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「直ちに」

テレビ・新聞等の報道によると、福島第一原発は予断を許さぬ状況が続いています。それらの報道の中で放射能が健康に及ぼす影響について、「直ちに健康に影響を与えるレベルではないと考えられる」というフレーズを何度も聞きました。このフレーズには「直ちに」とありますから、今すぐには健康に影響を与えないと考えられるということですね。長期的に見たときに影響があるかどうかということについては言及されていないフレーズです。反対に「直ちに健康に影響を与えるレベルである」ということでしたら、今すぐに影響があるという意味になります。

このように「直ちに」とは、「今すぐに」と時間を置かないことを意味します。

親鸞聖人の教えを聞いている人ならば、「直ちに」と聞くと、二河白道の喩えの西岸上からの弥陀の喚び声を思い出すことと思います。

西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。(『散善義』信文類引文より)

弥陀は「直ちに来れ」と喚び続けておられるのです。
「直ちに来れ」ですから、「今すぐに来い」と絶えず喚んでおられるのです。

その弥陀のお喚び声そっちのけで、三願転入の道を進まねばとか、方便を通らねばとか、要門と言われているのだから18願に入るのに実行する必要があるのだなどと言っているのは、本願の心に背いているということです。そのようなことを言って方便仮門に止まっている人に、阿弥陀仏は「直ちに来れ」と喚びづくめなのです。「直ちに来れ」とは、今すぐ方便を捨てて他力に帰せよとの御心です。親鸞聖人は、「直ちに来れ」の「直」について、

「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。(愚禿鈔

と解釈されています。まず、「直の言は、回に対し迂に対する」と仰った回、迂とは、

しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。
また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。(信文類


と教えられているように、竪超・竪出といった聖道門を指しており、また

横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。(信文類

とあるように、横出つまり19願、(20願)のことです。つまり、一切の自力方便の教えを「迂回」と仰り、「直」を如来の大願他力となされています。そして、『愚禿鈔』ではこの後、「直の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり」と説き、「直ちに来れ」を「方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰せよ」と喚びづくめなのだと弥陀の御心を明らかになされています。

「方便仮門の教えを実行して来い」ではありません。「方便仮門を捨てよ」が阿弥陀仏の御心だということです。

「三願転入は弥陀のお計らい」などと説き、方便仮門に聞く者をとどめているのは、阿弥陀仏の御心を説いていない、背いているこということを知って頂きたいと思います。
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「不可称・不可説・不可思議」とは善の勧めのことではありません

3月11日の東日本大地震から10日が経ちました。多数の死者、行方不明者、被災者が出ており、戦後最大の危機と言われています。被災された方々に心からお見舞いを申しあげます。

さて、その3月11日にも親鸞会公式ホームページは更新されています。
弥陀の方便なくして真実へは入れぬという記事です。相変わらず、本来は「十八願」について教えられたお言葉を、「十九願」や「三願転入の教え」について仰っているかのようにねじ曲げて、「弥陀が善を勧められているのだから計らわずに実行せよ」というように誤解させる文章をアップしています。その文章の後半部分を読んでみましょう。


 では、「万行諸善これ仮門」とはどういうことであろうか。

 阿弥陀仏は、十方衆生を真実の十八願で救うために、十方衆生を相手に、十九、二十の方便願を建てられている。十八願だけで救えるのなら、弥陀が方便二願を建てられるはずがないのだ。十八願の誓いを果たすために、絶対必要不可欠な方便だったのである。

 その十九願で十方衆生に「修諸功徳」と、万行諸善を勧められた弥陀の願意を、釈迦が生涯説き明かされたのが、七千余巻の一切経となったのである。

 それを親鸞聖人は、

「八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり」(一念多念証文)

〝釈迦一代の教えは、弥陀の方便(十九願)の善である〟と、ズバリ喝破されている。

 方便からしか、真実へは入れない。必ず十方衆生が通らなければならない道程だから、要門とか仮門と言われているのだ。

「一生造悪の我々に、善を勧めるのは矛盾だ」と仏智を疑い、「十九願は捨てもの。十八願だけでいい」「弥陀・釈迦の方便は、俺には必要ない」とうそぶく。

 顛倒している者は、真っすぐ立っている者が、顛倒しているとしか見えないのである。

 凡夫で分かる弥陀の救いなら、親鸞聖人は「不可称・不可説・不可思議」とは仰るはずがなかろう。

「おおよそ大信海を案ずれば、
 ─乃至─
 ただこれ不可思議・不可説・不可称の信楽なり」 (教行信証信巻)


「阿弥陀仏が十九願で善を勧められているのだから、その仏智を疑うな」という論調ですが、最後に根拠として挙げた親鸞聖人のお言葉は十八願について教えられたものであり、十九願のことではありません。このお言葉は第十八願の信心の徳を讃えられたものです。

おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず、行にあらず善にあらず、頓にあらず漸にあらず、定にあらず散にあらず、正観にあらず邪観にあらず、有念にあらず無念にあらず、尋常にあらず臨終にあらず、多念にあらず一念にあらず、ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。(信文類

(現代語訳)『聖典セミナー 教行信証[信の巻]』(梯實圓著・本願寺出版)259-260頁より
おおよそこの海のように広大な徳を持っている偉大な信心について味わってみると、身分の違いや出家在家の違いを分け隔てせず、男女とか老少を区別せず、犯した罪の多少を問題にせず、修行期間の長短を問題にせずに救いをもたらします。それは自分が行う行でも善でもなく、自力で速くさとれるか、遅くしかさとれないかを問題にする教えでもありません。心を静めて行う定善でも、散心のままで行う散善でもありません。正しい観想でも邪な観想でもありません。仏の姿形を思い浮かべる有念でもなく、姿形を超えた無相を念ずる無念でもありません。尋常にかぎるのでもなく臨終にかぎるのでもありません。多念往生にかぎるのでも一念往生にかぎるのでもありません。それは、人間の一切のはからいを超越した、思いはかることもできず、称讃し尽くすこともできず、説き尽くすこともできない信楽なのです。

十八願について教えられたお言葉を「善の勧め」に適用するだけでなく、「修行の久近を論ぜず」という「どれだけ善に励んだかということは問わない」と教えられた部分を省略していることにも、親鸞会会員を間違った道に誘導しようとしている意図を感じます。

親鸞聖人は、要門について「不可思議」と教えられていないこともこの機会に知って頂きたいと思いますので、『愚禿鈔』の二教対のお言葉を紹介します。

本願一乗海は、頓極・頓速・円融・円満の教なりと、知るべし。
浄土の要門は、定散二善・方便仮門・三福九品の教なりと、知るべし。

と教えられた後、本願一乗海(十八願)と浄土の要門(十九願)を比較して説かれています。その中に、
思不思議対
とあります。『浄土真宗聖典(注釈版)』(本願寺出版社)の註に、「念仏は衆生の思議がおよばない尊い法であるが、諸善は思いはかることのできる法である」と書かれています。念仏の法(十八願)は不可思議の法なのですが、諸善の法(十九願)は不可思議の法とは教えられていません。

その不可思議の十八願を計らって、広大な信心を覆い隠してしまう誤った考えを機と法の面から種々に挙げて、一切の自力の計らいを否定されたのが、「おほよそ大信海を案ずれば~」のお言葉です。親鸞聖人が計らうな、疑うなと仰っているのは十八願のことだけであり、十九願や二十願、親鸞会流の三願転入の教え、また善のすすめのことではないことをよく知って頂きたいと思います。

いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり

親鸞会の会員さんは、活動に励み、後生が問題になって、なおも活動に邁進した先に雑行が問題になり、そうした先に「聞」と弥陀の喚び声を聞く驚天動地の体験があると理解していることと思います。この理解は、弥陀の喚び声は私が何かを実行して進んだ先にあるという考え方で、本願が成就していることが大前提の真宗教義に反しています。

本願成就のすがたが南無阿弥陀仏の名号であり、「そのまま助けるぞよ」と喚びづくめの勅命がすでに届いているのが浄土真宗の大前提です。

すでに届いているがゆえに、拒絶する(疑)か、計らいなく受け入れる(信)かという信疑によって、生死に止まるか往生成仏するかが分かれるのであります。往生について我が機の善悪は問題ではありません。本願成就の名号を計らいをまじえずに受け入れるか否かで往生は決するのです。

私はまだ信仰が進んでいないからとか、罪悪が知らされていないからとか、後生に驚きが立っていないからとか、雑行が問題になっていないからなどと本願の救いに自分で勝手に条件をつけているのは、本願を計らっているすがたです。
信仰が進むとか、後生が問題になるとか、雑行が問題になるなどということを説く者が話すのは、自分の心境やその変化を問題にするように聞法者を迷わせるだけで、本願の救いから遠ざけてしまう悪い説法です。

自らが求めるに先行して与えられている間違いのない法(南無阿弥陀仏)を疑いをまじえずに聞くことが信心です。その法に対して、自らが先行するのが拒絶です。具体的に言うと、我が機ばかりを眺めて、もっと後生が問題になればとか、もっと真剣になれたらとか、あの人のように活動できたら(助かるだろう)などということは、全て「そのまま助ける」という本願の救いを拒絶しているということです。「そのまま」とは文字通り「そのまま」です。私の側に何の変化も造作も要求されていないということです。後生が問題にならないならばならないまま、真剣になれないならば真剣になれないままの救いです。

只今「そのまま助ける」と喚びかけたまう勅命に信順するばかりです。信心とは、現前の仏勅を計らいをまじえずに聞き受けている状態に他なりません。『三願転入の御文』と梯和上の解説から、そのことを窺いましょう。

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要をひろて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。(化身土文類

 「しかるにいまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す」というのは、真門から弘願への転入を表わされている。
 しかし、信心が開発して、弘願に転入している時を表す「今」とは、ただ今聞こえている現前の仏勅を聞信している只今であって、その時を対象化し、抽象化して語られた「今」ではない。それはただ今「われよく汝を護らん」と聞こえている本願招喚の勅命を疑いをまじえずに聞き受けている「今」のことである。その意味で具体的な信心の成就している時は、過去でもなく、未来でもなく、現前の仏勅の聞こえている「現在」以外にはないことを顕している。
(中略)
 なお「ここに久しく願海に入りて」といわれた「久しく」は、聖人が本願海に帰入されてから、既に久しい時が流れたと、過去を追憶するような意味もあったであろう。しかしそれだけではなかったと考えられる。信の時を語られているという意味で、それは単に過去化した時間ではなく、ただ今の事実を述べられている筈である。したがって、「ここに久しく」といわれた「久」には、時を超えた久遠の願海に帰入して、今既に広大無辺な仏恩に包まれていることを信知せしめられているという「ただ今」の事実を表わされていたといえよう。さきに「今ことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり」といわれた「今」は、本願招喚の勅命を聞いている「今」を意味しており、信心の現成している時は常に今であるような「久遠の今」を表わしていたと考えられる。その意味で「今」と「久しく」は同じ内容を持つのである。たとえば「仏の久遠実成」を語るとき、「久遠というは猶し今日のごとし」と言い伝えられているのと同じように、信の時も「久遠の今」であった。それゆえ「今、選択の願海に転入せり」ということがそのまま、「ここに久しく願海に入りて深く仏恩を知
れり」ということでもあったのである。
(梯實圓著『顕浄土方便化身土文類講讃』456-458頁より引用)



間違いのないお助けが先に与えられているのが真宗です。そのお助けを聞くままが信です。

「聞」に向かって私が進んでいくのではありません。只今届いている本願成就の名号を聞信するのであります。

南無阿弥陀仏が先手で、私は後手です。
これに反して、自らの側ばかりを問題にさせる親鸞会の話は真宗の話ではありません。

仏教の受け持ちは後生の一大事だというならば、、、

先日の学生大会の演題は「後生の一大事」で、「仏教の受け持ちは後生の一大事」という話があったそうです。
(参考)
『浄土真宗親鸞会 宇治金時にあこがれて』親鸞会館で、後生の一大事について教えて頂きました
『カボチャプリン☆親鸞会講師のわくわく日記』親鸞会のみ明らかに☆
『親鸞会イミズム』親鸞会で知る仏教の受け持ち「後生の一大事」

そういえば、1月の座談会の内容をまとめた顕正新聞2月15日号の記事が、『安心問答』顕正新聞2月は15日号より、「生活に必要なチケット」が必要な理由に書かれていました。

雑毒の善
●地球上のどんな乗り物(JR、バス、飛行機など)にも乗れるが、月(弥陀の浄土)へは行けない。
●多種多様で多い程よい、生活に必要なチケット

真実の善
●月へは行くことができる。
●弥陀から頂く、たった一枚のチケット(南無阿弥陀仏の名号)


蓮如上人の『白骨の御文章』
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。
を高森会長は話していながら、また会員の人は聞いていながら、1月の座談会では仏教の受け持ちである後生の一大事はそっちのけで、「多種多様で多い程よい、生活に必要なチケット」の話を重点的に話していた、聞いていたということです。老少不定の世であるという自覚があったならば、そんなのんきな話ができるはずがありません。

後生の一大事(=往生の一大事)が仏教の受け持ちということが分かれば、「地球上のどんな乗り物にも乗れるが、月(弥陀の浄土)へは行けない」諸善の勧めの話ばかりの座談会を聞いて満足できるはずはありません。月(弥陀の浄土)へ行ける「南無阿弥陀仏の名号」について、聞きたいと思うはずです。

1月の座談会から3月の学生大会まで、ほんの数ヶ月の間のことです。会員の皆様は、毎回毎回の話が一貫していないことに気が付かないのでしょうか?
1回の話のその一部分だけを聞いて、「今日は今まで聞いたことのないことを聞けてよかった」とか「いい話だった」という程度にしか聞いていないとしたら、高森会長の話のおかしさに気が付かないのかもしれません。

仏教の受け持ちは後生の一大事(=往生の一大事)ということに腰を据えて、高森会長の話の全体をしっかり聞いてみて下さい。月(弥陀の浄土)へ行ける「南無阿弥陀仏の名号」についての話とは無関係なことばかりを話していることに気が付くことと思います。

大本営発表を繰り返す親鸞会

『顕正新聞』3月1日号に掲載されているお言葉です。

●教えを説いているだけ

親鸞聖人の教えを説いているだけで、あんなに繁栄するはずがないと思うのが当然。

親鸞聖人の教えを伝えているだけで、あんなに群参するはずがないと思うのも当然。

親鸞聖人の教えを話しているだけで、あんなに金品が集まるはずがないと思うのも当然。

何かあると訝るのは、税務署だけでないのも当然なのだ。だが、知る人ぞ知る親鸞会は、更に親鸞聖人の教え以外説いたことがないのが事実である。


「親鸞会は親鸞聖人の教えをねじ曲げて伝えている」、「親鸞会教義は浄土真宗の破壊である」、「法論から逃げた親鸞会」などの外部からの批難には何ら答えることなく、内部に向けては「親鸞会は親鸞聖人の教えを説いているのだ」ということを繰り返し徹底しています。

何をもって上で繁栄といっているのか分かりませんが、一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはなく候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふの『御一代記聞書』のお言葉と照らし合わせれば、信をとる者が全くといっていいほど現れない親鸞会は、決して繁昌しているとか、繁栄しているとはいえません。仮に人が多く集まることを繁栄といっているとしても、10年・20年以上幹部として活動していた人の退会が続く親鸞会が繁栄しているとは言い難いです。

人が群参しているといっても、二千畳の常時満堂という目標には程遠く、特別な行事のときだけ何とか会場が一杯になっているように見えるというのが、私が退会した1年半程前の状況でした。今はもっと少なくなっているかもしれません。

また、金品が集まるのは、次々と財施を募るからでしょう。1度募っても足りないので、あれこれと名目をつけて、集めているのではないでしょうか?

「繁栄する」も「群参する」も「金品が集まる」も親鸞会の実態を表わしているとは思えません。むしろ、そのような言葉を使うのは、そうなって欲しいという願望のあらわれではないかとさえ思います。


外部の情報に全く触れたことのない人は、上のような高森先生のお言葉を読むと、親鸞会は親鸞聖人の教えを伝えているから繁栄している、人が群参している、金品が集まっていると思いこみ疑うことはないのでしょう。しかし、それは現実を知らされていないからそう思い込んでいるだけです。

反対に、親鸞会外部の情報に触れた人の中から、親鸞会の組織面や教義面のおかしさに気がつき、退会する人が相次いでいます。

それにしても、外部の情報に触れながら、なおも親鸞会に止まり続ける人は、本当に親鸞会が繁栄している、人が群参している、金品が集まっている、そして親鸞聖人の教えを正しく伝えていると思っているのでしょうか?
そのような人にこそ、現実をありのままに見つめて頂きたいと願います。

外部からの批判に全く答えることの出来ない親鸞会。
内部に向けて大本営発表を繰り返すだけ。
もはや末期症状と感じます。

Appendix

プロフィール

いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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