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浄土真宗とは阿弥陀仏の第十八願成就の法門

浄土真宗とは阿弥陀仏の第十八願の教法のことで書きましたが、親鸞聖人において、浄土真宗とは阿弥陀仏の第十八願(本願)の教法を意味していました。そして、釈尊が本願成就文(十八願成就文)を説かれているように、十八願は既に成就しています。したがって、浄土真宗とは阿弥陀仏の第十八願成就の法門であります。そのことを教えられている親鸞聖人のお言葉が、親鸞会でもよく根拠として挙げられる次のお言葉です。

横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。(信文類
(現代語訳)
横超とは、阿弥陀仏の第十八願成就の法門であって、一切の衆生に平等にさとりを開かせる唯一無二の円満の教えです。すなわち、浄土真宗の教えがそれです。(『聖典セミナー 教行信証[信の巻]』梯實圓著・本願寺出版379頁より)

このように浄土真宗とは阿弥陀仏の第十八願成就の法門なのですが、親鸞会で説かれている話は「本願が成就している」ということが抜けた話です。今日はそのことについて書きたいと思います。

まず「成就」とはどのような意味なのでしょうか?
親鸞聖人は『教行証文類』に浄土論註を引文されて教えられています。

〈不虚作住持功徳成就〉とは、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり。いままさに略して虚作の相の住持にあたはざるを示して、もつてかの不虚作住持の義を顕す。{乃至}いふところの不虚作住持は、もと法蔵菩薩の四十八願と、今日阿弥陀如来の自在神力とによる。願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願、徒然ならず、力、虚設ならず。力願あひ符うて畢竟じて差はず。ゆゑに成就といふ。
浄土論註・行文類引文より)

(現代語訳)
<不虚作住持功徳成就>とは、つまり阿弥陀仏の本願のはたらきのことである。いま、少しばかりこの世のことがいつわりであてにならないことを示して、本願のはたらきがいつわりでなく代わらないこと、すなわち不虚作住持ということについて明らかにしよう。(中略)本願のはたらきがいつわりでなく変らないのは、因位の法蔵菩薩の四十八願と、果位の阿弥陀仏の自由自在で不可思議な力とにもとづくのである。願は力を成り立たせ、力は願にもとづいている。願は無駄に終ることはなく、力は目的なく空転することがない。果位の力と因位の願とが合致して、少しも食い違いがないから成就というのである。

ここで、法蔵菩薩の誓願によって本願力を成じ、本願力は誓願の通りにはたらいて下されており、果位の本願力と因位の誓願とが少しも食い違いがないから「成就」というのだと教えられています。そして、この本願力が完成されたことを一切衆生に告げる名乗りこそが南無阿弥陀仏の名号です。法蔵菩薩は、南無阿弥陀仏となって衆生を助けると誓い、その願成就して既に南無阿弥陀仏となってはたらいて下さっているのです。このことを『御文章5帖目8通』では次のように教えられています。

それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなりとしるべし。

注)上の『御文章5帖目8通』中に出てくる「方便」は「善巧方便」です。十九願や二十願を方便といわれるときの「権仮方便」とは異なります。

自分の力では迷いの世界を離れ出ることのできない私たちを法蔵菩薩は憐れみ(仏願の生起)、五劫思惟の本願を建て兆載永劫のご修行をなされ(仏願の本)、十劫の昔に阿弥陀仏となられ完成された本願力(南無阿弥陀仏)をもって私たちを救済しつつある(仏願の末)のです。

親鸞聖人の教えにおいては、既に本願が成就して働いて下さっている本願力(南無阿弥陀仏)という大前提があるのです。聞信の前にあるのは、十九願に誓われている善の実践ではありません。あるのは、衆生に対して喚びづくめ、はたらきづくめの名号願力という大前提です。ゆえに、その本願力を計らいなく受け入れるか否か(南無阿弥陀仏を疑いなく聞き受けるか否か)で、浄土に往生できるか・迷界に止まるかが分かれるのです。

今ここにいる私に向かって喚びづくめである南無阿弥陀仏のこころを説かず、「聴」を重ねた先の体験としての「聞」を説いているのが親鸞会です。しかし、私が「聴」を重ねた先に招喚の勅命があるのではありません。招喚の勅命が先にあって、それを計らいを入れずに聞きうけている状態が「聞」であり、信心なのです。現前の仏勅を疑いを雑えずに聞くことが、そのまま信心です。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(一念多念証文)

したがって、親鸞聖人の教えられた信心とは、「未来」に向かって求める「ここがモンと聞いたとき」というような体験でもなく、「過去」に向いてあのとき間違いなく弥陀の呼び声を聞いたのだからと握った体験のことでもありません。つねに喚びかけられている「我にまかせよ(南無)必ず助ける(阿弥陀仏)」の招喚の勅命を聞き受けている「現在」以外に信心が成就しているときはないのです。

本願成就の名号願力が大前提ということをよく知っていただきたいと思います。


今日書いたことに関連したコメントを以前頂いたので、最後に紹介します。

そもそも聞即信の「聞」とは成就文の「聞其名号」を宗祖が信巻に解説されたもので、名号法(仏願の生起本末)を疑い無く聞き受けているすがた(如実の聞)以外はないのですが、それを会長はあたかも一個の特殊な宗教体験かのように説くのが問題ですよね。
そんな「特殊体験」などないのに。

すでに衆生に呼びかけられつつある、先手の名号願力であるという前提で、それを如実に領受するか否かが、我がはからいをまじえた自力の聞(不如実の聞)と他力の聞(如実の聞)の違いなのに、会長は「聴聞」という言葉を持ち出し、わざわざ「聴」と「聞」にわけて、「聞」を聴聞の座を重ねた先の特殊な出来事であるかのように解釈してしまっていますよね。

お軽同行が「きのう聞くのも今日また聞くも ぜひに来いとのおよび声」と、また一蓮院秀存師が「勅命は唯一声と思いしに 今日もくる日も 弥陀の呼び声」と喜ばれた事と真逆です。

表面的には阿弥陀仏の救いは只今の救いと説きながら、実際には只今の救いではないと否定してしまっているのが、会長の所説ですね。
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1ページ分欠落してアップされたマンガ『歎異抄をひらく』の衝撃度

親鸞会公式ホームページに連載中のマンガ『歎異抄をひらく』の衝撃度ですが、これは、顕正新聞に掲載されているマンガをネット上にアップしたものです。1月中に公式ホームページで更新されたものは以下です。

新春番外編「ある地方の住職会議で」の巻
http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic45.htm
http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic46.htm

「善の勧めはある? ない?」の巻
http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic48.htm

「捨てよと言われているものは?」の巻
http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic49.htm
http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic50.htm

いつもは2ページづつアップされるのに、「善の勧めはある? ない?」の巻は 1/2ページがありません。

これは、さよなら親鸞会「幼稚化する親鸞会」
ちなみに、1月15日号には「真実の仏法の破壊工作を担当している悪口大好きのネットオタク」のパソコンを、「スガル」が機関銃で破壊し「「さよなら」に真実の言葉はなくってぇ~♪」と歌うシーンが描かれています。
と取り上げられてしまったからだと考えられます。

さよなら親鸞会で指摘を受けたからマンガのその部分をホームページ上に掲載するのはやめるというようなせこい対策をするよりも、さよなら親鸞会等で取り上げられている組織上の問題や様々なブログで指摘されている教義上の問題などに真摯に対応するのが先だと思いました。親鸞会批判者のブログ等を読んでいるのですから、批判に対して正面から答えるべきだと思います。

話は変わりますが、先日、現役の会員さんに「マンガ『歎異抄をひらく』の衝撃度を読んで、どう思いますか?」と聞いてみたところ、「何を言っているのか分からない」と言ってました。そうですよね。マンガで出てくる「善を捨てて救われた」とか「30年聞いたが助からなかった」など、一体何のことなのか、親鸞会から与えられる情報しか知らない会員さんは分からなくて当然です。
親鸞会を批判している人の主張をねじ曲げた台詞を散りばめたマンガを連載し続けていますが、そのようなおかしなマンガきっかけに親鸞会に疑問をもつ会員さんが一人でも多く現れてくれればよいなと思います。

他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり。当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり。

親鸞会で、名号本尊でなければならない根拠に挙げられる『蓮如上人御一代記聞書』のお言葉
他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり。当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり。
を拝読すると、蓮如上人は名号のみを本尊にされたのだと思われる方もあるかもしれません。しかし、本尊論でも相手の批判を無視し続ける親鸞会で書いたように山科本願寺の阿弥陀堂の本尊は御木像でした。では、真宗における木像本尊と名号本尊の関係はどのようになっているのか、今回の記事では稲城選恵著『御文章概要』406-417頁から学びたいと思います。

 真宗の本尊論は江戸時代に播州の智暹と法霖の所謂明和の法論より以後、余り問題はなかったが、最近蓮師の「聞書」を出し、名号本尊とすべきことを極端に固執している一部の人がいるようである。一宗の本尊は帰依の対象となるもので、最も重要な意味をもっている。今、本尊論として直接問題になっている蓮師からみることにしよう。即ち「聞書」本の五条には、
「蓮如上人仰られ候ふ、本尊は掛やぶれ、聖教はよみやぶれと、対向に仰られ候ふ。」
とあり、「本尊はかけやぶれ」とあるから、蓮師のいわれる本尊は名号本尊や絵像本尊に考えられるようである。更に「聞書」本の二四条には、
「のたまはく、南旡の字は聖人の御流義にかぎりてあそばしけり。南旡阿弥陀仏を泥にてうつさせられて、御座敷にかけさせられて仰せられけるは、不可思議光仏、旡碍光仏もこの南旡阿弥陀仏をほめたまふ徳号なり、しかれば南無阿弥陀仏を本とすべしとおほせられ候ふなり」
とあり、この文によると六字名号を本尊とされているようである。更に「聞書」本の六九条によると、
「他流には名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり。当流には、木像よりはゑざふ、絵像よりは名号といふなり。」とあり、これによると、他流は名号よりも絵像といわれ、絵像よりも木像といわれる。しかるに当流では、木像よりも絵像、絵像よりも名号といわれる。この場合、他流とは蓮師においては法然門下の異流をいうのである。今、帖内五の五通によると、
「此義は当流一途の所談なるものなり。他流の人に対してかくのごとく沙汰あるべからざる所なり。」
とあり、この他流を帖外一〇〇通には、
「凡当流之義、浄土一家之義には大に相違すべき也。当時はみな他力流の義をもち親鸞聖人一流と号すと、以外の次第也。先親鸞上人意は一念発起平生業成と立てゝ、臨終を期せず、来迎をたのまざるなり。……」
とあり、この場合の他力流は他流の誤りなることは前後の関係をみると明らかに知られる。それ故、信心獲得章の他流も他の浄土異流なることを意味するのである。この場合、他流は臨終来迎をたのむに対して、当流は一念発起平生業成の義をたて、臨終まつことなし、来迎たのむことないという立場を明らかにされているのである。それ故、他流の本尊が木像といわれるのは明らかに来迎仏なるが故である。また「聞書」末の二二一条には、
「然ば前々住上人の御時、あまた御流にそむき候本尊以下、御風呂のたびごとにやかせられ候、此二幅の御影をも焼かせらるべきにて御取出候ひつるが、いかゞ思召候ひつるやらん、表紙に書付を、よしわろしとあそばされて、とりておかせられ候ふ。……」
とあり、これによると、浄土真宗以外の御本尊も混同していたようである。
 次に、帖外九通によると、
「三業のなかには口業もて他力のむねをのぶるとき、意業の憶念、帰命の一念をこれば身業礼拝のために、渇仰のあまり瞻仰のために、絵像木像の本尊をあるひは彫刻し、あるいは画図す。しかのみならず、仏法示誨の恩徳を恋慕し、仰崇せんがために、三国伝来の祖師、先徳の尊像を図絵し安置すること、これまたつねのことなり。」
とあり、「改邪鈔」の文をそのまま引用されている。この引意からうかがうと、蓮師は絵像、木像を否定はしてはいないようである。この絵像木像は「帰命の一念おこれば」とあり、信心獲得の身の上から「渇仰瞻仰のあまり」お礼せずにいられない心境から絵像木像は出ているようである。観念仏体や臨終来迎の必然性からきたものとは全く異なるのである。随って「聞其名号」の名号の内容と絵像木像とは全く同一なることが知られる。
 また帖外三十一通によると、
「そのいはれいかんといふに、在家止住のつみふかき身が弥陀の本願を信じ後生一大事とおもひ、信心決定して誠に極楽往生治定とこゝろえたらん身は、そのありがたさのあまり報謝のためにあし手をはこび、また当山に安置するところの本尊ならびに開山の御影へもまひり、またわれらなんどにも対面をとげんはまことに道理なるべし。」
とあり、この御文は文明六年正月二十日の吉崎在住のものであり、本山の御本尊は明らかに「当山に安置する」とあるから御木像であることが考えられる。もし御絵像や御名号であればかけるという言葉が用いられる筈である。しかも御本尊に御礼することは「如来わが往生をさだめたまひし御恩報謝のため」といわれる。他宗の如く、祈願請求の御本尊や、臨終来迎仏や観念仏体のためのものではない。
(中略)
 以上、蓮師は「聞書」の文によると名号本尊のように思われるが、「帖外御文章」をはじめ、その他の諸文献によっても明らかなる如く、絵像、木像の本尊を用いられ、特に山科本願寺の阿弥陀堂の本尊は木像であったことも既述の如くである。ただし「帖外御文」の六十通に「安心決定鈔」を引用せる如く、形像も名号も全く同一なる名体不二なることが知られる。特に上述の「裏書集」によると絵像の多いことは当時の真宗寺院は多く道場であったといわれる。ここに絵像下附の理由が知られる。しかるに浄土真宗の教団が日増しに大きくなり、道場から寺院へと変転していく過程において、絵像より寺院は木像となり、本山に準ずるようになったといわれる。しかし、絵像も木像も等しく他流や他宗の意味とは異なり、御姿で表象せる名号の内容といわれるのである。
(以下、省略)


(まとめ)
・浄土他流の本尊は、臨終来迎仏であり、臨終来迎の必然性から出てきたものである。
・真宗の本尊は、祈願請求や観念のための物体としての意味は全くなく、御恩報謝から出てきたもの。絵像や木像はお姿で表わされた名号の内容であって、形像も名号も全く同一、名体不二である。

最後に、親鸞会ブログポータル・ナビのコメント欄で、親鸞会における本尊について鋭い意見があったので紹介します。

名体不二であるなら、そもそも名号本尊も形像本尊も、いずれも「阿弥陀仏」であると同時に「南無阿弥陀仏」であるわけで、
高森のごとく「名号本尊でなければ間違いであり、助からない」と主張することは、名体不二の否定であり、これこそ邪説ですよね。
また、礼拝の対象が名号本尊か形像本尊かが救いの可否に関わるなら、礼拝という衆生の三業が信心獲得に関与することとなり、三業帰命に同ずることになりますね…

蓮師が、形像本尊を依用され、また門徒に下附されつつも、「当流は木像よりは絵像、絵像よりは名号」といわれたのは、浄土他流や聖道門に簡んで
「真宗の本尊は、来迎を感得したり、観想念仏するというような、『修行のためのツール』ではないぞ」という意味合い(つまり、本尊とは報恩行の対象である)を強調されたものと解釈するほかなく、高森のように「真宗の正しい本尊は名号であり、形像本尊では助からない」などと主張する事こそ、「本尊は信心獲得の為のツールである」と見做している事になり、むしろ蓮師の意向に真っ向から背く主張ですね。

突然使われるようになる根拠の背景を推測する

※2月6日、頂いたコメントを参考にして、記述を加えました(記事中※印)。コメントを下された皆さま有り難うございました。

『教学テキスト』から『教学聖典』に改訂されたときに、加わった設問に、

『教学聖典』(4)
問(49)
「後生の一大事」とは、死後永く地獄で苦しむことであると明示された、蓮如上人のお言葉と、その根拠を示せ。

答(49)
○後生ということは、ながき世まで地獄におつることなれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべきものなり。(帖外御文)


があります。しかし、『教学聖典』に改訂された後も、高森会長の法話で根拠として提示されることはありませんでした。ところが、近年になってネット上の親鸞会関係サイトで見られるようになり、昨年は高森会長の法話や座談会で根拠として提示されるなどしたようです。また、『顕真』平成22年11月号の巻頭言は、

「後生という事は、ながき世まで
 地獄におつることなれば、
 いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、
 弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし」
(御文章)

「後生とは、未来永く地獄に堕ちて苦しむことをいう。
 だから急いでこの一大事解決のために、
 阿弥陀仏の救いを求めねばならない」

でした。

私は、『教学聖典』に改訂されたときからつい最近まで、高森会長が『帖外御文』を拝読して、この蓮如上人のお言葉を用いることにしたのだろうと思っていたのですが、どうやらそういうことではなさそうです。昨年末、ネット上に『現代における異義の研究 伝道院紀要24号』が公開され、そこで以下の記述を見つけました。

尚、蓮如上人の『帖外御文章』には

世間は一且の浮生、後生は永生の楽果なれば、今生はひさしくあるべき事にもあらず候。後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事なれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思ひとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。(蓮如上人遺文、稲葉昌丸編、五〇三頁)

とあり、後生を単に今生に対する意に用い「ながき世まで地獄におつる事」とあるところは、高森親鸞会の主張の根拠になるとも思はれるが、ここにも「後生は永生の楽果」とあるのであり、いずれにせよ主意とするところは「往生浄土(極楽)の大事」ということであろうと考えられる。


おそらく高森会長は『帖外御文』を拝読したのではなく、紅楳英顕師のこの論文を読み、しかも「後生は永生の楽果」という部分を抜いて、『教学聖典』の設問を作成したのでしょう。

※弘宣部では、大峯教授の記述の中に上記の蓮如上人のお言葉を発見し、平成一桁代から時折とどろきに用いていたそうです。こちらのルートから情報を入手し『教学聖典』に改訂するときに加えた設問かもしれませんが、やはり高森会長自身が『帖外御文』を拝読していたわけではなさそうです。
 
 
さて、平成21年末から突然使われるようになった根拠として、『一念多念証文』の
おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。
があります。このお言葉を、平成20年以前に親鸞会から発行された書籍・新聞などで読んだことはありませんし、法話や教学講義などで聞いたことはありませんでした。では、平成21年末以前に親鸞会について言及しているブログで、この『一念多念証文』のお言葉を引用しているものはないかと調べてみると、
『21世紀の浄土真宗を考える会』要門考(平成21年7月31日)
『親鸞会教義の誤り』親鸞会は諸行往生9(平成21年11月24日)
に書かれていました。高森会長か、もしく教学課などの人がこれらを読んで、このお言葉は使えると思って平成21年末から用いるようになったのではないかと推測できます。

※上記の二つのブログに書かれる以前にK森氏が根拠として用いていたそうです(幹部会員歴数十年様のコメントより)。そちらを高森会長・親鸞会が参考にしたのかもしれません。


会員の人は、高森会長はものすごい教学力を備えていると思い込んでいることでしょう。私も会員時代はそのように思い込んでいました。しかし、親鸞会を退会し、自分でお聖教を拝読してみて分かったことは、高森会長は浄土真宗についてほとんど何も知らない、単なる思い込みか思いつきで話をしているだけだということです。

自分でお聖教を拝読せず、伊藤康善師や大沼法龍師または批判者の書いた文章から断章したお聖教のお言葉を用い、思いつきで話するので、高森会長の解釈と合わないお聖教のお言葉は山のように出てきます。そして、それらを指摘されても、無視を決め込んでいます。会員に対しては、「善の勧めがないという者がいる」とか「善を捨てて救われたといっている者がいる」とか批判者の主張を捏造して、徹底すること位しかできていません。

・平成21年末まで使われたことがなかった根拠「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり」について、9回も座談会が行われるのはなぜなのか?
・9回も座談会で取り上げられるほど大事なお言葉が、平成21年末以前に話されることがなかったのか?
・そもそも、『教学聖典』(1)~(9)に掲載されていないのはなぜなのか?
・このお言葉を根拠にして、「仏教とは、弥陀の方便の善一つを教えられたものだ」(『浄土真宗親鸞会 射水市周辺地区の紹介』切れ味鋭い断言より)と言っているが、「仏教とは弥陀の本願一つを教えられたもの」ではなかったのか?
などなど、このような疑問を会員の皆さまはもたれないのでしょうか?

Appendix

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いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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