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根拠のある話と根拠のない話

親鸞会の会員さんは、高森会長に間違いないと堅く堅く信じています。それが、信じているだけ、思い込んでいるだけということに気がつかないくらいの堅い信心です。

「高森先生がそのように言われたのだからそうなのだ」と覚え込み、それを他人にも話をしています。決して、理解しているのではありません。覚え込んでいるだけです。覚えたことをそのまま他人に話をしているだけです。ですから、会員さんの話は、まるでテープレコーダーのように皆同じです。

自らが聞いていること、また話していることが、親鸞聖人や善知識方のお言葉に合致しているのかどうか自分で判断することはありません。自分で勝手にお聖教を解釈してはいけないということが徹底されているからです。また、善知識方のお言葉に触れるのはせいぜい『教学聖典』に掲載されているお言葉だけでは、他は何も知りません。お聖教を通して拝読することをしないからです。

そのような会員さんですが、親鸞会や高森会長が批判されているということを聞く機会もあります。しかし、批判の内容を聞かされると同時に、それに対する模範回答も与えられます。そうすると、模範回答を覚え込むのみで、自ら思考することはありません。だから、本当は何が批判されていて、それについてお聖教上ではどのように教えられているのかを知ることはありません。

しかし、高森会長の説く教えが、親鸞聖人の教えに合致しているかどうかは、お聖教上のお言葉によってしか判定できません。どうしても、自分でお聖教を拝読する必要があるのです。

(1)まず、高森会長の説くことに対応するお聖教上のお言葉が存在するのかどうかが大事です。お聖教上のお言葉が存在しなければ、それは「高森会長の教え」であって、親鸞聖人の教えではありません。
(2)次に、高森会長の説くことに対応するお聖教上のお言葉が提示されている場合、その意味が正しく説明されているかどうかが問題になります。これには、提示されたお言葉を前後も含めて拝読し、解釈が妥当かどうかを検討する必要があります。高森会長が意味を誤って説明しているならば、それも「高森会長の教え」であって、親鸞聖人の教えではありません。

なぜこんな当然なことを書くのかと思われる方もあるかもしれませんが、親鸞会の会員さんの中には「根拠のある話」と「根拠のない話」の区別がついていない人がいるように感じられるので、このようなまわりくどいことを今回の記事では書いています。

簡単な例を挙げて説明していきます。

親鸞聖人の教えは信心為本の教え」と聞いたとします。それに対応するお聖教上のお言葉は何かといえば、『御文章5帖目10通』の
聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ。
などがすぐに思いつくことでしょう。

では、「親鸞聖人の教えは平生業成の教え」の根拠は何かといえば、 『御文章1帖目4通』の
 そもそも、親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして、来迎をも執せられ候はぬよし、承りおよび候ふは、いかがはんべるべきや。その平生業成と申すことも、不来迎なんどの義をも、さらに存知せず。くはしく聴聞つかまつりたく候ふ。
 答へていはく、まことにこの不審もつとももつて一流の肝要とおぼえ候ふ。 おほよそ当家には、一念発起平生業成と談じて、平生に弥陀如来の本願のわれらをたすけたまふことわりをききひらくことは、宿善の開発によるがゆゑなりとこころえてのちは、わがちからにてはなかりけり、仏智他力のさづけによりて、本願の由来を存知するものなりとこころうるが、すなはち平生業成の義なり。されば平生業成といふは、いまのことわりをききひらきて、往生治定とおもひ定むる位を、一念発起住正定聚とも、平生業成とも、即得往生住不退転ともいふなり。

などが挙げられます。

当ブログでは、特に「親鸞聖人の教えは他力回向の教え」であることを基軸にして、親鸞会教義の誤りを指摘し続けています。この「親鸞聖人の教えは他力回向の教え」に対応するお聖教上のお言葉として、存覚上人が『教行信証』を解釈された『六要鈔』の
今家特に如来他力回向の義を立つること、専らこの文に依るなり。
などが挙げられます。

以上のように、「親鸞聖人の教えは信心為本の教え」、「親鸞聖人の教えは平生業成の教え」、「親鸞聖人の教えは他力回向の教え」は「根拠のある話」です。

さて、高森会長は、「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」といい、これを大前提として話を展開します。「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」に対応するお聖教上のお言葉は存在するのでしょうか?
三願転入の御文は当然ありますが、今問題にしているのは「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」ということを示すお言葉です。
真宗聖典をくまなく調べてみれば分かりますが、そんなお言葉はどこにも存在しません。
結局、高森会長は、「根拠のない話」を大前提にしているということです。それは「高森会長の教え」であって、親鸞聖人の教えではないのです。

(なお、「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」は、大沼法龍師の著書の中の「大沼は三願転入を根基として布教している居るのだ」をもとにしていることは飛雲で既に指摘されています。)

3年前の『顕真』2月号の巻頭言には、高森会長から会員に向けた以下のメッセージが掲載されていました。

●人間の仕分けと逆謗の一機

阿弥陀仏が五劫思惟の徹底調査の末、
全人類(十方衆生)は助かる縁なき逆謗の一機と診断なされ、
その逆謗を助ける十八願を建てられたのだが、
自惚れ強い人類は自分が助かる縁なき極悪人とはユメにも思っていないのだ。

そんな我々を見抜いた弥陀が、自惚れ心を打ち砕き真実の機を知らせるために
建てられたのが十九願である、と親鸞聖人は教えられる。
その弥陀の十九の願意を開顕するために、
全人類(十方衆生)をはじめは八十一種類(八十一品)に分けられた釈迦が
『観無量寿経』では、「定善の一機」と「散善の九機」(上品上生、上品中生、
上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生)
の十種類に要約されている。
『大無量寿経』にはそれをまた、上輩者・中輩者・下輩者の三種類にまとめ、
遂には弥陀が見抜いた逆謗の一機を知らせるために
種々に方便なされているのが一切経である。

自惚れ強い人類に頭から「お前たちは、みな助かる縁なき逆謗だよ」と
どれだけ教えても聞く耳全く持たないから、
全人類を八十一種類に分類したり九種類になされたり三種類に分けたりされたのは、 十方衆生は逆謗の一機である真実を知らせるための、
釈迦弥陀の善巧方便の人間の仕分けであったのである。


この文章を読んだ会員さんは、これが親鸞聖人の教えかどうかについて何の疑問を抱かないかもしれません。親鸞会では、「親鸞聖人の教え」として繰り返し教え込まれていることだからです。しかし、ここで聖教上の根拠を全く挙げずに書かれていることに注意しなければならないのです。

・「弥陀が全人類を逆謗の一機と見抜かれた」に対応するお聖教上のお言葉は?
・「自惚れ心を打ち砕き真実の機を知らせるために建てられたのが十九願である」と教えられた親鸞聖人のお言葉は?
・「全人類は助かる縁なき逆謗だ」に対応するお聖教上のお言葉は?
・「全人類を八十一種類に分類したり九種類になされたり三種類に分けたりされたのは、 十方衆生は逆謗の一機である真実を知らせるための釈迦弥陀の善巧方便」であることを教えられたお聖教上のお言葉は?


以上の4点について、
(1)対応するお聖教上のお言葉が存在するのか?
(2)親鸞会で根拠が提示されている場合、前後も含めて読んだとき、その解釈は正しいのか?

を検討してみてください。当ブログをはじめ、多くのブログで既に何度も取り上げられていることばかりです。
検討すれば、今回取り上げた『顕真』巻頭言の内容は親鸞会の会員ならば何度も聞かされていることだと思いますが、実は「根拠のない話」で、「親鸞聖人の教え」でないことが分かります。つまり、会員の皆さんは「高森会長の教え」を聞かされているだけなのです。

(なお、上記の巻頭言の文章は、「高森会長の教え」「親鸞会の教え」を貫く重要な教義ですが、以上の4点だけがおかしいのではなく、他にもおかしな点・問題点があります。)

会員の皆様が、一刻もはやく、「高森会長の教え」を離れ、正しい親鸞聖人の教えを知り、弥陀の本願に遇われることを願っております。
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聞法善ー他力の救いを自力の教えにした高森会長の大罪

親鸞会では、聴聞・聞法のことを聞法善と呼び、最も宿善が厚くなる行為として位置づけています。そして、聞法に励んだ先に信心獲得の決勝点があるとしています。しかし、この教義は親鸞聖人の教えに根本から反し、聞法者を自力の教えに留めてしまう重大な誤りですので、他のブログでも誤りが指摘されていますが、本ブログでもこの問題を取り上げます。

まず、『本願寺なぜ答えぬ』では、以下のように「聞法に勝る獲信の因縁(宿善)はない」と書き、本願寺もタテマエの上ではこれを認めたとしています。

(3)〝なぜ実らぬ〟本願寺の聞法のすすめ~
 「善さえ励めば獲信できる」〝これが親鸞会の主張だ〟
 こんな本願寺の中傷を縁として、親鸞会は、聞法に勝る獲信の因縁(宿善)のないことを開顕し、〝仏法は聴聞に極まる〟ことを力説してきた。
 聴聞(聞法)の重要性には、本願寺も異存がないらしい。
(中略)
 いくら本願寺でも、聞法と獲信の関係を断ち切れば崩壊することぐらいは、ご存知のようだ。
「聞法を勧めねばならないことは、いうまでもない」と、珍しくも断言なさっている。
 ついでに、
〝大いに、すすめねばならぬワケ〟もききたいものだが、とにもかくにも、聞法が獲信の因縁(宿善)になることを、タテマエだけでも、本願寺が認めたことはおめでたい。


しかし、親鸞聖人の教えにおいて、親鸞会が説くように「聞法が獲信の因縁(宿善)になる」という教説は存在しません。このことは、宿善論争の発端になった『現代における異義の研究 伝道院紀要24号』(紅楳英顕著)でも既に指摘されていることです。

先ず「たとひ大干世界にみてらん火をもすぎゆきて仏のみなを聞く」の聞くであるが、宗祖において「聞」とは「信巻」には
聞といふは、衆生仏願の生起本末を聞きて疑心有ること無し、是れを聞と日ふ也(真聖全二の七二)
とあり、又『一念多念文意』には
きくといふは、本願をきゝてうたがふこゝろなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(真聖全二の六〇四)
等とあるように聞とは信心をあらわすものであり、信心とは「本願力回向之信心也(真聖全二の七二)とあるように他力回向の信心であるから、「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏の御名を聞く」という表現ではあっても決して自力の意ではなく、他力の意に他ならないのである。


ここでは聞法を勧められた親鸞聖人のお言葉「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」(『浄土和讃』)の意味が解説されています。親鸞聖人において、「聞」とは信心をあらわすものであり、他力の意味で説かれていることが明らかにされています。上で引用した『本願寺なぜ答えぬ』の中に「聞法と獲信の関係」という言葉が出てきますが、聞いたそのままが信心であるということが親鸞聖人が教えられた「聞と信の関係」です。親鸞会が主張するような「聞法が獲信の因縁(宿善)になる」というような関係を親鸞聖人は教えられていません。

『本願寺なぜ答えぬ』に引用するといっていながら、引用しなかった『派外からの異説について』(紅楳英顕著)でも同様のことが明らかにされています。

宗祖聖人は、
たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきく人は ながく不退にかなふなり(『浄土和讃』)
といわれ、蓮如上人は、
仏法は世間の隙を闕きてきくべし、世間の隙をあけて法をきくべきように思うこと、浅ましきことなり。(『御一代記聞書』)
いかに不信なりとも聴聞を心に入れ申さば、御慈悲にて候間、信を獲べきなり、只仏法は聴聞に極まることなりと云々。(『御一代記聞書』)
等と教示されている。
このことは、論文にも述べたことであって、聞法(聴聞)を勧めることが間違いである等とは、私はどこにもいっていない。 私の述べているところを故意にネジ曲げて非難していることは明らかである。
そもそも、真宗の「聞」とは、第十八願成就文の「聞其名号信心歓喜」の如実の「聞」でなければならない。これは、第二十願の「聞我名号係念我国」の「聞」とも峻別される他力の「聞」なのである。 高森親鸞会の主張のように、破邪顕正や財施等の自力の行と同列に扱うこと自体が、そもそも問題なのである。この意味から、存覚上人は、
聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりばかりもよりつかざるなり。(『浄土見聞集』)
と述べられているのである。


『本願寺なぜ答えぬ』では、聞法が獲信の因縁(宿善)になることを本願寺が認めたかのように書かれていますが、本願寺はそんなことは認めていません。それどころか、引用した二つの論文では、親鸞聖人が勧められた聞法とは、十八願成就文の「聞其名号信心歓喜」の「聞」であり、他力の「聞」、聞いたままが信心である聞即信の「聞」であることが述べられ、親鸞会の主張する自力の行(宿善になる行)としての聞法の勧めは問題であると指摘されているのです。しかし、この本願寺の指摘をねじ曲げて、本願寺も聞法が獲信の因縁(宿善)になることをタテマエだけでも認めたとしているのです。酷い歪曲だといわざるをえません。

こうして、正しい意味での聞法はねじ曲げられて、宿善が厚くなる行としての聞法だけが親鸞会には存在することになってしまいました。そこで問題にされるのは、どれくらい聴聞しているのか、富山に参詣しているかという回数や、その真剣さ、聞いたことをどれだけ覚えているのかなどの自分の聞法姿勢ばかりです。まさに、破邪顕正や財施等の自力の行と同列の自力の聞法だけがそこにはあるのです。自らの聞きぶりばかりが問題にされ、救いの法が抜け落ちてしまった状態に陥っているのですが、親鸞会の内部にいるとなかなかそこに気が付くことはできません。

このような「聴聞、おつとめ、六度万行が獲信の因縁(宿善)になる」という教義、また「三願転入の教え」、「善をしなければ信仰は進まない」等の「親鸞会の教え」に共通しているのは、救いを彼方においてそこに向かって何らかの行に励み、ハッキリした信心をいただこうとしている点です。そして、この点こそが、「親鸞会の教え」の根本的な誤りなのです。

そもそも、浄土真宗とは、親鸞聖人が『信文類』に「横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり横超というのは、本願が成就して、すべての衆生が平等にさとりを開く唯一の真実円満の教え、すなわち真宗である)」と説かれているように、本願が成就していることを大前提としています。本願の「至心・信楽・欲生」の三信の解釈でも、『信文類』では仏の上に成就された三信としての解釈がなされています。その信楽釈には、
信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。
(現代語訳)信楽というのは、阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つに融けあっている信心である。このようなわけであるから、疑いは少しもまじることがない。それで、これを信楽というのである。
とあり、阿弥陀仏が私たちを救うことに一点の疑いもない摂取決定の心が信楽であると説かれています。その阿弥陀仏の願心は、欲生釈に「如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり如来が迷いの衆生を招き喚びかけられる仰せである)」と説かれているように、「南無(我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず助ける)」の仰せとなって衆生を喚びづくめなのです。
この間違いのない法(南無阿弥陀仏)を計らいなく聞いている状態が信心です。これを聞即信といいます(つまり親鸞会の聞即信の説明は誤りです)。

親鸞聖人や蓮如上人が勧められた聞法とは、間違いのないお救いの法、すなわち本願が成就し招き喚びかけられつづけている南無阿弥陀仏をお聞かせ頂くことです。決して、救いを眺めものにして自らの側から聴聞を重ねることによって決勝点に到達するというような法なのではありません。

高森会長の大きな罪は、阿弥陀仏の側からの他力の救いを、衆生の側から求めさせる自力の教えにしてしまっているところにあります。たとえていうならば、向こう側から開かれている扉を、こちら側から押すように勧めているのが、聞法善という概念であり、親鸞会の宿善論であり、三願転入の教えです。その教えに従う限り、永久に扉が開かれることはありません。つまり、救いの法を拒絶するように仕向けているのが高森会長の教えです。このような親鸞会の教えに従っている限り、「微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし」であり、「信を生ずることあたはず、仏智を了らず、かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり」です。聞法善などという誤った教えは、速やかに廃捨せねばなりません。

Appendix

プロフィール

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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