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善を捨てて救われる???

親鸞会公式サイトのマンガ『歎異抄をひらく』の衝撃度が更新されていました。

「善を捨てて救われる」と何回か書かれていますが、そんなことを誰が言っているのでしょうか?


親鸞会教義が批判されているのは、
・善をしなければ信仰は進みませんよ
・修善は獲信とよい関係にある
・獲信の因縁として善を修せよ

というように、獲信と修善を関係づけて説いているからです。

親鸞会の「獲信と関係づけた」善の勧めが批判されているのですが、今回の漫画でも肝心の「獲信と関係づけた」という部分に全く触れられていません。


『口伝鈔』には

たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。

と教えられていますが、「善をしなければ信仰は進みませんよ」と説く親鸞会は真っ向から反しているのです。


それにしても、おぞましい漫画ですね。
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従真垂化??ー「従真垂仮」と「従仮入真」

 「顕浄土方便化身土文類 六」というのが当巻の題号である。「顕」とは、『六要鈔』の初めに解説されているように「明著」の意味で、物事の本質をはっきりと明らかにすることである。ここでは浄土真宗における方便の法義をはっきりと顕すからである。方便を明らかにすることは、同時に真実を反顕することであるから、顕真実に帰する訳である。なお能顕の人は親鸞聖人であるが、すでに仏祖が顕されていた教説を類聚するという形式を取られていることは前五巻の顕真実の巻と同じである。
 「浄土」とは、往生浄土の法門をいう。いわゆる所期を以て所宗に名づけた言葉で、浄土真宗のことをいう。浄土真宗における方便化身土の因果を明らかにするから、「顕浄土方便化身土」というのである。その方便(ウパーヤ)の意味についてはすでに詳述したから省略するが、今は仏の随自意の教法に対して随他意の教法をいう。権仮方便の略である。真実の仏意が受け取れない未熟な者の中に二種類がある。邪偽の教えに眩まされているものと、権仮方便の教えに滞って真実を見失っている者とである。邪偽の教えとは無明煩悩を助長するような真実に背く教えであるから、仏教ではない外道、外教である。権仮方便は、真実に背く者を真実に誘引するために、その機根の応じて仏が説かれた随他意の教法のことである。権仮方便の機能は「暫用還廃」のはたらきである。すなわち未熟な機を育て誘引するために仮に暫く用いる法門であるから「暫用」という。あるいは「従真垂仮」(真より仮を垂れる)ともいう。「行文類」の一乗海釈に「大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり」といわれているのがそれである。仏陀の正意は、誓願一仏乗の外にはないが、機の能力に応じて二乗、三乗として説き与えた教法のことである。それゆえ機根が熟するにつれて、方便の法は次第に廃されていき、最終的には誓願一仏乗に帰せしめていく。これを「還廃」といい、「従仮入真」(仮より真に入らせる)というのである。要するに方便とは、邪偽なる教説に惑わされている者を究極の真実に導き入れるために仏陀の悲心が、さまざまな階層性をもって施設された暫用還廃のはたらきをもった教説をいう。


『顕浄土方便化身土文類講讃』(梯實圓著)233-234頁より引用(色は私がつけました)


(まとめ)

権仮方便の機能は「暫用還廃」のはたらき

・暫用(暫く用いる)ー「従真垂仮」(真より仮を垂れる)ともいう

・還廃(還りて廃す)ー「従仮入真」(仮より真に入らせる)ともいう

親鸞会では、「従仮入真」を仮よりしか真に入れずと読んでいますが、これは誤り。仮に入る者を、仮より真に入らせることを従仮入真といいます。この場合は還廃の意ですから、方便を廃すということです。一方、方便を用いるときは、「従真垂仮」を使います。


ところで、「従真垂化」という言葉を親鸞会では用いていますが、親鸞会以外では聞いたことはありません。親鸞会以外で使われているところをご存知の方は教えて下さい。

親鸞会に財施するのは善か悪か?

『飛雲』報の浄土に生ずるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生ずるものは少なからず。
『真偽検証』会員の皆さん、同朋の里にダムは本当に必要ですか?
で取り上げられていましたが、親鸞会では先日の二千畳座談会で同朋の里第3期工事の説明が行われていたそうです。


度重なる財施に会員の皆様は疑問を抱かないのでしょうか?


親鸞会への財施について、親鸞会 批判の真実 浄土真宗親鸞会「被害」家族の会の正体 親鸞会についてよくある質問 Q1.財施についてには以下のようにあります。

親鸞会への財施が「善」となり、尊い仏縁となるか、どうかは、ひとえに親鸞会が正しく仏法を説いているかどうか、本当の親鸞聖人の教えを伝えているか、どうか。この一点にかかっていることがお分かりでしょう。
問題は、金額の大小や制度にあるのではなく、説かれている「教え」の正邪で決するのだということを、よくよく銘記しておきたいと思います。



昨今の親鸞会は、教義批判から逃げ回っているばかりです。
「退会した者には近づくな」と徹底し、内輪で「こんな邪義がある」とあらかじめ予防接種をして内部を引き締めているだけです。外部の親鸞会批判者を破邪顕正する気概のかけらもありません。

何年か前なら批判サイトが立ち上がると、それに対抗して親鸞会側も反論サイトを立ち上げていましたが、そのようなことも見られなくなりました。現在はコメントするのに管理者の承認が必要なブログが乱立しているだけです。

そんな親鸞会の姿勢が、そこで説かれている「教え」の正邪を如実にものがたっています。
親鸞会への財施が「善」か「悪」か答えは明らかでしょう。

「なぜ私は親鸞会をやめたのか」をリンクに加えました

なぜ私は親鸞会をやめたのかをリンクに加えました。高森会長の盗作問題、高森会長への無条件服従の問題、親鸞会とお金の問題など、親鸞会の様々な問題点が取り上げられているサイトですので、現役会員の方には是非とも一読して頂きたいと思います。

さて、最近、話題になっている「浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」ですが、その中の 七大経-23(四つの角目を聞け、善導大師の古今楷定の六字釈)の記事の一部は『会報2集』の丸写しです。そして、その部分が、大沼法龍氏の著作のほぼ丸写しであることが、「なぜ私は親鸞会をやめたのか」の中の高森顕徹氏と大沼法竜氏の著書の類似点(1)で指摘されているので、今日はその部分を引用したいと思います。

大沼法竜著 「法界」 P337
善導釈していわく『南無と言うは帰命亦是発願廻向の義なり、阿弥陀仏と言うは即是其行なり、斯の義を以ての故に必ず往生する事を得と言えり』と教えてあるが、南無とはたのむ機の方であり、阿弥陀仏と言うは助くる法の方であり、たのむ機の方までも十劫の昔六字の中に成就して有るから法体成就の機法一体と言うのであるが


高森顕徹著 「会報 第2集」 P46 上段
善導大師は「南無というは帰命、亦是発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは、即ち、その行なり、この義をもっての故に必ず往生する事を得るといえり」と教えて南無とはタノム機の方であり阿弥陀仏とは助くる法の方である。タノム機の方までも十劫の昔に六字の中に成就してあることを明らかにしていられる。これを法体成就の機法一体と呼び、古今楷定の六字釈といわれるものである。


大沼法竜著 「法界」 P337
下三品の人間は無善造悪で業に攻められ、苦逼失念で苦に追い立てられて居るのだ。念仏は称えて居るけれども因縁を結ぶだけであって何時の世にかは往生を得るので即得往生をしたのでない。遠生の結縁と成るだけで次生に往生即成仏を得るのではない、別時意である。


高森顕徹著 「会報 第2集」 P47 上段
下々品の人間は無善造悪で業に攻めぬかれ、苦逼失念で苦に追いたてられているのだから十念称名で願は有っても行がないから助かるはずはない。
(略)
だから十念の称名念仏は諸善万行の成就する永劫の末でないと往生は出来ないのだ。今はただ遠生の結縁になるだけである。にもかかわらず今、それを即得往生すると説かれたのは怠惰な者を誘引して修行させるために外ならないとして下品往生をもって別時意趣と解釈したのである。


大沼法竜著 「法界」 P338
善導が、大体、観無量寿経は心想るい劣の韋提が対機ではありませんか、定散二善に堪えない機を救うのが阿弥陀仏の目的ではありませんか、第九の真身観の仏は光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨と申されたのは下根下劣の下三品を念仏によって救済するのが目的ではありませんか。
(略)
散乱粗動の善導、苦逼失念の下三品がどうして観念が出来ましょうに。仏の慈悲は苦なる者においてす、岩上の者よりは溺れて居る者から救わなければなりません、だから付属の文に来れば廃観立称して有るではありませんか。


高森顕徹著 「会報 第2集」 P48 下段
観経疏の中で、善導大師は諸師の誤謬を正して「大体観無量寿経は心想ルイ劣の韋提希夫人に対して説かれた説法ではないか。定散二善にたえない人を救うのが阿弥陀仏の目的ではないか、散乱粗動の善導、苦逼失念の下三品の人が、どうして観念や修行が出来ようか、仏の慈悲は苦あるものにおいてす、岩上の者よりは溺れているものから救わねばならない。だからこそ付属の文には廃観立称してあるのだ。


大沼法竜著 「法界」 P339
南無と言うは帰命、亦是発願廻向の義であり阿弥陀仏と言うは即是其行、如来既に発願して信順無疑、仰せに順うたと同時に其人の行となる。願と行とが六字の中に調えて有るから必ず往生する事を得るのではないか。願行具足々々と言って凡夫が願を起し凡夫が行を修して行くのなら凡夫の願行だから凡夫の世界にしか行かれない。仏の願行を機無円成するが故に仏の世界に行かれるのではないか


高森顕徹著 「会報 第2集」 P49 上段
南無というは帰命亦是発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは即ち是その行なり。如来既に発願して信順無疑、仰せに順うたと同時に其の人の行となる。願と行とが六字の中にととのえてあるから必ず往生が出来るのだ。願行具足といっても凡夫が願を起し凡夫が行を修して行くのなら凡夫が願行だから凡夫の世界にしか行けないぞ。仏の願行を機無、円成するが故に、仏の世界に行かれるのだ。


また、 七大経-23(四つの角目を聞け、善導大師の古今楷定の六字釈)の内容の誤りについては、
念仏別時意説を唱えたのは天台、浄影、嘉祥ではありませんで取り上げられているのので、参照して下さい。簡潔に言うと、
・念仏別時意説は天台、浄影、嘉祥の説ではなく、摂論宗の学僧たちの説であること
・願行具足と機法一体を混同した説明がなされていること
が指摘されています。


このように盗作して書いた本を、全て自分が書いたかのように振る舞っている人物が、本当に無二の善知識なのかどうか、現役会員の方には考えて頂きたいと思います。

『観経疏』の「不得外現~」の御文を親鸞聖人は「要門」の法義とは見られていません

『観無量寿経疏・散善義』の「不得外現 賢善精進之相 内懐虚仮」の御文を「要門」の法義と見ている人があるようですが、それは親鸞聖人の御心に反していると言わねばなりません。

上記のお言葉は、『散善義』の至誠心釈の中に出てきますが、親鸞聖人は『散善義』の至誠心釈のお言葉を『教行証文類』では、『信文類』と『化身土文類』に分けて引文されています。

至誠心釈の中の「自利真実」を自力の真実と親鸞聖人は見られ、自利真実を明かされた部分を『化身土文類』に引文されました。

またいはく、「また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。自利真実といふは、また二種あり。
一つには、真実心のうちに自他の諸悪および穢国等を制捨して、行住座臥に、一切菩薩の諸悪を制捨するに同じく、われもまたかくのごとくせんと想ふ。
二つには、真実心のうちに自他・凡聖等の善を勤修す。真実心のうちの口業に、かの阿弥陀仏および依正二報を讃嘆す。また真実心のうちの口業に、三界・六道等の自他の依正二報の苦悪のことを毀厭す。また一切衆生の三業所為の善を讃嘆す。もし善業にあらずは、つつしんでこれを遠ざかれ、また随喜せざれとなり。また真実心のうちの身業に、合掌し、礼敬し、四事等をもつてかの阿弥陀仏および依正二報を供養す。また真実心のうちの身業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽慢し厭捨す。また真実心のうちの意業に、かの阿弥陀仏および依正二報を思想し、観察し、憶念して、目の前に現ぜるがごとくす。また真実心のうちの意業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽賤し厭捨すと。(化身土文類)


(現代語訳)
また次のようにいわれている(散善義)。
「また、真実に二種がある。一つには自力の真実、二つには他力の真実である。自力の真実に、また二種がある。
一つには、真実の心をもって、自分や他人の悪をとどめ、汚れたこの世に執着する思いを離れて、いついかなるときも、すべての菩薩がたがさまざまな悪をとどめられるのと同じように、自分もまたその通りにしようと思うのである。
二つには、真実の心をもって、自分が凡夫や聖者の善を修め、また他人にも勧めるのである。真実の心をもって、口には阿弥陀仏とその浄土や聖者たちをほめたたえる。また真実の心をもって、口には自分や他人の住むすべての迷いの世界とその衆生の苦しみや悪をきらい謗る。またすべての衆生の身や口や意で行なう善をほめたたえる。もしその行いが善でなければ、気をつけてこれに近づかず、また喜んではならない。また真実の心をもって、身には合掌し礼拝して、種々の品で、阿弥陀仏とその浄土や聖者たちを供養する。また真実の心をもって、身には自分や他人の住むすべての迷いの世界とその衆生を軽んじきらい捨てる。また真実の心をもって、意には阿弥陀仏とその浄土や聖者たちを、まるで目の前に現れるかのように、想い浮べ、観察し、常に念ずるのである。また真実の心をもって、意には自分や他人の住むすべての迷いの世界とその衆生を軽んじきらい捨てる。


このお言葉が、19願を開説された観無量寿経の顕説、すなわち要門の法義を明かすところに引文されているのです。要門自力の行を明らかにしたいのならば、親鸞聖人の御教示に従って、至誠心釈からは上のお言葉を引用すべきです。


一方、「不得外現 賢善精進之相 内懐虚仮」のお言葉は、『信文類』に引文されています。

ところで、親鸞会では断章された文章ばかりを読ませて、文章全体の意味を無視した解釈ばかりを聞かせています。これが、会員は本当の教えを知ることができない原因の一つになってしまっているのです。そこで、この記事では『信文類』に引文された文章全体を拝読してみたいと思います。

『経』(観経)にのたまはく、〈一者至誠心〉。至とは真なり、誠とは実なり。 一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき安心起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由(由の字、経なり、行なり、従なり、用なり)つてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。{乃至}
不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。(信文類)


(現代語訳:『聖典セミナー教行信証[信の巻]』梯實圓著181-183頁)
『観無量寿経』には、「一つには至誠心」といわれています。至とは真という意味であり、誠とは実という意味です。浄土に往生しようとする一切の衆生は、身の振る舞いも、言葉も、心に思うことも、学問も実践も、かならず如来が真実心のうちに成就して与えてくださったものを須い(用い)るべきことを明らかにしたいと思われているのです。外面に賢者、善人のように勤め励む姿を現してはなりません。心の内には虚仮の思いを抱いていて、貪り、怒り、よこしま、偽り欺きの心が絶えずおこって、悪い性質をとどめることができず、まるで毒蛇や蠍と同じような恐ろしい心を持っているからです。たとえ身・口・意の三業には、賢者、善人のように振る舞っていたとしても、煩悩の毒の雑じった善であり、見せかけだけの偽りの行いであって、決して真実の業とはいえません。もし、このような煩悩のまじった心をおこし、修行するならば、たとえ昼夜不断に、頭の髪の毛に着いた火を払いのけるほど懸命に修行したとしても、すべて毒の雑じった善といわねばなりません。このような雑毒の行を回向して浄土に往生したいと求めても、決して往生できません。
なぜならば、かの阿弥陀仏が、まだ修行者として菩薩の行をなさっていたとき、身の行いも、言葉の行いも、心の持ちようも、ほんのわずかな時間であっても、すべて真実心をもってなされたことに由るからです(由るというのは、如来を経て、行じ、如来に従い、如来の真実を用いるということです)。すべて如来が施し与えてくださった功徳をいただいて、浄土に生まれていこうと求めるのであれば、それはみな真実です。また真実ということに二種があります、一つは、自力の修行によって自己を利益し真実になろうとする自利真実であり、二つには如来の利他のはたらき(他力)によって与えられた真実で、それを利他真実といいます。(中略)
清浄真実でない不善の三業、すなわち自力の諸行は、かならず如来が因位の時に、一切の衆生を平等に救おうという真実の大悲心をもって選び捨てられた御心にしたがって捨てましょう。また清浄真実な善の三業行、すなわち本願の念仏を行うときは、かならず如来が真実心をもって選び取ってくださった本願の御心にしたがって行いましょう。聖者であれ凡夫であれ、智慧のある人も愚かなものも、みな如来の真実なる選択の願心に信順していますから、至誠心と名づけるのです。


全体を拝読すると分かりますように、如来回向の真実心(至誠心)を用いるべきであることを明らかにされている文章なのです。真実心といえるものは仏心だけであり、凡夫には浄土に往生できるような真実心を起こすことはできません。だから、如来回向の真実心(至誠心)を用いなさいと教えられているのです。親鸞聖人の訓点に従って至誠心釈を拝読することにより、善導大師が顕そうとされた利他真実(他力の真実心)とは、本願力によって回向されるものであることが鮮明になりました。

ちなみに「不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ(清浄真実でない不善の三業、すなわち自力の諸行は、かならず如来が因位の時に、一切の衆生を平等に救おうという真実の大悲心をもって選び捨てられた御心にしたがって捨てましょう)」と教えられていることに、真っ向から反しているのが親鸞会です。すなわち、
・獲信の因縁として善をせよ
・修善と獲信はよい関係にある
・善をしなければ信仰は進みませんよ
と教えていることが、それに該当します。


こうして、如来回向の至誠心を明かしたものと『散善義』の至誠心釈を読まれた親鸞聖人は、本願の至心について『信文類』の至心釈では次のように教えて下さったのです。

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。

(現代語訳:上と同じく152-153頁より)
生けとし生けるすべてのものは、はかり知れない遠い昔から、今日ただいまに至るまで、醜い煩悩によって心は汚染されて清らかな心はなく、虚しい偽りと諂いに満ちていて、生死を超えるようなまことの心はまったくありません。このように果てしない苦悩の大海を漂っている衆生のありさまをみそなわして、如来(法蔵菩薩)は深い哀れみの心をおこし、苦悩の衆生を救おうと願い、思いはかることもできない永劫の時をかけて衆生救済のための菩薩行を実践されました。その間、身業も、口業も、意業も、すべての修行は、一瞬といえども清浄でない行いはなく、真実の心をもってなされないことはありませんでした。如来は、その清浄真実な心をもって、あらゆる修行を完成し、一切の対立を超えて、すべてが一つに溶け合い、すべてが障りなく融通していることをさとる究極の智慧を完成していかれました。それは思いはかることも、讃え尽くすことも、説き尽くすこともできない至極の徳ですから、至心といいます。如来は、成就された至心を、煩悩によって悪業をおこし、自己中心的な邪見に陥って迷っているあらゆる衆生に施し与えてくださいました。こういうわけですから、第十八願の至心は、如来より与えられた真実心であるということを表しています。それゆえ、そこには真実を覆い隠すような疑いの心のまじることはありません。この至心は、すなわち如来の至極の徳そのものである南無阿弥陀仏として衆生に与えられますから、至心は尊号を本体としています。

Appendix

プロフィール

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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