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親鸞会の会員さんは、親鸞聖人のお言葉ではなく、高森会長の話が根拠になっていることに気が付かなければならない

前回の記事前々回の記事に、冨田信様より多くのコメントを頂きました。
そして、そのコメントに対して私に代わって、返事をして下された脱会者様、GW様、有難うございました。

冨田さんの主張は以下のコメントに集約されます。

仏の眼から見ればというのが前提で全人類は五逆謗法の者。
全人類は五逆謗法の者と言う人がいても、心の底は全く自分の事と思っていないのが現状であると思います。
本願まことであったと知らされた人は十方衆生は私の事であった、五逆謗法は私の事であった、しかも本願からも唯除されていたとしらされるのです。


しかし、「全人類は五逆謗法の者」という主張が、親鸞聖人の教えに反することは、既に前々回の記事で以下のように説明してあります。

親鸞会の会員さんは、「五逆罪、謗法罪を造っていない人などいるのか?」と思われると思いますが、親鸞聖人が書写なされ、同行に拝読を勧められていた『唯信鈔』には、

われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず

とあり、親鸞聖人が法然聖人の法語などを収集された『西方指南抄』には、

三宝の世にむまれて、五逆をつくらざるわれら、弥陀の名号をとなえむに、往生うたがふべからず。

と教えられています。法然聖人、親鸞聖人、聖覚法印ともに「五逆をつくらず」です。

このように、「弥陀は全人類を逆謗の一機と見抜かれた」ということは、根拠がないだけでなく、善知識方の教えに反しているので、誤りだと言っているのです。


さて、根拠のある話と根拠のない話の記事で、私は以下のように書きました。

高森会長の説く教えが、親鸞聖人の教えに合致しているかどうかは、お聖教上のお言葉によってしか判定できません。どうしても、自分でお聖教を拝読する必要があるのです。

(1)まず、高森会長の説くことに対応するお聖教上のお言葉が存在するのかどうかが大事です。お聖教上のお言葉が存在しなければ、それは「高森会長の教え」であって、親鸞聖人の教えではありません。
(2)次に、高森会長の説くことに対応するお聖教上のお言葉が提示されている場合、その意味が正しく説明されているかどうかが問題になります。これには、提示されたお言葉を前後も含めて拝読し、解釈が妥当かどうかを検討する必要があります。高森会長が意味を誤って説明しているならば、それも「高森会長の教え」であって、親鸞聖人の教えではありません。


コメント欄のでのやりとりを通して、「全人類は五逆謗法の者」という主張は、それに対応するお聖教上のお言葉が存在しないのですから、上記(1)のフィルターを通過できない「高森会長の教え」であることが鮮明になりました。

また、冨田さんは、本願文の「唯除五逆誹謗正法」や善導大師の機の深信のお言葉を挙げて、「弥陀は全人類を逆謗の一機と見抜かれた」という主張を展開しようとされましたが、その根拠の解釈に誤りがあることを前回の記事で説明しました。そして、その主張は、
「われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」(唯信鈔)
「五逆をつくらざるわれら」(西方指南抄)

という親鸞聖人、法然聖人、聖覚法印のお言葉にも反しています。ということは、「弥陀は全人類を逆謗の一機と見抜かれた」という主張は、上記(2)のフィルターを通過できない「高森会長の教え」であるということです。

冨田さんのコメントを読みますと、親鸞聖人をはじめとする善知識方が何を言われていようと、「高森先生に絶対に間違いはない」ということが大前提になっていることを強く感じます。そして、それは多くの会員さんの気持ちだとも思います。しかし、親鸞聖人を祖師と仰ぐ親鸞学徒を自認するのならば、親鸞聖人やその親鸞聖人の尊敬された七高僧の教えにこそ従わねばなりません。善知識方のお言葉に明らかに反していながら、それでも自らの間違いが認められないのは、親鸞学徒ではなく、高森学徒だからです。

そうした冨田さんの最後の拠り所は、

「私はお言葉を信じる信じないのでなく、弥陀の本願まことと知らされた事が本で、それを教え
てくださったお釈迦様の教え間違いなかった、七高僧、親鸞聖人の教え間違い無かった、と知
らされただけです。」

「もうすでに無間地獄行き間違いなし、と弥陀よりハッキリてらし出されたので。
 二種深信の、機の深信記載しただけですけど」


とコメントされていることから分かるように個人的な体験でした。「七高僧、親鸞聖人の教え間違い無かった」と書かれていますが、現実には七高僧や親鸞聖人の教えを誤解されていたわけですから、この部分は「高森先生の教え間違いなかった」とするのが適切だと思われます。

冨田さんがどんな体験をしていらしていたとしても、それが親鸞聖人の教えに合致していなければ、異義・異安心です。また、善知識方のお言葉よりも、自らの体験を優先させる体験至上主義でもあります。

「十方衆生を弥陀がどう見られたか?」という御質問がありましたが、GWさんがコメントされた『教行信証信巻』の至心釈、信楽釈、欲生釈のお言葉で教えられています。これは、以前の記事「阿弥陀仏は十方衆生を逆謗の屍と見抜かれたのか? 」で現代語訳付で紹介してありますので、そちらも参照してください。

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「機の深信」と「唯除五逆誹謗正法」

この記事は、冨田 信様から頂いた以下のコメントの返信です。

> 十方衆生を五逆誹謗正法と見抜かれ、18願を根拠にだした思いの中に・・・
>
> 教行信証に
> 自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、広劫よりこのかた、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし
> とあります。
>
> 十方衆生=自身=善導=親鸞(すべての人とはあるけれど私のことであった)
> 五逆正法誹謗=罪悪生死の凡夫
>
> 唯除=出離の縁あること無し
>
> と重なります。
> 故に18願を根拠として、18願読んでも弥陀の本心わからないから、機の深信で善導大師はその時代の人々に、親鸞聖人はその時代の人々に分かるように18願を解説されたと思います。



親鸞聖人が「われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」と書かれている『唯信鈔』の拝読をお同行に勧められたことは昨日の記事で書きました。このお言葉から分かるように、「罪業おもし」と「五逆正法誹謗」とは、決してイコールではありません。明確に「罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」と教えられています。

同様に、善導大師の機の深信のお言葉の「罪悪生死の凡夫」も「五逆正法誹謗」とイコールにすることはできません。善導大師ご自身が、自分は五逆謗法の者であると言われた告白はどこにもないのですから。

善導大師の「唯除五逆誹謗正法」の解釈は『散善義』の中にあります。そして、親鸞聖人は、それを『信文類』に引かれています。

この義、仰いで抑止門のなかについて解す。四十八願のなかのごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、ただちに阿鼻に入りて歴劫周章して、出づべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて〈往生を得ず〉とのたまへり。またこれ摂せざるにはあらざるなり。

現代語訳は

このことは、如来が罪をつくらせまいとして抑え止められる意味と理解される。四十八願の中に、謗法と五逆とを除くとあるのは、この二つの行いは、そのさわりがきわめて重いからである。衆生がもしこの罪を犯せば、ただちに無間地獄に堕ち、限りなく長い間もがき苦しむばかりで逃れ出ることができない。そこで如来は、この二つの罪を犯すことをおそれ、慈悲の心から抑え止めて、<五逆と謗法の罪を犯すなら往生ができない>と仰せになったのである。摂め取らないということではない。

です。この善導大師の教えを承けて、親鸞聖人は『尊号真像銘文』に、

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

と教えられたことがお分かり頂けると思います。

善導大師におかれても、親鸞聖人におかれても、「唯除五逆誹謗正法」と機の深信を

> 教行信証に
> 自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、広劫よりこのかた、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし
> とあります。
>
> 十方衆生=自身=善導=親鸞(すべての人とはあるけれど私のことであった)
> 五逆正法誹謗=罪悪生死の凡夫
>
> 唯除=出離の縁あること無し
>
> と重なります。


と結びつけるお考えはどこにもありません。

そもそも真宗史上で、機法二種の信心と初めて言われたのは存覚上人です。『信文類』に引文されている『散善義』の二種深信のお言葉を『六要鈔』では次のように解釈されています。

次に深心を釈する中に、「二者」等とは、これ経文を牒す。「深」等というは、能信の相を明かす。「亦有」等とは、所信の事を顕かす。これ則ち機法二種の信心なり。「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。

この中で、「無有」等以下が機の深信の解釈であり、「無疑」等以下が法の深信の解釈です。法の深信の解釈の中では、本願文の「若不生者不取正覚」を挙げられていますが、機の深信の解釈の中では本願文は挙げられてはいません。機の深信と「唯除五逆誹謗正法」を対応させて教えられることは存覚上人にはありませんでした。また、他の善知識方のお言葉にも仰っていないことです。

二種深信とは、一つの他力信心を、機と法の二方面から説かれたもので、別々の信相があるわけではありません。
機の深信とは自らの力では出離できない私であると知らされたことであり、法の深信とは出離の縁なき私を救いたまう如来の願力を知らされたことです。
自らの力では出離できない私であると知らされたということは、自らの計らいを離れたということです。
私を救いたまう如来の願力を知らされたということは、如来の願力におまかせしたということです。
自らの計らいを離れたのでなければ如来の願力におまかせしたとはいえませんし、如来の願力におまかせしたのでなければ自らの計らいを離れたとはいえません。
このように、真実の信心・捨自帰他の信相を、機の面と法の面から顕されたのが二種深信です。

まとめますと、
機の深信ー自力無功ー捨自
法の深信ー他力全託ー帰他

となります。

機の深信とは、五逆謗法の者と知らされるということではないのです。
機の深信とは、『六要鈔』に「自力の功なきことを知る」とあるように「自力無功」と知らされることなのです。

機の深信を五逆謗法の者と知らされるとする親鸞会教義の誤りについては、
『浄土真宗親鸞会は親鸞聖人のみ教え同じか?』機の深信について
に問答形式でまとめられているのでこちらも参照してください。

(続)根拠のある話と根拠のない話

冨田 信様より、多くのコメントを頂きました。
本記事では、以下のコメントについて返事いたします。
その他のコメントについての返事は、数日お待ちください。

根拠が無いと言われる事に関して

平生業成という言葉は親鸞聖人が初めて言われたお言葉と聞いております。
また、親鸞聖人は廃師自流と非難されました。
教行信証は八割が根拠、二割が親鸞聖人のお言葉と聞いております。間違っていたら申し訳ありません。
親鸞聖人の教えでなく、先生の教えと言われても・・・
当時の親鸞聖人の心境と先生の心境と重なりを感じます。
私がはっきりしている事は、後生不安な心を抱えていた時は弥陀の本は当然の如く疑い一杯だったですし、先生のお話は、疑問有りながら聞いていました。
今は後生はっきりしているので弥陀の本願に疑いようが無いし、弥陀の本願有る事を教えて下さった先生を疑いようがありません。
今でも先生のお話聞いていて疑問に思う事はありますが、弥陀の本願に疑い無いから・・・先生がどうしてそなような話され方をされたのか、その心を機会が有れば教えて頂きたい・・・という感じです。
言葉変えれば教義、学問の分野にしか過ぎません(言葉悪いですけど・・・あくまでも今の私の弥陀から頂いた信心と比べれば)。
逆にお尋ねしたいですね、親鸞聖人が平生業成と言葉を作られた聖人の教え、と釈迦の教えの類似点、又相違点。親鸞聖人が廃師自流と言われた理由をどう理解されているのか。
長々とすいません、思ったままを書いてしまいました。


(管理人注:廃師自流→背師自立の書き誤りだと思います)


まず、「平生業成」という言葉を初めて使われたのは、親鸞聖人ではありません。覚如・存覚上人です。例えば、覚如上人の『改邪鈔』には、

もし「即得往生住不退転」(大経・下)等の経文をもつて平生業成の他力の心行獲得の時剋をききたがへて、「名帳勘録の時分にあたりて往生浄土の正業治定する」なんどばし、ききあやまれるにやあらん。

とあり、存覚上人の『浄土真要鈔』には、

親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして臨終往生ののぞみを本とせず、不来迎の談にして来迎の義を執せず。ただし平生業成といふは、平生に仏法にあふ機にとりてのことなり。もし臨終に法にあはば、その機は臨終に往生すべし。平生をいはず、臨終をいはず、ただ信心をうるとき往生すなはち定まるとなり。これを即得往生といふ。

と教えられています。

私が前回の記事で書いたことは、今まで誰も使った言葉を使ってはいけないとか、新しい言葉を使ってはいけないということではありません。

平生業成とは、平生の聞信の一念に往生の業事が成弁するという意味だということは御存知だと思います。親鸞聖人は「平生業成」という言葉を一箇所も使ってはいませんが、平生業成を意味するお言葉は、何箇所もあります。例えば、

真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。(親鸞聖人御消息

弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即のとき必定に入る。 (正信偈)

しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。(証文類


などと教えられています。このような親鸞聖人の教えを承け、覚如・存覚上人は「平生業成」という言葉を使われた訳です。

では、親鸞聖人は、なぜ平生の聞信の一念に往生が定まるということを教えられたのかといえば、それも善知識方の教えを承けられてのことです。直接の師である法然聖人は『和語灯録』に、

問うていわく、摂取の益をこうむる事は平生か臨終か、いかん。答えていわく、平生の時なり。

と教えられていますし、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』には、

人よくこの仏の無量力威徳を念ずれば、即時に必定に入る。

とあります。もっとさかのぼれば、「平生業成」は、『本願成就文』に、

聞其名号信心歓喜乃至一念・・・即得往生住不退転

と釈尊が説かれたことに拠るものです。

このように、「平生業成」は、その言葉自体は覚如・存覚上人によるものですが、意味することは善知識方の教えに合致しているのです。


一方、冨田様が別のコメントで話題にされた「弥陀は全人類を逆謗の一機と見抜かれた」ということは、その意味に対応するような善知識方のお言葉は存在せず、高森会長独自の教えといえます。本願文の「唯除五逆誹謗正法」が、それに対応していると親鸞会では教えられていると思いますが、それは誤った解釈です。親鸞聖人が、「唯除五逆誹謗正法」を直接解釈されたお言葉は『尊号真像銘文』にある

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

です。簡単に言うと、五逆罪、謗法罪が重罪であることを知らせて、すべての者がみな往生できることを示されたお言葉が「唯除五逆誹謗正法」だということです。つまりは、五逆罪、謗法罪のものでさえも救われるのだから、一切の衆生が漏れずに救われることを述べられているのです。

親鸞会の会員さんは、「五逆罪、謗法罪を造っていない人などいるのか?」と思われると思いますが、親鸞聖人が書写なされ、同行に拝読を勧められていた『唯信鈔』には、

われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず

とあり、親鸞聖人が法然聖人の法語などを収集された『西方指南抄』には、

三宝の世にむまれて、五逆をつくらざるわれら、弥陀の名号をとなえむに、往生うたがふべからず。

と教えられています。法然聖人、親鸞聖人、聖覚法印ともに「五逆をつくらず」です。

このように、「弥陀は全人類を逆謗の一機と見抜かれた」ということは、根拠がないだけでなく、善知識方の教えに反しているので、誤りだと言っているのです。

では、阿弥陀仏は全ての人をどのように見抜かれたのかということですが、それについては以前の記事「阿弥陀仏は十方衆生を逆謗の屍と見抜かれたのか? 」に書いてありますので、そちらをご参照ください。

これで、私が「根拠がある」とか「根拠がない」ということを、どのような意味で使っているのかがお分かり頂けると思いますが、分からないことがあればコメントください。

Appendix

プロフィール

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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