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[雑感]「私は親鸞聖人の教えを説き切ります」という高森会長の言葉について

親鸞会内で言われることに、
「高森先生は親鸞聖人のみ教えを常に説き切っておられる」
ということがあります。

このことは、高森会長本人が「私は親鸞聖人の教えを説き切ります。みなさんは親鸞聖人の教えを聞ききって下さい」と法話で言ったことや、講師部員や先輩に当たる人などが「高森先生は親鸞聖人の教えを説き切っておられます」ということなどによって、長年会に在籍している人の頭の中に染み付いてしまうことの一つです。

また、法話後の復習の場などで、「高森先生は常に説き切っておられるはずだ。聞けないのは私の責任だ」というような発言をする会員もいました。

「高森先生は常に説き切っておられる」と会員が言うことについて、私が感じることを箇条書きで記すと、

(1)親鸞会では、善知識の説法を評価することは謗法罪と教えられている。また、「先生は説き切っている」と言うことは、高森会長の上に立って評価していなければ出てこない発言である。つまり、親鸞会理論でいうと、「先生は親鸞聖人のみ教えを説き切っておられる」ということは、謗法罪である。しかし、このことに会員自身は気づいていない。

(2)そもそも、親鸞聖人の教えについて詳しく知らない人(会員)は、「先生は親鸞聖人の教えを説き切っておられる」と言うことはできない。「先生は生徒の答案を採点できるが、生徒は先生の答案の良し悪しがわからないので採点できない」と高森会長が話している通りである。

(3)高森会長本人が「私は親鸞聖人の教えを説き切ります」と言うから、または講師部員・先輩が「高森先生は常に説き切っておられる」と言うから、きっとそうなのだろうと思いこんでいるだけならば、単なる盲信である。

ということがあります。次に、高森会長が「私は親鸞聖人のみ教えを説き切ります」と言うことについて、私が感じることを記すと、

(4)アニメ解説や教学講義の質問に対して、時間切れになって「続きは次回話します」で終わることがしばしばあったが、果たして「説き切っている」と言えるのか?その上、次回、続きの話がなされないことが多い。

(5)ある日のアニメ解説のとき、休憩前に年配の男性が「私にはもう時間がない。高森先生、私はどうすればいいのか?」と叫んだことがあった。そのとき、アシスタントのA講師が「仏法は聴聞に極まる」と繰り返し答えたが、高森会長は何も言わずに休憩に入ってしまった。今振り返ってみると、「私は親鸞聖人の教えを説き切ります」という高森会長の発言は単なるパフォーマンスであって、高森会長自身は会員が信を獲るということには何ら関心がなかったのだと感じる。

(6)『さよなら親鸞会』勇気を出して
高森会長が「私は親鸞聖人の教えを説ききっている、それを聞ききらないのは聞いている人の責任」と言った事に対して「お釈迦様でさえ全てを説ききれなかったと言われているに、とんでもない自惚れだ。親鸞聖人なら絶対に言われる事ではない」と思われた
という退会者の言葉がアップされていたが、その通りだと思う。

ということがあります。

つまり、会員は「高森先生は親鸞聖人の教えを説き切っておられる」と根拠なく思考停止して盲信している状態であり、高森会長は「私は親鸞聖人の教えを説き切る」と名誉欲か自惚れかで発言してはいるが、その言葉に全く責任をもっていない状態であると感じるのです。

高森会長が「私は親鸞聖人の教えを説き切る」と口では言いながら、決して「説き切らない」理由はどこにあるのかしばらく考えていましたが、『安心問答』高森会長の話に救われる法の話がほとんどないたった1つの理由を読んで疑問が氷解しました。

質問者「どういう話し方をしたら、参詣者が会長先生のように増えるのでしょうか?」

会長「1時間話をしたら、50分か55分までは誰が聞いてもわかるような話をする。残り5分で、相手に疑問が残るような話をする。そうすると、聞いた相手は前の50分まではよくわかったけれども、残りのあの話はなんだったんだろう。もう一回聞きに行ったら分かるかもしれない。そう思って次も話を聞きに来る。ワシはそのように話をしてきたから、参詣者は常に右肩上がりだった」

(上記ブログより引用)


会長が話をする目的は、会員が信を獲ることではなく、参詣者を増やすことにあったのです。それならば、「説き切る」必要はありません。話の最後で疑問を持たせる話し方をしたり、次回はこのことについて詳しく聞けるかもしれないと期待をもたせる話し方をすればいいのですから。

ここには、「仏法には明日と申すことあるまじく候ふ」(御一代記聞書)と仰った蓮如上人の厳しさは微塵も感じられません。かつて2日間ある行事では、初日の最後には「命があったら」明日話しますと高森会長は言っていたものでした。しかし、会長が話をする目的を知ってしまうと、無常ということも分かっておらず、この発言も単なるパフォーマンスだったのだろうと思います。

無常ということも分からず、次回の参詣者を増やすために話をする高森会長。会員の後生を心配することもなく、単なる人集めの為に話をしていたのかと思うと、何でこんな人物についていったのかと自分の愚かさが悔やまれます。

一方、「仏法には明日と申すことあるまじく候ふ」と仰り、御門徒の方々が信を獲ることを願われていた蓮如上人は、「浄土真宗にはこれ以外の教えはない」と仰った蓮如上人のお言葉で既に触れたように、

後生たすけたまへと弥陀をたのめといふべし。

と十八願の安心一つを明らかにされたのでした。その前に「仏法をばさしよせていへいへ(仏法は短くまとめて簡潔に話しなさい)」と仰っていることからわかるように、参詣者が次回も参詣されるように、疑問に残る話や次に続く話をしようという思惑は全くありません。

会員の皆さまには、親鸞学徒の鑑と尊敬している蓮如上人と高森会長の違いを通して、真宗を説く者は何を説くのかということをよく知って頂きたいと思います。
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お聖教は原文に沿ってその御心を汲み取っていく姿勢で解釈すべき

今日は、親鸞会における『歎異抄第2章』の「弥陀の本願まことにおわしまさば」の解釈について見てみたいと思います。

弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。
仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。
善導の御釈まことならば、法然の仰せ、そらごとならんや。
法然の仰せまことならば、親鸞が申す旨、またもってむなしかるべからず候か。
(歎異抄2章)

〝弥陀の本願がまことだから、唯その本願を説かれた、釈尊の教えにウソがあるはずはない。
 釈迦の説法がまことならば、そのまま説かれた、善導大師の御釈に偽りがあるはずがなかろう。
 善導の御釈がまことならば、そのまま教えられた、法然上人の仰せにウソ偽りがあろう筈がないではないか。
 法然の仰せがまことならば、そのまま伝える親鸞の言うことも、そらごととは言えぬのではなかろうか〟

 750年ほど前、京にまします親鸞聖人の元へ、関東から命懸けで訪ねてきた同朋たちに対する、聖人の直言である。

「弥陀の本願まことにおわしまさば」を、「本願が、まことであるとするならば」と仮定で領解する人が多いが、ここは、「弥陀の本願まことだから」の断定にほかならない。

弥陀の本願と親鸞聖人より引用)


上記のように、親鸞会では、「弥陀の本願まことにおわしまさば」を「弥陀の本願がまことだから」と解釈します。しかし、「おわしまさば」は、四段活用動詞「おわします」の未然形「おわしまさ」+「ば」なので、文法的には仮定で解釈するのが正しいです。「弥陀の本願まことだから」という意味を聖人が仰りたかったならば、「おわします」の已然形「おわしませ」+「ば」で、「おわしませば」となるはずです。実際、『歎異抄』には、

弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。この条、本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。(第13章)

などと「おわしませば」と書かれている箇所があります。当時、「おわしまさば」と「おわしませば」は使い分けられていたのです。

では、文法上は明らかに仮定の文章である「弥陀の本願まことにおわしまさば」を、どのような理屈で「弥陀の本願まことだから」と親鸞会では解釈しているのでしょうか?上の公式ホームページからの引用文は以下のように続きます。

親鸞聖人には、弥陀の本願以外、この世にまことはなかったのだ。

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」(教行信証)

〝まことだった、まことだった。弥陀の本願まことだった〟の大歓声をはじめ、親鸞聖人の著作はどこも、「弥陀の本願まこと」の讃嘆で満ちている。「弥陀の本願まこと」が常に原点であった聖人が、仮定で本願を語られるはずがなかろう。


本願まことが原点の聖人が、本願を仮定で語られるはずはない、だから「弥陀の本願まことだから」という意味なのだというのが親鸞会の主張です。

しかし、ここで本来考えなければならないことは、他のところでは「本願まこと」と仰っている親鸞聖人が、『歎異抄2章』では、なぜ「弥陀の本願まことにおわしまさば」と仮定の表現で語られたのだろうか?ということでしょう。しかも、仮定の表現が「仏説まことにおわしまさば」、「善導の御釈まことならば」、「法然の仰せまことならば」と後に3回も続いているのです。その御心を汲み取るように解釈する方が適切だと思うのですが、いかがでしょうか?

この聖人が仮定の言葉を連ねておられる点について『聖典セミナー 歎異抄』(梯實圓著・本願寺出版)102-103頁には、次のように書かれています。

 しかし、このことをいうのに「まことにおわしまさば」という仮定の言葉をつらねておられる点に、奇異な感じをうけます。そこには、反語的に意味を強めるようなひびきも感じられますが、何よりも「親鸞が申すむね、またもってむなしからず候ふか」という謙虚な領解の言葉を述べるためだったと思います。
 ふつう絶対真実の法の伝統を語った後は、「法然の仰せまことなるがゆえに、親鸞が申すことも決していつわりではない」と断言するでしょう。そして「親鸞の信心はかくのごとし、このうえは、面々、念仏をとりて信じたてまつるべし」と結ぶでしょう。そうなれば、教法の権威をかりて、門弟に信を強制する高圧的な「人師」のイメージが強くなり、「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」(『註釈版聖典』八三五頁)といいつづけられた親鸞とは、ちがった人格になってしまいます。
 聖人は、「法」の名によって「私」を主張することを厳しく自戒されています。自分がいただいている教法が貴いということは、自分が貴いことでは決してありません。むしろ、教法の貴さがわかればわかるほど、自身の愚かさを思い知らされていくはずです。仏祖の名を利用して、名利をむさぼったり、「よき師」の名をかりて、自己を権威づけようとするほど醜いものはありません。
 こうして聖人は「愚身の信心におきてはかくのごとし」と述べ、「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり」とおことばを結ばれています。率直に自身の信心を表明された聖人は、門弟たちの一人ひとりが如来のまえにたって、仰せにしたがうか。したがわぬかを決断する以外に道のない、仏法の厳しさを知らしめられていたといえましょう。


ここで、『歎異抄第2章』のこの部分を断言で解釈してしまうと、教法の権威をかりて、門弟に信を強制する高圧的な「人師」になってしまう危険性が指摘されています。また、断定の言葉を連ねると最後の「親鸞の言うことはそらごとではない」が強調され、関東の同行が知識の言葉のみを信じ弥陀に向かない「善知識だのみ」に陥ってしまう危険性もあります。実際、『歎異抄第2章』のこの部分を断定で解釈する話を聞いている親鸞会の会員さんは、「高森先生の仰ることにウソいつわりがあるはずがない」と知識ばかりに向いてしまっていて、梯師が述べているような「一人ひとりが如来のまえにたって、仰せにしたがうか。したがわぬかを決断する」という弥陀に向くということが抜けた状態になってしまっています。

お聖教を解釈するとき、原文に沿ってその御心を汲み取っていく姿勢で解釈していくことが大事だと感じます。

人に向くのではなく、本願の仰せ、如来の勅命に向くように教え勧めていかれたのが親鸞聖人・蓮如上人です。一方、知らず知らずのうちに如来に向くのではなく、高森会長に向くようになってしまうように教えが説かれ、指導がなされているのが親鸞会であることも知ってもらえればと思います。

(参考)
『用管窺天記』歎異抄の仮定法

Appendix

プロフィール

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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