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アニメ1部の最後のシーンのような説法を法然聖人はなされたのか?

親鸞会でなされている話というのは、基本的に阿弥陀仏の本願、すなわち「私を助けて下さる法」が抜けた話です。

高森会長の話を聞いている会員さんの思考は以下のようなものだと思います。

・真剣に聴聞しようと聞法に励み、真剣に聞けない自分が知らされたときに救われる。
・ド真剣に善に励み、善ができない自分と知らされたときに救い摂られる。
・廃悪修善を実行し、後生が問題になって、そして、ますます善をせずにおれなくなって、雑行が問題になり、そうした先に雑行が廃り本願に帰すということがある。

これらは、自分が聞法にしろ、勤行にしろ、廃悪修善に実行していった先に、阿弥陀仏の救いというものがあるという考え方です。自分が真剣に聞けるかどうか、廃悪修善を実行しているかどうか、後生が問題になっているかどうか、自己の罪悪がどれくらい知らされているかということばかりが問題になって、肝心要の「私を助けて下さる法」はそっちのけになってしまっていることでしょう。

これは、高森会長の話から「阿弥陀仏の本願」という法が抜けてしまっていることに由来するのですが、今回の記事では、アニメ1部の最後のシーンに描かれている法然聖人の説法からこのことをみていきたいと思います。


親鸞聖人「上人さま、今日はなにがなんでもここひとつ、解決のいくまでお聞かせ下さい。お願いでございます。」

法然上人「そうか。それでは、そなたの今の胸の内を話してみなされ」

親鸞聖人「はい。私は比叡山も、20年の仏道修行も捨てました。京の町を、夢遊病者のように、後生の一大事一つ、解決できる教えはないかと、さまよい歩きました。そして、上人さまに巡り会い、心の底より、救われた思いがいたしました。けれど、阿弥陀仏のひと声で、晴れて満足できると仰せられますが、聞いても、聞いても、そのひと声が聞けません。親鸞の心は晴れません。仏法聞いているときも、思ってはならないことが思われ、考えてはならぬことが浮かびます。”一向専念無量寿仏” どころか、雲の如く、疑いが湧きあがってまいります。こんな心のままで、臨終を迎えるかと思えば、ただ恐ろしいばかりでございます」

法然上人「親鸞よ、形の上で捨てたつもりでは駄目じゃ。無始より迷わせ続けた自力我慢の親玉は、そんな生ぬるい聞き方では、聞かないぞ」

親鸞聖人「上人さま、よくよく胸の内をみますと、10年前も、上人さまにお会いしたときも、今も、心は煩悩と疑いでいっぱい。少しの変化もありません。こんな心が、いつまで続くのかと思うと、胸が張り裂けるようでございます」

法然上人「親鸞よ。そのまま、恐ろしい罪をかかえて、地獄へ真っ逆さまだ。このように話しているうちにも、無常の殺鬼は迫っているではないか。まだわからんのか」

親鸞聖人「上人さま、長年の学問修行も、後生の一大事には何の役にも立ちません。それどころか親鸞、今はもう、聞く心もございません。ただ煩悩と疑い一杯で、阿弥陀仏の御声が聞けません」

法然上人「うぬぼれるな。そなたの心は、阿弥陀仏の御声が聞ける殊勝な心か」

親鸞聖人「親鸞の心は、ただ暗い。それだけでございます。暗さも分からぬ、真っ暗がりでございます。お助け下さい。上人さま・・・」

法然上人「親鸞よ。そなたには、まことを聞く耳はないのだ。それが、そなたのまことの姿なのじゃ。一切の自力の心を捨てよ。すべてのはからいを捨てよ。捨てようとする心も捨てよ」

『挑戦の道 in Singapore』 親鸞聖人 ~29歳 クライマックス~より引用)


この短い場面の中で、法然聖人は全く「私を助けて下さる法」を説いていません。

親鸞よ。そのまま、恐ろしい罪をかかえて、地獄へ真っ逆さまだ。このように話しているうちにも、無常の殺鬼は迫っているではないか。まだわからんのか
うぬぼれるな。そなたの心は、阿弥陀仏の御声が聞ける殊勝な心か
親鸞よ。そなたには、まことを聞く耳はないのだ。それが、そなたのまことの姿なのじゃ。

など、無常と罪悪、つまり機に関することばかりです。法が抜けているという親鸞会の話が、ここに凝縮して表われています。


では、法然聖人が、親鸞聖人に説かれたことは、本当はどのようなことだったのでしょうか?『行文類』で、親鸞聖人は次のように教えられています。

『選択本願念仏集』(選択集 一一八三)[源空集]にいはく、
「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」と。
(中略)
称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに。


法然聖人が教え勧めていかれたことは、選択本願念仏一つです。阿弥陀仏は、万人を救うために最勝にして至易なる称名念仏を往生の行として選択なされました。阿弥陀仏が往生の道として選びとって与えて下された本願の念仏を我が往生の道と信受し、称名一行を専修する浄土への道を法然聖人は教えていかれたのです。

この教えをいただかれた親鸞聖人は『歎異抄』では、
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
と仰られました。

阿弥陀仏の本願に立脚されて、選択本願の念仏を教えていかれたのが法然聖人です。よきひと法然聖人の教えを親鸞聖人も受け継がれていかれました。

法然聖人は、阿弥陀仏の本願、「私を助けて下さる法」を明らかになされたのです。ところが、アニメ1部では、法然聖人は、本願を説かず、機ばかりを責める話をしています。私には、法然聖人がアニメで描かれているような機責めのような話をされたとはとても思えません。しかし、そこには、機ばかりを説き、法が抜けてしまった親鸞会教義が端的に表わされていると感じます。

最後に、法然聖人の次のお言葉を紹介してこの記事を終わりにしたいと思います。

ただ心の善悪をもかえりみず、罪の軽ろき重きをも沙汰せず、
心に往生せんと思いて、口に南無阿彌陀佛と称えては、
声につきて決定往生の思をなすべし。

その決定心によりて、すなわち往生の業はさだまるなり。
かく心えねば、往生は不定なり。

by.法然上人(『勅伝』巻二十二、「御消息」昭法全p.581)

(訳)
ひたすら自らの心が善いか悪いかを問題にせず、
自らが犯してきた罪が軽いか悪いかを論じ定めることをせず、
心では「極楽浄土に往生したい」と思い、口では「南無阿弥陀仏」とお称えして、
そのお念仏の一声ごとに、「間違いなく往生する」(決定往生)という思いを起こしなさい。

その決定心によって、まさしく往生するための行いが定まる。
そのように心得なければ、極楽浄土に往生できるかどうかは定まらない。


苦笑の独り言より引用)

自己の無常と罪悪ばかりを問題にさせるようなアニメの台詞はやはりおかしいことが、このお言葉からもお分かり頂けると思います。
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内輪向けに嘘ばかり教え込むS会は本当に姑息だと思います(コメント欄より)

前回の記事にカウフマン様よりコメントを頂きました。

「拝読・浄土真宗のみ教え」より

人生そのものの問い

 日々の暮らしのなかで、人間関係に疲れた時、自分や家族が大きな病気になった時、身近な方が亡くなった時、「人生そのものの問い」が起こる。「いったい何のために生きているのか」「死んだらどうなるのか」
 この問いには、人間の知識は答えを示せず、積み上げてきた経験も役には立たない。
 目の前に人生の深い闇が口を開け、不安のなかでたじろぐ時、阿弥陀如来の願いが聞こえてくる。
 親鸞聖人は仰せになる。

  弥陀の誓願は無明長夜のおほきなるともしびなり

「必ずあなたを救いとる」という如来の本願は、煩悩の闇に惑う人生の大いなる灯火となる。この本願をたよりとする時、「何のために生きているのか」「死んだらどうなるのか」、この問いに確かな答えが与えられる。(「拝読・浄土真宗のみ教え」より)

 この言葉や梯和上の聖典セミナーなどにも「生きる意味と方向性」について言及されていますね。それらの事実に目をふさいで一方的に内輪向けに嘘ばかり教え込むS会は、本当に姑息だと思います。


コメント頂いた『拝読・浄土真宗のみ教え』(本願寺出版)でも、親鸞聖人のお言葉を出して「生きる意味」について教えられています。

このことからも、親鸞会の言う
親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?
本願寺 いない
親鸞会 いる

が事実に反していると分かります。

ただし、「何のために生きているのか」「死んだらどうなるのか」 という言葉は親鸞会と同じですが、方向が違うことに注意しなければなりません。

親鸞会では、私が何かを実践して求めていくものとして「人生の目的=信心獲得」が語られます。具体的にいうと、私が聞法したという行為、私が勤行をしたという行為、私が財施した行為や人を法話にお誘いしたという行為によって、人生の目的の完成(=信心獲得)に近づいていくという自力回向的な説き方です。このブログで何度も指摘しているように、これは他力回向の真宗教義に反しています。

「本願力回向の信心」と教えられているように、浄土真宗で教えられている信心は、私が何かを実践して求めていった結果として与えられるものではありません。浄土真宗の信心とは、阿弥陀仏の本願力によってのみ恵み与えられるものであり、阿弥陀仏の本願を疑いなく聞きいれることです。聞くことがそのまま信心なのです。このことを、親鸞聖人は『一念多念証文』に、
きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(中略)「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。
と教えられています。生きる意味も死ぬ意味も分からない私が、「我をたのめ、必ず浄土に往生させる」という本願のみ言葉を疑いなく聞き受けたとき、浄土に向かって生きる人生と「生きる意味と方向性」が与えられるのです。このことについて、上の引用文では、『この本願をたよりとする時、「何のために生きているのか」「死んだらどうなるのか」、この問いに確かな答えが与えられる』と書かれています。親鸞会と同じ言葉を使っていますが、親鸞会教義に見られる自力回向的な考え方は全く見られません。

『親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?ー本願寺 いない』と歪曲する親鸞会

親鸞会批判の真実の中に掲載されている親鸞会と本願寺10の相違点の1番に、

親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?
本願寺 いない
親鸞会 いる


とあります。果たして、これは本当でしょうか?
本願寺出版から出ている小池秀章著『高校生からの仏教入門』を見てみましょう。


生死出づべき道 私の「生きる意味と方向」をはっきり示された方が、親鸞聖人です。

何のために生まれて 何のために生きているのか

 何のために 生まれて 何をして 生きるのか
 答えられないなんて そんなのは いやだ! (作詞やなせたかし 作曲三木たか
し)
 これは、「アンパンマンのマーチ」の一番の歌詞です。アンパンマンというのは、顔がアンパンのアニメのキャラクターで、小さな子ども達には大人気です。そんな子ども向けのアニメの主題歌の中で、こんな難しいことが歌われているのです。
 あなたは、「何のために生まれて、何をして生きるのか」答えられますか? これは、たいへん難しい問題で、そう簡単に答えられる問いではありません。
 ある人は、この問いに対して、「その答えを探すために生きるのです。」と言われました。確かにその通りでしょう。しかし、親鸞聖人は、この問いに一つの答えを出されました。
(106-107頁より引用)


上記のように、『私の「生きる意味と方向」をはっきり示された方が、親鸞聖人です』とハッキリ書かれています。これだけでも、親鸞会の主張する、

親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?

本願寺 いない


が事実と異なることが分かります。

では、「生きる意味と方向」について、この本ではどのように書かれているのでしょうか?
次にその部分を引用します。

生きる意味と方向
 浄土真宗の救いとは、金魚すくいみたいに、ひょいとすくってもらって、いい世界に連れて行ってもらうようなものではありません。また、病気を治してもらったり、さまざまな自己の願いが叶ったりすることでもありません。
 浄土真宗の救いとは、生きる意味と方向が定まることです。自己中心の心から離れられず、迷いの人生を生きている私に、智慧と慈悲の世界が与えられることによって、人生のあらゆることに尊い意味を見いだすことができるのです。そして、浄土という真実の世界に向かって生きることが、本当の人間としての生きる道であると、生きる方向が定まるのです。
 このように、私中心の生き方から仏中心の生き方へと転換され、念仏という生きる依りどころが定まった時、どんな苦難をも乗り超える智慧と力が与えられるのです。

往生浄土
 ただし、浄土真宗の究極的な救いは、この世のいのちが終わると同時に、浄土に往生し成仏する(さとりを開く)ことです。「往生」とは、「困ること、行き詰まること」ではなく、文字通り、「往き生まれる」ことです。「浄土」とは、「煩悩の汚れの無い清らかな世界・さとりの世界」のことです。つまり、「往生浄土」とは「浄土に往き生まれる」ことで、それは行き詰まることではなく、さとりという新しい世界が開けてくることなのです。

現生正定聚
 しかし、このことは、決して未来の救いのみを説いているのではなく、信心をいただいた時に、往生成仏が定まり救われるのです。それを「現生正定聚」という言葉で表わしています。「現生」とは、この世、「正定聚」とは、正しく仏になることが定まったなかまという意味です。
 つまり、信心をいただいた時、念仏という生きる依りどころが定まり、浄土という真実の世界に導かれながら、浄土という真実の世界に向かって生きるという生き方が与えられるのです。それを救いと言うのです。
(194-195頁より引用)


いかがでしょうか?

親鸞会在籍時、「本願寺は死んだら極楽、死んだら仏と死後の救いばかりを説いていて、現在の救いを説かない」と聞いたことがあります。実際に、親鸞会と本願寺10の相違点の5番目、6番目に

助かるのはいつか
本願寺 死なねば助からぬ
親鸞会 生きている時に助かる

救われたらどうなるのか
本願寺 この世で救われたということは、ありえない
親鸞会 絶対の幸福になる


とあります。ところが、上の引用部分では、「決して未来の救いのみを説いているのではなく、信心をいただいた時に、往生成仏が定まり救われる」と「現生正定聚」について書かれています。つまり、親鸞会のこれらの主張も、本願寺の主張を歪曲したものであることが分かります。

10の相違点の7番目も酷い歪曲です。

本願寺 念仏さえ称えておればいい
親鸞会 真実の信心ただ一つで助かる


上の引用部分に「信心をいただいた時に、往生成仏が定まり救われる」とありました。『高校生からの仏教入門』では、別の部分でも「信心正因称名報恩」について教えられています。

本願寺には、親鸞会とは比べ物にならないくらい多くの布教使が在籍しています。その中には親鸞会が「本願寺は●●だ」と言っているようなことを説く人もあるのかもしれませんが、親鸞聖人が教えられたことを正しく説く人もいることは、本を手に取って読んでみたり、法話を聞いてみたりすれば分かることです。それらをひとまとめにして、「本願寺は●●」とレッテルを貼っているのは、正しく教えを説く人がいることを会員さんに知らせないための手段だと感じます。他で教えを聞くことは許さないという縄張り根性の表れでしょう。

自分自身のことを振り返ってみると、親鸞会から一方的に「本願寺は●●」というプロパガンダを聞かされて、「本願寺とは何てひどいことを教えているところなのだろう」と思い込まされていました。しかし、事実は違いました。自分で書店に行き、本願寺出版の書籍や本願寺派に属する布教使の書いた本を読んでみると、親鸞聖人の教えをそのまま伝えていることが分かりました。一方、親鸞会は、親鸞聖人が書かれたものを断章し、自分に都合良く解釈しているということもよく分かりました。この親鸞会教義の誤りについては、当ブログはじめ、多くのブログが指摘していることです


さて、話を「人生の目的」というところに戻しましょう。親鸞会は、親鸞聖人の明らかにされた人生の目的を説いていると主張していますが、親鸞会の人生の目的の説き方はおかしいです。「ここが信仰の決勝点、ここが卒業、完成」と、未来に向かって、これから一生涯かけて求めなければならないものとして教えます。これが、親鸞聖人の教えの一枚看板と自分たちがいっている「平生業成」に、実は真っ向から反しているのです。「平生」とは「いま」のことと言っていながら、「ここまで進め」では、達成するのはどうしても未来です。

「我をたのめ(南無)必ず助ける(阿弥陀仏)」とつねに喚び続けている名号をそのまま疑いなく聞き受けることが信心です。そのとき、往生成仏が定まります。私が求めるよりも先に与えられている名号願力という大前提のもとに「平生業成」が成り立つのです。

「人生の目的」という言葉を使うならば、これから未来に向かって使うのではなく、生まれたときから現在只今までのことなのです。
「多生の目的」という言葉も同様です。これから未来に向かって、多生かかって求めていくという意味に使うのではありません。生死を繰り返してきた果てしない過去から今日までのことです。

南無阿弥陀仏をそのまま聞き受けたとき、生きる目的も知らず死に行く先も知らなかった人生が、浄土に向かって生きる人生であると生きる方角が定まるのです。南無阿弥陀仏を聞くのは、未来のことでもなく、過去のことでもなく、現在只今のことです。「生きる意味と方向」が定まるのは、現在只今であって、未来に向かってその達成を求めるのではないのです。つねに喚びかけ続けられている本願の仰せを、「いま」、聞くか聞かないかだけです。

親鸞会は人生の目的を説いていると言っていても、そこで説かれている目的を達成することは不可能でしょう。信心獲得が人生の目的といいながら、信心の理解がまるで間違っているというのが理由の一つ。他力回向の親鸞聖人の教えが、自力の教えになってしまっているのが理由の二つ目。私の側のことばかりが説かれ、助けて下さる阿弥陀仏のことが完全に抜けてしまっている話を聞かされているということが理由の三点目です。

親鸞会の会員さんが勧められていることは、いつまでたっても決勝点に辿り着くことのない活動だけであるということに気が付いてもらいたいです。死ぬまで求道の「光に向かって進む教え」が親鸞会教義なのです。いつまでたっても光に辿り着くことはありません。

平生業成の教えが説かれているか?
本願寺(全ての布教使がどうかは分からないが) いる
親鸞会 いない

というのが実態ではないでしょうか?(親鸞会でも言葉だけなら説かれていますが、「実態は」ということです)

今日紹介した『高校生からの仏教入門』は、当ブログでこれまで引用してきた本に比べて、親鸞会の会員さんにも読みやすい本だと感じますので、関心をもたれた方は読んでみるのがよいと思います。

Appendix

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いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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