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「宿善の意味を聞くための聞法道場が二千畳」という論説に親鸞会会員は疑問を持たねばならない

親鸞会公式ホームページに「まことに宿善まかせ 蓮如上人のご遺言」という記事がアップされていました。これは、顕正新聞1月1日号の論説で、既に親鸞会を脱会した人(したい人)へでも取り上げられていましたが、あまりにも酷い内容なので当ブログでも取り上げたいと思います。

まず、今回取り上げる部分についての抜粋です。全文を読みたい方は、リンク先をご覧ください。

「これによりて五重の義を立てたり。一には宿善、二には善知識、三には光明、四には信心、五には名号、この五重の義成就せずは、往生は叶うべからずと見えたり」
(御文章2帖目11通)

 親鸞聖人のみ教えを、一器の水を一器に移すがごとく、伝えられた蓮如上人のご金言である。

(中略)

 冒頭の『御文章』で蓮如上人は、「五つのものがそろわなければ、極楽往生はできないし、仏にはなれない」と厳しく仰っている。

(中略)

 では「五重の義」とは何か。
その第一が「宿善」である。

(中略)

 では、それほどに重要な宿善とは何か。全人類の最大関心事でなければならぬであろう。

(中略)
 
「宿善まかせ」とまで蓮如上人が仰る「宿善」を、親鸞学徒は当然、熟知していなければならない。それを聞くための聞法道場が、二千畳なのである。


なお、今回、省略した部分に挙げられている御文章のお言葉の正しい意味を知りたい方は、『親鸞会教義の誤り』宿善とはを参考にされるとよいと思います。

本題に入ります。一番問題だと思ったのは、論説の結論
「宿善まかせ」とまで蓮如上人が仰る「宿善」を、親鸞学徒は当然、熟知していなければならない。それを聞くための聞法道場が、二千畳なのである。
です。「宿善の意味を聞くための聞法道場が二千畳なのだ」という主張ですが、これは蓮如上人にも、論説の最初に挙げられた五重の義の御文章(御文章2帖目11通)にも反する邪義です。

論説では「五重の義」の意味について全く解説されていませんが、五重の義の「重」の意味を親鸞会の会員さんは、よく知らなければなりません。この「重」とは、前のものが後をおこし、後のものが前に重なってゆくという意味です。すなわち五重の義とは、「宿善」によって「善知識」に遇い、「光明」のはたらきによって「信心」を獲得し、その信心の相続するすがたが称名念仏(「名号」)となってあらわれるということを教えられたものです。そして、このような五重の義を立てることによって、「十劫安心」と「善知識だのみ」の誤りを正されたものが五重の義の御文章です。

宿善があって善知識に遇うのであって、善知識に遇って宿善について聞くのではありません。この順番に注意してください。親鸞会では、ここを間違ってしまっているのです。
そもそも、善知識の役目は、五重の義の御文章に
そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。
善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。
と教えられている通り、「弥陀に帰命せよ」と勧めることただ一つです。聞く立場の者からいえば、「弥陀に帰命する」こと一つを聞くのです。

「われをたのめ(南無)、必ず助ける(阿弥陀仏)」の如来の仰せをお取次ぎするのが善知識であり、如来の仰せを聞いたそのままが信心です。宿善の意味を説くのが善知識の任務ではなく、宿善の意味を聞くために聞法するのでもありません。

蓮如上人が、80通の御文章のどこに宿善の意味を解説されているというのでしょうか?蓮如上人は、「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」、このこと一つを御文章にお書き下さいました。

そのような蓮如上人の姿勢に反し、御文章の御教導に反し、「宿善の意味を聞くための聞法道場が二千畳」と書く親鸞会。蓮如上人を親鸞学徒の鑑と尊敬している親鸞会の会員さんならば、説法の目的・聞法の目的がずれてしまっている今回のような論説を読んだら疑問をもたねばなりません。

最後に、五重の義の御文章を拝読しましょう。

それ、当流親鸞聖人の勧化のおもむき、近年諸国において種々不同なり。これおほきにあさましき次第なり。そのゆゑは、まづ当流には、他力の信心をもつて凡夫の往生を先とせられたるところに、その信心のかたをばおしのけて沙汰せずして、そのすすむることばにいはく、「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることをわすれぬがすなはち信心のすがたなり」といへり。これさらに、弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。さればいかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは、極楽には往生すべからざるなり。またあるひとのことばにいはく、「たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と[云々]。これもうつくしく当流の信心をえざる人なりときこえたり。そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。これによりて五重の義をたてたり。一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

信心為本の教えが宿善為本の教えになっていないか、帰するところの弥陀を捨ててただ高森会長ばかりを本としてはいないか、会員さんは我が身を振り返ってみる必要があるでしょう。
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「無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ」と説くのは無責任説教??ー本願を踏みにじる親鸞会ー

「親鸞聖人の教え」と「親鸞会の教え」はまるっきり違います。ですから、「親鸞会の教え」を盲信している人は正しい「親鸞聖人の教え」を見聞きしても、「これは違う、間違いだ」と思ってしまいます。以下は、『本願寺なぜ答えぬ』の一節ですが、似た文章は他の親鸞会発行物の中にも散見されます。

大体、浄土真宗の道俗は、生まれおちるより、他力じゃ、易行の法じゃ、無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ、と、無責任説教を聞かされているから、仏法をバカにして、初めから易しいものと目安をつけ、見くびっている者が多い。(聞法以外に、獲信の因縁は、ないかより引用

リンク先か、『本願寺なぜ答えぬ』を読んで頂ければわかりますが、この後、「修善は獲信の因縁(宿善)になる」という「親鸞会の独自教義」が展開されていきます。

上で引用した文章のようなことが刷り込まれている親鸞会の熱心な会員さんは「他力じゃ、易行の法じゃ、無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ」と説く人、そのような文章を見ると、「これは違う」と思い、もう受け付けなくなってしまうことでしょう。しかし、「他力じゃ、易行の法じゃ、無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ」と説くことは誤りなのでしょうか?

阿弥陀仏の本願の救いは、無条件の救済、そのままの救いであることを、蓮如上人は次のように教えられています。

そもそもその信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす。その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに摂取して捨てたまはずして、一期の命尽きぬればかならず浄土におくりたまふなり。この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。これによりて『大経』(下)には「易往而無人」とこれを説かれたり。この文のこころは、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。かくのごとくこころうるうへには、昼夜朝暮にとなふるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。かへすがへす仏法にこころをとどめて、とりやすき信心のおもむきを存知して、かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。(御文章2帖目7通

信心をとるのには、智慧も才能も学問も要らず、身分も関係なく、善人悪人の隔てもなく、性別も無関係なことを最初に書かれていますが、その後に続く、「なにのやうもなく」、「やうもいらぬ」も、私側には何の条件もついていないこと(無条件)を表しています。無条件ということは、今の私のそのままということでもあります。そして、安心をやすきこころとよみ、次にやすきこころとは「なにの造作もなく・・・」と示し、「易往而無人」と結ばれることで、「易往」の「易」が、容易とかたやすいという意味ではなく、自らの造作を何も加えない無作を意味する言葉であることが明らかになっています。また、「易往」の「往」とは「往生」ということですから、平たい言葉で言えばお助けということです。したがって、「易往」とは、そのままのお助け、無条件の救済ということになります。つまり、「無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ」と説くのは、そのままのお助け、無条件の救いである阿弥陀仏の本願のこころをお取次ぎしているということなのです。

最近の親鸞会では宿善について強調して説いているようですが、「獲信の因縁として諸善を修せよ」などという教説は、上の蓮如上人のお言葉に反し、今の私のそのままで救われる無条件の救いである阿弥陀仏の本願を踏みにじる異義です。

阿弥陀仏の本願の救いにおいて、私の側に何の条件もついていないことを、親鸞聖人は、

おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず。(信文類
(現代語訳)
おおよそこの海のように広大な徳を持っている偉大な信心について味わってみると、身分の違いや出家在家の違いを分け隔てせず、男女とか老少を区別せず、犯した罪の多少を問題にせず、修行期間の長短を問題にせずに救いをもたらします。


と仰っています。阿弥陀仏の救いは「修行の久近を論ぜず」でありますから、過去にどれだけの善を為したかは無関係です。それに真っ向から反しているのが「宿善があつくなって救われる」という「親鸞会の教え」であることが分かります。上の親鸞聖人のお言葉の後、親鸞聖人は『阿弥陀経義疏』から次のお言葉を引かれています。

念仏法門は、愚智豪賤を簡ばず、久近善悪を論ぜず、ただ決誓猛信を取れば臨終悪相なれども、十念に往生す。これすなはち具縛の凡愚、屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。世間甚難信といふべきなり。(信文類
(現代語訳)
念仏の教えは、愚者と智者、富めるものと貧しいもののへだてなく、修行期間の長短や行の善し悪しを論じることなく、ただ決定の信心さえ得れば、臨終に悪相をあらわしても、たとえば十声念仏して往生をとげる。これこそは、煩悩に縛られた愚かな凡夫でも、また、生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを跳び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである。


無条件の救いである阿弥陀仏の本願は、「刹那に超越する成仏の法(たちどころにすべてを跳び超えて仏になる教え)」であり、「世間甚難信(世間の常識を超えた信じがたい尊い教え)」です。そのような阿弥陀仏の救いをますます信じ難くさせ、その救いから遠ざけているのが、「三願転入の教え」や「獲信の因縁として善を修せよ」などと説く高森会長です。

阿弥陀仏の救いとは、無条件の救済、ただの救い、そのままの救いであることを教えられたのが親鸞聖人であり、蓮如上人です。「無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ」と説くのを無責任説教だと批判するのは、親鸞聖人や蓮如上人を批判しているのと同じであり、本願のこころを伝えていないということです。

「無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ」と説くのは、阿弥陀仏は「そのままのお前のままで浄土に連れていくぞ」と仰せですよと本願のこころをお取次ぎしているということです。そして、「そのまま助けるぞよ」の勅命を、我が思いを雑えず、仰せのままに聞きうける以外に真宗の信心はないということをよくよく知っていただきたいと思います。

Appendix

プロフィール

いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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