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「方便を以て真実を顕わす廃立の義」のトンデモ解釈

親鸞会公式ホームページに掲載されているマンガ『歎異抄をひらく』の衝撃度「知識の大罪」の巻では、『御一代記聞書』のお言葉を出して、その意味を説明しています。

(原文)
方便を悪しということは有る間敷なり。方便を以て真実を顕わす廃立の義、よくよく知るべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をば獲ることなる(御一代記聞書)

(マンガ内で説明されている意味)
方便など要らないなどとは言語道断いうべきことではない。恐ろしい大謗法である。方便からしか真実に入れぬと説かれた、親鸞聖人の教えが全く分かっていないのだ。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によってのみ真実の信心を獲ることができるのである。

原文とその意味を比較すると、
方便を以て真実を顕わす廃立の義、よくよく知るべし

方便からしか真実に入れぬと説かれた、親鸞聖人の教えが全く分かっていないのだ
と説明しているのだと思いますが、無茶苦茶な解釈です。

「方便を以て真実を顕わす廃立の義」のどこから「方便からしか真実に入れぬ」という意味が出てくるのでしょうか?

「方便を以て真実を顕わす」とは、方便を説いて真実を顕す手段にするということです。また、親鸞会の説明は、「廃立」について全く解釈していないことが分かります。「方便を以て真実を顕わす廃立の義」とは、方便を説いて真実を顕す手段とし、真実が明らかになれば方便を廃して真実を立てるということですが、「方便を廃す」ということが親鸞会にとって余程都合が悪いので、この部分には触れられないのだと思います。

上の蓮如上人のお言葉の理解を深めるために、『21世紀の浄土真宗を考える会』方便といふこと 3から意訳を引用します。

 蓮如上人は仰せられた。
 世間では嘘も方便などといいふらすところから、方便を悪いことのようにおもいなすものもあるが、かかる間違いはあってならないことである。
 方便には権仮方便もあり善巧方便もある。
 まず、権仮方便ということについていえば、方便という権仮(かりもの)を設けて真実を顕す手段にする、さらに真実を顕したなら、方便を廃して真実を立てることであるが、ここに方便の値打ちがあるので、方便は悪いとおもうてはならないのである。
 次に善巧方便ということに、ついていえば弥陀釈迦二尊はいうまでもなく、次第相承の善知識がいろいろと善い巧みなお手廻しをなされて、私どもをみちびき、真実の信心を獲得させてくださるのである。


廃すべき方便(権仮方便)と廃することのない方便(善巧方便)の区別をつけず、聞くものに両者を混同させ、権仮方便である19願の善を実行した先に信心獲得があるのだと刷り込みを行っているのが親鸞会です。刷り込みを行うために、「方便を以て真実を顕わす廃立の義」を原文の意味を無視して、「方便からしか真実に入れぬ」という親鸞会ドグマで説明しているのでしょう。

今回取り上げた箇所は、出されたお言葉の前後の文章を読むということをしなくても、原文と親鸞会から提示された意味を比較検討すれば、その解釈のおかしさに気がつくはずです。高森先生に間違いないという先入観を持たずに、日本語の問題として両者を読み比べてみて下さい。

また、親鸞会の会員さんの中には、善(諸善・諸行・定散二善)を説かれたということは、実行させるためなのだと堅く信じている人もあるかもしれませんので、廃するがために説くと教えられた法然聖人のお言葉を紹介します。

初めの義はすなはちこれ廃立のために説く。いはく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。(選択本願念仏集

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。(中略)ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。(選択本願念仏集


これらのお言葉を踏まえると、蓮如上人が「方便を以て真実を顕わす廃立の義、よくよく知るべし」と仰った意味がより理解できると思います。

(参考)
『飛雲』「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」の曲解
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文章の一部分を取り出し文意と異なる意味を信じ込ませる親鸞会ー『御文章』5帖目9通を例にー

親鸞会では、文章の一部分を取り出して、その文章が書かれた意図とは全く異なる意味を会員さんに信じ込ませるという情報操作が行われています。今日は、『御文章』5帖目9通の「一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり」を例にこのことを見ていきたいと思います。

まず、親鸞会では、親鸞聖人の『一念多念証文』のお言葉、「おおよそ八万四千の法門はみなこれ浄土の方便の善なり」から、「釈迦一代の教えはすべて弥陀の方便(19願の諸善の勧め)である」と主張しています。そして、マンガ『歎異抄をひらく』の衝撃度 「知識の大罪」の巻 にあるように蓮如上人の
一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり(御文章)
のお言葉を
釈迦一代の教えを説かれた一切経(19願)は、ただ南無阿弥陀仏を信ぜしめる(18願)ためのものである
と説明して、
「方便から真実に」が釈迦、親鸞聖人、蓮如上人に一貫した教え
と説いています。

この結果、親鸞会の説明のみを聞いている人は、19願の諸善の勧めに従い、それを実践した先にのみ、18願に転入することがあると信じ込まされてしまうのです。実際に、親鸞会の会員の皆さまは「19願の善の実践」ということばかりが頭の中に残っていることだと思います。

以上のように、「一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり」のお言葉を、方便から真実に入ることを教えられた蓮如上人のお言葉と理解させ、一切の聖教に教えられている19願の善を実践しなければ、真実の18願に入れないのだと会員さんに信じ込ませていくのが親鸞会の説明です。

しかし、蓮如上人の書かれた『御文章』5帖目9通を通して拝読してみれば、親鸞会の主張する19願の諸善を勧めるような意図は、蓮如上人には全くないことが分かります。以下に全文を引用します。

当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。たとへば南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のたすけたまへるこころなるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり。「帰命」といふは、衆生の、もろもろの雑行をすてて、阿弥陀仏後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこころなるべし。このゆゑに衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして、たすけましますこころなり。
これによりて、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

御文章5帖目9通

浄土真宗の安心の一義というのは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころであると最初に書かれて、その南無阿弥陀仏のこころ一つを教えられたお手紙であることが分かります。

当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり」、「ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり」とお手紙の最初と最後に「ただ」と書かれています。「ただ」とは二つも三つもない、あれでもないこれでもない、ただ一つのただのことだと高森会長が話をしているのを聞いたことがある会員・元会員の人は多いでしょう。このお手紙の中で出てくる「ただ」もそうです。唯一ということです。

蓮如上人の御教化は、つねに18願の安心一つを教え勧めること、南無阿弥陀仏の六字のいわれを聞けということでした。このことは『御文章』を一貫しています。そして、このお手紙も南無阿弥陀仏の六字のこころ一つが説かれています。

このようなことを踏まえて「一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり」を拝読すれば、一切の聖教というのも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信じさせるたものものだから、「ただ南無阿弥陀仏の六字のこころを聞きなさい」ということが蓮如上人の仰りたかったことであることが分かります。

真実の18願に入るのに方便の19願の善を実践せよというような意味のことを、蓮如上人はお手紙では一切書かれていません。しかし、文章の一部分だけを提示されたとき前後を拝読して自分で文章の意味を汲み取ろうとしない人、高森会長の解釈のみが正しいと信じ切っていて自分でお聖教を拝読することを放棄してしまっている人は、親鸞会の解釈を受け入れてしまうのでしょう。親鸞会の会員さんは『真宗聖典』を持っているのですから、自分で通して拝読することをお勧めします。


さて、「一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり」について、今回の記事をまとめます。

《親鸞会の説明》
「方便から真実に」ということを教えられた蓮如上人のお言葉と理解させ、「一切の聖教」=「釈迦一代の教え」=「弥陀の19願の諸善の勧め」と示すことによって、19願の諸善を実践にばかり目を向けさせる説き方。


《蓮如上人の教えられたこと》
一切の聖教というのも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信じさせるたものものだから、「ただ南無阿弥陀仏の六字のこころを聞きなさい」ということ。


親鸞会は19願の実践に重点を置いた説明ですが、蓮如上人は19願には一切触れず南無阿弥陀仏の六字のこころを聞け、すなわち18願一つを聞けと教えられています。

如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言(正信偈)

「如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言」といふは、釈尊出世の元意は、ただ弥陀の本願を説きましまさんがために世に出でたまへり。五濁悪世界の衆生、一向に弥陀の本願を信じたてまつれといへるこころなり。(正信偈大意


善知識方を一貫しているのは、ただ18願一つを説くこと、そしてただ18願一つを聞けと教え勧めることなのです。

親鸞会の会員さんが大切にしているのは、親鸞聖人のお言葉ではなく、高森先生の言葉ではありませんか?

本太郎さん、『浄土和讃』の解釈が間違っていますよの記事にコメントを頂きました。有り難うございました。

私も同意見ですので、記事にて紹介させて頂きます。
なおこの記事の最後に、コメントと関連する『浄土和讃』大経讃を掲載しましたので、参照して下さい。

(コメントここから)

至心信楽欲生と」の御和讃では親鸞聖人は冠頭に「本願のこころ、第十八の選択本願なり」、「至心発願欲生と」から三首には、「十九願のこころ、諸行往生なり」、「至心廻向欲生と」からの三首には「二十の願なり。二十願のこころなり。自力の念仏を願じたまえり」とあります。 親鸞会で使われている真宗聖典にはこの頭註は書かれていないですから会員さんは知らない方が殆どだと思います。

このあと、「安楽浄土をねがいつつ、他力の信をえぬひとは、仏智不思議をうたがいて、辺地懈慢にとまるなり」と十八願を疑う方便救済の願の証果は化土往生であることを明らかにし、誡め、十八願の信を勧めていられます。
 
そして「念仏成仏これ真宗、万行諸善これ仮門、権実真仮をわかずして、自然の浄土をえぞしらぬ」と真実と権仮を分けて、方便を捨てて真実の悲願一乗に帰するべきことを勧められています。

親鸞会では真仮廃立が徹底して教えられていると言っているはずなのに…。

末灯抄には「定散の善は諸行往生の言葉に摂まるなり。この善は他力の中の自力の善なり。この自力の行人は来迎をまたずしては辺地胎生懈慢界までも生るべからず。この故に第十九の誓願に、諸の善をして浄土に廻向して往生せんと願う人の臨終にはわれ現じて迎えんと誓いたまえり。(略)浄土宗の中に真あり仮あり。真というは選択本願なり、仮というは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり」とありますが、こういうお言葉も会員さんの大半は知らないでしょう。

高森先生から提示された根拠のみによっていて、それ以外の所に何と書かれているのか知らないし、知る必要がないと思っているのです。高森先生が示されない御聖教のお言葉は求道の邪魔になると考えている人さえいるかもしれません。

しかも高森先生しか正しい解釈は出来ないという気持ちが強いですから、提示された根拠は、あくまで高森先生の解釈を通しているので、結局それはすべて高森先生の教えであって、どこにも親鸞聖人の教えはないのですよね。

自分で、親鸞会で提示される根拠の前後、あるいは真宗聖典を拝読していけば、たとえ詳しい意味は分からずとも、何かおかしいぞ、と気付けると思うのですが。

あと、方便ということや、観経には顕彰隠密の義があるが、この大経和讃の三首は顕の義であることも知らないですからね。

いずれにせよ、会員さんには自分が大切にしているのは実は親鸞聖人のお言葉ではなく、高森先生の言葉ではなかろうか、と考えてみていただきたいです。


(コメントここまで)

(参考)
『浄土和讃』大経讃
(58、61、64讃はリンク先で頭註をご覧頂けます)

(58)
至心・信楽・欲生と 十方諸有をすすめてぞ
不思議の誓願あらはして 真実報土の因とする

(59)
真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる
不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ

(60)
弥陀の大悲ふかければ 仏智の不思議をあらはして
変成男子の願をたて 女人成仏ちかひたり

(61)
至心・発願・欲生と 十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ 現其人前と願じける

(62 )
臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく
『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり

(63)
諸善万行ことごとく 至心発願せるゆゑに
往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり

(64)
至心・回向・欲生と 十方衆生を方便し
名号の真門ひらきてぞ 不果遂者と願じける

(65)
果遂の願によりてこそ 釈迦は善本・徳本を
『弥陀経』にあらはして 一乗の機をすすめける

(66)
定散自力の称名は 果遂のちかひに帰してこそ
をしへざれども自然に 真如の門に転入する

(67)
安楽浄土をねがひつつ 他力の信をえぬひとは
仏智不思議をうたがひて 辺地・懈慢にとまるなり

(中略)

(71)
念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ

(72)
聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて
諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ

高森先生のご教導に無条件で従うのは、高森学徒

親鸞会では、お聖教の一部分を取り出して、自らの主張の根拠として用いる傾向があります。お聖教の前後を拝読して、その意味を汲み取ろうという姿勢が、高森会長から一般の会員さんに至るまで見られません。高森会長や一部の講師部員は確信犯的に、断章した根拠を示して、自説を守ろうとしているのかもしれません。しかし、一般の会員さんにおかれましては、提示された根拠について、その前後も含めてお聖教を拝読して、高森会長の解釈は妥当なものであるかどうか考えて頂きたいと思います。

親鸞学徒を自認するならば、親鸞聖人のお言葉を直に拝読するべきです。「高森先生の仰ることに間違いはない」、「自分でお聖教を拝読すると間違えるかもしれないから高森先生に従うのだ」 など強く信じ込み、高森会長の言だけに従い、自らお聖教を拝読しない人は親鸞学徒ではありません。「高森学徒」です。

ネット上で

自分勝手にお聖教を解釈して、謗法罪を造るのが自分学徒。
高森先生のご教導に無条件で従うのが、親鸞学徒。


という言葉を見かけました(2009年末頃の言葉のようです)が、私が退会した後で親鸞会内で言われている(いた)ことなのでしょうか?私には、会の内部で上のようなことが言われていたのかどうか分かりません。もしこんなことが言われていたのならば、会員の皆さまは一刻も早く目を覚まさなければならないと思います。高森先生のご教導に無条件で従うのは、高森学徒であって、決して親鸞学徒ではないのですから。

それにしてもこの言葉が言われている(言われていた)としたら、自分でお聖教を拝読させないようにした上で、「高森先生のご教導に無条件で従うのが、親鸞学徒」と徹底しているのですから悪質です。

また、「高森先生のご教導に無条件で従うのが、親鸞学徒」という言葉を聞いた会員さんはどう思われますか?
この言葉に疑問を感じない人は、マインドコントロール下にあると思ったらよいでしょう。

高森先生のご教導に無条件で従うのは、高森学徒」であることを知って下さい。

本太郎さん、『浄土和讃』の解釈が間違っていますよ

親鸞会で「善のすすめ」の根拠として用いられる『浄土和讃』大経讃の3首のご和讃の意訳がマンガ『歎異抄をひらく』の衝撃度「秘事堂の大黒柱を倒す」の巻 に掲載されていました。ご和讃とその意味を書いた部分を引用してその誤りを指摘したいと思います。

臨終現前の願により(19願のこと)
釈迦は諸善をことごとく
観経一部にあらわして
定散諸機をすすめけり
(浄土和讃)

弥陀が19願を建てられた意を、
釈迦は『観無量寿経』一巻に詳説し、
すべての善を定善と散善の二つの善で説き明かし、
十方衆生に勧められている

諸善万行ことごとく
至心発願せるゆえに(19願のこと)
往生浄土の方便の
善とならぬはなかりけり
(浄土和讃)

19願の諸善万行のお勧めは、
弥陀が我々を救う(18願)ための
お計らい(方便)だから、
信心獲得の方便(宿善)にならぬ善はないのである

至心発願欲生と(19願のこと)
十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ
現其人前と願じける
(浄土和讃)

弥陀が19願で仮門の衆善(諸善)を勧められているのは、
すべての人(十方衆生)を18願(絶対の幸福)へ導き入れるためである


まず 、最初の「臨終現前の願により~」のご和讃は「19願に諸善が勧められているのか?」という問いに対し、本太郎が挙げたものです。しかし、このご和讃についての親鸞会の解釈では、決定的に間違っている部分があります。それは、「誰に対して諸善を勧められているのか」に当たる「定散諸機をすすめけり」を「十方衆生に勧められている」と解釈している点です。「定散諸機をすすめけり」とは、「定善の機に定善を、散善の機に散善を修めて往生することを勧められた」ということで、十方衆生に勧められたという意味では決してありません。親鸞会教義を擁護する某ブログで最近よく引用されている利井鮮妙和上の『浄土和讃摘解』では、このご和讃は以下のように解釈されています。

「臨終現前の願により
 釋迦は諸善をことごとく
 『觀經』一部にあらはして
 定散諸機をすゝめけり」

 今讃は釋尊『觀經』に於て十九願を開説したまふ相を示す。
 「臨終現前の願」とは、十九の願なり。命將に終らんとする時、佛其の行者の前に現じたまふことにして、即ち來迎のことなり。「より」とは依拠の義なり。但し『觀經』には隱顯なく、此の讃は十九願開説の相を示す故に經の顯説の義のみを示したまふ。隱の義は下の觀經讃に明したまへるなり。
 「釋迦は諸善をことごとく」とは、『觀經』所説の定散二善を指す。定散二善は、其の行體諸多なるが故に諸善と云ふ。
 「『觀經』一部にあらはして」とは、『觀經』一部に廣く定散の諸行を顯説したまへるなり。
 「定散諸機をすゝめけり」とは、定散諸機を弘願へ勸め入れることにはあらず、これは『觀經』顯説の當分に付いて定善の機は定善の行を修して往生せよ、散善の機は散善の行を修して往生せよと勸勵したまふことなり。即ち『三經往生文類聚鈔』廣本(二十一丁)に「『觀經』には、定善散善三福九品の諸善、あるいは自力の稱名念佛をときて九品往生をすゝめたまへり」等とあり。之れ直ちに弘願を信ずること能はざるものゝ爲に定散二善を修して往生せよと勸めたまふことなり。上の第十八願に十方諸有を勸めてぞとあるは彌陀の勅命なり。今の勸は『觀經』顯説の當分に付て未熟の機を誘引せんが爲に方便して、自力をすゝめたまふと云ふなり。是の如く自力を勸めたまふが即ち自力を捨て眞實に達せしめんが故なり。定散とは『玄義分』(三丁)に「定は息慮凝心、散は廢惡修善」とあり、諸機とは、定散を修する機、衆多なるが故に諸機と名くるなり。


また、本願寺出版の『聖典セミナー浄土和讃』でも、

阿弥陀如来の第十九願の意をうけて、釈尊は聖道自力の人を誘引するために、諸善万行はみな浄土真実の導く善根であるとして、『観経』一部に定善の行、散善の行を説き、定善に縁のある人、散善に縁のある人に、それぞれに自力の行による往生をお勧めくださった。

と解釈されています。

次の「諸善万行ことごとく~」のご和讃は、「19願で善が勧められているのは分かった。でもそれが18願に導き入れるためとどうして断言できる?え?」の問いに対して挙げられたものです。親鸞会の意訳では、「往生浄土の方便の善」が、「信心獲得の方便(宿善)」にすり替わってしまっていることに気がつかれると思います。なお、このご和讃については、以前の記事「往生浄土の方便の善」とは「獲信の因縁としての善」なのか?で取り上げましたので、リンク先を参照して頂ければと思います。

最後に、「でも、諸善は一部の人にだけ勧められたのではないか?」の問いに対して、本太郎が提示したのが「至心発願欲生と~」のご和讃です。そして、この中の「十方衆生を方便し」を取り出して、「すべての人(十方衆生)を18願(絶対の幸福)へ導き入れるためである」と解釈しています。しかし、19願の「十方衆生」は18願の「十方衆生」とは異なるので、親鸞会のこの解釈は誤りです。19願の「十方衆生」については、『飛雲』で繰り返し詳しく取り上げられています。例えば、『飛雲』18願の「十方衆生」と19願の「十方衆生」を参照して下さい。
実は難しい議論を知らなくても、「19願の諸善は誰に対して勧められたのか?」の問いに答えることができます。『浄土和讃』大経讃を順番に拝読すればよいのです。正しい順番は以下の通りです。

至心・発願・欲生と 十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ 現其人前と願じける

臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく
『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり

至心・発願・欲生と~」のご和讃は弥陀の19願の内容そのものを詠まれたもの。
その19願の意を明らかにするために、釈尊は『観無量寿経』を説かれ、定善の機に定善を、散善の機に散善を勧められたと教えられたのが「臨終現前の願により~」のご和讃。
前のご和讃で阿弥陀仏は「十方衆生を方便し衆善の仮門ひら」かれたとありますが、では具体的にどんな人に善を勧められたのかについては「定散諸機」であることが次のご和讃で明らかになっているのです。

また、親鸞会の3首のご和讃の解釈ですが、「現其人前と願じける」、「臨終現前の願により」の部分を意図的に解釈していないことが伺えます。19願は臨終来迎を誓われた願ですが、その臨終来迎に関わる部分をあえて解釈していないのです。

来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。(親鸞聖人御消息

来迎は諸行往生にあり」「臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし」と親鸞聖人が仰っている「諸行往生」を誓われているのが19願です。親鸞聖人ご自身が、今回取り上げた「至心・発願・欲生と~」のご和讃の「頭註」に

十九の願のこころ、諸行往生なり

と書かれています。

親鸞聖人の教えは「臨終来迎」や「諸行往生」の教えではありません。3首のご和讃の解釈について都合の悪い「臨終来迎」や「諸行往生」という部分には触れず、「善のすすめ」に利用できるところだけを全ての人にあてはめて強調していることを知って頂ければと思います。

親鸞聖人がご和讃で19願について教えられたのは、勧めるためなのだと強弁する親鸞会の会員さんもいるかもしれません。そういう人は、『浄土和讃』大経讃を通して読んで見て下さい。また記事を改めて書きますが、19願・20願では化土往生だから、18願により報土往生を遂げなさいということが教えられていることが分かることでしょう。

Appendix

プロフィール

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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