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多岐に渡る親鸞会の勧誘方法

大学の入学式前後に行われる4月の一斉勧誘では成果を上げることができなくなったため、現在の親鸞会の学友部では勧誘方法がより多岐に渡っています。

その中でも入会者が結構現れる方法は、「学友部員から家族や友人・知人にメルマガを定期的に送り続けて、機会を見て講師や先輩にその人を紹介し、さらには公開講座、そして富山に誘い、入会に導く」というものでした。今から数年前のことですが、関東のある大学の入会者の3分の1はこの方法によるものだったと聞いたことがあります。

この方法のには、
・大学のキャンパスで突然見ず知らずの人に声をかけられた人は不審に思うかもしれないが、友人・知人から誘われるのでそのような不審を抱くことが少ない
・行事のあるときだけ声をかけると「また講演会の誘いか」という思いを相手に抱かせることになるが、定期的にメルマガを送っているので講演会のあるときだけ連絡をするということにはならない
・「メルマガを受信する→講師や先輩を紹介される→公開講座に参加する→富山に行く→入会」と少しずつハードルを越えさせていく
などのメリットがあります。

この過程の間に、一万年堂出版から出ている高森会長の本などがプレゼントされることがあります。書籍プレゼントが推進される時期になると、学友部の部室にはプレゼント用の書籍が何十冊も置いてあったものでした。

なぜ今日、このことを記事にしたのかというと、学友部員から友人・知人にメルマガを送り始めるきっかけとなるのが、元日に送信される年賀メールだからです。年賀メールの中に、メルマガのサンプルを載せ、「もしメルマガいらないなら言ってね」と書いておけば、相手から断りのメールが来ない限り、メルマガを送ることができるようになります。たとえ、今まで連絡を取っていなかった人とでも、あまり違和感をもたせることなく、接点をもつことができるこの時期です。数年前の学友部では、各人が年賀メールを送る人をリストアップして、上司に報告するということが組織的に行われていました。
メルマガのサンプルが入っているような年賀メールが送信されてきたら、その送信者は親鸞会に入った人である可能性が高いです。そして、自分もやがて親鸞会に入会させられる可能性があるということです。十分に注意して下さい。


また、学友部の勧誘が不振のため、サークルを通した勧誘の対象は20代半ばから30代半ばの青年層にも広がっています。『真偽検証』親鸞会会員の社会人サークルに取り上げられている他にも、親鸞会会員が中心となって活動している社会人サークルがあります。関東で現在活動していると思われるものは以下です。まだ、他にもあるかもしれません。

●神奈川県
社会人サークル ラメール
社会人が生きる意味を仏教に学ぶ勉強会
http://hamakkolamer.web.fc2.com/index.html

●千葉県
「社会人が学ぶ仏教」NAVIO
http://navio18.web.fc2.com/

●茨城県 栃木県
わいWHY倶楽部【わいわいくらぶ】生きる意味を語りあいたい!
http://homepage3.nifty.com/WAIWHY/

このような勉強会では親鸞会の講師部員が講師をつとめることが多いです。例えば、NAVIO(ナビオ)のイベント紹介を見ると、『生きる意味』をハッキリ示す仏教講師のブログ(気が付いたらブログタイトルが変わりましたね)のK講師が次回の講師であることが分かります。さらに、NAVIO(ナビオ)の12月23日(木)13:30~15:30 千葉市民会館で行われた行事は、『東大数学科から仏教講師になったおかもんの日記』東京・新橋・千葉・後楽園・横浜 仏教勉強会のご案内の日程と一致することから、O講師が講師をつとめたことが分かります。


様々な非難をあびた(あびている)学友部の勧誘活動ですが、その非難の一つに「最初に親鸞会と名乗らない」ということがあります。メルマガを通した勧誘において最初から自分は親鸞会に入っているということを言わないように、上記の社会人サークルのホームページを見ても親鸞会とは名乗っていません。いろいろと小手先の勧誘手法を変化させていますが、「最初に親鸞会は名乗らない」という路線は継続されたままです。なぜ親鸞会の勧誘活動は非難されるのか、なぜ勧誘がうまくいかないのか、その原因に、今も活動している会員さんは目が向かないようです。


これで、2010年のブログ更新を終わりにします。
読んで下された皆様、有り難うございました。

命があれば、2011年、親鸞会とその教義についてまた綴っていきたいと思います。
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報恩講の法友通信(『顕真』12月号)にみる親鸞会教義の問題点

親鸞会発行の『顕真』平成22年12月号(第356号)には、報恩講の法友通信が掲載されています。法友通信は会員から高森会長への手紙を掲載したものですが、会の機関誌なのですから親鸞会の公式見解とみてよいと思います。そこで、会員さんの声から親鸞会教義の問題点をみてみましょう。

噴き上がる「私の思い」
無条件服従まで進む

「あの人の言葉なら、納得できないことでも従おう」
「だまされても後悔しない」
と言えるほど信じられる方に出会えた人は、とても幸せだとお聞きしました。
 弥陀の仰せに無条件服従した時が、信心決定です。そこまで導いてくださる方が善知識ですから、善知識の仰ることに従って実行しなければ、信仰は進みません。
(以下略)  (42頁より引用)


この短い文章の中に親鸞会教義の大きな問題点が2つあります。

(問題1)善知識の指導に(無条件)服従しなければならないと思っている点

上の文章から、「弥陀の仰せに信順するには、善知識の仰せに(無条件に)従っていかなければならない」という思考が読み取れます。向かうのは弥陀であって知識ではないのですが、この思考だと弥陀と自分の間に知識が入り込むことになり、結局、弥陀に向かわず知識にばかり向くことになってしまいます。そして、問題にするのは「弥陀の御心」ではなく、「会長先生の御心」になってしまいます。
また、上の文章には、読む人を善知識だのみに陥らせる危険性もあります。『御文章2帖目11通』に、
善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。
善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。

と教えられているように善知識とは、阿弥陀仏に帰命せよと勧める人です。読む人を善知識たのみに陥らせる危険性のある文章を掲載させるような者は、決して善知識とはいえません。
『やさしい安心論題の話』(灘本愛慈著・本願寺出版)には、
思うに、善知識が真の正しい善知識であれば、このような善知識だのみは生じないでありましょうし、たとい一部にそういう誤った見解が生じても、善知識がその誤をただしてくださるでありましょう。
しかし、偽り邪な善知識の場合が問題であります。現実には「帰ずるところの弥陀をすてて」とまではいかないにしても、人々を説得し心服させる才能にたけた者が指導者となり、指導される人々はその人を阿弥陀仏と同等に生き仏として無条件に帰依尊崇するということになれば、どのような事態になるか。実に危険きわまりないものといわねばなりません。

と書かれていますが、親鸞会によくあてはまっていると感じます。


(問題2)何かを実行して、「信仰」が進んだ先に救いがあると思っている点

上の文章に「善知識の仰ることに従って実行しなければ、信仰は進みません」と書かれている通りです。当ブログで何度も書いているように、浄土真宗は私たちが何かを実行し、信仰を進めて、救いを求めるというような自力回向的な教えではありません。さらには、信仰が進んだ先の救いならば平生業成とは言えません。


短い文章の中に、
・向くべきものが弥陀ではなく知識になっているという問題
・他力回向の教えが自力回向になっているという問題
が書かれていましたが、この2つの問題は救いに直結する重大な問題です。向くべきところを間違っていたり、教えの方向性が誤っていては、救われることはないといってもよいでしょう。「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と勧める人、他力回向の教えを正しく説く人から、教えを聞いて頂きたいと念じております。

宿善が厚くなる(信仰が進む)行として勤行を勧めるのは他宗です

親鸞会で勤行が勧められるのは、宿善が厚くなる行為として、また「勤行しなければ信仰は進まない」と言われるように信仰が進む行為としてです。これは、自己の修する行を仏に差し向ける自力回向的な考え方です。しかし、このような自力回向的な勤行は浄土真宗においては一切勧められていません。蓮如上人のお言葉を拝読しましょう。

一 十月二十八日の逮夜にのたまはく、「正信偈和讃」をよみて、仏にも聖人(親鸞)にもまゐらせんとおもふか、あさましや。他宗にはつとめをもして回向するなり。御一流には他力信心をよくしれとおぼしめして、聖人の和讃にそのこころをあそばされたり。ことに七高祖の御ねんごろなる御釈のこころを、和讃にききつくるやうにあそばされて、その恩をよくよく存知して、あらたふとやと念仏するは、仏恩の御ことを聖人の御前にてよろこびまうすこころなりと、くれぐれ仰せられ候ひき。(『御一代記聞書』11)

「正信偈和讃」を拝読して、阿弥陀仏や親鸞聖人にその功徳をさしむけようと思うのは浅ましいと蓮如上人は仰っています。「他宗にはつとめをもして回向するなり」と仰っているように、このような勤行の功徳を仏に回向するのは他宗で教えられることなのです。「勤行しなければ信仰は進まない」とか「宿善が厚くなる行としての勤行」といった親鸞会の自力回向的な考えに基づく勤行は他宗の教えであって、浄土真宗ではそのようなことは一切教えられていません。

「正信偈和讃」には、阿弥陀仏からの御回向、阿弥陀仏のお助けが説かれています。それを聞かせて頂くのが「正信偈和讃」を拝読することですから、勤行とは他力回向の教えを聴聞することです。そして、阿弥陀仏が私を間違いなくお助け下さることをよくよく知らせて頂き、よろこばせていただく御恩報謝なのです。

親鸞会の「三願転入の教え」という邪義はどんなことなのか?

Q 親鸞会の「三願転入の教え」という邪義というのは、どんなことをいうのでしょうか。

A

これは浄土真宗ではあまり見られない、親鸞会で説かれる獲信への道程(方法論)です。

一口でいいますと「後生の一大事の解決の道」として「十九願、二十願と進んで十八願に入るのだ。信一念の決勝点を突破するにはこの道(十九願・二十願)を通って進んでいかねばならないのだ」と説く邪義をいいます。これらの人たちはしきりに親鸞会へ献金すること、親鸞会の法話会場に人を勧誘してくることを勧めます。

また、これらの人々は「信前であろうと、真剣に求めている人は観音菩薩の臨終説法にあえる」と親鸞会で推進される活動に励むことはよいことだと思い込ませますから、「平生業成に反する邪義」ともいえます。

昔から盗人にも三分の理というように、「三願転入の教え」という邪義を勧める者たちにも、それ相当の理屈があります。彼らの言う理屈を2、3あげてみますと

『19願に修諸功徳の善が誓われているではないか』
『釈尊はイダイケ夫人に定善を勧めているではないか』
『親鸞聖人は「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。(一念多念証文)」とおっしゃっているではないか』
『それどころか、親鸞聖人は「教行信証」に「三願転入の御文」を説かれているではないか。我々の獲信と無関係なことを親鸞聖人は教えられたとでもいうのか』
などと強く主張いたします。

素人は、これらの言葉をちょっと聞くと、十九願の行・二十願の行を実践していった先に獲信があると教えられたのが親鸞聖人のように思いましょうが、多少でも浄土真宗の学問をした者にはとんでもない邪義であり、異義だということが分かります。

また、このようなことを認めますと、浄土真宗の教義は根本から転覆するのです。なぜなら、真宗の教義は、「本願力回向・他力回向」であり、阿弥陀仏の本願力によってのみ助かるのであって、行者の側から仏に向かう自力回向は一切認めないからです。

では、彼ら邪義者の言う根拠はどうなるのかと申しますと、親鸞聖人が、その著作に八万四千の法門、十九願や『観無量寿経』の顕説などに触れられているのは、真実である弥陀の十八願に対して、八万四千の法門、それを収めた要門(十九願)、また真門(二十願)は権仮方便の教説であることを明らかにするためなのです。

そもそも、『教行証文類』では『行文類』の「正信偈」の偈前の文に、
おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。
と、阿弥陀仏の誓願には「真実の行信」を誓われたものと「(権仮)方便の行信」を誓われたものがあると仰っています。そして、
その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。
その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。

と真実の行信を明らかにされ、その行信によって得る往生は難思議往生(報土往生)であることが教えられています。

それに対して、「(権仮)方便の行信」を誓われた十九願、二十願については『化身土文類』において詳細に説き示されています。その冒頭に、
化身土文類六(本)
[無量寿仏観経の意なり]
至心発願の願 {邪定聚の機 双樹林下往生}
[阿弥陀経の意なり]
至心回向の願 {不定聚の機 難思往生}

とありますように、十九願の行信、二十願の行信によって得られる往生は双樹林下往生、難思往生といわれる化土往生です。このように、

真実 十八願の行信 → 難思議往生(報土往生)
方便 十九願の行信 → 双樹林下往生(化土往生)
方便 二十願の行信 → 難思往生(化土往生)

と示されることによって、化土往生の因である方便の行信ではなく、報土往生の因である真実の行信一つを聖人は勧めていかれたのでした。

『化身土文類』では、要門(19願)について教えられた最後には、
経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。
と仰り、要門の行では化土にしか往生できず、化土に往生できたとしても「三宝を見たてまつらず」「仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざる」という欠点があることが説かれていて、決して要門の行が勧められてはいません。また、真門(20願)について教えられた最後には、
悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。
と大変厳しいお言葉で、二十願の自力念仏では報土往生できないということが教えられています。

こうしてみると、要門(十九願)の行信も真門(二十願)の行信も勧めておられず、偏に十八願により報土往生を遂げよと教え勧めていかれたのが親鸞聖人であることがお分かり頂けると思います。

そして、これらを承け、聖人ご自身の体験を通して、十九願、二十願は廃捨すべき権仮方便の法門であり、十八願こそ信ずべき法門であることを教えられたのが「三願転入の御文」です。
ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。

「三願転入の教え」という邪義を勧める者たちは、聖人が捨てよと教えられた法門を実行せよと真逆に教えているのです。説かれていることに「捨てさせるために説かれたこと」と「勧めるために説かれたこと」があることを知らなければなりません。何でもかんでも説いてあることを獲信と関係あることとするのは、非常に短絡的な思考です。「獲信と関係ありませんよ」と教えられているお言葉もあるということです。

最後に、親鸞聖人が自力回向を誡められたお言葉をいくつか提示しましょう。
まず、諸善を回向することを嫌われたお言葉としては、『唯信鈔文意』
「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたしとなり。
とあります。諸善を修めて極楽に回向するのが「八万四千の法門」であり、それでは真実報土に往生できないと仰っています。十九願はこれに相当します。
二十願の自力念仏を嫌われたお言葉はたくさんありますが、今は『浄土三経往生文類』のお言葉を挙げておきましょう。
定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。

ゆえに、自力諸善を修めて救いを求める、自力念仏を称えて救いを求めるという、自分が如来に向かっていくという方向性をもつ自力回向の教えは断じて浄土真宗ではありません。浄土真宗とは、『教文類』の冒頭
つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。
と示されているように、往相と還相の二種の回向が如来から行者に恵み与えられる他力回向の教法なのです。

わが親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人を貫く浄土真宗の教えは、自力回向である十九願や二十願の教えではなく、他力回向である十八願真実の教えでありますから、信前信後を問わず、一貫してこの真実の教えを説かねばなりません。

もちろん、人によっては未熟の者もあって、他力回向の教えを説いても、なかなか分かってもらえない場合もありますが、だからといって「この道を進んでいくしかないのだ」と「三願転入の教え」という邪義を教え、方法論を説き与えてはならないのです。その証拠に、親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人は、常に「他力回向」の真実を説き勧めて、「自力回向」を勧められたことはありません。

親鸞会が説く「三願転入の教え」というものが、浄土真宗の教義に反していることが分かって頂ければ幸甚であります。


称名正因の異安心とはどんなことなのか
http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/infoshinsyu/qa0421.htm
を参考に書いてみました。

誰もいない

昨日の記事に関連して、再び『随行録』より引用です。

○ 誰もいない
“もう誰も、相手にしてくれぬ”
とつぶやかれる先生。
『親鸞会の主張に異議、反論のある方は、遠慮なく申し出て下さい。相手の希望される方法で、本当の親鸞聖人のみ教えを開顕するために、喜んで対決に応じます』の公約ビラを、全国に配布してからどれだけたつだろうか。
先生「実際の法論からやりとりを学べば、一番名号の切れ味を知ることが出来るのだが、もう相手になってくれる人がない。
 あとは君達に伝授するしかない。今後は君達が、どんどん切り込んでゆく番だ」
 専任講師特専部に毎月二回、教学講義を設けられているのは、そのためなのだろう。
(H・1・7)


平成元年当時と異なり、現在では、インターネット上に、親鸞会の主張に対する異議、反論が溢れています。相手になってくれる人はいるけど、親鸞会が負けてしまうような法論はできないというのが実状でしょう。

実際の法論からやりとりを学ぶのがよいと言ってはいても、高森会長自身が法論から逃げているようではお話になりません。

親鸞会教義批判ブログに対して、破邪顕正の機会と捉えてコメントをしてくるような講師部員もいません(たまにネット対策員(?)と思われる人がコメントしてきますが、何か答えるとすぐにいなくなってしまいます)。教義批判をしている退会者に現役会員が近づかないようにするために、「●●は壊れたんだ!!●●には会うな!!」と会合でいったり、「●●から連絡が来ていないか?」と組織を使って確認すること位しかできていないのが講師部員の現状です。

2ch
http://seaglet.sakura.ne.jp/2ch/1289540471.html
に、

911 名前:神も仏も名無しさん:2010/12/19(日) 12:24:23 ID:WAvRtoB4
>>908
同朋の里の2期・3期工事やら書籍やら中古で地方の会館を購入するだの、
どれだけ会員にお金を出させようとしているのか、ひどいものです。
とにかくネットは見るな、見たらすぐに信心が崩れるって、なんなのかと思えば、
その通りでした。
講師部員もだんだん怖くなって人格が変わってきたようにも感じます。


という書き込みがありましたが、「とにかくネットは見るな、見たらすぐに信心が崩れる」と言っている講師部員(?)がいるようです。ネットを見たら信心が崩れてしまう程度の団体が親鸞会だということを自らいっているようなものです。

高森会長は申し込まれた法論から逃げ、「今後は君達が、どんどん切り込んでゆく番だ」と言われた講師部員には切り込んでいくものは誰もいない。これが現在の親鸞会の実態です。

とにかく外部情報には触れさせない、そして親鸞会に都合のよいように操作した情報を会員に伝える、それで何とか内部の引き締めをはかっているのでしょう。規模は全然違いますが、何だか日本の近くの某国家に似ているなと感じます。

Appendix

プロフィール

いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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