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『なぜ生きる2』を読む(3)-隠された化土往生

前回前々回の記事で引用した『化身土文類』要門釈直前において、

つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。
(現代語訳)
つつしんで、方便の仏と浄土を顕わせば、仏は『観無量寿経』に説かれている真身観の仏であり、浄土は『観無量寿経』に説かれている浄土である。また『菩薩処胎経』などに説かれている懈慢界である。また『無量寿経』に説かれている疑城胎宮である。

と、『顕浄土方便化身土文類』という題号に応じて、化身と化土が明らかにされます。

そして、『化身土文類』では、要門釈に続いて、十九願文を引かれ、十九願成就文を示された後、化土のすがたをあらわされるために、二十八願(道場樹の願)の成就文が引かれます。経文を引用すると長くなりますので、今は、その意を示された『浄土和讃』を一首挙げておきます。

七宝講堂道場樹 方便化身の浄土なり
十方来生きはもなし 講堂道場礼すべし

(現代語訳)
七宝で飾られた講堂や、 さとりを開かれたところにある道場樹などは、 自力心のなくならない者を導くために、 仮に設けられた方便化身の浄土である。
この方便の浄土へも十方世界から往生する人々が際限がない。 このように講堂道場樹などの方便の手だてを作ってお導きくださる慈悲の阿弥陀如来を帰依礼拝せよ。


このように、親鸞聖人は、『化身土文類』において、要門を開かれた理由を述べられた後、十九願によって往生する浄土とは、方便化身の浄土であることを明らかにされます。

しかし、十九願のことを中心に書かれた『なぜ生きる2』には、化土往生について一切触れられていません。

『なぜ生きる2』5章p124には、三願転入の御文

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。 (化身土文類

が挙げられていますが、「双樹林下の往生」、「難思往生」、「難思議往生」の三往生については、
双樹林下の往生」・・・「十九願の通り実行して得られる結果。
難思往生」・・・「二十願の通り実行して得られる結果。
難思議往生」・・・「阿弥陀仏の浄土に往って仏に生まれること。
と注釈がなされ、「化土往生」という語は一切出てきません。

念のため、三願と三往生の関係をまとめておきますと、
十八願-難思議往生 -報土往生
十九願-双樹林下往生-化土往生
二十願-難思往生   -化土往生

です。親鸞聖人は、『浄土三経往生文類
でこの三往生について、端的に教えられています。

大経往生といふは、如来選択の本願、不可思議の願海、これを他力と申すなり。これすなはち念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。現生に正定聚の位に住して、かならず真実報土に至る。これは阿弥陀如来の往相回向の真因なるがゆゑに、無上涅槃のさとりをひらく。これを『大経』の宗致とす。このゆゑに大経往生と申す、また難思議往生と申すなり。

観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。 これを双樹林下往生と申すなり。

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。


したがって、十八願、十九願、二十願は、独立した往生を誓われた願だと見られたのが親鸞聖人であったことが分かります。そして、『なぜ生きる2』の三往生についての注釈を補うと、十九願の通り実行して得られる結果は、化土往生であり、二十願の通り実行して得られる結果も、化土往生だということです。

ところが、『なぜ生きる2』第5章131-134頁では、『浄土和讃』大経讃から、

至心・信楽・欲生と 十方諸有をすすめてぞ
不思議の誓願あらはして 真実報土の因とする

至心・発願・欲生と 十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ 現其人前と願じける

至心・回向・欲生と 十方衆生を方便し
名号の真門ひらきてぞ 不果遂者と願じける


と三首挙げて、

 このように『和讃』でも、十八願(真実の願)に入れるための十九・二十の方便願だから、決して三願は無関係でなく、密接に関連していることを鮮明にされている。
 これこそが親鸞聖人の一大達見であり、希有の宣言なのだ。


と書いています。十九願→二十願→十八願と実行していくのだということを植えつけようとしていますが、十九願の行と信によって得られる結果は、上述のように、あくまで化土往生です

さらに、これらの御和讃には、親鸞聖人ご自身が、それぞれ
本願のこころ、第十八の選択本願なり
十九(じゅうく)の願のこころ、諸行往生なり
二十の願のこころなり、自力の念仏を願じたまへり
と頭註をなされています。

ここで、十九願は「諸行往生」を誓われた願、二十願は「自力の念仏」を誓われた願ということが分かります。そして、どこに往生するのかということについては、同じ『浄土和讃』大経讃の中に次のように教えられています。

安楽浄土をねがひつつ 他力の信をえぬひとは
仏智不思議をうたがひて 辺地・懈慢にとまるなり


「安楽浄土をねがひつつ他力の信をえぬひと」とは、十九願、二十願の人のことで、その人は「辺地・懈慢」という方便化身土にとどまると教えられています。このように御和讃でも、十九願、二十願の人は、化土往生とはっきり教えられています。

親鸞聖人が「化土往生」について教えられていることを、親鸞会にいると聞く機会はほとんどありません。『なぜ生きる2』にも、全く触れられていません。十八願、十九願、二十願が、独立した往生を誓われた願であるということは、余程親鸞会にとって都合の悪いことなのでしょう。

親鸞会では、因果の道理の話が徹底的になされます。

ダイコンのタネをまけば、ダイコンが生えてくる。
スイカのタネをまけば、スイカが生えてくる。
カボチャのタネをまけば、カボチャが生えてくる。
キュウリのタネをまけば、キュウリが生えてくる。

ダイコンのタネをまいて、スイカが生えてくることもなければ、
キュウリのタネをまいて、カボチャが生えてくることも絶対にない。


会員の皆様は、何度も聞いたことでしょう。ここで、同じく、

十九願の行信によっては、化土に往生する。
十九願の行信によって、報土に往生することは絶対にない。


であることを知らなければなりません。

親鸞聖人は『教行証文類』において、前5巻で報土に往生する因果を明らかにされ、それに対して方便化身土にとどまってしまう因果を『化身土文類』で明らかにされました。それは、方便の行と信を捨てて、真実の行と信によるべきであることを教えられるためです。

『なぜ生きる2』第5章では、上で引用した箇所に続いて

 畢生の大著『教行信証』六巻をみれば、明白であろう。
『教行信証』の前五巻には、弥陀の真実の願(十八願)の御心を明瞭にし、後の「化土巻」では、方便の願(十九願・二十願)の教えが明らかにされている。”方便より真実に入る”三願転入の教えが親鸞聖人の教導であることは、一貫してゆるがない。 
(134頁)


と書かれていますが、方便の行と信を実行して真実に入ることを教えられたのが『教行信証』ではなく、方便の行と信を捨てて真実の行と信によって報土往生を遂げるように教えられたのが『教行信証』です。
さらに、方便の行と信を実行して真実に入ることを教えられたのが三願転入の御文ではなく、方便化身土へ往生する因(十九願の行と信、二十願の行と信)を『化身土文類』で詳細に明らかにされた最後に、それらは捨てるべきものであることを、御自身の体験を通して教えられたのが三願転入の御文です。

”方便より真実に入る”を親鸞会では、「方便を実行して真実に入る」と理解していますが、「方便を捨てて真実に入る」としなければなりません。

ちなみに、『なぜ生きる2』では、6章143-144頁に、『化身土文類』真門釈

それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。
(現代語訳)
この五濁の世の出家のものも在家のものも、速やかにこの上ない功徳をまどかにそなえた真門に入って、難思往生を願うべきである。

を引用していますが、「難思往生」の語があるにも関わらず、以下のように化土往生については全く触れていません。

 もし三願転入の弥陀の救いが、親鸞聖人や一部の人に限定されることならば、十九願の人々に、折れず曲がらず速やかに二十願に進めよの、聖人の励ましは『教行信証』になかったであろう。
 それが幾たびも見かけるのだ。
 総ての人々よ。十九の願から二十願に進んでおくれ。必ず十八願・選択の願海へ転入させて頂けるのだから。
 以下は、その文証である。
「それ濁世の道俗(すべての人)、速に円修至徳の真門(二十願)に入りて、難思往生を願うべし」(『教行信証』化身土巻・末)
 特定の人を「濁世の道俗」とは言われない。三願転入は、すべての人の道程だから「濁世の道俗」と言われているのである。


すみやかに真門に入れとの親鸞聖人のお勧めですから、決して十九願の勧めではありません。「十九の願から二十願に進んでおくれ」ではなく、「速やかに十九願を捨てて、二十願に入りなさい」との仰せです。

そして、「十九願の人々に、折れず曲がらず速やかに二十願に進めよ」の励ましが幾たびもある書いていますが、そんな親鸞聖人のお言葉は一体どこにもあるのでしょうか?この「折れず曲がらず」が、十九願を実行してとか、十九願の通り進んでという意味なのでしょうが、十九願を実行するように勧められた親鸞聖人のお言葉はどこにも存在しません。その証拠に、二十願を勧められたお言葉を出して、何とか誤魔化そうとしているだけです。「十九願を実行して二十願に進め」という根拠があれば出しているはずですが、出せないということが、そんな根拠がないことの何よりの証拠です。
(『なぜ生きる2』に出ている根拠が十九願を勧められた根拠であると勘違いしている会員さんもいるかもしれませんので、順次その誤りについて書いていきたいと思います。)
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『なぜ生きる2』を読む(2)―定散二善は出来ぬことを出来ぬと信知させるために説かれたのではなく、聖道門の人に浄土を願わせるために説かれた

前回の記事の続きです。

親鸞聖人が、『化身土文類』の要門釈で、「聖道門の人を浄土門に導く教えが『観経』の教えであり、その本には阿弥陀仏の第十九願があった」と教えられていることについて、前回述べました。

同様のことは、『観経』の顕説(十九願意)を教えられているところでも説かれています。

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなはちこれ顕の義なり。(化身土文類
(現代語訳)
善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。

ここで、「欣慕浄土の善根」とあるのが、「浄土をねがい慕わせるための善根」という意味で、浄土往生を願っていない者(つまり、聖道門の人)に浄土を願わせるための善だということです。

そして、その証文として、善導大師の『散善義』のお言葉を引いておられます。

また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。(化身土文類
(現代語訳)
また、釈尊は『観無量寿経』に、世福・戒福・行福の三福、浄土を願うもののそれぞれの資質、定善・散善についてお説きになり、浄土や阿弥陀仏および聖者たちをほめたたえて、人々に浄土を求めさせておられるのであると、疑いなく深く信じる。

これは、『散善義』に説かれている七深信の中の第三深信といわれるものです。ここでも、同様に、釈尊が『観経』に定散二善、三福、九品の教えを説かれたのは、かの仏の依報(=浄土)と正報(=阿弥陀仏と菩薩衆)をほめたたえて、人をして、浄土を願わせると深く信じると、先に述べたことと同じことが教えられています。ここで、「人をしての」の「人」とは、当然浄土を願っていない人のことですから、聖道門の人のことになります。

さらに、『化身土文類』では、『観経』の法義について説かれる最後に、この善導大師の教えを「欣慕の釈」と仰り、次のように教えられています。

仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。
(現代語訳)
第十九願を方便の願とするのは、まことに意味深いことである。釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈されたおこころが、いよいよ明らかに知られるのである。

このように、親鸞聖人は、『化身土文類』で、『観経』の顕説、十九願の意を明らかにされるところで、一貫して、「定散二善を説かれたのは、浄土を願わせるためであった」と教えられているのです。それは、どんな者に対してかと言えば、前回と今回で述べたように、「半満・権実の法門」に入ってもまことのさとりを得ることができない者(すなわち、聖道門の人)に対してです。

さて、『なぜ生きる2』10章の最後の文章(208-209頁)を見てみましょう。

 出来ることを出来ないと思い込むのは懈怠だが、出来ないことを出来ると思うのは邪見であり自惚れである。
 弥陀の真実・十八願を疑う自惚れ心(自力の心)を破り、出来ぬことを出来ぬと信知させるのが、十九の願を建てられた弥陀の目的であり、釈迦一代の教導なのだ。
 ゆえに弥陀の十九願は、善を捨てさせるためのものではなく、実行させるための本願であることは明らかである。

 弥陀の十九願の恩徳を聖人は、こう記されている。
 まことに十九願は、弥陀が十方衆生(すべての人)を十八願・真実に誘引する方便の教えであることが、善導大師の欣慕の釈からも、これでいよいよ明らかである。
 以下は、その文証である。
 
 仮令の誓願(第十九願)、良に由あるかな。
 仮門の教、欣慕の釈、これいよいよ明らかなり
                    (教行信証「化身土巻」・本)


欣慕の釈」については注釈に、「弥陀が十九願を建てられたのは、『弥陀の浄土に生まれたい』と恋い慕わせるため」と解説された、善導大師の教え」と書いてありますが、どんな人に恋い慕わせるためなのかは一切触れていません。

また、10章全体を通して「弥陀の真実・十八願を疑う自惚れ心(自力の心)を破り、出来ぬことを出来ぬと信知させるのが、十九の願を建てられた弥陀の目的であり、釈迦一代の教導なのだ」という点については、とうとう一つも親鸞聖人のお言葉を挙げることができませんでした。「キサーゴタミーの話」と「ある高僧を訪ねた医師の話」でごまかしているだけです。

『なぜ生きる2』を読む(1)―阿弥陀仏の十九願は善を勧めた願ではなく、善を修めている者も導くという願である

以前の記事「仏願の生起・本末を聞く」ということと親鸞会で聞かされていることなどで指摘したように、親鸞会の教義の中核部分は、
阿弥陀仏は十方衆生を逆謗の一機と見抜かれた
→ところが自惚れている私たちはそのようには思っていない
→そこで阿弥陀仏は自惚れ心を打ち砕き真実の機を知らせるために十九願を建てられた

という点にあります。

『なぜ生きる2』の「10章 弥陀の使命を釈迦果たす」では、上記と同じ内容の主張が繰り返されているので、今回の記事では、『なぜ生きる2』の同章の誤りを指摘したいと思います。
少々長くなりますが、まず、『なぜ生きる2』の192-201頁を引用します。

 大悲の願船に乗ずるのは、まったく弥陀のご方便による。
 弥陀は十八願に、十方衆生(すべての人)を極悪人と見抜いて「無条件で救う」本願を建てられている。

 だが十方衆生は、”オレはそんな悪人ではないぞ、善もできる”と、その本願を疑い、死にもの狂いで反発している。
 そんな我が身知らずのひねくれ者を、十八願・真実(絶対の幸福)まで、どう誘引し救い摂るか。

 弥陀は五劫思惟の末に、”善ができると思うならやってみよ”と、釘を鉄板にハンマーで打ち込むような、やるせない慈悲心で十八願・真実へ誘引されるのが、弥陀の十九・二十の方便願である。

 その弥陀の方便を知らせるために、釈迦は生涯、弥陀の十九願の徹底に努められたと『教行信証』に記されている。

 まず大意を述べよう。

 地震や津波、台風、豪雨、火災や病気、人間関係のもつれなど、苦しみ悩みの絶えぬ十方衆生(すべての人)は、数知れぬ外道や邪教から逃れて、ようやく仏教にたどり着く。
 だが三世十方を貫く因果の道理を聞きながら、悪を恐れて善に向かう者は、ほとんどなきにひとしい状態である。
 依然として内心は深く外道の迷信に汚染され、仏教徒といいながら善の勧めを非難する輩さえいる有様だ。

 悲しむべきこの実態を見られて釈迦は、諸善を勧める弥陀の十九願(修諸功徳の願)を生涯、説き明かされた。
 弥陀の十九願は、十方衆生(すべての人)を弥陀の十八願・真実(絶対の幸福)へ導くに、極めて重要な方便願であるからだ。

 (中略:因果の道理の説明)

 こんな邪見な高ぶり屋の十方衆生(すべての人)に、いくら因果の道理を説き重ねても、合点だけで実践が伴わない。
 実行しないのは、分かっていない証しである。実践してこそ、「三歳の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行うは難し」の真実の相を実感する。
 身を挺する実行こそが、因果の道理の肝心を信知するのである。

 弥陀は十九願を建てて善を勧め、釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであったと、聖人は仰せになっている。

 以下は、その文証である。


ここで、その文証として提示されるのが『化身土文類』要門釈のお言葉
しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく

です。

このお言葉を冷静に拝読すれば分かりますが、どこにも「弥陀は十九願を建てて善を勧め、釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであった」ということは書かれていません。

そこで、「知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであった」という点を説明するために、『なぜ生きる2』では、聖人のお言葉ではなく、「キサーゴタミーの話」と「ある高僧を訪ねた医師の話」を載せ、
 出来ることを出来ないと思い込むのは懈怠だが、出来ないことを出来ると思うのは邪見であり自惚れである。
 弥陀の真実・十八願を疑う自惚れ心(自力の心)を破り、出来ぬことを出来ぬと信知させるのが、十九の願を建てられた弥陀の目的であり、釈迦一代の教導なのだ。
 ゆえに弥陀の十九願は、善を捨てさせるためのものではなく、実行させるための本願であることは明らかである。
(『なぜ生きる2』207-208頁より)

と結論を述べています。

結局、親鸞会の主張の根拠は、親鸞聖人のお言葉にはないということです。

いろいろなブログで既に指摘されていることですが、上の『化身土文類』のお言葉について、解説しておきます。
まず、大意ですが、
「さて、五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々が、仏教以外の教え(九十五種の邪道)を今離れて、聖道門の教え(半満・権実の法門)に入ったといっても、真にさとりを得る者はきわめて少ない。
このようなわけで、釈尊は、さまざまな善を修めて浄土に往生することを説いた『観無量寿経』の教え(福徳蔵)を説いて、それらの人々を誘い入れ、阿弥陀仏は、そのもととなる誓願をおこして広く迷いの人々を導いてくださるのである。すなわち、すでに慈悲の心からおこしてくださった第十九願がある。この願を修諸功徳の願と名づける。」

となります。半満・権実の法門とは、半満は半字教(小乗)と満字教(大乗)、権実は権教(方便の教え)と実教(真実の教え)ということで、同じく『化身土文類』に、「おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。」と教えられている聖道門のことです。

つまり、上の要門釈のお言葉は、「聖道門の修行に行き詰った人を導くために、釈尊は定散二善を教えられた『観経』の教えを説かれ、その本には、阿弥陀仏の十九願があった」という意味になります。

次に、聖道門の教えと『観経』の教え(阿弥陀仏の十九願)の関係について述べておきますが、両者は、行が同じという関係にあります。

聖道門では、この世でさとりを得るために、善を修めます。
一方、『観経』で説かれている定散二善も、行としては、聖道門の行と同じなのです。『観経』の中から根拠を一つ示すと、散善にあたる三福について、「この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり観無量寿経)」(この三種の行いは、過去・現在・未来のすべての仏がたがなさる清らかな行いであり、さとりを得る正しい因なのである )と説かれており、聖道門の行と同じことが分かります。

では、両者は、どこが異なるのでしょうか?

実に、その行を行う信が異なります。具体的には、『観経』のお言葉で言えば「至誠心、深心、回向発願心」の三心をもって、十九願文で言えば「至心発願欲生我国」の信心をもって、その行を修するということが、聖道門の教えと、決定的に異なるところになります。

すなわち、聖道門の教えに従って善を修めてきた者に、その行は変えずに、阿弥陀仏の浄土に生まれたいという心をおこして、その行を修めなさいと、勧められたのが『観経』の教え(阿弥陀仏の十九願)ということになります。そして、その教えによって、聖道門の教えでさとりを得ることを断念した者は、浄土門に導かれることになります。

大学受験にたとえれば、英語と国語で受験できるA大学の合格を目指していたが、合格可能性が低く、A大学の受験を断念したものに対して、それまで勉強してきた英語と国語で受験できるB大学の受験を勧めるようなものです。この場合、受験科目は変わらず、目的とする大学がA大学からB大学に変わります。受験科目を「行」、A大学を「聖道門の教えによるさとり」、B大学を「観経の教えによる往生」と考えてみてください。

したがって、十九願で大事な点は、「至心発願欲生我国」の信心にあります。

親鸞聖人は、要門釈にて、「修諸功徳の願(第十九願)と名づく、また臨終現前の願と名づく、また現前導生の願と名づく、また来迎引接の願と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。」と、十九願名を5つ挙げておられます。
その中の「至心発願の願」は、十九願の信心を願名として用いられたもので、その願名を『化身土文類』の冒頭にも用いられています。しかし、『なぜ生きる2』では、要門釈のお言葉の部分に、「修諸功徳の願」しか、引用していません。十九願のポイントを知らず、とにかく「善のすすめ」をしたいという親鸞会の意図が伝わってくるように感じます。

さて、この記事のタイトルにしましたが、
十九願とは、善をしていない者に、善を実践せよと勧められた願ではなく、
善を実践している者(聖道門の修行をしている者)に対して、その善を往生のために修めなさいと勧められた願であって、
それによって、その者を浄土門に導かれている願である

ことがお分かり頂けると思います。

この記事を通して、親鸞聖人が教えられた『観経』の教え(十九願)の意義と、親鸞会で教えられている十九願の意義の相違を知っていただければ幸いです。

なお、『なぜ生きる2』10章はもう少し文章が続いていますので、それについては、次の記事で取り上げる予定です。

「仏教の真髄である浄土真宗・親鸞聖人のみ教えに、善の勧めがないはずがない」という親鸞会の詭弁

仏教の山全体が善のすすめなのだから、その仏教の真髄を教えられた親鸞聖人の教えに善の勧めがないはずがない」という親鸞会の主張に、納得してしまう会員さんがいるようです。

参考までに、上記の主張が書かれているサイトを2つほど例示しておきます。

(1)仏教の根本教理は、因果の道理。善因善果、悪因悪果、自因自果の三世十方を貫く真理から導き出される結論は、廃悪修善の教えである。その仏教の真髄である浄土真宗・親鸞聖人のみ教えに、善の勧めがないはずがない。
「善を勧めぬ浄土真宗」の凋落と親鸞会より)


(2)熊「これだ。そういう聞き損ないが困るんだよ。善い種まけば善い結果。悪い種まけば悪い結果、それは仏教の根幹、因果の鉄則だ。親鸞さまの教えに、善が勧められていないとすりゃあ外道の教えになっちまう。それでもいいのか、このおたんこなす!」
与太郎「そりゃよくないよ。じゃあ善の勧めはあるのかい」
熊「あるのかいだとォ?あるに決まってるじゃねえか、親鸞さまの教えってのは仏教の真髄だい」
演目「善の勧め」より)


このような親鸞会の主張に納得してしまうのは、そもそも仏教の目的がずれてしまっていることが原因です。

そもそも仏教の目的は「生死を離れて、さとりを開くこと」です。

その生死出離の道に、様々な教えがあるわけで、その中には、善を修めて、この世でさとりを開くことを説く聖道門の教えもあれば、浄土の往生して浄土でさとりを開くことを説く浄土門の教えもあります。その浄土門の教えの中にも、諸善(雑行)による往生を説く教えもあれば、念仏による往生を説く教えもあります。

では、親鸞聖人が教え勧めていかれた、生死を離れる道はどのような道であったのでしょうか?
端的に示されているのは、『行文類』に引かれている『選択本願念仏集』のお言葉です。

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに。

速やかに生死を離れようと思うのならば、聖道門をさしおき、雑行をなげうち、助業をかたわらにして、専ら正定業である念仏を称えよというお勧めです。そして、称名念仏するものは必ず往生を得る、阿弥陀仏の本願によるからだと仰せです。

親鸞聖人は、速やかに生死を離れようと思うならば、善を修めることによって今生でさとりを開くことを説く聖道門の教えも、諸善(雑行)によって往生を得ることを説く浄土門の仮の教えも捨てよとしか仰っていません。つまり、仏教の山全体を見られて、善のすすめを説いている法門は勧めておられず、称名念仏によって往生を得る法門のみを勧められているのです。

ちなみに、上で紹介した演目「善の勧め」の中には、

熊「しつこいね、お前って人は。それとも何か?ご法談のあと、こっそり、『善の勧め、ありゃあ遠回りだよ』とか何とか言って人を引っ張ってく奴ってのはお前かい?」
与太郎「人聞きが悪いや。何だよそれ、遠回りって」
熊「『獲信にはコツがある。近道がある』って言う奴がいるらしい。お聖教に書かれた以上のコツや近道があってたまるかってんだ」
与太郎「で、そのコツ野郎が『善の勧めは要らねえ』って言うのかい?」
熊「ああ。お釈迦さまから七高僧、親鸞さまや蓮如さまに一貫した教えを無視して一体おめえ何様のつもりでえ」
与太郎「だからおいらじゃないって。勘違いしないでよ」
熊「何だとォ?このナス。そのポーッとした面はどう見たって怪しいや」
与太郎「顔は関係ないだろう。とにかく善を勧めないってのは大間違いなんだな」
熊「あたぼうよ。『善を勧めるのは遠回り』だあ?だいたい阿弥陀さまが、善を勧めていらっしゃるのに何言ってやんでえ。これ以上の近道があるもんか。このポンポコなす!」

とも書かれています。この部分も、ことごとく親鸞聖人の教えと正反対のことを教えています。

親鸞聖人は、『行文類』の中で、「しかるに教について念仏諸善比挍対論するに」と念仏と諸善を比較、対比されて教えられている中に、

頓漸対念仏は速やかに成仏し、諸善は長い時間を要する。
超渉対念仏は迷いの世界を飛び超えるが、諸善は歩いて渡るようなものである。
径迂対念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。
捷遅対念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である。
勧無勧対念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。
付嘱不嘱対念仏は釈迦・弥陀二尊の本意にかなった法であるから付属されたが、諸善は付属されなかった。
選不選対念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である。

と説かれています。

つまり、
阿弥陀仏は、念仏を選び取られ、諸善を選び捨てられた。
 釈尊は、念仏を付属し、諸善を付属されなかった。
 十方の諸仏は、念仏を勧められ、諸善を勧められなかった。
 そして、念仏は早くさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。

と教えられたのが親鸞聖人です。

「善のすすめ」といって、親鸞聖人の教えにことごとく違背することばかりを教えているのが親鸞会であることを知っていただきたいと思います。そして、親鸞聖人が仏教全体をどのように見られて、どのような生死出離の道を教えられているのかを知って、親鸞会のトリックにだまされないことを願います。

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いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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