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ああなった、こうなったの体験談を掲載する『顕真』10月号

最近の親鸞会の公式ホームページに掲載されているマンガは、「体験談を語る者には近づくな!」というメッセージのオンパレードです。

【マンガ】「おぞましや体験談」の巻より引用
http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic29.htm
・今日もまた 得意に話す 体験談
・体験談 ほかに売り物 さらになし
・このような 悩み苦しみ オレはした だから聞けたと 自慢体験


【マンガ】「スガルの改心」の巻より引用
http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic31.htm
・おぞましや 名聞利養に 体験談
・教えなし 寝ても覚めても 体験談
・体験談 自己宣伝の ほかはなし
・依存症 体験談こそ いのち綱
・善知識 なぜか記さぬ 体験記


【マンガ】「迷海惑乱」の巻より引用
http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic33.htm
・あさましや バーゲン信心 体験談
・教えなし 体験談が 自慢種


といった具合です。

また、過去の『顕真』にも、個人名を挙げての「信・不信」は言うべきことでも、書くべきことでもないとか、「私はああだった」「こうなった」のは体験談は私事であり教えを聞くべきだというような内容の記事がよく掲載されていました。体験談を読むこと、聞くことを禁じ、体験を語る団体には近づかないようにという趣旨の記事です。

ところが、『顕真』平成22年10月号には、

60年変わらぬ真摯な聞法
 本願まことを知らされた
  高森先生との出遇い

と題する記事があり、そこには、ある人の体験談が掲載されているのです。一部分引用しましょう。

 しかし、上の心が焦って聞けば聞くほど、平気でいる下の心が苦になり始めました。真剣に聞法するほど、心の底は全く動かぬように感じ、まるで鉄の扉でした。
 そうして最後に知らされたのは、何にも分からない自分であった、ということでした。
 地獄一定、堕ちる姿のそのままを知らされ、それと同時、阿弥陀さまの呼び声が、一念慶喜となって聞こえてくだされたのです。信心歓喜、歓喜踊躍、広大難思の慶心となって奥底からわき上がってくださいました。
 自分のすべてが知らされ懺悔となり、報謝となって、お念仏が込み上がってくるのです。破闇満願、光明の広海、手の舞い足の踏むところもありませんでした。
 私は、村の人々に叫び続けて歩きました。中には、ののしり、笑う人もありました。しかし私は、言わずにおれなかったのです。
 阿弥陀さま、ようこそお救いくださいました。広大なるこのご恩、どうしてお返しできましょうか。せめて、縁ある人々にこの幸せをお伝えします。
 この世で高森先生とお会いできなかったならば、また、闇から闇へ苦しむ人生であったでしょう。真実の仏法を聞ける所は、浄土真宗親鸞会以外にありません。
(29頁より引用)


これこそ、「私はああだった」「こうなった」の体験談です。
会員さんは、日頃、会で教えられていることと、今回の『顕真』の記事の内容との関係をどのように理解しているのでしょうか?
思考停止で何も思わないのでしょうか?

真実の仏法を聞ける所は、浄土真宗親鸞会以外にありません。

というような体験談ならば、読ませてもかまわない、いや、むしろ大いに読ませなさいという深い御心ですか?


さらに、この体験談には知識帰命を肯定する以下のような文も書かれています。

「どこかに、心から喜べる教えを聞かせてくれる人はいないのか」
と思っていたある日、近くの村に〝生き仏さま〟が来られると耳にしたのです。昭和24年9月17日、高森先生との出会いでした。
(28頁より引用)


ここには、〝生き仏さま〟=「高森会長」の構図が見えます。

会の機関誌に知識帰命を助長するような文章を平気で載せることを許可するような人物は、果たして「善知識」と言えるのでしょうか?

親鸞聖人は、『化身土文類』に、

今日より法に依りて人に依らざるべし

のお言葉を引文され、蓮如上人は『帖外御文』に

かへすがへす当山へなにのこゝろえもなきひときたり、予に対面して手をあはせおがめることもてのほかなげきおもふところなり。さらにもてたふときすがたもなし、たゞ朝夕はいたづらに、ねふせるばかりにて不法懈怠にして不浄きはまりなく、しばらくさき身にてありけるををがみぬること真実真実かたはらいたき風情なり。

と仰って、自らに手を合わせ拝んだ人を嘆いておられます。自らを礼賛することを許す高森会長とは正反対です。

親鸞会で使われる「信仰」という言葉を当ブログでも何回か取り上げてきましたが、「信仰」という言葉には「高森先生に対する気持ちの強さ」といった意味合いもあるように感じます。
親鸞会は、「高森先生を信仰する団体」になってしまっているのではないでしょうか?
自分が向かっている先は何なのかを会員の皆さんは一度立ち止まって見つめてみるとよいと思います。
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日常生活の問題と往生の一段とが混在した文章(親鸞会.NETより)

親鸞会.NETが更新されていました。
相変わらず日常生活の問題と往生の一段の混在が見られます。

『歎異抄』の誤解が真宗を崩壊させている|親鸞会 顕正新聞
http://www.shinrankai.net/2010/10/tannishou-gokai-shinbun.htm
より引用

「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」(歎異抄)

これを、みな「本願を信ずるには」と誤読し、”弥陀に救われるには、善は不要、悪も恐れる必要はないのだ”と得手に理解する。

その結果は明らかだ。

放逸無慚(ほういつむざん)になり果てた浄土真宗は、外道からは悪人製造の教えと揶揄され、崩壊の一途を辿っている。

その原因が、『歎異抄』のこの誤解にあるといっても過言ではない。

もちろん、「弥陀に救われたならば」のことである。「弥陀の救い」は、百年や千年の問題ではない、幾億兆年の迷いの魂を解決し、浄土往生させることである。

平生に往生一定の大満足を獲たならば、当然ながら「往生のために善をしよう」など微塵もないから「他の善も要にあらず」と言われているのである。

往生の一段のことであって、それを日常生活へ持ちこんで”善が不要”などと誤解するから、

仏法を破壊し世の中に猛毒をまき散らして平気でいるのだ。

因果の道理は宇宙の真理、ゴロゴロ怠け放題では人生の落伍者となるだけ。

世界の光と仰がれる聖人のご活躍は、真実信心はもちろんのこと、ずば抜けた勉学努力なくしてはあり得ないのだ。

善知識から「弥陀の救い」を正しく聞かせて頂かねば、お聖教の一言半句もまともに読めぬと知らされるばかりである。



最初の、

これを、みな「本願を信ずるには」と誤読し、”弥陀に救われるには、善は不要、悪も恐れる必要はないのだ”と得手に理解する。

は、「弥陀に救われるには」とありますので、「往生の一段」のことです。

そして、"弥陀に救われるには、善は不要"というのは、正しいですね。阿弥陀仏の救い(第十八願の救い)に私が行った善は無関係ですから。

おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず。(信文類)

と教えられている通りです。


ところが、真ん中あたりの、

それを日常生活へ持ちこんで”善が不要”などと誤解する

というところは、"「日常生活」で善が不要"という話になっています。


結局、「弥陀に救われるには、善は不要」というのは得手な理解だということになっていますが、「弥陀に救われるには、善は不要」が誤りだと言いたいのでしょうか?
もし、そうならば、「弥陀に救われるには、善は必要」となり、浄土真宗の破壊です。

教えを正しく聞かせるどころか、「日常生活の問題」と「往生の一段」とを混在させて、むしろ「弥陀の救いには善が必要」というような聞き誤りを誘発する文章になっているなと思います。分かりにくい文章が親鸞会会員の真宗理解を崩壊させているという感じですね。

果たして、現役会員の皆様は、『弥陀に救われたならば往生のために善をしようという心は微塵もないことは分かりましたが、弥陀に救われるには善が必要なのですか?「必要」「不必要」のどちらかで答えて下さい』と聞かれたら、何と答えるのでしょうか?

「親鸞会で推進される活動」と「死ぬまで求道の悲劇 」

「善をしなければ信仰は進みませんよ」と言われ、親鸞会で勧められている活動に励んでいるのが親鸞会の会員さんです。会員さんが活動に励む目的は、親鸞学徒聖則の1番目に

一 親鸞学徒は信心獲得することを本と致します

とあるように、信心獲得以外にはないと思います。

「善をしなければ信仰は進まない」といわれる善の中身は、財施(親鸞会への献金)と法施(法話に人を誘うこと)が主なものですが、そのような活動にどれだけ一生懸命励んでも信心獲得はかないません。今日は、そのことについて、親鸞聖人のお言葉を挙げて説明致します。


まず、私たちの行う善によって生じる功徳について、親鸞聖人は、『化身土文類』に『浄土論註』を引かれて、

二種の功徳相あり。一つには有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫、人・天の諸善、人・天の果報、もしは因、もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽なり。ゆゑに不実の功徳と名づく。

(現代語訳)
功徳には二種類がある。一つには、煩悩に汚れた心によって修めた、真如にかなっていない功徳である。いわゆる凡夫が修めるような善を因として、人間や神々の世界に生れる果報を得ることは、因も果もみな真如にかなっておらず、いつわりであるから、不実功徳というのである。

と教えられています。ここは、功徳には二種類(真実功徳・不実功徳)がある内の不実功徳について説かれた部分です。有漏の心、すなわち煩悩から出た善は真如にかなっておらず、善といっても因も果も顛倒・虚偽だといわれています。


一方、真実の信心の徳について、『信文類』では、

たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。

と教えられています。このように真実の信心の徳を不顛倒・不虚偽で表わされたのは、『浄土論註』の真実功徳釈を承けたもので、親鸞聖人は『行文類』に引文されています。

二つには菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入れり。この法顛倒せず、虚偽ならず、真実の功徳と名づく。いかんが顛倒せざる、法性により二諦に順ずるがゆゑに。いかんが虚偽ならざる、衆生を摂して畢竟浄に入るるがゆゑなり。

(現代語訳)
二つには、菩薩の法性に順じる清らかな行からおこって、仏の果報を成就する功徳である。これは、法性にしたがい清浄の相にかなっている。この法は真如にそむいているのでもなく、いつわりでもないから、真実功徳というのである。なぜ真如にそむいていないのかというと、法性にしたがい二諦の道理にかなっているからである。なぜいつわりでないのかというと、衆生を摂め取ってこの上ないさとりに入らせるからである。

ここは、真実功徳について教えられている部分です。煩悩を離れた菩薩のなす清浄な行の果報、すなわち如来・浄土が真実功徳であると言われています。不顛倒とは真如にかなった正しい智慧のことであり、不虚偽とは人々を救済することに嘘も偽りもないことです。

さて、真実の信心が不顛倒・不虚偽の徳をもつということは、それが如来・浄土と同じ真実功徳であり、往生成仏の正因としての徳をもっていることを表わしている訳です。

難しい御文がいくつか出てきましたが言いたいことは、煩悩に汚れた心によって修めた善は因も果も顛倒・虚偽であり、それをどれだけ励んでも真実功徳としての徳(不顛倒・不虚偽の徳)をもつ信心を獲得することはできないということです。

親鸞会がいう「修善の勧めが弥陀の救いと無関係であるはずがない」は完全に誤りです。親鸞会で推進されている財施(親鸞会への献金)と法施(法話に人を誘うこと)をどれだけ行おうと、信心獲得とは無関係なのです。

親鸞会でよく使われる言葉(※)でいうと、親鸞会の活動とは「死ぬまで求道の悲劇」以外の何者でもありません。100パーセント求まらないのに、死ぬまで求め続けさせられているのですから。早くこの事実に気が付いて頂きたいと念じております。


なお、以上のことを理解して頂ければ、親鸞会で最近、盛んに用いられている「善のすすめ」の根拠

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。(一念多念証文)

のお言葉の意味も、決して「阿弥陀仏の救いを求めて善をしなさい」というような意味ではないことがお分かり頂けると思います。我々の行う善では、絶対に本願一乗円融無碍真実功徳大宝海に入ることはできないのです。


※当ブログをご覧の方には、親鸞会の話をほとんど聞いたことのない方もおられると思います。参考までに、親鸞会でよく使われる言葉として挙げた「死ぬまで求道」の用例を以下に示しておきます。

親鸞会公式ホームページ 『特集:人生の目的』
◆第2章◆ 月とスッポンほど違う 「人生の目的」と「生きがい」
http://www.shinrankai.or.jp/jinsei/index.htm
より引用。
 
 剣道、柔道、書道、絵画、華道、茶道、政治、経済、科学、医学、法律など、「趣味や生きがい」にはすべて完成がない。どこまで求めても、「求まった」ということのないものである。それなのに、「死ぬまで求道」が素晴らしいと、信じ込んでいる人が多い。
「死ぬまで求道」とは、100パーセント求まらないと知りつつ、死ぬまで求め続ける悲劇にほかならぬ。
 宝くじを買う人は、「ひょっとしたら大当たりかも……」と思うからこそ買うのである。いくら好きでも、当たりが1本もない宝くじや、3年前の宝くじを買う人はいない。
 しかし、人生に関しては、どうしたわけか、100パーセント求まらないと知りつつ「趣味や生きがい」を追い求めている人がほとんどだ。「死ぬまで求道」が素晴らしいと、無理に思い込まなければ、到底できないことだろう。

ことに仏智信疑の得失を明かし、盛んに浄土報化の往生を判ず

前回の記事では、『教行証文類』の概要を教えられた存覚上人の『嘆徳文』のお言葉を紹介しました。今日は、前回あまり触れなかった、

ことに仏智信疑の得失を明かし、盛んに浄土報化の往生を判ず。

について述べます。

『教行証文類』は仏智信疑の得失を明かした書であり、そこには仏智を信受する者は報土往生でき、仏智を疑惑する者は化土に止まるということが説かれているのだと存覚上人は仰っています。


『教行証文類』の構成を少し見てみましょう。

『教行証文類』一部六巻の内容は、真実の巻と方便の巻に分けられます。

真実の巻である前五巻は、十八願の内容を五願(十七願・十八願・十一願・十二願・一三願)六法(教・行・信・証・真仏・真土)に開かれたものです。
一方、『方便化身土文類』は標挙に「至心発願の願」「至心回向の願」とあるように、その中心は十九願・二十願です。

真実の巻では、教・行・信・証・真仏土と、行信の因が先で証・真仏土が後に説かれています。
一方、方便の巻では

つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。

と巻頭に化身化土の果を出され、その後で十九願・二十願の行信の因が明らかにされています。

真実の巻では因から果の順に説かれ、方便の巻では果から因の順に説かれているのは、報土往生という果に対し、化土往生という明らかな果の失を示されることにより、方便の行信に問題があるということを教えるためです。

このことは、古来、稲と稗の喩えで示されています。苗の間は、稲と稗の区別はつきにくいのですが、秋になって実ったものをみれば誰にでも区別がつきます。先に実を示して、因(たね)に問題があることを明かすという説き方です。つまり、『方便化身土文類』に示される行信は「この道にはいかないように」ということで教えられたものなのです。

さて、真実の巻の中心は『信文類』であり、そこでは他力の信心が明らかにされています。一方、『化身土文類』に明らかにされる十九願・二十願の信は、自力の心です。仏智を信受するが故に報土に往生し、仏智を疑惑するが故に化土に止まるという、仏智信疑の得失を明らかにされたのが『教行証文類』なのです。ゆえに、

ことに仏智信疑の得失を明かし、盛んに浄土報化の往生を判ず。

と存覚上人は教えられました。

このような仏智信疑の得失は遡れば、『大無量寿経』に説かれていることです。

そのときに慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、「世尊、なんの因、なんの縁ありてか、かの国の人民、胎生・化生なる」と。仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。
もし衆生ありて、あきらかに仏智乃至勝智を信じ、もろもろの功徳をなして信心回向すれば、このもろもろの衆生、七宝の華中において自然に化生し、跏趺して坐し、須臾のあひだに身相・光明・智慧・功徳、もろもろの菩薩のごとく具足し成就せん。


(現代語訳)
そのとき弥勒菩薩がお尋ねした。
「 世尊、いったいどういうわけで、その国の人々に胎生と化生の区別があるのでしょうか 」
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。
 これに対して、無量寿仏の五種の智慧を疑いなく信じてさまざまな功徳を積み、まごころからその功徳を持ってこの国に生れようとするものは、ただちに七つの宝でできた蓮の花に座しておのずから生れる。これを化生といい、たちまちその姿を光明や智慧や功徳などを、他の菩薩たちと同じように、欠けることなく身にそなえるのである。


このように、仏智疑惑の者は胎生(化土往生)、明信仏智の者は化生(報土往生)と仏智信疑の得失を説かれ、仏智疑惑が誡められて仏智を疑いなく信受することが勧められているのです。


『方便化身土文類』に説かれている行信は、実行させるために説かれたのではなく、誡めるために説かれたものなのです。

親鸞会では、説かれていることは何もかも獲信と関係あることと捉えて、「我々の獲信と無関係なことなら教えられるはずがない」などと言いますが、実行させるためではなく、誡めるために説かれるということもあることを知って頂きたいと思います。

凡夫有漏の諸善、願力成就の報土に入らざることを決す

『教行証文類』の最初の注釈書である『六要鈔』を著した存覚上人は、『嘆徳文』に『教行証文類』で教えられていることを簡潔に記されています。以下は、その前半部分です。

なかんづくに一代蔵を披きて経・律・論・釈の簡要を擢んでて、六巻の鈔を記して『教行信証之文類』と号す。かの書に攄ぶるところの義理、甚深なり。いはゆる凡夫有漏の諸善、願力成就の報土に入らざることを決し、如来利他の真心、安養勝妙の楽邦に生ぜしむることを呈す。ことに仏智信疑の得失を明かし、盛んに浄土報化の往生を判ず。

ここでは、報土往生の因と仏智信疑の得失について述べられています。

報土往生の因については、
・凡夫の煩悩が雑じった諸善では報土往生は不可能であること。
・如来回向の真実信心によって報土往生ができること。

仏智信疑の得失については、
・(浄土往生を願いながら)仏智を疑惑している者(19願・20願の行者)は、大利を失い、化土にとどまること。
・仏智を信受した者(18願の行者)は、大利を得て、報土に往生すること。

が教えられています。

つまり、親鸞会で説かれる「善をしなければ信仰は進みませんよ」といった「善のすすめ」では、報土往生は不可能ということです。


「親鸞会では諸善で報土往生できるなどとは説いていない。修善は獲信の因縁(宿善)になるのだ。その修善を勧める親鸞会が間違いなのか?」という反論が聞こえてきそうですが、結論からいうと間違いです。

信心について、『信文類』の冒頭に信心の徳を讃えた12のお言葉がありますが、その中に、

金剛不壊の真心

とあります。意味は、金剛のように堅く、破壊されることのない信心ということです。そして、金剛ということについて、同じく『信文類』には、

金剛といふは、すなはちこれ無漏の体なり。

と説かれています。金剛というのは、無漏の体、すなわち煩悩のない清らかな仏智のことをいうのです。煩悩の雑じった善をどれだけ行っても、煩悩の一切雑じらない清浄なる仏智を体とする信心とは全く関係ありません。

親鸞会では「修善は獲信とよい関係がある」ということも言いますが、私が行う煩悩の雑じった善と獲信とは全く関係ないのです。

Appendix

プロフィール

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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