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七高僧の勧められたこと

先日の4月の高森会長の法話の中で、『正信偈』の「道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」について話があったようです。いくつかの親鸞会関係のブログで取り上げられています。

『浄土真宗親鸞会 熊本火の国のひろば』4月ご法話、正信偈の構造より

正信偈の目的は、最後の「道俗時衆共同心唯可信斯高僧説」
に明らかにされているとおり、全ての人よ、親鸞と同じ絶対の幸福になってもらいたい。そのためには、仏法を正しく伝えてくだされる先生の教えを聞けばよい。ということだとお聞きしました。


『浄土真宗親鸞会 きらり☆金沢』道俗時衆共同心より

この正信偈は何のために書かれたか。
正信偈を書かれた目的が、一番最後に書かれています。

「道俗時衆共同心(どうぞくじしゅうぐどうしん)
 唯可信斯高僧説(ゆいかしんしこうそうせつ)」

「全ての人よ、この親鸞と共に同じ心になってもらいたい。」

同じ心とは、絶対の幸福ということです。
全ての人に、絶対の幸福になってもらいたいと書かれたのが正信偈なんですね。

では、どうすればそのような身になれるのか?

「唯一つ、この高僧の教えを信じなさい。」



ちなみに、『正信偈』のこの部分について、蓮如上人は次のように教えられています。

「弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪 道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」といふは、弘経大士といふは、天竺(印度)・震旦(中国)・わが朝の菩薩・祖師等のことなり。かの人師、未来の極濁悪のわれらをあはれみすくひたまはんとて出生したまへり。しかれば道俗等、みなかの三国の高祖の説を信じたてまつるべきものなり。さればわれらが真実報土の往生ををしへたまふことは、しかしながらこの祖師等の御恩にあらずといふことなし。よくよくその恩徳を報謝したてまつるべきものなり。(正信偈大意)

道俗等に向かって、「三国の高祖の説を信じたてまつるべきものなり」であると仰っています。では、印度、中国、日本の三国の祖師方の教え勧められたこととは何なのでしょうか?
同じく『正信偈大意』に、蓮如上人は次のように教えられています。

「印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機」といふは、印度西天といふは天竺なり、中夏といふは唐土(中国)なり、日域といふは日本のことなり。この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ、ことに釈尊出世の本懐は、ただ弥陀の本願をあまねく説きあらはして、末世の凡夫の機に応じたることをあかしましますといへるこころなり。(正信偈大意)

ここで「この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ」と仰っています。「一行」ですから、他の行を雑えることはないということです。つまり、親鸞会で盛んに強調されている「浄土の方便の善」を勧めることはないということです。しかし、親鸞会では、諸善の勧めばかりではありませんか?

上でリンクしたブログを見ると「依修多羅顕真実」についても話があったようですが、この真実とは何のことか親鸞会の会員さんはご存知でしょうか?
蓮如上人が、

「依修多羅顕真実 光闡横超大誓願 広由本願力回向 為度群生彰一心」といふは、この菩薩、大乗経によりて真実を顕す、その真実といふは念仏なり。横超の大誓願をひらきて、本願の回向によりて群生を済度せんがために、論主(天親)も一心に無碍光に帰命し、おなじく衆生も一心にかの如来に帰命せよとすすめたまへり。(正信偈大意)

と解釈されている通り、「真実」=「念仏」です。

「唯一つ、この高僧の教えを信じなさい」と言われても、その高僧の説が誤って伝えられているところでどれだけ教えを聞いても救われることはないと言っていいでしょう。『正信偈大意』のお言葉から明らかなように、七高僧が共通して大切に教えられたのは18願、他力念仏です。4月の二千畳座談会では、「18願、19願、20願を親鸞聖人だけでなく、七高僧はじめみな大切に教えられている」と高森会長が説いたそうですが、真宗教義にない珍説であることが分かります。

『正信偈大意』は短いお聖教ですから、会員の皆さんは是非拝読してみて下さい。そして、高森会長の『正信偈』の話と比較してみるとよいと思います。
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看板と中身の違いを知った人から退会するー平生業成の10分説法から

高森会長のビデオ法話の前に、講師部員が行う10分説法の一つ、『平生業成』の中に以下の話が出てきます。

 看板といえば、それを見れば、その店が何を売っているか分かるものです。
「八百屋」という看板があれば、そこでは野菜が売られているのだな、と分かります。
「タバコ店」とあれば、たばこを売っているのだなと分かります。
 看板を見れば、何を売っているか分かりますから、看板は大変大事なものです。
 もし魚屋さんに「タバコ店」という看板が出ていたら、その店はどうなるでしょう。タバコがありませんから、タバコを買いに来た人は腹を立てて帰って行きますし、魚が欲しい人は誰も来ませんから、店は倒産してしまいます。
 ですから、看板は非常に大切なものです。
http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/heizeigoujyou.htmより引用)


改めて親鸞会を眺めてみると、「タバコ店という看板が出ている魚屋さん」に当たるのが親鸞会だと感じます。

「浄土真宗」「親鸞会」と浄土真宗、そして宗祖のお名前を団体名(看板)にしていながら、お聖教を実際に自分で拝読すると、その教えている内容(中身)が浄土真宗・親鸞聖人の教えとかけ離れていたり、正反対だったり。したがって、親鸞聖人の教えを求めていた人は、去っていきます。

生きている平生に救われる「平生業成」は親鸞聖人の教えの一枚看板と説きながら、実態は「信仰が進む」だとか「光に向かって進ませて頂きましょう」などというフレーズに代表されるように未来に救われる教え。よって、今救われたいと願う人は辞めていきます。

「仏法のため」というフレーズで度重なるお布施を募りながら、会計報告もなされず、本当に仏法のために使われたかどうかわからない不透明な会計。そのことに不審をもった人は、退会していきます。

「質問大歓迎」と大学での勧誘時に言われたのに、気がついてみたら「先生の深い御心」「君たちには分からないことなのだ」「納得できることには従うが、納得できないことには従わないということではこの道は進めないのだ」などと思考停止状態にさせられる。これがカルトに共通する問題点の一つだと気がついた人は、目を覚まして自ら歩み始めます。

今挙げたことはほんの一例でしょう。

親鸞会では、とにかく、外に向かって一応は掲げられていること(看板)と実際にそこで行われていること(中身)の乖離が大きいです。実態が看板通りではありませんから、その実態に気がついた人は辞めていきますし、死ぬまで求道の終わりなき苦しみを受けたい人も、無駄なことにお金を使いたい人も、カルト性のある団体に進んで所属したい人もいませんから、実態を隠した勧誘活動を構成員は続けるしかありません。

自分が勧誘する時のことを思い出して下さい。「こんなことをご縁の浅い人に話をしたら誤解される」と思って、相手に隠していることはありませんか?
そのようなところに「看板」と「実態(中身)」の相違があるのかもしれません。

弥陀の招喚 ー 親鸞聖人と親鸞会の相違  ー

二河白道の譬えの中に説かれている弥陀の招喚のお言葉

西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。(『散善義』信文類引文より)

で、親鸞会において、最も強調して話をされる部分は、

すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ

です。このことは、『教学聖典(6)』に

問(6)
どんな時の行者に、西岸上からの呼び声が聞こえたのか。その時の呼び声を書け。
答(6)
○水火の難に堕することを畏れている行者に。
○汝一心正念にして直に来れ、我能く汝を護らん、衆て水火の難に堕することを畏れざれ。


という問答があることからも分かります。

「畏れるな」という喚び声は、水火の難に堕することを畏れている行者に聞こえるのだ。たばこをのんでいない者にはたばこをのむなとは言われない。酒を飲んでいない者には酒飲むなと言われない。たばこをのんでいる者にたばこをのむな、酒を飲んでいないものに酒飲むなと言われる。同じように、「畏れるな」という喚び声は、水火の難に堕することを畏れている行者に聞こえる。』のように高森会長が説法で話すのを聞いたことのある人は多いと思います。「すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」という部分を強調し、求道とは煩悩とのたたかい、横の道を進めば必ず煩悩が問題になってくる、煩悩が邪魔になってくると話をして、聞く者に機ばかりを問題にさせてしまっています。また、煩悩とのたたかいの先に信心獲得があると聞法者に思い込ませてしまうことも問題です。

一方、「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん」の部分についての説明は、親鸞会の法話・会合などではほとんどなされないと言ってもよいでしょう。


ここで、親鸞聖人は弥陀の招喚のお言葉について、どのように解釈されているのか見てみましょう。『愚禿鈔』で詳しく教えられています。

「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、
「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。
「汝」の言は行者なり、これすなはち必定の菩薩と名づく。龍樹大士『十住毘婆沙論』(易行品 一六)にいはく、「即時入必定」となり。曇鸞菩薩の『論』(論註・上意)には、「入正定聚之数」といへり。善導和尚は、「希有人なり、最勝人なり、妙好人なり、好人なり、上上人なり、真仏弟子なり」(散善義・意 五〇〇)といへり。「一心」の言は、真実の信心なり。「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。
「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり。「能」の言は、不堪に対するなり、疑心の人なり。「護」の言は、阿弥陀仏果成の正意を顕すなり、また摂取不捨を形すの貌なり、すなはちこれ現生護念なり。


拝読してみれば分かるように、「すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」については解釈を施されていません。それどころか、この部分は引用もされていません。そして、「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん」について詳細に教えられています。

親鸞聖人が解釈されている部分を説かず、親鸞聖人が教えられていない部分ばかりを強調しているのが親鸞会であることが分かります。親鸞聖人の説かれ方と異なるように教えていながら「親鸞会」を名乗るのは、看板に偽りありです。

すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と同じことを『御文章』には、
あながちにわが身の罪のふかきにもこころをかけず(2帖目10通)
わが身の罪のふかきことをばうちおきて(3帖目1通)
ただわが身の罪のふかきには目をかけずして(3帖目5通)
わが身の罪のふかきことをばうちすてて(5帖目14通)
まづわが身のあさましき罪のふかきことをばうちすてて(5帖目18通)

などと説かれています。これらのお言葉については、『顕真』1月号法友通信を読むにて触れました。

このような蓮如上人のお言葉を拝読すると、これは自己の罪悪を問題にしている人に対して、問題にするなと仰ったお言葉で、自分はまだそこまで罪悪・煩悩が問題になっていないから今はもっと善に励んで、罪悪が問題になるところまで進まなければならないのだと思う会員さんもあるかもしれません。しかし、蓮如上人はそのように、求道の道程として罪悪を問題にせよというような意味のことはどこにも教えられていません。反対に「罪の沙汰は無益」であると仰っています。

一 仰せに、一念発起の義、往生は決定なり。罪消して助けたまはんとも、罪消さずしてたすけたまはんとも、弥陀如来の御はからひなり。罪の沙汰無益なり。たのむ衆生を本とたすけたまふことなりと仰せられ候ふなり。(御一代記聞書39)

阿弥陀如来の「助けるぞ」の勅命を計らいなく聞き受けるか否かだけで往生が定まるのです。我が機ばかりをみつめるのでなく、「必ず助ける」の大悲の喚び声に向いて下さい。

弥陀をたのむとは、向きをかえるなり。
「華山に向いて花を看、明月に向いて明月を観る」
というごとく、
機(自分)の方にむかわずして、
必ずたすけてやろうとある大悲にむかう一念が、
「後生助けたまへと弥陀をたのむ」こころなり。
(一蓮院秀存師)

直の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり

「直ちに」で取り上げた『愚禿鈔』のお言葉
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
について、もう少し見ていきましょう。

まず、
「直」ー如来大願の他力
「回」「迂」ー自力の方便仮門
とし、「方便仮門を捨てて如来大願の他力の法を信受せよ」と喚びづくめなのが阿弥陀仏の御心だと親鸞聖人が解釈されていることを前回説明しました。

次に、「」を「諸仏出世の直説」を顕すお言葉であると親鸞聖人は見られています。

このように、「直」を「諸仏出世の直説」つまり諸仏の出世本懐を示すお言葉として教えられているところは他にもあります。親鸞会が最近盛んに用いている『一念多念証文』の「おほよそ八万四千の法門はみなこれ浄土の方便の善なり」のお言葉の前後がそれに当たります。『一念多念証文』のこのお言葉の少し前には、
「直為弥陀弘誓重」といふは、「直」はただしきなり、如来の直説といふなり。諸仏の世に出でたまふ本意と申すを直説といふなり。
とあり、
「為」はなすといふ、もちゐるといふ、さだまるといふ、かれといふ、これといふ、あふといふ、あふといふはかたちといふこころなり。「重」はかさなるといふ、おもしといふ、あつしといふ。誓願の名号、これをもちゐさだめなしたまふことかさなれりとおもふべきことをしらせんとなり。
と続きます。この部分全体の意訳は、

「直に弥陀弘誓重きが為に」というのは、「直」は正しいということである。如来の正直の説法、すなわち真実にかなった教説ということである。諸仏がこの世に出現された本意を説き表されることを直説というのである。「為」は「なす(作)」ということであり、「もちいる(用)」、「さだまる(定)」、「かれ(彼)」、「これ(是)」、「あう(相)」ということである。「あう」という言葉は、その「相」には「かたち」という意味がある。「重」とは「かさなる(塁)」とも、「おもし(重)」とも。「あつし(厚)」ともいう。すなわち、諸仏がこの世に出現された本意は、阿弥陀仏の本願の名号を用いて、凡夫の往生を定めることを為したもうためであった。そのために名号のいわれを重ね重ね説き示されたのである。その甚厚なる思し召しを思いしれと教えられた言葉である。(『一念多念文意講讃』梯實圓著・永田文昌堂328頁より引用)

となります。

「諸仏の出世本懐」とは、「阿弥陀仏の本願の名号を用いて凡夫の往生を定めること」であると教えられています。このことを証明するために、親鸞聖人は次に『大無量寿経』を引用されたのでした。『一念多念証文』の続きを拝読してみましょう。

しかれば『大経』(上)には、「如来所以 興出於世 欲拯群萌 恵以真実之利」とのたまへり。
この文のこころは、「如来」と申すは諸仏を申すなり。「所以」はゆゑといふことばなり。「興出於世」といふは、仏の世に出でたまふと申すなり。「欲」はおぼしめすと申すなり。「拯」はすくふといふ。「群萌」はよろづの衆生といふ。「恵」はめぐむと申す。「真実之利」と申すは、弥陀の誓願を申すなり。しかれば諸仏の世々に出でたまふゆゑは、弥陀の願力を説きて、よろづの衆生を恵み拯はんと欲しめすを、本懐とせんとしたまふがゆゑに、真実之利とは申すなり。しかればこれを諸仏出世の直説と申すなり。


ここにも「諸仏出世の直説」というお言葉が出てきます。『大無量寿経』の経文から、諸仏の出世本懐は、阿弥陀仏の願力を説き聞かせて全ての者に真実の利益を恵み与えて救うことであると示されています。こうして、諸仏の出世本懐が明らかになったので、次にそれ以外の経説の位置づけを親鸞聖人は教えられました。それが親鸞会で「善の勧め」の根拠として挙げている部分です。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

ここでは八万四千の法門を『観経』におさめて、それを浄土方便の要門・仮門と教えられています。そして、仏が方便仮門によって真実の法門に導いていく有様を「もろもろの衆生をすすめこしらへて」と示されています。つまり、この段では、一切の法門は「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海(阿弥陀仏の第十八願)」に導くための権仮方便の教説であるということが教えられている訳です。

ここで、初めの『愚禿鈔』のお言葉をものさしにすれば、
「直」=「如来大願の他力」=「諸仏出世の直説」=「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海」
「迂回」=「八万四千の法門」=「浄土の方便の善」=「要門・仮門」=「よろづの自力の善業」

であり、「」=「方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰せよ」ですから、「八万四千の法門はみなこれ浄土の方便の善」と親鸞聖人が教えられているのは、浄土の方便の善だから実行せよということではなく、浄土の方便の善だから捨てよということなのです。

さて、『一念多念証文』の今回みてきた部分は、隆寛律師が著された『一念多念分別事』に引かれている『法事讃』の「上尽一形下至十念三念五念仏来迎 直為弥陀弘誓重 致使凡夫念即生」のお言葉を解釈されているところの一部分なのですが、『一念多念証文』でその結論に当たる部分が次のお言葉です。

諸仏出世の直説、如来成道の素懐は、凡夫は弥陀の本願を念ぜしめて即生するをむねとすべしとなり。

(意訳)『一念多念文意講讃』梯實圓著・永田文昌堂390頁より
諸仏出現の正意を顕す説法、如来が成道の本懐とされている教説は、煩悩具足の凡夫をして、阿弥陀仏の本願を信ぜしめ、凡夫が即時に正定聚の位に入ることを本意とされているというのである。

ここにも「諸仏出世の直説」とあります。

このように親鸞聖人は繰り返し繰り返し「諸仏出世の直説」とは何かを教えられているのですが、これを説かずに、先日の日曜日の二千畳座談会でもそうだったそうですが「浄土の方便の善」ばかりを説いているのが親鸞会です。親鸞聖人が明らかにされた「諸仏出世の直説」を伝えている団体ではないということに、会員さんには、はやく気がついてもらいたいです。

『親鸞会のトリック』をリンクに加えました

おかしな親鸞会教義をどうして信じるのかという面から考察するブログ

『親鸞会のトリック』
http://lonli.blog60.fc2.com/

をリンクに加えたので、お知らせします。

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いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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