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「ワクチン投与に励む」親鸞会関係のあるブログ

浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集いというブログを見ると、様々な親鸞会批判などを取り上げて、それらを「邪偽」などと呼んでいるようです。

体験至上邪偽の自己矛盾を指摘という記事という記事「雑行」についてもう少し書いてみましたで書いた文章とよく似た文章が「体験至上の異安心の主張」として取り上げられていました。「体験至上の異安心の主張」として複数の文章が挙げられていた中の最後の

「阿弥陀仏の19願の救いに向かうのなら,
 願いを起こして実行した諸善万行は
 化土の業因となるので,
 関係があると言ってもよいでしょう。
 しかし,18願の救いと
 我々の修善は無関係です」

です。

検索してみると、「化土の業因」という言葉は、親鸞会批判ブログでは、このブログか真偽検証でしか使われていないことと、前後の文章が前回書いた記事とよく似ているので、前回の記事を改変したものだと思います。

ちなみに、もとの文章は以下の通りです。

上のように修善を阿弥陀仏の救いと関係づけて、さらに法話などでは、十九願文の「発菩提心 修諸功徳 至心発願 欲生我国」を「よしやるぞと奮発心をおこして、純粋な心で阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願いをおこして、もろもろの善をやりなさい」などと説明しています。
それを聞いた人は、阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願いをおこして諸善万行を実行するでしょう。
その浄土に生まれたいと願いをおこして実行しているところの諸善万行を「雑行」といわれているのです。親鸞聖人が『愚禿鈔』で、ズバリ
「ゆゑに浄土の雑行と名づく」
と断定されている通りです。さらに、そのような行を実践する法門について、
「これを浄土の方便仮門と名づく」
「また浄土の要門と名づくるなり」
と教えられてます。

なお、「この修善の勧めが、阿弥陀仏の救いと無関係であるはずがない」の中の「阿弥陀仏の救い」が十八願の救いを指すならば、「無関係であるはずがない」というのは、間違いです。十八願の救いと我々の修善は無関係です。
一方、「阿弥陀仏の救い」が十九願のことを指しているならば、阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願いをおこして実行した諸善万行は化土の業因となるので、間違いとはいえないでしょう。親鸞聖人は『化身土文類』で「雑行」について詳細に教えられた後、結論として、

経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。

と「雑行」は「これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因」、すなわち「化土の業因である」と確定されているのです。


親鸞会の十九願文の説明に基づいて、それでは十九願の行信を勧めていることになり、その行は親鸞聖人が「雑行」と教えられているものそのもので、化土の業因とも教えられているのですよと、親鸞聖人のお言葉から示したのが上記の文章です。

「異安心の主張」として取り上げるならば、しっかりとこのブログで取り上げた内容そのものを掲載し、どこであった主張なのかをURLを明示するなり、リンクをはるなりして頂きたいものです。

それに、異なるブログなどから(おそらく改変して)引いた内容を、同一の人が書いた文章のように並べて、

体験至上の異安心の者達は
自分の体験をしっかりと
あて力にしていることを
自覚していないから、
自己矛盾も気づいていない。


と述べても何の意味もありません。もともと違う人が書いたものがもとになっているわけですし、その上、親鸞会に都合の悪い親鸞聖人のお言葉を省略するなどの改変を加えているのですから。

少なくとも私の書いた文章は、お聖教上のお言葉を挙げて説明しているのですから、そのお言葉を示して、これはこのように解釈するのだと書くべきでしょう。

さらに、「体験至上邪偽の自己矛盾を指摘」という記事では、親鸞聖人のお言葉を示さずに「雑行」や「雑修」の説明をしていますが、「まず親鸞聖人のお言葉を示す」という親鸞学徒の本道はどこへいってしまったのでしょうか?

他の記事をみても、親鸞会批判にまともに対応しようとしている意思は感じられません。ただ、親鸞会教義を垂れ流しているだけという感じを受けます。


しかし、そんなブログでも、現役の会員さんに対して、「ワクチン」としての効果を発揮してしまいます。あらかじめ、こんな「邪説」や「邪偽」があると示しておくことで、それと似た文章を会員さんが後になって見たときに、『やっぱりこんなことを言っている、聞いた通りの「邪偽」だ』と思い込ませる効果があります。そして、一度そう思い込んだ会員さんは、「邪偽」の文章をまともに読む気を失ってしまうことでしょう。会で言われていた通りだと、ますます親鸞会に依存してしまう効果もあるかもしれません。

教義批判に対して正面からこたえられないので、どんな手段を使ってでも会員の流出を防ごうと必死なことが伝わってきます。


せっかくですから、「体験至上邪偽の自己矛盾を指摘」と同様の論法で、親鸞会教義の自己矛盾を一つ二つ指摘させて頂きます。

親鸞会公式サイト称名正因の異安心とはどんなことなのかには、このように書かれています。

わが親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人を貫く浄土真宗の教えは、十九願や二十願の教えではなく、十八願真実の教え、いわゆる、信心正因、称名報恩の教えでありますから、信前信後を問わず、一貫してこの真実の教えを説かねばなりません。

もちろん、人によっては未熟の者もあって、信心正因を勧めても、なかなか、信心決定ということが分かってもらえない場合もありますが、だからといって「念仏称えていたら助かるのだ」といって邪義を教えてはならないのです。


さて、『わが親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人を貫く浄土真宗の教えは、十九願や二十願の教えではなく、十八願真実の教え、いわゆる、信心正因、称名報恩の教えでありますから、信前信後を問わず、一貫してこの真実の教えを説かねばなりません。

人によっては未熟の者もあって、信心正因を勧めても、なかなか、信心決定ということが分かってもらえない場合もありますが、だからといって
善をしなければ信仰は進みませんよ」といって邪義を教えてはならないのです。』と言われたらどうしますか?

また、

称名念仏は、すべて信後報謝に限るからです。

ともありますが、

それなら、『諸善は、すべて信後報謝に限るとなぜ言わないのですか?』と聞かれたらどうしますか?

(後者の表現は、『21世紀の浄土真宗を考える会』顕正新聞を読んでから借りました。「称名念仏は、すべて信後報謝に限るからです」というフレーズの問題点も取り上げられているので、読んだことのない方は読んでみると良いと思います。)


最後に、「念仏を勧める=20願を勧めている」というような短絡的な発想のようですが、勧めているのは「本願の念仏」(18願の念仏)ということが分かられないのでしょうか?十八願の念仏を勧められた親鸞聖人のお言葉を示してこの記事を終わりにします。

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。(化身土文類)

(現代語訳)
以上のようなことから、源信和尚の解釈をうかがうと、『往生要集』の念仏証拠門の中に、第十八願について、四十八願の中の特別な願であるとあらわされている。また『観無量寿経』に説かれる定善.散善を修めるものについて、きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。五濁の世のものは、出家のものも在家のものも、よく自分の能力を考えよということである。よく知るがよい。
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「雑行」についてもう少し書いてみました

前回の記事、会員の皆様は「雑行」について根拠に基づいた話を聞いていますか?に続いて「雑行」について書きたいと思います。

前回の記事では、親鸞聖人が「雑行」について、どのように教えられているかを『化身土文類』のお言葉から示しました。述べたことを箇条書きにすると、
・「雑行」とは、浄土門で教えられる「往生の行」であること
・行体は、五正行以外の諸善万行であること
・もともと阿弥陀仏の浄土に往生する行ではない諸善万行は、浄土を願う心をおこして、行の目的を転換させなければ「往生の行」にならないこと
・浄土を願う心をおこして、「往生の行」に転換させた諸善万行を「雑行」といわれていること

です。そして、その最後に、親鸞会が「善の勧め」の根拠にしている阿弥陀仏の第十九願について少し触れました。

今回は、「十九願に触れたこと」と「浄土を願う心をおこして、諸善万行を往生の行に転換させる」ということについてもう少し書きます。


まず、十九願に触れたのは、『化身土文類』で十九願の行信から要門の法義が展開されることが教えられ、その要門の行体が次のように示されているからです。

願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。この要門より正・助・雑の三行を出せり。

この中の「この要門より正・助・雑の三行を出せり」といわれたのが要門の行体を挙げられたものです。この「正・助・雑」を具体的に示されたのが、前回の記事で紹介した

正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。

だったのです。


次に、「浄土を願う心をおこして、諸善万行を往生の行に転換させる」と前回述べたことついて補足します。

正行と雑行は対になっている言葉です。正行の正とは、「正直」「正当」ということで、阿弥陀仏とその浄土という目標に向かって正対しているということです。それは、往生行として道理にかなった行ということになります。一方、「正直」の反対は「邪曲」であり、正当な行の反対は往生行としては不当な行ということを意味し、それを雑行といわれました。

例えば、『観無量寿経』に説かれている三福行は、その散善顕行縁に、

なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり。

と説かれているように、諸仏の成仏の因、すなわち聖道門の行です。したがって、往生を願い行の方向を転換しなければ、「往生の行」にはなりません。このように、浄土に真っ直ぐに向かっている正直で正当な正行ではなく、違った方向に向いていたのを転換させねばならないので、雑行というのです。



話が少しそれますが、上の『観無量寿経』のお言葉を、

観無量寿経の中で、釈尊が、
韋提希夫人、また未来世の一切凡夫に

「かの国に生ぜんと欲はんものは、
 まさに三福を修すべし」

「この三種の業は、過去・未来・現在、
 三世の諸仏の浄業の正因なり」

と極楽浄土の生まれたければ三福をしなさいと
三福を明らかにされ、勧められている。

しかも、釈迦如来だけでなく、
過去・未来・現在の諸仏も
衆生済度に現れたその国、その処で
同じように阿弥陀仏の本願に救われるに
大切な善であると勧めておられるのだ。


浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集いより引用

と、諸仏が三福を勧めておられるお言葉と理解している人もいますが、これは誤りです。参考までに現代語訳を載せておきます。

韋提希よ、そなたは知っているだろうか。この三種の行いは、過去・現在・未来のすべての仏がたがなさる清らかな行いであり、さとりを得る正しい因なのである。



話を元に戻しますが、もともと往生の行でない諸善万行だから、浄土を願う心をおこし回向しなければ「往生の行」にならないことを教えられているのが、前回紹介した

雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。

という『化身土文類』のお言葉です。同様のことを善導大師・法然聖人も教えられています。『選択本願念仏集』二行章、正雑二行の得失を教えられている五番の相対の中の4番目の回向不回向対に、

次に「回向」といふは、雑行を修するものは、かならず回向を用ゐる時に往生の因となる。もし回向を用ゐざる時には往生の因とならず。ゆゑに「回向して生ずることを得べしといへども」といふこれなり。

とあり、「回向を用ゐる時に往生の因となる」と教えられています。もともと往生の因でない諸善万行を「往生の行」にするには、阿弥陀仏の浄土に生まれたいという願いをおこし、回向することが大事なのです。なお、上の法然聖人のお言葉にあります「回向して生ずることを得べしといへども」は、善導大師の『散善義』のお言葉ですから、善導大師も同じことを教えられていることが分かります。

さらに親鸞聖人は、このことについて、『愚禿鈔』にも教えられています。

雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。

この愚禿鈔のお言葉では、「ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり」とありますように、正しく雑行とは、浄土の方便仮門の行体であり、浄土の要門の行体なのです。


前回と今回の記事で、親鸞聖人のお言葉に基づいて示したことを、箇条書きにすると、
・「雑行」とは、浄土門で教えられる「往生の行」である
・行体は、五正行以外の諸善万行である
・もともと阿弥陀仏の浄土に往生する行ではない諸善万行は、浄土を願う心をおこして、行の目的を転換させなければ「往生の行」にならない
・浄土を願う心をおこして、「往生の行」に転換させた諸善万行を「雑行」といわれている
・その「雑行」は、十九願の行信から展開される要門の行体である

です。


親鸞会では、

阿弥陀仏の本願一つ説くことを出世の本懐とされた釈迦が、なぜ廃悪修善をかくも勧められるのか。
この修善の勧めが、阿弥陀仏の救いと無関係であるはずがない。
親鸞聖人はズバリ、
「みなこれ浄土の方便の善なり」
「これみな浄土方便の要門なり」
と断定されている。
すべては阿弥陀仏の本願(十八願)に相応させ、浄土往生を果たさせるためのご方便であったのだ。
それは、釈迦の独断ではない。阿弥陀如来が、十方衆生を真実の十八願の救済に導かんがために、方便の十九願で「修諸功徳」と勧められているからである。


一切経は「浄土の方便の善なり」より引用

と説きます。

上のように修善を阿弥陀仏の救いと関係づけて、さらに法話などでは、十九願文の「発菩提心 修諸功徳 至心発願 欲生我国」を「よしやるぞと奮発心をおこして、純粋な心で阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願いをおこして、もろもろの善をやりなさい」などと説明しています。
それを聞いた人は、阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願いをおこして諸善万行を実行するでしょう。
その浄土に生まれたいと願いをおこして実行しているところの諸善万行を「雑行」といわれているのです。親鸞聖人が『愚禿鈔』で、ズバリ
「ゆゑに浄土の雑行と名づく」
と断定されている通りです。さらに、そのような行を実践する法門について、
「これを浄土の方便仮門と名づく」
「また浄土の要門と名づくるなり」
と教えられてます。

なお、「この修善の勧めが、阿弥陀仏の救いと無関係であるはずがない」の中の「阿弥陀仏の救い」が十八願の救いを指すならば、「無関係であるはずがない」というのは、間違いです。十八願の救いと我々の修善は無関係です。
一方、「阿弥陀仏の救い」が十九願のことを指しているならば、阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願いをおこして実行した諸善万行は化土の業因となるので、間違いとはいえないでしょう。親鸞聖人は『化身土文類』で「雑行」について詳細に教えられた後、結論として、

経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。

と「雑行」は「これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因」、すなわち「化土の業因である」と確定されているのです。そして、このお言葉は、『化身土文類』の中で、十九願、観無量寿経の法義(要門)について教えられてきた結論に当たる部分に位置していることも付記しておきましょう。『化身土文類』を順番に沿って拝読すれば分かることです。


はたして

・親鸞聖人のみ教えに雑行の勧めはあるのか、ないのか。
・親鸞会は雑行を勧めているのか、いないのか。

よく考えて頂きたいと思います。

会員の皆様は「雑行」について根拠に基づいた話を聞いていますか?

新手のネット対策ですか?に現役会員の方も含めて多数のコメントを頂きました。
それを踏まえて今回の記事を書きたいと思います。

親鸞会では、「雑行」ということについて、

「雑行」:自力の心でやる諸善万行
「雑行を捨てよ」=「自力の心を捨てよ」
(「善をするな」という意味では決してない)

後生の一大事が問題にならねば、「雑行」は絶対に分からない (6/6)より引用

と説明します。

ところで、親鸞会の法話では、根拠を挙げて説明される部分とそうでない部分があります。
例えば、阿弥陀仏が本師本仏であることは、必ずといっていいほど『御文章2帖目8通』に基づいて話をされます。
では、上の「雑行」ということについて、現役会員の皆様は、親鸞聖人のお言葉に基づいて話を聞いていますか?
親鸞会では、「雑行」は親鸞聖人の教えのキーワードだといわれているのに、根拠に基づいた話がなされないのは不可解だとは思いませんか?
親鸞学徒の本道は、「まず親鸞聖人のお言葉を示す」といっているのに、「雑行」とは何かについて親鸞聖人のお言葉が示されないのはおかしいとは思いませんか?


幹部会員歴数十年さんのコメントにあったように、親鸞聖人は、「雑行」について『化身土文類』で以下のように教えられています。

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。


(現代語訳)
浄土に往生してさとりを開くのを浄土門といい、易行道という。この浄土門の中に、横出と横超、方便と真実、漸教と頓教、そして助正と雑行、雑修と専修がある。
正とは、読誦.観察.礼拝.称名.讃嘆供養の五正行である。助とは、称名以外の読誦.観察.礼拝.讃嘆.供養の五種である。雑行とは、正.助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善.散善や世福.戒福.行福の善を修め、三輩.九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。


親鸞聖人は、このお言葉の中で、まず浄土門とは「安養浄刹にして入聖証果する」教えと定義され、その浄土門の中に、「横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修」があると仰っています。「横出・横超、仮・真、漸・頓」は教について、「助正・雑行、雑修・専修」は行について教えられたものです。

つまり、「雑行」とは、浄土に往生してさとりを開く浄土門内の行についていわれた言葉であることが分かります。言い換えると、「往生の行」です。
『選択本願念仏集』二行章においても、善導大師の『散善義』就行立信釈を引文された後に、

わたくしにいはく、この文につきて二の意あり。一には往生の行相を明かす。二には二行の得失を判ず。
初めに往生の行相を明かすといふは、善導和尚の意によらば、往生の行多しといへども大きに分ちて二となす。一には正行、二には雑行なり。


と、「往生の行」の中に「正行」と「雑行」があることを教えられています。

「雑行」の行体については、「正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく」とありますように、五正行以外の諸善万行です。

ここまでまとめますと、
『浄土門で教えられる「往生の行」で五正行以外の諸善万行』
を「雑行」といわれていることが分かります。親鸞会では全く説明されない「往生の行」というところを押さえておくことが大事だと思います。親鸞会関係のホームページを見ていると、本来は「往生の行」の話をしていたのに、それ以外の善の話などが混在してくる場合があるので注意が必要です。


『化身土文類』では、「雑行」の説明が、次のように続きます。

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。

(現代語訳)
さて、雑行と雑修とは同じような言葉であるが、意味は違っている。雑という言葉には、すべての行をおさめてしまうのである。五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。

ここでは、「雑」という言葉について2通りの意味が説明されています。

まず、「雑の言において万行を摂入す」といわれたのは、五正行以外の一切の善行(万行)が行体なので、行体が雑多ということで「雑行」といわれることを示されたものです。

次に、「雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり」といわれた「雑」は色々なものが雑じっているという意味です。雑行の行体はさまざまで、例えば、世間の善(世福)、小乗仏教の善(戒福)、大乗仏教の善(行福)がありますが、これらはさまざまな目的が雑じっている善であり、さまざまな行いが雑じっています。それを「人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり」といわれています。
これらの善はもともとは、世間的な幸福を求める善であったり、この世でさとりを求める善であったりして、阿弥陀仏の浄土に往生する因ではありません。それ故、「往生の行」にするには、浄土を願う心をおこし、回向しなければならないのです。このことを、「もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり」と教えられています。

ここでのポイントは、もともと往生の行でない諸善万行を、浄土を願う心をおこして往生の行に転換しているということです。


今日の記事をまとめますと、
・『浄土門で教えられる「往生の行」で五正行以外の諸善万行』を「雑行」といわれている。
・諸善万行は、浄土を願う心をおこして、行の目的を転換させることで「往生の行」になる。
ということになります。


さて、親鸞会では「善の勧め」をやかましくいいますが、何を根拠に勧めているかといえば阿弥陀仏の第十九願です。その十九願文の「発菩提心 修諸功徳 至心発願 欲生我国」を高森会長が、
「よしやるぞと奮発心をおこして、純粋な心で阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願いをおこして、もろもろの善をやりなさい」
と説明しているのを聞いたことはありませんか?

会員の皆様は上のように聞いたら、その通りに実行しようとするでしょう。
その場合、実践させられている行は何ですか?
「雑行」そのものではありませんか?


親鸞聖人は「雑行を捨てよ」と教えられました。
親鸞聖人のみ教えには、「雑行の勧め」はありません。


親鸞会で説かれている「善の勧め」ですが、その中身は実際のところ何なのかを現役会員の方にはよく知って頂きたいと思います。

百年や千年聞いて獲られる信心ではない!

『飛雲』漸教と放言する親鸞会
『真偽検証』2chより転載
で先日の講師試験の問題が取り上げられていました。その問題とは、

「30年聞いても助からなかった、50年求めても獲られなかったものが此処にきて求まった」と放言する者がいるが、これらの者と次元の異なる親鸞聖人の流転の告白とその根拠を書け。

です。この問題を見ると、高森会長の『独言』にあった文章を思い出します。
高森顕徹先生の独言より引用します。

(38) その程度

「噫、弘誓の強縁、多生にも値回く、真実の浄信は、億劫に
も獲回し。遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」
                  (教行信証総序)

 永久の闇より救われた親鸞聖人の驚きと慶びである。
 五十年や百年や千年聞いて獲られる信心ではないから、たま
たま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べと教えてあるのだ。
「まだ獲信できぬのか」と言う自称信心の行者がいる。
「そんな程度の信心ならね……」と答えてあげねばならぬ。



「遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」とは、親鸞聖人が獲信の現在から過去を振り返って、遠い過去からの阿弥陀仏のお育てを喜ばれたお言葉です。

その宿善(宿縁)という言葉の方向性を反対にして、『獲信の因縁(宿善)として善を修せよ』と現在から未来に向けた意味に使うのが親鸞会です。そういう意味では、「多生にも値回く」、「億劫にも獲回し」も未来に向かって使い、「五十年や百年や千年聞いて獲られる信心ではない」と、あたかもこれから何千年もかかって獲られる信心のように説くことは、首尾一貫しているといえば首尾一貫しています。


一方で、現役会員の皆様は、「親鸞聖人のみ教えの一枚看板は「平生業成」、「平生」とは「いま」のことだ」とも繰り返し聞いていることと思います。
阿弥陀仏は、短命の根機、いのち一刹那につづまる無常迅速の機を目当てに、一念で救うという本願を建てられていることも『口伝鈔』の
如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。
のお言葉から聞いていると思います。


この二通りの説き方によって、「救いは一念だが、それまでは時間がかかる」と思い込まされてしまってはいませんか?
しかし、「救いは一念だが、それまでは時間がかかる」とは、結局「多念の救い」です。これは、阿弥陀仏の本願ではありません。口では「平生業成」とは言いながら、そうはなっていない説き方が多々なされている事実に早く気が付いて下さい。

阿弥陀仏は「そのまま助ける」との仰せです。
そのままですから、私に何の要求もされてはいません。
今のそのままのお助けです。

本願のこころを聞いて頂きたいと念じております。

浄土真宗ならば「諸善は阿弥陀仏が往生の行として選び捨てられた」と説くべきです

親鸞聖人は、『高僧和讃』源空讃に、

本師源空世にいでて 弘願の一乗ひろめつつ
日本一州ことごとく 浄土の機縁あらはれぬ

智慧光のちからより 本師源空あらはれて
浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたまふ


と仰り、本師源空聖人がひろめられたのは、「弘願の一乗」「選択本願」、すなわち阿弥陀仏の第十八願であることを述べられています。つまり、浄土真宗とは十八願のご法義であります。

その法然聖人の主著が『選択本願念仏集』であることは、親鸞会会員の人も知っているでしょうが、「選択」の意味を知る人はいないに等しいと思います。

『選択本願念仏集』本願章に、

「選択」とはすなはちこれ取捨の義なり。

と教えられているように、「選択」とは、選び取り、選び捨てるということです。

では、どなたが、何を選び取り、何を選び捨てられたのでしょうか?

本願章の標章の文に

弥陀如来、余行をもつて往生の本願となさず、ただ念仏をもつて往生の本願となしたまへる文

とあるように、第十八願において、阿弥陀如来が、往生の行として諸行を選び捨てられ、称名念仏の一行を選び取られたのです。このことは、本願章の中では、

すなはちいま前の布施・持戒、乃至孝養父母等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す。ゆゑに選択といふ。

とも教えられています。そして、

問ひていはく、あまねく諸願に約して粗悪を選捨し善妙を選取すること、その理しかるべし。なんがゆゑぞ、第十八の願に、一切の諸行を選捨して、ただひとへに念仏一行を選取して往生の本願となしたまふや。
答へていはく、聖意測りがたし。たやすく解することあたはず。しかりといへどもいま試みに二の義をもつてこれを解せば、一には勝劣の義、二には難易の義なり。


と、「勝劣の義」、「難易の義」を挙げられて、選択の理由を述べられています。阿弥陀仏は、一切の諸行は難行であり劣行であるから選び捨てられ、最も勝れた徳をもつ行であり、しかも最も易しい行であるから称名念仏の一行を決定往生の行として選び取られたのです。しかも、それは、法蔵菩薩の一切の衆生を分け隔てなく救おうという平等の大悲に促されての選択でした。これは、

まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。

と教えられています。

また、親鸞聖人は、『行文類』に『選択集』の結論ともいうべき「三選の文」を引文されています。

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに。

最後に「称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」と言い切られたのは、称名は阿弥陀仏が選取された本願の行であるからです。本願の行であるから必ず往生することができると言われたのです。

そうして、ふたごころなく一心に選択本願の念仏一行を称えることを法然・親鸞両聖人は勧められました。その根拠として、いまは、『教行証文類・総序』の御文を挙げておきましょう。

穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。

(現代語訳)『聖典セミナー 教行信証[教行の巻]』(梯實圓著・本願寺出版)78-79頁より引用

煩悩に汚れた穢土を厭い、清らかな涅槃の浄土を願いながら、自力のはからいをまじえて本願を疑うから、歩むべき行道に迷い、まことの信心の何たるかを知らずに惑い続け、心は迷妄に閉ざされて暗く、さとらねばならない大切な事柄についてはあまりにも無知であり、しかも身に具えた悪は重く、障りの多いものは、とりわけ浄土往生を勧めたまう釈迦如来の発遣を仰ぎ信じ、最も勝れたさとりへの道である本願に帰依して、如来よりたまわったこの行にひたすら奉え、ひとえにこの信心を崇めなさい。


親鸞聖人は、『末灯鈔』第一通に、

浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。

とも教えられています。ここでも、第十八願のご法義が浄土真宗であることが述べられています。


浄土真宗を名乗るならば、選択本願(十八願)に立脚して、「阿弥陀仏は、一切の諸善を往生の行として選び捨てられ、称名念仏の一行を往生の行として選び取られた」と説くべきです。

「三願転入を計らうな」なのか?、「18願を計らうな」なのか?で取り上げた親鸞会公式サイトの記事「三願転入は弥陀のお計らい」の書き出しは、

「善をしなければならないのか」と尋ねる人がいる。
 言下に、こう答えたらよい。
「阿弥陀仏が、お勧めになられていることなのだ」と。


でした。十八願に立って教えを説いていたらとても出てこない言葉だと思います。

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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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