仏の最短の道なのですから。

Appendix

プロフィール

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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