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私がこの先生についていってもダメだと感じた「高森先生のお言葉」

以前の記事『多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない』で少し書きましたが、平成20年3月に『清森問答』「私の白道」が掲載され始めると、その後、講師部員からときどき伝えられる「高森先生のお言葉」に明らかにそれを意識したと思われるものが出てきました。

その中で、この先生についていってもダメなのではないかと感じたのが、平成20年5月25日付けの次の「高森先生のお言葉」です(当時電話で聞きながら手帳に筆記した文章を打ち込んだので、一部表記に誤りがあるかもしれません)。

●そらごとたわごと真あることなし

閉じた写真をバッチリ写真に修正したり、居なかった人を隣に座わらせる合成写真も自由自在のご時勢である。ネット上などは言うに及ばず、斬り捨てゴメンの言いたい放題、書きたい放題、覆面殺人鬼の横行だ。まさに無法地帯そのもの。五濁悪世である。便利というか重宝というべきか、怖るべし、犯罪激増も頷ける。文章の改ざんや捏造など問題にもならぬわけだ。そんな世情を反映してか誰も真相を知らないことをいいことに、半世紀以上前のことまで引っぱり出して何を言おうと書こうと勝手次第無責任放言が多すぎる。


これをメモしながら、高森先生と華光会との関係、華光会時代に「獲信の記録」という本を高森先生が出版していたことなどを、私の白道で書かれたことに対しての言葉だと思いました。

そして、これが、
『まかぬ種は生えぬ。 刈り取らねばならない一切のものは自分の撒いたものばかり。』
『因果の道理を深く信ずれば、順境のときは感謝し、ますます努力せずにおれなくなる。逆境のときは懺悔となり、反省になる』
と会員の前で、因果の道理を説いている「高森先生のお言葉」なのかと思いました。

「半世紀以上前のことまで」と言っているが、自分の行為の報いではないのか?
高森先生は因果の道理を説いてはいるが、はたして信じているのだろうか?
ネット上で言われていることは、改ざんや捏造といった類いのものではなく、信憑性の高い情報もかなりあるのではないか?
この先生は自分が信じてもいないことを説いているのではないか?
この先生についていってもダメなのではないか?
などと感じました。

しかし、「ダメなのではないか?」と思う一方、「それでも高森先生は正しいのでは?」という思いもありました。
今まで自分のやってきたことが間違いだったとは認めたくないという気持ちもありました。そのため、様々なネット情報に触れていながらも、まだ親鸞会のことを冷静に見つめることができていなかったのだと思います。

そして、私はそこから退会するまで1年以上かかってしまいました。

さよなら親鸞会『勇気を出して』に書かれているように、退会するに当たり最後に必要なのは「勇気」だと思います。

人生の多くの時間、多くのお金を親鸞会の活動に費やしてしまったことが無駄になってしまうと思って退会を決断できない人もいるかもしれません。しかし、教義批判にも答えられず、組織運営もおかしい団体にいつまでも在籍し続けることは、それこそ無駄ではないでしょうか?

最近の親鸞会の状況として、一度に5000個の弁当を製造できる工場を造ろうとしていることや同朋の里第3期工事後期御報謝というものがあることなどが聞こえてきます。
本当にそんなものが必要だと会員の皆さんは思っているのですか?
なぜ、こんなに財施が度重なるのか疑問に思われないのでしょうか?
何らかの名目で財施を募ったならば、それがどのように使われたのかの報告があってしかるべきです。しかし、それが為されたということは一向に聞きません。まさに無法地帯そのものではないでしょうか?

親鸞会の教義は、当ブログも含め、当ブログのリンク先のブログなど複数のブログで批判されています。親鸞会の教義は、親鸞聖人の教えとは全く異なるものです。当ブログで何度も指摘しているように、親鸞会の説いていることは、親鸞聖人の教えられていることと正反対のことが多々あります(今後も指摘を続けていきます)。

「親鸞聖人の教えの一枚看板は平生業成」と会員の皆さまは聞いていることでしょう。そして、平生業成とは「いま救われる」ということだと聞いていることだと思います。現在の親鸞会では、本当に「いま救われる」教えが説かれていますか?
冷静に教えられていることを見つめてみて下さい。

「本当に高森先生についていって大丈夫なのか?」と会員の皆さま一人一人が、親鸞会の運営面からでも、教義面からでもいいと思いますので、様々なインターネット上の批判と向き合って冷静に判断していただきたいと思います。そして、本当の親鸞聖人の教えを求めたいならば、親鸞会・高森会長を客観的に見る勇気、親鸞会を離れ出る勇気をもって、大きな一歩を踏み出して頂きたいと念じております。
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「三願転入の道」は弥陀の最深の熟慮のご計画なのか?

『飛雲』批判をかわすためのその場凌ぎ教義では、先日の2000畳座談会の内容が取り上げられています。その中で、

19願と言っても18願を離れての19願はないから19願に対する疑いも18願に対する疑いと同じことである。
という感じだったように思います。「疑情=19願に対する疑い」とは言ってなかったと思いますよ。

いつものように“三願転入のみ教え”の話ですから、19願を18願に上手く?重ねつつ話してました。


と書かれていました。ここで指摘されているような、本来は十八願について言われていることを「十九願」や「三願転入の教え」にすり替えて説明している例は他にもあります。しかし、自分でお聖教を拝読しない会員さんはなかなか気がつかないでしょうから、今回の記事では、親鸞会公式ホームページから五劫思惟は誰のため|親鸞会 顕正新聞を取り上げ、その誤りを指摘したいと思います。

(前略)

金輪際、助からぬ自覚もなければ、助かりたい心もない悪業煩悩の塊を、どうしたら助けることができるか。

そのご計画に、五劫という気の遠くなる期間かかられている。

親鸞聖人は、

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ」(歎異抄)

そこまでご苦心いただかねば、救われない親鸞であった、弥陀の五劫の思惟はひとえに私一人のためだったと喜ばれている。

いくら素晴らしい設計図があっても、莫大な費用と労力がそろわねば、立派な建物は完成しない。

我々を救う準備を完了されるのに、弥陀は兆載永劫のご修行をされている。

計り知れぬ悪業(若干の業)を持つ我々を救うには、どうしても五兆の願行が必要だったのである。

どうすれば十方衆生を十八願「無碍の一道」まで誘導できるか、最深の熟慮の末に弥陀が建てられた十九、二十願を「方便の願」と親鸞聖人は言われる。

その方便を「要らぬ」「遠回り」とうそぶく者たちは、五劫思惟より近道をあみ出した、弥陀に助けていただく必要のないド偉いお方なのだろう。

我々親鸞学徒は、弥陀の願意を親鸞聖人が微塵の計らいも入れず開顕なされた三願転入のご教導を、決して踏み外してはならない。


この文章を読んだ会員さんは、「阿弥陀仏が五劫思惟なされて衆生を救うために三願転入の道を建立され、親鸞聖人はそれを開顕なされたのだから、それに従わなければならない」と思うことでしょう。しかし、お聖教を拝読すれば、五劫思惟の内容が「三願転入の教え」ではないことはすぐに分かります。

親鸞聖人がお同行方に拝読を勧められていた『唯信鈔』では、「念仏往生」について説かれているところに五劫思惟の内容が教えられています。多少長いですが「念仏往生」に当たる部分を全文引用します。長いと思われる方は赤字の部分を拝読して下さい。

二つに念仏往生といふは、阿弥陀の名号をとなへて往生をねがふなり。
これはかの仏の本願に順ずるがゆゑに、正定の業となづく。ひとへに弥陀の願力にひかるるがゆゑに、他力の往生となづく。そもそも名号をとなふるは、なにのゆゑにかの仏の本願にかなふとはいふぞといふに、そのことのおこりは、阿弥陀如来いまだ仏に成りたまはざりしむかし、法蔵比丘と申しき。そのときに仏ましましき、世自在王仏と申しき。法蔵比丘すでに菩提心をおこして、清浄の国土をしめて衆生を利益せんとおぼして、仏のみもとへまゐりて申したまはく、「われすでに菩提心をおこして清浄の仏国をまうけんとおもふ。
願はくは、仏、わがためにひろく仏国を荘厳する無量の妙行ををしへたまへ」と。そのときに世自在王仏、二百一十億の諸仏の浄土の人・天の善悪、国土の粗妙をことごとくこれを説き、ことごとくこれを現じたまひき。
法蔵比丘これをききこれをみて、悪をえらびて善をとり、粗をすてて妙をねがふ。たとへば、三悪道ある国土をば、これをえらびてとらず、三悪道なき世界をば、これをねがひてすなはちとる。自余の願もこれになずらへてこころを得べし。このゆゑに、二百一十億の諸仏の浄土のなかより、すぐれたることをえらびとりて極楽世界を建立したまへり。たとへば、柳の枝に桜のはなを咲かせ、二見の浦に清見が関をならべたらんがごとし。これをえらぶこと一期の案にあらず、五劫のあひだ思惟したまへり。かくのごとく、微妙厳浄の国土をまうけんと願じて、かさねて思惟したまはく、国土をまうくることは衆生をみちびかんがためなり。
 国土妙なりといふとも、衆生生れがたくは、大悲大願の意趣にたがひなんとす。これによりて往生極楽の別因を定めんとするに、一切の行みなたやすからず。孝養父母をとらんとすれば、不孝のものは生るべからず。読誦大乗をもちゐんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。
 布施・持戒を因と定めんとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなんとす。忍辱・精進を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠のたぐひはすてられぬべし。余の一切の行、みなまたかくのごとし。
 これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しをはりて、まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんといふ願をおこしたまへり。この願ふかくこれをこころうべし。名号をもつてあまねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆゑに、かつがつ名号をほめられんと誓ひたまへるなり。しからずは、仏の御こころに名誉をねがふべからず。諸仏にほめられてなにの要かあらん。
「如来尊号甚分明 十方世界普流行
 但有称名皆得往 観音勢至自来迎」(五会法事讃)
といへる、このこころか。
 さてつぎに、第十八に念仏往生の願をおこして、十念のものをもみちびかんとのたまへり。まことにつらつらこれをおもふに、この願はなはだ弘深なり。名号はわづかに三字なれば、盤特がともがらなりともたもちやすく、これをとなふるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず、なに人かこれにもれん。
「彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金」(五会法事讃)
このこころか。これを念仏往生とす。


果たして、このようなことが説かれている『唯信鈔』の拝読を勧められていたお同行方は、五劫思惟と重ねて、「十九願」や「三願転入の教え」ということにこだわるようになるでしょうか?

どれほど素晴らしい浄土を阿弥陀仏が建立されていたとしても、衆生が往生し難ければ、阿弥陀仏の目的を達成することはできません。だから、法蔵菩薩は、一切の善悪の凡夫が等しく往生できるように、「ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟」なされたのです。

ここには、親鸞会の説くような「三願転入の教え」などということは出てきません。この『唯信鈔』の拝読をお同行方に勧められた親鸞聖人もまた「三願転入の教え」などという思想を持っておられなかったのです。

それにしても、「弥陀に助けていただく必要のないド偉いお方なのだろう」というような表現を高森会長・親鸞会は好きですね。こんな言葉が出てくるようでは、在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもらさず救おうとなされている弥陀の願心を伝えているとはとても思えません。

会員の皆さま、「五劫思惟は誰のためか?」お聖教に沿って理解していただきたいと思います。

『顕真』1月号法友通信を読む

昨年の10月31日のテレビ座談会では、「弥陀の呼び声」が、いつ、どんな人に届くのかという話があったようです。今回は『顕真』1月号に掲載されている法友通信をテキストにして親鸞会教義の誤りを指摘します。

「水火の難に堕することを畏れざれ」という弥陀の呼び声の聞こえない理由がよく分かりました。地獄へ堕ちるのではなかろうか……と自分の罪悪を畏れている人にこそ届くのであって、そうでない者には聞こえないのです。
 では、どうすれば、悪を畏れる心が起きるのか。それは、教えを聞き、実行しなければならないと教えていただきました。
 救われた一念で本願に疑い晴れ、地獄一定の自己と極楽一定の自己が同時に知らされるのだと分かりました。(26、27頁より引用)


この人の感想から、弥陀の呼び声を聞くには「自己の罪悪に畏れる心がなければならない」と思いこまされてしまっていることが読み取れます。これは、親鸞会の会員さんのほとんどが持っている思いだと思います。私も会員時代そうでした。

しかし、この心は、まず「自分の罪悪を畏れなければならない」と、無条件の弥陀の救いに条件をつけ、救いを拒絶してしまっている心です。また、このような理解ですと、「自分の罪悪」だけに心が向き、私を間違いなく助けて下さる法は完全に抜け落ちてしまいます。

今述べたような親鸞会教義とは反対に、蓮如上人は、しばしば「自己の罪悪を問題にするな」と教えられています。そのように教えられた『御文章』をいくつか紹介します。引用したお言葉の赤字に注目してください。

そもそも、当流の他力信心のおもむきと申すは、あながちにわが身の罪のふかきにもこころをかけず、ただ阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、かかる十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人までも、みなたすけたまへる不思議の誓願力ぞとふかく信じて、さらに一念も本願を疑ふこころなければ、かたじけなくもその心を如来のよくしろしめして、すでに行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまふなり。このいはれをもつて仏心と凡心と一体になるといへるはこのこころなり。(御文章2帖目10通)

これによりて、この仏をばなにとたのみ、なにとこころをももちてかたすけたまふべきぞといふに、それわが身の罪のふかきことをばうちおきて、ただかの阿弥陀仏をふたごころなく一向にたのみまゐらせて、一念も疑ふ心なくは、かならずたすけたまふべし。(御文章3帖目1通)

それ在家止住のやから一生造悪のものも、ただわが身の罪のふかきには目をかけずして、それ弥陀如来の本願と申すはかかるあさましき機を本とすくひまします不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、他力の信心といふことを一つこころうべし。(御文章3帖目5通)

さてわが身の罪のふかきことをばうちすてて、弥陀にまかせまゐらせて、ただ一心に弥陀如来後生たすけたまへとたのみまうさば、その身をよくしろしめして、たすけたまふべきこと疑あるべからず。たとへば十人ありとも百人ありとも、みなことごとく極楽に往生すべきこと、さらにその疑ふこころつゆほどももつべからず。(御文章5帖目14通)

当流聖人(親鸞)のすすめまします安心といふは、なにのやうもなく、まづわが身のあさましき罪のふかきことをばうちすてて、もろもろの雑行雑修のこころをさしおきて、一心に阿弥陀如来後生たすけたまへと、一念にふかくたのみたてまつらんものをば、たとへば十人は十人百人は百人ながら、みなもらさずたすけたまふべし。これさらに疑ふべからざるものなり。かやうによくこころえたる人を信心の行者といふなり。(御文章5帖目18通)


「あながちにわが身の罪のふかきにもこころをかけず」「わが身の罪のふかきことをばうちおきて」「ただわが身の罪のふかきには目をかけずして」「わが身の罪のふかきことをばうちすてて」「まづわが身のあさましき罪のふかきことをばうちすてて」、弥陀におまかせしなさいと繰り返し教えられています。我が機、自己の罪悪に向くのではないのです。私を助けて下さる法、阿弥陀仏におまかせすることばかりを蓮如上人教えられているのです。

以上のことから、蓮如上人は、親鸞会で教えられていることとは真逆のことを教えられていることがお分かり頂けると思います。

『御文章』には「まづわが身は十悪・五逆、五障・三従のいたづらものなりとふかくおもひつめて」などと、自己の罪悪を問題にせよとも受け取れるお言葉もあるではないか?』という意見もあるでしょうから、それについても述べておきます。今、引用したお言葉は『御文章2帖目15通』に出てくるものです。前後を読みますと、

それ当流の安心のすがたはいかんぞなれば、まづわが身は十悪・五逆、五障・三従のいたづらものなりとふかくおもひつめて、そのうへにおもふべきやうは、かかるあさましき機を本とたすけたまへる弥陀如来の不思議の本願力なりとふかく信じたてまつりて、すこしも疑心なければ、かならず弥陀は摂取したまふべし。このこころこそ、すなはち他力真実の信心をえたるすがたとはいふべきなり。

となります。ここは、「それ当流の安心のすがたはいかんぞなれば」と始まり、「すなはち他力真実の信心をえたるすがたとはいふべきなり」で結ばれている文章です。つまり、全体としては他力真実の信心のすがたを教えられた文章であり、他力の信心(二種深信)を
・「まづわが身は十悪・五逆、五障・三従のいたづらものなりとふかくおもひつめて」(機の深信)
・「そのうへにおもふべきやうは、かかるあさましき機を本とたすけたまへる弥陀如来の不思議の本願力なりとふかく信じたてまつりて」(法の深信)
と機法二種に開いて教えられているのです。決して、自己の罪悪を畏れなければならないと教えられたものではありません、そして、2帖目15通は次のように続きます。

かくのごときの信心を、一念とらんずることはさらになにのやうもいらず。あら、こころえやすの他力の信心や、あら、行じやすの名号や。しかればこの信心をとるといふも別のことにはあらず、南無阿弥陀仏の六つの字をこころえわけたるが、すなはち他力信心の体なり。

このような他力の信心をとるのには「さらになにのやうもいらず」と教えられているように、「私の側の造作は何も要しない」のです。「教えを聞き、実行しなければならない」と説くのは、私の側の造作を要すると教えていることですから、これまた蓮如上人と正反対です。

衆生の側の造作を何も要しない本願力回向の信心ですから、「こころえやすの他力の信心」と蓮如上人は仰せです。よって、無条件の救いといわれるのです。ところが、「教えを聞き、実行しなければならない」と自分の法から如来に向かっていって信心を得ようとすると、永久に信心をうることは出来ません。先手の法を拒絶することになるのです。私の側から進んでいって獲得できる信心ではないので、「難信」と親鸞聖人は教えられました。

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。(信文類)

先手の南無阿弥陀仏を計らいなく聞き受けている状態が信心です。先手の法(南無阿弥陀仏)を聞くところに、自力心は否定され、残るのは南無阿弥陀仏だけです。ゆえに、他力の信心といっても南無阿弥陀仏の六字の他にありません。「しかればこの信心をとるといふも別のことにはあらず、南無阿弥陀仏の六つの字をこころえわけたるが、すなはち他力信心の体なり」と蓮如上人は教えられています。

最近、繰り返し書いていることは、親鸞会では「仏願の生起・本末(南無阿弥陀仏の六字の謂)」が、正しく説かれていないということです。

そして、『信文類』に「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」と教えられているように、仏願の生起本末を疑いなく聞き受けている状態が信心(二種深信)ですから、「仏願の生起・本末」を正しく説けない人は、「二種深信」も間違って説くことになります。「救われた一念で本願に疑い晴れ、地獄一定の自己と極楽一定の自己が同時に知らされる」という会員さんの感想も、高森会長の二種深信の誤解に基づく誤りですが、この件については多くのブログで取り上げられているので今回は省略します。

「自己の罪悪を問題にするな」という蓮如上人に反し「自己の罪悪を畏れなければならない」と説き、無条件の救いに反して「教えを聞いて実行しなければならないことがある」「自分の罪悪を畏れなければならない」と条件をつけてしまうとんでもない間違った教えを説いているのが親鸞会であると知っていただければ思います。

親鸞会の教義はまさに三業派と共通する教え(コメント欄より)

前回の記事、『顕真』10月号『御文章2帖目8通』の意訳を読むで引用した
阿弥陀仏は、「崇高な願いをかかげ、実現できる準備を完了されている」と教えていただきました。ますます、「では、どうすればよいのか」という思いになります。
という会員さんの感想に関連して、Rudel様、広島の名無し様よりコメントを頂きましたので、紹介したいと思います。

[163]
>ますます、「では、どうすればよいのか」という思いになります。

聞法者の罪福心をつのるのみで、弥陀をたのむ(信順する)という事を教えない、悪い説法と言う他ないですね。
こちらの「どうすればよいのか」には一切用事はないのに。

なぜ御文章には端的に「自力を捨てて、助けてくださる阿弥陀如来に信順せよ」としか教えられていないのか。会員さんには一度よく考えていただきたいと思いますね。
2011-01-20 06:34 Rudel URL 編集

[164] 捧げ物が肝要?
「どうすればよいのかという思い」が会員さんの心に生じた時、親鸞会講師は勇躍してこう言うでしょう。「それには善です。財施です。破邪顕正です」と。と言っても、これは某アニメ第4部に出てきた「捧げ物じゃ~」を上品に言い換えただけです。
2011-01-20 21:45 広島の名無し URL 編集

[165] 追伸
名号願力の衆生に対する働き掛けを否定して、「どうすればよいのか」という、衆生の行為に問題を持っていくあたり、実にS会らしい(会長らしい)解釈ですよね。

S会は、三業惑乱のビデオを造ったり公式サイトに取り上げてますけど、功存師の『願生帰命弁』を読むと、「様々の事処諸縁に隔てられて、三業を揃えてたのめない者は、必ずしも三業を用いよと言うわけではない」と書かれており、三業派の主張の本質は「三業をそろえて云々」ではなく、実は
「タノムは希願請求である」
「衆生の側からの何らかの行為(意業含む)が獲信に関わる」
という二点なんですよね。

つまり、S会の教義こそ、まさに三業派と共通する教えなんですよね

会長は「タノムはお願いという意味ではなく、あてにする、うちまかせるという意味である」とは説明するけども、その一方で本派に対して
「本願寺は後生の一大事とは往生の意味だというが、ではなぜ領解文には『一大事の後生おん助け候えとたのみ』とあるのか」などというトンチンカンなツッコミをしてますからねぇ…(つまり、会長は「地獄に堕ちてしまうのを助けて下さい」と解釈している。これだと許諾ではなく希願請求になってしまう)
会長の所説には、とんでもない自己矛盾があります。

先手の本願(阿弥陀様の『助けるぞよ、引き受けたぞ』の勅命)があってこそ、その仰せに「お望み通りお助けになってください」とうちまかせる、あてにするという事があるわけですけど、会長の話には先手の本願という事が一切出て来ず、タノムとはどなたに何をまかせるのかという、肝心の「タノム」の内容を説いてないですよね。

S会の説く教えだと、聞法者は
地獄行きの自分と知らされるという行為の結果として、阿弥陀様が助けると申し出てくださる→それによって、何だかよくわからんがおまかせできる

という神秘体験のようにしか受け取れないですね…

まぁ、あのビデオの制作意図は結局「正意の安心を明らかにする」という所にあるのではなく、「ホンガンジは十劫安心(無帰命安心)だ!」という、会員さんに対する印象操作でしかありませんからね…
2011-01-21 08:25 Rudel URL 編集


Rudel様のコメントの中に「タノム」「タスケタマへ」ということが書かれているので、それについて思うところを述べます。

親鸞会では「タスケタマへ」という言葉の意味の説明が全くなされませんので、『領解文』の「われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ」を正しく理解することができていません。蓮如上人が使われている「タスケタマへ」には、こちらからお願いするという希願請求の意味は全くありません。阿弥陀仏の「そのまま助けるぞ」の先手の勅命に対し、仰せのままに受け入れた許諾の意味です。つまり、「タノム」と同義であり、無疑信順の意味なのです。

前回の記事の最後にも書きましたが、南無阿弥陀仏が先手で私が後手ということが大事です。反対に、私が先手になってしまうと「タスケタマへ」は請求の意味になってしまい、先手の法を拒絶することになってしまいます。

蓮如上人は「タノム」の内容を、「後生たすけたまえと弥陀をたのめ」とお示しになられました。如来の先手の勅命を仰せのままに受け入れた心相を表わされたお言葉が、「後生たすけたまえと弥陀をたのめ」なのです。『御一代記聞書』に、

聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせられ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。

とあるように、このお言葉によって蓮如上人は御再興の上人と尊敬されているのです。それほど重要なお言葉の意味を正しく説いていないのが親鸞会(高森会長)だということです。

Rudel様のコメントの中の最後に、

S会の説く教えだと、聞法者は
地獄行きの自分と知らされるという行為の結果として、阿弥陀様が助けると申し出てくださる
→それによって、何だかよくわからんがおまかせできる


と書かれていますが、親鸞会教義をよくあらわしていると思います。このような会員の思考が、『顕真』1月号の法友通信によくあらわれているので、次回の記事で取り上げたいと思います。

『顕真』10月号『御文章2帖目8通』の意訳を読む

親鸞会の法話などで最も多く提示される根拠は『御文章2帖目8通』だと思います。その意訳が『顕真』平成22年10月号に掲載されていたのですが、ちょっと違和感がある訳でした。まず、その部分の引用です。

【夫、十悪・五逆の罪人も、(乃至)、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。
 然れば、爰に弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、(乃至)、弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」という超世の大願を発して、われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、無上の誓願を発して、已に阿弥陀仏と成りましましけり。この如来を一筋にたのみたてまつらずば、末代の凡夫、極楽に往生する道、二も三も、有るべからざるものなり】
(御文章)

(意訳)
「すべての人は、大宇宙の一切の仏方から『救い難き者』と見捨てられた者である。その我々を、阿弥陀如来という大宇宙の仏方の師匠が、ただお一人『私が助けよう』と立ち上がられ、崇高な願いをかかげ、実現できる準備を完了されている。
 だからこの阿弥陀如来の救いによらなければ、我々の後生の一大事助かる道は、二つとないのである」
(12、13頁より引用)


どこに違和感を持ったのかというと、「ただお一人『私が助けよう』と立ち上がられ、崇高な願いをかかげ、実現できる準備を完了されている」の部分です。

「準備を完了されている」と聞くと「本番はまだ先のこと」という印象をどうしても受けてしまいます。「会議の準備は完了している」という場合、会議本番は先のことです。また、「運動会の準備は完了している」と言ったら、運動会本番はまだ先のことです。同じように、「助けようという願いを実現できる準備を完了されている」というと、救いが実現されるのは先のことと受け取る人も出てくるかもしれません。

さらには、「阿弥陀仏が準備を完了されている」と聞くと、準備だけが完了しているのですから、そこに何かを足さなければ願いが実現されないと思う人もいるかもしれません。例えば、「自己の罪悪を知らねばならない」とか、「後生に驚きが立たなければ」とか、「私の方では何をすればよいのですか?」などと思う人が出てくる可能性もあります。

この『顕真』の記事を読んだ会員さんの感想が『顕真』平成22年11月号に掲載されています。

後生の一大事、どうすれば解決できるのか。釈迦も、親鸞聖人も、蓮如上人も、阿弥陀仏しか解決できる仏はない、と仰せです。
 阿弥陀仏は、「崇高な願いをかかげ、実現できる準備を完了されている」と教えていただきました。ますます、「では、どうすればよいのか」という思いになります。
 あっという間に、ここまで、お連れいただきました。釈迦一代のご苦労を収められた1章と拝さずにおれません。
(15頁より引用)


実際、この会員さんは「ますます、では、どうすればよいのかという思いに」させられてしまっているのです。そして、この感想を読まされた他の会員さんも「私はどうすればよいのか?」という思いにさせられてしまうことでしょう。

会員さんがこのような思考に陥ってしまうもとは、『御文章2帖目8通』の「已に阿弥陀仏と成りましましけり(すでに阿弥陀仏になられた)」ということがどんなことを意味するのかについて知らないことにあります。法蔵菩薩が阿弥陀仏になられたことは、『御文章4帖目8通』には、次のように教えられています。

阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。

ここで、阿弥陀仏が仏になられたすがたこそ、「いまの南無阿弥陀仏」であると教えられています。「いまの南無阿弥陀仏」ですから、未来のことではありません。すなわち、すでに南無阿弥陀仏となって、今、ここにいる私の上にはたらいて下さっているのです。「我をたのめ(南無)必ず助ける(阿弥陀仏)」の招喚の勅命となって、喚びづくめなのです。わが往生の定まりたる証拠がつきつけられているのです。往生の定まりたる証拠がつきつけられているのですから、私の側の「どうすればよいのかという思い」は否定されてしまうのです。

「実現できる準備を完了されている」どころではありません。自らが求めるのに先行して、私を助けて下さる法が与えられているのです。

弥陀のお慈悲を聞いてみりゃ、聞くより先のお助けじゃ(お軽同行)

わしはつまらぬあとばかり(才市同行)


南無阿弥陀仏が先手で、私は後手だとお軽同行も才市同行も言っています。

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いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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