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また珍説ですか???ー2000畳座談会

「浄土真宗親鸞会 熊本火の国のひろば」仏教に2つも3つもないより引用。

2000畳座談会で、特に心に残ったのは、

仏教に聖道門と浄土門と2つあるように思うのは、聞き誤りである

とお聞きしたことでした。


どのような文脈で出てきたのかは分かりませんが、9/19(日)の2000畳座談会で、上記の発言があったそうです。


もはやどんな発言が出ても驚きませんが、

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。(化身土文類)


などのお言葉をどう理解するのでしょうか?


以前取り上げた「二千畳は無上甚深の功徳の宝を取引をするところ」もでそうですが、現役会員さんは、いままで聞いたことのないことを聞くと感動するようですね。
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親鸞会教義から抜け落ちていること

あるブログを見ていたら、英訳の「教行信証」について書かれていました。

その中の

例えば、英語では必ず主語が必要ですので、他力の話をする時、「誰が」が明確なんです。もちろん、他力に於いてはすべて「Amida-Buddha]が主語です。
そしてそのハタラキは「~ing」現在進行形で表現されます。今、現在も浄土で真実の法を説かれているからです。
それを受け取るのは「私」ですが、これを「I(Me)」ではなくて、「Inner-being」と表現するんですね。私の存在そのものの核(命の根源)というような表現でしょうか?
「なるほど」と思いませんか?

なるほど、、いま現在はたらいて下さっている、わたしの核に、ですね!


という箇所に「なるほど、浄土真宗をよく表している」と思いました。

内容を簡潔にまとめると、

(1)他力においては、すべて阿弥陀仏が主語。
(2)他力は、いま現在はたらいて下さっている、私に。


となります。そして、これらが、親鸞会で教えられていることでは抜け落ちているなと感じました。


親鸞聖人は『行文類』他力釈で

他力といふは如来の本願力なり。

と教えられていますが、この「他」とは衆生(私)のことです。

このことは、他力釈に『浄土論註』を引かれて、

しかるに覈に其の本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり。他利と利他と、談ずるに左右あり。もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし。いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ。まさに知るべし、この意なり。

と教えられていることから分かります。これは、「覈求其本釈」と言われるものです。現代語訳は、

そこでいま、衆生が速やかにさとりを得ることの根本を明らかにするなら、阿弥陀仏をそのもっともすぐれたはたらきとするのである。他利と利他とについては、何を語ろうとするかによって違いがある。仏の方からいうなら、他すなわち衆生を利益するのであるから、利他というのがよい。衆生の方からいうなら、他すなわち仏が利益するのであるから、他利というのがよい。いまは仏のはたらきを語ろうとするのであるから利他というのである。この意味をよく知るがよい。

となります。

少し解説をします。

まず、「他利と利他と、談ずるに左右あり」の「利他」とは、「他を利す」と読み、「自利他(自が他を利す)」の「自」が略されたものです。これは、自である阿弥陀仏が他である衆生を利益するという意味で、阿弥陀仏の救済活動を仏の側から表した文章です。すなわち、救済のする仏が主体であり、救われる「我」は客体となります。それを「もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし」といわれています。

次に、「他利」ですが、「他が利す」と読み、「他利自(他が自を利す)」の「自」が略されたものです。これは、他である阿弥陀仏が自である衆生を利益するという意味で、私の側からみた文章になります。この場合は、救済される「我」が主で、救済する仏が客体です。ですから、「衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし」といわれる訳です。

「いままさに仏力を談ぜんとす」と、今は仏のはたらき(仏力・本願力)を語ろうとするので、「このゆゑに利他をもつてこれをいふ」といわれたのです。

阿弥陀仏の強力な本願力を表すのには、仏の救済意思を表す「利他」がふさわしいということです。

他力とは、「他の力」という意味ではなくて、如来の「利他力」を表す言葉として用いられていた訳です。つまり、「他力」とは、「利他力」の「利」が略されたもので、阿弥陀仏が衆生(私)を利益される力のことです。

親鸞聖人は、しばしば他力のことを「利他」といいかえられています。行・信・証から一つずつ挙げましょう。
・行といふは、すなはち利他円満の大行なり。(浄土文類聚鈔)
・利他深広の信楽(信文類)
・利他円満の妙位(証文類)

真宗の行、信、証は、すべて阿弥陀仏から与えられるものなのです。その阿弥陀仏が衆生(私を)救済するはたらき・力を、「他力」=「利他」と表されている訳です。

こうして、『証文類』総結の文には、

宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり。

(現代語訳)
曇鸞大師は、往相も還相もみな阿弥陀仏の大いなる慈悲による回向であることをあらわして、他利と利他の違いを通して他力の深い教えを詳しく説き広めてくださった。

と、曇鸞大師の功績が讃えられています。

浄土真宗で説かれているのは、阿弥陀仏を主体、私を客体とする、阿弥陀仏の救済活動です。すべては阿弥陀仏が私に与えて下さるものであり、私の側の造作は何ら要しません。

私が阿弥陀仏に向かっていく教えではないのです。
黒板に「縦の線・横の線」を書いて、「この一念の決勝点まで進め!」という教えは、浄土真宗ではありません。
私が、廃悪修善を実践して、後生に驚きが立ち、「一つの善もできない自分でした」というところに向かって進んでいく教えも、親鸞聖人の教えではありません。
私が、聴聞・勤行・六度万行に励んで、「信仰」というものを進めて、その先の救いを求めていく教えも、真宗ではありません。

私が、本願力を計らうのではありません。
阿弥陀仏の本願力が、私をはからうのです。

すべて本願力の回向によって救われる教えが浄土真宗です。

その本願力、他力、仏力は現在はたらいているのです。

私が何かをして進んでいった先にはたらいているものではありません。
いま、ここにいる私の上にはたらいているのです。

ゆえに、その願力を計らいなく聞き受けたとき、報土に往生すべき真因が決定するのであります。

「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。(行文類)

ここに、平生業成が成立するのです。


(参考)
WikiArcー他力
「用管窺天記」今将談仏力(いままさに仏力を談ぜんとす)

出拠を知らないから教えの間違いに気が付かないー「平生業成」を例に

親鸞会の教えの説き方の問題点として、そのお言葉がどこに説かれているのかという出拠を示さずに説明をするというものがあります。これによって、前後の文脈を無視した解釈がなされていたり、間違った解説がなされていても、聞いているものがその間違いに気が付く可能性は非常に低くなってしまうという弊害があります。それによって、親鸞会の独自教義を、親鸞聖人の本当の教えだと誤解してしまっているように見受けられます。

今回は、親鸞会でよく話をされる「平生業成」を例にとって、親鸞会の教義について検証したいと思います。

「平生業成」という言葉そのものは、親鸞聖人の書かれたものの上には見られません。覚如上人、存覚上人の上で示され、蓮如上人の上でしばしば見られます。例として、2つのお言葉を示します。

親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして臨終往生ののぞみを本とせず、不来迎の談にして来迎の義を執せず。(浄土真要鈔)

そもそも、親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして、来迎をも執せられ候はぬよし、承りおよび候ふは、いかがはんべるべきや。その平生業成と申すことも、不来迎なんどの義をも、さらに存知せず。くはしく聴聞つかまつりたく候ふ。(御文章1帖目4通)


いずれのお言葉でも、親鸞聖人の一流は「平生業成」であり、それに対して「(臨終)来迎」が挙げられています。

つまり、「平生業成」の「平生」とは「臨終」に対する言葉であるということです。
『「平生」とは「臨終」ではない、生きている現在』と説明すべきなのですが、親鸞会では『「平生」とは、死んだ後ではない、生きている現在』と説明しています。これは不適当な説明だということです。

漢字4字でいうと、「平生業成」は、「臨終業成」に対する言葉なのです。

「業成」とは、親鸞会の『教学聖典』にあるように、業事成弁という意味です。往生の業因が行者の上に成就するということです。

(浄土に往生するのは死後ですから、その業事成弁(業因成就)が平生なのか臨終なのかは問題になります。しかし、浄土往生が死後か現在かは問題になりません。そういう意味でも『「平生」とは、死んだ後ではない、生きている現在』という親鸞会の説明はおかしいことが分かります。)

臨終来迎をえることで往生が定まるという「臨終業成」に対し、平生に南無阿弥陀仏を聞信した一念に往生の業因が定まるという「平生業成」が親鸞聖人の教えです。

ここで、阿弥陀仏が衆生が浄土に往生する因を誓われた十八願、十九願、二十願についてみると、
・平生業成 ー 十八願
・臨終業成 ー 十九願・二十願
となります。十九願は、願文に明らかに臨終来迎が誓われています。二十願も、その意を開説した『阿弥陀経』に臨終来迎が説かれていることから、臨終を期し来迎を待って往生が定まることが分かります。

以上、述べてきたことが、親鸞会でよく話される「体失不体失往生の諍論」の法然聖人の仰せの中に教えられています。親鸞会では、『口伝鈔』のお言葉を挙げて説明されることは、ほとんどありませんので会員の方では知らない人もあるかもしれません。

念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。つぎに諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いづれも文釈ことばにさきだちて歴然なり。

・念仏往生(十八願)は、仏の本願であり、臨終の善悪を沙汰せず、他力より信心が定まる平生のとき、往生の業事が成弁する。
・諸行往生(十九願)は、本願ではない。十九願の人は臨終来迎を待たなければ、化土にも往生できない。
と教えられています。
体失不体失往生の諍論とは、往生が定まるのが、平生か臨終かの争いであり、それぞれの根拠は十八願、十九願にあるのです。十八願の「若不生者」の「生まれる」が、死後か現在かの争いではありません。
そして、念仏往生(十八願)は本願だから十方衆生が救われるのであり、諸行往生(十九願)は非本願だから定善・散善ができる人に限ると仰って、十八願の機の不体失往生と十九願の機の体失往生とでは、上下優劣のへだたりがはなはだしいと結ばれています。

臨終来迎を誓われている十九願の修諸功徳の善(定散二善)を、平生業成の十八願を求めている人に勧めているのが、親鸞会でいう「三願転入の教え」です。様々なブログで指摘されているように、いろいろな点から破綻しているのが親鸞会の「三願転入の教え」ですが、「平生業成」の意味を見ていってもやはり破綻していることが分かります。


今回の記事をまとめます。

・「平生業成」とは、「臨終業成」に対するものであることが親鸞会では教えられていません。

それによって、

・「平生業成」の義により、親鸞聖人の教えは、平生に本願を聞信する一念に往生が定まる十八願の法門であることが示され、「臨終業成」の十九願の法門でも二十願の法門でもないことが明らかになるですが、親鸞会会員はそれに気が付かなくなってしまっています。

その結果、

・会員さんは、親鸞会流の「三願転入の教え」に疑問をもつこともありません。「三願転入の教え」が破綻していることにも気が付きません。



最後に、現役会員さんには、以上を踏まえて、親鸞聖人の『末灯鈔』のお言葉を拝読して頂きたいと思います。

 来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。
 正念といふは、本弘誓願の信楽定まるをいふなり。この信心うるゆゑに、かならず無上涅槃にいたるなり。この信心を一心といふ、この一心を金剛心といふ、この金剛心を大菩提心といふなり。これすなはち他力のなかの他力なり。
 また正念といふにつきて二つあり。一つには定心の行人の正念、二つには散心の行人の正念あるべし。この二つの正念は他力のなかの自力の正念なり。定散の善は諸行往生のことばにをさまるなり。この善は他力のなかの自力の善なり。この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。
(中略)
浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。


どんなお言葉が解説されたときでも、真宗聖典で出拠を探し、その前後を含めて確認することをお勧めします。

名号形像同一本尊ということを教えられた蓮如上人の帖外御文 (2)

名号形像同一本尊ということを教えられた蓮如上人の帖外御文 (1)の続きです。

『わかりやすい名言名句 蓮如上人のことば』稲城選恵著(法蔵館)134-136頁から引用。

 この「御文章」は文明十三年十一月十四日と後に明記されているから、六十七歳のものといわれる。この御文の内容は『安心決定鈔』をうけていることは明らかである。が『安心決定鈔』と『歎異鈔』は蓮師によって明らかにされたものである。双方ともに著者不明のものであるが、現在の学者の多くは『安心決定鈔』は西山義の系統のものといわれる。特に本山義の康空示導の作ともいわれる。蓮師は、『安心決定鈔』を生涯の愛読書とされていたようである。この用語も、元来西山義のものであるが、蓮師はこの用語を用いて、西山義と浄土真宗の立場の相違を明らかにされているのである。西山義では南無の機と阿弥陀仏の法が一つになり合うと、宗教の原語religionと同じ意味に解釈するが、蓮師の釈は南無即阿弥陀仏という不二一体なることを明らかにし、一而二なる面は機法の相違によるものとする。本来一体なることを明かし、以て他力の信なることを明らかにされているのである。この『安心決定鈔』をうけ、名号と形像は別なものでないことを示されている。最近のある主張者のごとく、名号本尊に限定することでなく、形像も名号も一つなることを示しているのがこの「御文」である。したがって浄土真宗の本尊は形像にしても名号にしても南無阿弥陀仏をあらわしたものである。形像本尊は、南無阿弥陀仏を形像によって表象されたものといわれる。『安心決定鈔』本にも、

たとひ凡夫の往生成じたまひたりともその願成就したまへる御名をきかずは、いかでかその願成ぜりとしるべき。かるがゆゑに名号をききても形像を拝しても、わが往生を成じたまへる御名ときき、「われらをわたさずは仏に成らじと誓ひたまひし法蔵の誓願むなしからずして、正覚成じたまへる御すがたよ」とおもはざらんは、きくともきかざるがごとし、みるともみざるがごとし。(註釈版聖典より引用)

とあり、名号を聞くも形像を礼することも全く一つなることを明らかにされている。特に蓮師の、帖外六十二通の文明十五年八月二十八日の御文には「而して後阿弥陀堂の仏壇いまだこれをつくらせざる間、同じくこれを企てつくりければ、いくばくもなくして出来せり。則ちまづ本尊を六月十五日にはすえたてまつりけり」とあり、山科本願寺は木像の形像本尊となっていることが明らかである。さらに『拾遺聞書』によると、

蓮如上人は折節その道場に御座て、木像の本尊をめしたりし御衣をぬがせたまひ裏ませたまひて(真聖全、拾遺部下、六一二頁)

とあり、明らかに木像の御本尊を用いられている。しかるに『御一代記聞書』六十九条に、

他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり。当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり。

とあり、この文によって名号本尊に固執するものも存するようであるが、この場合、他流といっているのは法然門下の異流をいうのである。蓮師の場合には、他宗と他流とは明らかにその意味を異にするのである。すなわち、西山義や鎮西義をいうのである。他流では本尊はすべて来迎仏である。来迎の相を示すには、木像が最も至便であるからである。
 これに対し浄土真宗は、臨終来迎でなく、平生業成の立場である。この平生業成の義を明らかにせんがために、すでに覚如上人の『改邪鈔』、存覚上人の『弁述名体鈔』にあるごとく、親鸞聖人は「帰命尽十方無碍光如来」の十字の尊号を用いられたといわれる。いつでもどこでもだれにでも、六字の法は既にとどけられているのである。それゆえ、聞信の一念に即得往生の益をうるのである。蓮師はしばしば一念発起入正定之聚とか一念発起平生業成といわれている。聞かせていただく今ここの外に、救いの法のはたらいている場はあり得ない。このまま尽十方無碍光如来の頭には「化身土巻」でも「末灯鈔」でも本願成就とある。本願成就即名号六字の法であるが、それは自らが求めるに先行して、すでに与えられているのである。それゆえ、聞信の一念に即得往生の益をうる平生業成の義が成立するのである。いまここに存在する、この私の存在する場がたすかる場所であり、その証拠が仏壇の内容といわれる。ここに浄土真宗の本義が御本尊の上に明らかにされていることが知られるのである。それゆえ、形像本尊は御姿で示した名号というべきで、全く一つなるものといわれるのである。



山科本願寺の御本尊は木像本尊であったこと、以前の記事でも書いた蓮如上人が「方便法身尊形」の絵像や「方便法身尊像」の木像を御下附されていたことから、親鸞会の「蓮如上人は名号しか御本尊として礼拝しておられない」という主張は訂正されるべきでしょう。

また、『御一代記聞書』のお言葉についてですが、他流の木像本尊は来迎仏である一方、真宗の木像本尊は住立空中尊であり、第十八願成就の救主である尽十方無碍光如来の徳義をお姿で示したものといわれています。なお、上の文中で『尽十方無碍光如来の頭には「化身土巻」でも「末灯鈔」でも本願成就とある』と書かれているのは、

「諦観彼国浄業成者」といへり、本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。(化身土文類)

第十八の本願成就のゆゑに阿弥陀如来とならせたまひて、不可思議の利益きはまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は尽十方無碍光如来とあらはしたまへり。(末灯鈔)


と教えられているお言葉についていわれたものです。『御文章』には、

それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなりとしるべし。(5帖目8通)

阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。(4帖目8通)


と、阿弥陀仏の正覚すでに成じたまひしすがたが、いまの南無阿弥陀仏であり、われらが往生の定まりたる証拠と教えられています。「いまの南無阿弥陀仏」とあるように、名号法がはたらいている場は、いま、ここにいる私の上です。その名号法の活動相を示されたものが、「帰命尽十方無碍光如来」の十字の尊号や「南無不可思議光如来」の九字名号・「南無阿弥陀仏」の六字名号であり、形像の上では住立空中尊です。形像本尊は御姿で示した名号というべきものなのです。

ところで、正御本尊の前で「信仰が進むだろう」、「宿善があつくなるだろう」と思って勤行しているのは、名号を彼方に置いてそこに自分が向かっていくすがたであり、それは他力回向に反しているすがたです。もしそうならば、残念なことに、『安心決定鈔』に「きくともきかざるがごとし、みるともみざるがごとし」と教えられている状態になってしまっているのです。

親鸞聖人は晩年、「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号を依用されました。本願は成就し、どこでもはたらいているのが名号法であることをあらわさんがためでありましょう。「どこでも」とは、いま、ここにいる私の上です。自らが求めるに先行して、すでに与えられているのが南無阿弥陀仏です。その「まかせよ(南無)必ず助ける(阿弥陀仏)」の仰せを計らいなく聞き受けるのが信心です。

「本願成就即名号六字の法であるが、それは自らが求めるに先行して、すでに与えられているのである。それゆえ、聞信の一念に即得往生の益をうる平生業成の義が成立するのである。いまここに存在する、この私の存在する場がたすかる場所であり、その証拠が仏壇の内容といわれる。ここに浄土真宗の本義が御本尊の上に明らかにされていることが知られるのである」とは上の稲城和上の言葉ですが、本尊の形式だけにとらわれて、本尊の意味するところが失われてしまっている状態ではいけません。


(補足)

引用文の前半部に、機法一体について書かれていますが、これについては『21世紀の浄土真宗を考える会』の機法一体についての記事をご参考下さい。

(参考記事)
本尊論でも相手の批判を無視し続ける親鸞会

名号形像同一本尊ということを教えられた蓮如上人の帖外御文 (1)

今日は、名号も形像も一つなることを教えられた蓮如上人の帖外御文を拝読したいと思います。

『わかりやすい名言名句 蓮如上人のことば』稲城選恵著(法蔵館)133頁から引用。

23 名号形像同一本尊ということーーーー六十通(帖外)
名号形像同一本尊の章

それ当流の念仏行者に於て、まづ弥陀如来他力本願の趣きを存知せしめ、真実信心を発起せしむべし。それにつひて第十八の願意をよくよく分別せよ。・・・・・・第十八の願をこころうるといふは名号をこころうるなり。また念仏といふ名をきかばわが往生は治定とおもふべし、十方の衆生往生せずば正覚とらじとちかひたまへる法蔵菩薩の正覚の果名なるが故にとおもふべし。また弥陀仏の形像をみたてまつらばはやわが往生は決定とおもふべし。また極楽といふ名をきかば法蔵菩薩の成就したまへる故に、われらがごとくなる愚痴悪見の凡夫のための楽のきはまりなるが故に、極楽といふなり。わればひしとわれらが往生を決定せしすがたを南無阿弥陀仏とはいひけるといふ信心おこりぬれば仏体すなわちわれらが往生の行なり。ここをこころうるを第十八の願をおもひわくとはいふなり。


蓮如上人が阿弥陀仏の形像を否定されてはいないことは、上の赤字の部分でお分かり頂けると思います。

この後、稲城師の解説が書かれているのですが、それについては後日アップします。


なお、帖外御文は、ネット上では、国立近代図書館 近代デジタルライブラリーで読むことができます。この記事に出てくる文明13年11月14日の帖外御文は、
「真宗帖外御文」
で検索して出てくる本の[第3冊]巻之3 18頁目から書かれています。

(つづく)

Appendix

プロフィール

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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