Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『なぜ生きる2』はじめにを読んで

『なぜ生きる2』の「はじめに」を以下の一万年堂出版のホームページで読みました。
http://www.10000nen.com/?p=13083

まだ、本を入手して本文全体を読んでいませんが、「大悲の願船に乗ずる道のり」を聖人の「三願転入」のご指南によって明らかにした本のようです。読まなくても、どんな根拠を挙げて、どんな内容が書かれているのかはだいたい想像がつきますが、具体的な批判は本を読んだ上で行いたいと思います。

今回問題にするのは、「はじめに」の以下の部分です。

我々の命は、つねに崖っぷちに立つ。医療が延ばすのは、永遠の生命からは瞬間である。
やがて、この世の光がすべて消滅する日がやって来る。
その先どうなるか。闇黒の世界よりも、明るい無量光明土でありたい。
そんな全人類の熱願に応えて建造された「大悲の願船」である。


「大悲の願船」すなわち本願の名号を、人類の熱願に応えて建造されたと書いてしまうところに、高森顕徹氏の親鸞聖人の教えに対する理解の昏さがあられています。

『歎異抄』に「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば」とあるように、衆生が自己のありさまを問題にするよりも先に、如来が衆生のありさまを問題にされたのであり、そして衆生が救われたいと願うより前に、如来が救いの法を成就されたのでした。このことを、親鸞聖人は、
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。 ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。 如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。(信文類至心釈
と仰りました。どこにも衆生の願いによって、名号が成就されたという意味はありません。如来が、衆生をご覧になって、そのありさまを問題にし、衆生をあわれみ、救わんがために名号を成就され、衆生に名号を回向されたのでした。

この「如来から衆生」という方向が理解できないところに親鸞会教義の根本的な誤りがあるのであり、本願についても上記に見られるように衆生の願いから建立されたかの如くに書けてしまうところに本願についての無理解があらわれているのです。そして、「衆生から如来」の方向に理解されている本願観は、そのまま衆生から如来の救いに向かっていく「親鸞会流三願転入の教え」、「親鸞会流二河白道の譬え」につながっていくのです。
スポンサーサイト

Appendix

プロフィール

いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

最新記事

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。