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『なぜ生きる2』を読む(7)-阿弥陀仏は「19願→20願→18願」ではなく、「17願→18願」で名号を与えようとされている

親鸞会の指導に従っていると、お聖教のお言葉のほんの一部分しか拝読しない状態に陥ってしまいます。法話等で話されるお言葉、『教学聖典』に掲載されているお言葉くらいしか知らず、その前後に書かれているお言葉に気に留めることもなく、高森会長の解説に耳を傾けるのみです。実は、提示されたお言葉の前後を拝読すれば、それだけでも、親鸞会教義のおかしさに気が付くのですが。

さて『なぜ生きる2』を読む(6)の続きです。
前回の記事の最後では、『唯信鈔』のお言葉を挙げ、法蔵菩薩が、五劫思惟の末、名号で一切の衆生を導こうとされていることを説明しました。そして、そこで、具体的に挙げられていたのは、十七願十八願でした。

『なぜ生きる2』では、弥陀の願いは名号をすべての人に与えること以外になかったと以下のように書かれています。

 ゆえに弥陀の願いはただひとつ、名号(南無阿弥陀仏)を十方衆生に与えること以外になかったのだ。
『大無量寿経』に阿弥陀仏は、重ねてこう誓われている。
 私は遠い過去から、南無阿弥陀仏の大功徳を与えて、苦しみ悩める人たちを絶対の幸福に救い取る誓いを建てている。
また、
 私は南無阿弥陀仏を完成したのは、すべての人にその大功徳を施すためである。

 われ無量劫に於て、大施主と為りて、普く諸の貧苦を済わずば、誓いて正覚を成ぜじ (『大無量寿経』上巻)
 衆の為に法蔵を開き、広く功徳の宝を施す (『大無量寿経』上巻)  (8章174-175頁)


そして、次の9章は
 阿弥陀仏は十方衆生(すべての人)に「南無阿弥陀仏の名号を与えて救う」と誓われている。
 では、どうすれば名号(南無阿弥陀仏)を受け取り、大悲の願船に乗ずることができるのであろうか。(179頁)

と始まり、本願成就文を挙げて、その中の「聞其名号」のお言葉を解釈された親鸞聖人のお言葉「「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」を示し、『なぜ生きる2』を読む(5)で書いた同書183頁の
生起=極悪人の十方衆生
本 =阿弥陀仏の十八願
末 =阿弥陀仏の十九願・二十願

につなげて、十九願、二十願を通り、南無阿弥陀仏を受け取るのだと展開していきます。

ここで、南無阿弥陀仏を受け取るためには、十九願、二十願を通らなければならないという刷り込みがなされているのですが、これも大きな誤りです。そのことは、上で挙げた『なぜ生きる2』に引用されている『大経』の重誓偈のお言葉「われ無量劫に於て、大施主と為りて、普く諸の貧苦を済わずば、誓いて正覚を成ぜじ」の後を拝読すれば分かります。ここでは、前後も含めて引用します。

われ超世の願を建つ、かならず無上道に至らん。 この願満足せずは、誓ひて正覚を成らじ。
われ無量劫において、大施主となりて、あまねくもろもろの貧苦を済はずは、誓ひて正覚を成らじ。
われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。 究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。

(現代語訳)
わたしは世に超えすぐれた願をたてた。必ずこの上ないさとりを得よう。 この願を果しとげないようなら、誓って仏にはならない。
わたしは限りなくいつまでも、大いなる恵みの主となり、力もなく苦しんでいるものをひろく救うことができないようなら、 誓って仏にはならない。
わたしが仏のさとりを得たとき、その名はすべての世界に超えすぐれ、そのすみずみにまで届かないようなら、誓って仏にはならない。


法蔵菩薩は、四十八願を建てた後、上記のように、重ねて3つのことを誓われました。
第1の誓いは、必ず仏のさとりを開き、先に建てた四十八願を満足させるという誓いです。
第2の誓いは、大施主となり、諸の苦しんでいる者を救いたいという誓いです。大いなる施しの主になるといっても、どのように施すのかがハッキリしませんので、それを次に誓われました。
第3の誓いは、我が名を全ての世界のすみずみにまで聞かしめるという誓いです。この誓いによって、第2の誓いではハッキリしなかった、どのように施すのかが、名号を聞かせて施す(与える)ことであると明らかになります。すなわち、名号を衆生に聞かせることが、名号を衆生に与えることであり、法蔵菩薩は、どのように名号を与えるのかについて、聞かせて与えると誓われているということが分かります。

そして。この第3の誓いが、十七願意です。
親鸞聖人は、この第3の誓いを非常に重視されました。

行文類』では、十七願に続いて、重誓偈のお言葉が次のように引かれます。

諸仏称名の願『大経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚を取らじ」と。{以上}
またのたまはく(同・上)、「われ仏道を成らんに至りて、名声十方に超えん。究竟して聞ゆるところなくは、誓ふ、正覚を成らじと。衆のために宝蔵を開きて、広く功徳の宝を施せん。つねに大衆のなかにして、説法獅子吼せん」と。{抄要}

(現代語訳)
諸仏称名の願(第十七願)は、『無量寿経』に次のように説かれている。
 「わたしが仏になったとき、すべての世界の数限りない仏がたが、ことごとくわたしの名号をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開くまい」
また次のように説かれている(無量寿経)。
 「わたしが仏のさとりを得たとき、わたしの名号を広くすべての世界に響かせよう。もし聞えないところがあるなら誓って仏にはなるまい。人々のためにすべての教えを説き明かし、広く功徳の宝を与えよう。常に人々の中にあって、獅子が吼えるように教えを説こう」


まず、先ほどの第3の誓いを挙げ、重誓偈の中では離れているお言葉を、それに続けて引かれています。そうすることで、親鸞聖人は、名号を十方世界に聞かしめるということは、人々に南無阿弥陀仏という功徳の宝を施すことであり、それが阿弥陀仏の直々の説法であることを明らかにされています。

さらに、この名号を全ての人に聞かせて与えるという十七願の意を、親鸞聖人は『大経』の異訳のお言葉の中に確認されたのでした。
『行文類』では、『大経』の引文の後、『無量寿如来会』の重誓偈、『大阿弥陀経』の第四願、『平等覚経』の十七願が引かれます。今は、『大阿弥陀経』、『平等覚経』のお言葉を引用します。

『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』(上)[『大阿弥陀経』といふ、『二十四願経』といふ]にのたまはく、「第四に願ずらく、〈それがし作仏せしめんとき、わが名字をもつてみな、八方上下、無央数の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ〉」と。{以上}
(現代語訳)
『大阿弥陀経』に説かれている。
「わたしが仏となったときには、わたしの名号をすべての世界の数限りない多くの国々に聞えわたらせ、仏がたに、それぞれの国の比丘たちや大衆の中で、わたしの功徳や浄土の善を説かせよう。それを聞いて神々や人々をはじめとしてさまざまな虫のたぐいに至るまで、わたしの名号を聞いて、喜び敬う心をおこさないものはないであろう。このように喜びにあふれるものをみなわが浄土に往生させたい。わたしは、この願いを成就して仏となろう。もしこの願いが成就しなかったなら、決して仏にはなるまい」


『無量清浄平等覚経』の巻上にのたまはく、「〈われ作仏せんとき、わが名をして、八方上下、無数の仏国に聞かしめん。諸仏おのおの弟子衆のなかにして、わが功徳・国土の善を嘆ぜん。諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ〉と。
(現代語訳)
『平等覚経』に説かれている。
「無量清浄仏は、<わたしが仏となったときには、わたしの名号をすべての世界の数限りない多くの国々に聞えさせ、それぞれの仏がたに、弟子たちの中で、わたしの功徳や浄土の善さをほめたたえさせよう。そして、神々や人々をはじめとしてさまざまな虫のたぐいに至るまで、わたしの名号を聞いて喜びに満ちあふれるものをみなことごとく、わたしの浄土に往生させよう。もし、そのようにできなかったなら、わたしは仏になるまい>と願われた。


『大阿弥陀経』の第四願、『平等覚経』の十七願は、『大経』の十七願と十八願を合わせた願になっています。それぞれのお言葉の下線部が『大経』の十七願に相当します。

どちらのお言葉も、全ての世界に名号を聞かしめるということが明らかに誓われています。そして、その誓いは、『大経』でいう十八願と密接な関係をもっていることも明らかになっています。いうなれば、『大経』の十七願と十八願はセットだということです。

今回の記事を通して、親鸞聖人が、『正信偈』に、
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方
と書かれたお心を汲み取っていただければと思います。

今回の記事をまとます。阿弥陀仏はどのように南無阿弥陀仏の名号を与えようとされているのかというと、聞かせて与えようとされているのです。決して、十九願、二十願を通らせて与えようとされているのではありません。『なぜ生きる2』に書かれていること、親鸞会で説かれていることは根拠のないことですから、捨ててください。

そして、今回説明したように、今聞こえている南無阿弥陀仏は、私の口から出てくださる南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の直の説法です。阿弥陀仏は、「南無(我をたのめ)阿弥陀仏(必ず往生させる)」の声の仏様となって、私に届き、私に呼びかけて続けているのです。

善ができているのかという私の行為に心をかけるのでもなく、罪悪がどれくらい知らされているのかという我が機に目を向けるのでもなく、南無阿弥陀仏の如来の勅命を計らいをまじえずに聞きうけて頂きたいと念じております。
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『なぜ生きる2』を読む(6)―『なぜ生きる2』の「仏願の生起本末」「五劫思惟」の説明の誤り(2)

『なぜ生きる2』を読む(5)の続きです。前回の記事では、『選択本願念仏集』で、第十八願において、法蔵菩薩は一切の諸行を選捨して、称名念仏の一行を選取されたと説かれているというところまで書きました。

そして、一切の諸行を選び捨て、念仏一行を選び取って往生の本願とした理由を、法然聖人は、「一には勝劣の義、二には難易の義なり。」(選択本願念仏集)と2つ挙げておられます。

まず、勝劣の義についてです。『選択本願念仏集』には次のように説かれています。

初めの勝劣とは、念仏はこれ勝、余行はこれ劣なり。所以はいかんとならば、名号はこれ万徳の帰するところなり。しかればすなはち弥陀一仏のあらゆる四智・三身・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、相好・光明・説法・利生等の一切の外用の功徳、みなことごとく阿弥陀仏の名号のなかに摂在せり。ゆゑに名号の功徳もつとも勝となす。余行はしからず。 おのおの一隅を守る。ここをもつて劣となす。
たとへば世間の屋舎の、その屋舎の名字のなかには棟・梁・椽・柱等の一切の家具を摂せり。棟・梁等の一々の名字のなかには一切を摂することあたはざるがごとし。これをもつて知るべし。
しかればすなはち仏の名号の功徳、余の一切の功徳に勝れたり。ゆゑに劣を捨てて勝を取りてもつて本願となしたまへるか。

(現代語訳)
初めに勝劣とは、念仏は勝れ、ほかの行は劣っている。そのわけはどうかというに、名号は万(よろず)の徳の帰するところである。ゆえに弥陀一仏の持っておられる四智・三身・十力・四無畏などの内に一切の証得せられた徳と、相好・光明・説法利生 (法を説いて衆生を利益する) などの外に働く一切の功徳とが、皆ことごとく阿弥陀仏の名号の中に摂まっている。ゆえに名号の功徳が最も勝れているのである。ほかの行はそうではなくておのおの一部分の功徳だけである。そこで劣っているとするのである。
たとえば、世間の屋舎(いえ)という名の中には棟(むなぎ)・梁(はり)・椽(たるき)・柱など家の全部の道具を摂めるけれども、棟や梁などの一々の名の中には全部を摂めることができないようなものである。これをもって知るべきである。
そういうわけであるから、仏の名号は、ほかのすべての功徳に勝れている。ゆえに劣を捨て勝を取って本願とせられたのであろう。


ここで、法然聖人は、念仏が勝れている理由を、阿弥陀仏の名号には一切の功徳がおさまっているからだと、名号の功徳が他の一切の功徳に勝れているという点から説明されています。

親鸞聖人も同様に、『行文類』大行釈に、
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
(現代語訳)
大行とは、すなわち尽十方無擬光如来の名を称えることです。この行には、如来が完成されたすべての善徳をおさめ、あらゆる功徳の根本としての徳を具えており、極めて速やかに功徳を行者の身に満足せしめる勝れたはたらきをもっています。
と、名号に諸の功徳がおさまっていることを説かれています。

これらを承けて、蓮如上人は、『御文章』二帖目第九通に
そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。 しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」(史記・意)といへり。阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり 。
と教えられました。南無阿弥陀仏には、一切の諸神・諸仏・菩薩、一切の善がおさまっているのだから、何の不足があって諸善にこころをとどめるのであろうかと、諸善にこころをとどめることを誡めておられます。もちろん、「阿弥陀如来をたのみたてまつるについて」と最初に仰っていますから、阿弥陀仏におまかせする、救われるにあたってのことです。つまり、阿弥陀仏の十八願の救いには善は不要ということです。

一方、『なぜ生きる2』に書かれている善の勧めは、読む者に対して、善にこころをかけるよう勧めていることになりますから、蓮如上人とは正反対のことを教えていることになります。

『なぜ生きる2』11章225-226頁には、
 阿弥陀仏の十九願の諸善万行は、大悲の願船に乗せる(十八願の無碍の一道へ出させる)ための弥陀の方便であることは、釈迦も祖師も蓮師も一貫している教訓だ。
 的々として示すお聖教の明証は、いずれも弥陀の勧める善だから大いに努めるよう教導されたものばかりである。

と書かれていますが、これも大間違いです。「弥陀の勧める善だから大いに努めるよう教導」された箇所など、親鸞聖人の書かれたものにも、御文章にも、どこにもありません。法然聖人、親鸞聖人、蓮如上人は一貫して、南無阿弥陀仏の名号は、万善万行の総体と教えられ、阿弥陀仏の十八願の救いには善は不要であることを明らかにされています。大元を辿れば、法蔵菩薩が、第十八願において、一切の諸行を選び捨てられておられるのですから、当然なことです。

『なぜ生きる2』では、上の引用箇所に続いて、
 無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。
 善因を蒔かないから善果は来ない。やりたい放題の悪因は、この世の地獄を現出する。
 因果の道理は厳粛である。
 善の勧めを非難する、外道より浅ましい現状は、真宗の末期を見るようだ。
 まったく阿弥陀仏の本願を知らず、「悪人正機」と「雑行」の誤解に外ならない。

と書かれています。「大悲の願船に乗せる(十八願の無碍の一道へ出させる)」ということを述べていたのに、「善因を蒔かないから善果は来ない。やりたい放題の悪因は、この世の地獄を現出する。」と、この世のことを混ぜて、「善の勧めを非難する、外道より浅ましい現状」と書き、親鸞会のいう善の勧め、『なぜ生きる2』に書かれている善の勧めを非難している者が、この世のことでも善をする必要がないといっているかのような刷り込みをしています。

そもそも親鸞会批判者は、十八願の救いには善は不要といっているのであり、生活面で善は不要などとは決して言ってはいません。

「雑行」については、このシリーズでも『化身土文類』の雑行釈のところで解説する予定ですが、簡潔に言うと、「雑行」とは阿弥陀仏の浄土に往生しようとして修める諸善のことであり、そもそも単に日常生活で約束を守るとか、親切をするというようなことは「雑行」ではありません。ただし、阿弥陀仏の浄土に往生しようとして日常生活で約束を守る、親切をするならば、それは「雑行」です。

親鸞会では、生死出離の話と、日常生活の話をごちゃまぜにして、「雑行」の説明をすることがしばしばみられますが、『なぜ生きる2』でも、上記のようにそのような箇所がありますので注意して下さい。

次は、難易の義です。続いて『選択本願念仏集』を引用します。
次に難易の義とは、念仏は修しやすし、諸行は修しがたし。
このゆゑに『往生礼讃』にいはく、
「問ひていはく、なんがゆゑぞ、観をなさしめずしてただちにもつぱら名字を称せしむるは、なんの意かあるや。
答へていはく、すなはち衆生障重く、境は細く心は粗し。識颺り神飛びて、観成就しがたきによるなり。ここをもつて大聖(釈尊)悲憐して、ただちにもつぱら名字を称せよと勧めたまふ。まさしく称名の易きによるがゆゑに、相続してすなはち生ず」と。[以上]
また『往生要集』(下)に、
「問ひていはく、一切の善業おのおの利益あり、おのおの往生を得。なんがゆゑぞただ念仏一門を勧むるや。
答へていはく、いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮せんとにはあらず。ただこれ男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にしかざればなり」と。[以上]
ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。
もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。 もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。 ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。

(現代語訳)
次に難易の義とは、念仏は修め易く諸行は修め難い。
それゆえ《往生礼讃》にいわれてある。
問うていう。どうして観察の行を勧めないで、ただもっぱら名号を称えさせられるのか。これにはいかなる意味があるのか。
答えていう。それは、衆生が障りが重く、観ずるところがこまやかであるのに、心はあらく、想いが乱れ飛んで、観察の行が成就しがたいからである。そういうわけで、釈尊はこれを哀れみくださって、ただもっぱら名号を称えることを勧められたのである。これはまさしく称名の行がたやすいから、これを相続して往生することができるのである。
また《往生要集》に、
問うていう。すべての善業にはそれぞれ利益があり、いずれも往生することができるのに、どういうわけで、ただ念仏の一門だけを勧めるのか。
答えていう。いま念仏を勧めることは、その他の種々のすぐれた行をさえぎるのではない。ただ男でも女でも、身分の高いものでも低いものでも、行住座臥の区別なく、時・処やいろいろの場合を論ぜず、これを修めるのにむずかしくなく、そして臨終までも往生を願い求めるのに、その便宜を得ることは、念仏に及ぶものはないからである、といわれている。
故に知られる。念仏は易いからすべての根機に通じ、諸行は難しいからいろいろの根機に通じないのである。
そういうわけであるから、すべての衆生を平等に往生させるために、難しいのを捨て、易いのを取って本願とせられたのであろう。

もし、仏像を造り塔を建てることをもって本願とせられたならば、貧しく乏しい人たちはきっと往生の望みを絶つであろう。ところが富貴の者は少なく、貧賎の者は甚だ多い。もし、智慧才能のあることをもって本願とせられたならば、愚かで智慧のない者はきっと往生の望みを絶つであろう。ところが智慧ある者は少なく、愚かな者は甚だ多い。もし、多聞をもって本願とせられたならば、少聞少見の人たちはきっと往生の望みを絶つであろう。ところが多聞多見の者は少なく、少聞の者は甚だ多い。もし、戒律を持たもつことをもって本願とせられたならば、戒を破り戒を受けない人はきっと往生の望みを絶つであろう。ところが戒を持つ者は少なく、戒を破る者は甚だ多い。 そのほか の諸行はこれに準じて知るべきである。
故に、上に述べた諸行などをもって本願とせられたならば、往生できる者は少なく、往生できない者は多いであろうということが知られる。そういうわけであるから、弥陀如来は法蔵比丘の昔に平等の慈悲に催されて、あまねくすべての衆生を摂めるために、仏像を造り塔を建てるなどの諸行をもって往生の本願とせられず、ただ称名念仏の一行をもってその本願とせられたのである。

難行である諸善をもって本願としたならば、往生できる者は少なく、往生できない者は多い、そこで、法蔵菩薩は、あまねく一切の衆生を救うために、易行である称名念仏の一行をもって本願とされたのでした。
この法蔵菩薩の御心に反して、難行である諸善を勧めているのが、『なぜ生きる2』であり、親鸞会なのです。

ここまでで、『大経』の「五劫を具足して荘厳仏国の清浄の行を思惟し摂取しき」の「摂取」について、『選択本願念仏集』では、第十八願において、法蔵菩薩は一切の諸行を選捨して、称名念仏の一行を選取されたと説かれていることを明らかにしました。『なぜ生きる2』に見られるような、「五劫思惟の末に、十八願に導くために十九・二十を建てられた」という意味はどこにも見出すことはできませんでした。

次に、親鸞聖人が、御同行に拝読を勧められた『唯信鈔』では、「五劫思惟」の内容をどのように教えられているのかを示します。
二つに念仏往生といふは、阿弥陀の名号をとなへて往生をねがふなり。 これはかの仏の本願に順ずるがゆゑに、正定の業となづく。ひとへに弥陀の願力にひかるるがゆゑに、他力の往生となづく。
そもそも名号をとなふるは、なにのゆゑにかの仏の本願にかなふとはいふぞといふに、そのことのおこりは、阿弥陀如来いまだ仏に成りたまはざりしむかし、法蔵比丘と申しき。そのときに仏ましましき、世自在王仏と申しき。法蔵比丘すでに菩提心をおこして、清浄の国土をしめて衆生を利益せんとおぼして、仏のみもとへまゐりて申したまはく、「われすでに菩提心をおこして清浄の仏国をまうけんとおもふ。 願はくは、仏、わがためにひろく仏国を荘厳する無量の妙行ををしへたまへ」と。そのときに世自在王仏、二百一十億の諸仏の浄土の人・天の善悪、国土の粗妙をことごとくこれを説き、ことごとくこれを現じたまひき。
法蔵比丘これをききこれをみて、悪をえらびて善をとり、粗をすてて妙をねがふ。たとへば、三悪道ある国土をば、これをえらびてとらず、三悪道なき世界をば、これをねがひてすなはちとる。自余の願もこれになずらへてこころを得べし。このゆゑに、二百一十億の諸仏の浄土のなかより、すぐれたることをえらびとりて極楽世界を建立したまへり。たとへば、柳の枝に桜のはなを咲かせ、二見の浦に清見が関をならべたらんがごとし。これをえらぶこと一期の案にあらず、五劫のあひだ思惟したまへり。かくのごとく、微妙厳浄の国土をまうけんと願じて、かさねて思惟したまはく、国土をまうくることは衆生をみちびかんがためなり。 国土妙なりといふとも、衆生生れがたくは、大悲大願の意趣にたがひなんとす。これによりて往生極楽の別因を定めんとするに、一切の行みなたやすからず。孝養父母をとらんとすれば、不孝のものは生るべからず。読誦大乗をもちゐんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。布施・持戒を因と定めんとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなんとす。忍辱・精進を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠のたぐひはすてられぬべし。余の一切の行、みなまたかくのごとし。
これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しをはりて、まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんといふ願をおこしたまへり。この願ふかくこれをこころうべし。名号をもつてあまねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆゑに、かつがつ名号をほめられんと誓ひたまへるなり。しからずは、仏の御こころに名誉をねがふべからず。諸仏にほめられてなにの要かあらん。
「如来尊号甚分明 十方世界普流行  但有称名皆得往 観音勢至自来迎」(五会法事讃)
といへる、このこころか。
さてつぎに、第十八に念仏往生の願をおこして、十念のものをもみちびかんとのたまへり。まことにつらつらこれをおもふに、この願はなはだ弘深なり。名号はわづかに三字なれば、盤特がともがらなりともたもちやすく、これをとなふるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず、なに人かこれにもれん。
「彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来  不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才  不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深  但使回心多念仏 能令瓦礫変成金」(五会法事讃)
このこころか。これを念仏往生とす。

上のお言葉から、五劫思惟の内容をみてみますと、
・二百一十億の諸仏の浄土の中から、勝れていることを選び取られて極楽世界を建立なされた
・極楽世界がいかに素晴らしいところであっても、衆生が往生し難ければ大悲大願の意趣に違ってしまうで、一切の善悪の凡夫がひとしく往生できるように名号を称えることを往生の因としようと、第十七願に、諸仏に我が名を誉め称えさせようという願をおこされた
・その次に、第十八願に、念仏を称えるものを導こうという願を建てられた

と仰っています。

一言で言うと、法蔵菩薩は、五劫思惟の末、名号で一切の衆生を導こうとされたということになります。
そして、ここで具体的に挙げられている願は、第十七願第十八願です。

『なぜ生きる2』6章148頁には、
 三願転入は、弥陀が十方衆生(すべての人)を徹見されて、これしかない救いの道を敷設されたものなのだ。
 弥陀の五劫思惟の診断に狂いはない。
 唯一最短の道であることは歴然である。

と書かれていますが、弥陀の五劫思惟の内容が、三願転入であるというお聖教上の根拠はどこにも存在しません。また、そもそも、法然聖人も聖覚法印も、五劫思惟の内容を説明されるとき、十九願も二十願も一切挙げておられません。根拠が全くない「五劫思惟の内容=三願転入」ということを、『なぜ生きる2』の中では繰り返し繰り返し書くことによって、読者に刷り込み、思い込ませているだけです。まことにおそろしいことです。

『なぜ生きる2』を読む(5)-『なぜ生きる2』の「仏願の生起本末」「五劫思惟」の説明の誤り

『なぜ生きる2』を読む(4)の続きです。
今回は、「(2)十九願、二十願の者は、仏智疑惑の者であり、十八願を疑っているものであること」を縁に、『なぜ生きる2』の「仏願の生起本末」、「五劫思惟」の説明の誤りについて書きます。

『化身土文類』に引かれている『大経』の胎化得失の文では、
仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。
仏智を疑惑するをもつてのゆゑに、かの胎宮に生れん。
と「仏智疑惑」という語が出てきます。前回も紹介した『浄土和讃』に、

誓願不思議をうたがひて 御名を称する往生は
宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ


とありますように、仏智疑惑とは、誓願不思議を疑うこと、すなわち本願(十八願)を疑うことに他なりません。

前回のまとめに、この内容を加えると、
・十八願の者      -明信仏智-報土往生(化生)-大利を得る
・十九願、二十願の者-仏智疑惑-化土往生(胎生)-大利を失す

となります。すなわち、仏智疑惑の失を示されることで、仏智疑惑を誡め、仏智の顕現である十八願を信ずることを勧めておられるのです。

親鸞会の人によく知っていただきたいことは、親鸞聖人が、疑いとか疑惑といった場合、それは十八願に対する疑いをいうということです。疑いや疑惑とは、決して、十九願や二十願に対する疑いではありません。また、十八願、十九願、二十願の三願に対する疑いでもありません。

つまり、『なぜ生きる2』第9章に引用されている、本願成就文の「聞其名号」を解釈された親鸞聖人のお言葉
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(信文類
「仏願の生起本末」も十八願についての生起本末です。

『なぜ生きる2』の183頁には、重要なキーワードとして、
生起=極悪人の十方衆生
本 =阿弥陀仏の十八願
末 =阿弥陀仏の十九願・二十願

と書かれていますが、これが、とんでもない誤りなのです。

上の解釈が誤っていることは、同じく「聞其名号」を解釈された『一念多念証文』のお言葉と比べれば、よりハッキリします。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。

 「仏願の生起本末聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり
=「本願ききて疑ふこころなき「聞」といふなり
ですから、その対応関係を見れば、「仏願の生起本末」とは、本願(十八願)のことであることは明らかです。

そして、「仏願の生起本末」とは、簡潔にいうと、
「生起」:法蔵菩薩が本願をおこさねばならなかった理由ということで、私たちは迷いの世界を離れ出るための行ができず、限りなく迷いの世界を流転していること
「本」:因ということで、法蔵菩薩が五劫思惟して誓願を建てられ、その誓願を成就するために兆載永劫のご修行をなされた願行のいわれのこと
「末」:果ということで、その願と行が成就し、願の通りに十方衆生を往生成仏させることのできる本願力を完成して阿弥陀仏となられ、衆生を育て導き、名号を与えて衆生を摂取していかれる阿弥陀仏の救済活動のこと

です。

今回の記事では、特に、仏願の生起本末の中でも「生」にあたる「五劫思惟」の内容について触れたいと思います。
なぜならば、『なぜ生きる2』の中で誤った解釈が繰り返し書かれており、意図的に、読者に誤解を植えつけていると感じられるからです。

なお、仏願の生起本末の具体的な内容に関しては、過去の記事
阿弥陀仏は十方衆生を逆謗の屍と見抜かれたのか?
「仏願の生起・本末を聞く」ということと親鸞会で聞かされていること
などに書いていますので、そちらを参照してください。

『なぜ生きる2』の中での「五劫思惟」の説明は以下の通りです。

 自覚しようとしないとにかかわらず、弥陀の方便を通らずして誰ひとり、真実・無碍の世界には出れないのである。
 それは五劫思惟の末に、弥陀が敷かれた路線であるからだ。(6章、147頁)

 そんなウヌボレ屋の十方衆生(すべての人)を、十八願・真実(絶対の幸福)まで、どう誘導し救済するか。
 弥陀は五劫の思惟の末、建てられたのが十九・二十の方便願である。(9章、188頁)

  弥陀は五劫思惟の末に、”善ができると思うならやってみよ”と、釘を鉄板にハンマーで打ち込むような、やるせない慈悲心で十八願・真実へ誘引されるのが十九・二十の方便願である。(10章、193頁)

 いかに「自力」を捨てさせ「他力」に誘引するか、弥陀が五劫の思惟をなされ、真・仮の三願を建てられたのは、そのためだった。(13章、260頁)

 こんな十方衆生を真実の十八願まで、どう導き救おうか。
 弥陀が五劫の思惟をなされた末に、一時相手の程度(他意)に合わせて(随)誘導する十九・二十の願を建てられたのだ。(16章、302頁)


つまり、『なぜ生きる2』では、「五劫思惟の末、十八願に導くために建てられたのが十九・二十の方便願だ」と繰り返されています。

しかし、この五劫思惟も、十八願のことを指して、善知識方は説かれています。『なぜ生きる2』のような説明をされた善知識方は皆無であり、『なぜ生きる2』の説明は根拠のない妄言だといわざるを得ません。

「五劫思惟」の内容を、よく知っていただくために、お聖教上のお言葉をいくつか示したいと思います。

まずは『選択本願念仏集』の本願章です。
本願章では、標章の文として「弥陀如来、余行をもつて往生の本願となさず、ただ念仏をもつて往生の本願となしたまへる文」と示された後、『大経』の十八願文、善導大師の 『観念法門』 の本願加減の文 、『往生礼讃』 の自解本願文を続けて引かれた後、『大経』の五劫思惟のお言葉、『大阿弥陀経』のお言葉が引かれます。

問ひていはく、弥陀如来、いづれの時、いづれの仏の所にしてかこの願を発したまへるや。

答へていはく、『寿経』(大経・上)にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈乃往過去久遠無量不可思議無央数劫に、定光如来世に興出したまひて、無量の衆生を教化し度脱して、みな道を得しめて、すなはち滅度を取りたまへり。次に如来まします、名づけて光遠といふ。 [乃至]次を処世と名づく。かくのごとき諸仏[五十三仏なり。]みなことごとくすでに過ぎて、その時に次に仏まします、世自在王如来と名づく。
時に国王あり。仏の説法を聞きて心に悦予を懐きて、尋いで無上正真道の意を発し、国を棄て王を捐てて、行じて沙門となる。号けて法蔵といふ。高才勇哲にして世と超異せり。世自在王如来の所に詣でたまふ。{乃至}
ここに世自在王仏、すなはち〔法蔵比丘の〕ために広く二百一十億の諸仏の刹土の人天の善悪、国土の粗妙を説きて、その心願に応じてことごとくこれを現与したまふ。時にかの比丘、仏の所説の厳浄の国土を聞き、みなことごとく覩見して、超えて無上殊勝の願を発す。その心寂静にして、志所着なく、一切世間によく及ぶものなし。 五劫を具足して荘厳仏国の清浄の行を思惟し摂取しき〉と。

阿難、仏にまうさく、〈かの仏の国土の寿量いくばくぞや〉と。

仏ののたまはく、〈その仏の寿命四十二劫なり。時に法蔵比丘二百一十億の諸仏の妙土の清浄の行を摂取しき〉」と。{以上}

『大阿弥陀経』(上)にのたまはく、「その仏(世自在王仏)すなはち二百一十億の仏の国土中の諸天・人民の善悪、国土の好醜を選択す。〔法蔵比丘の、〕心中の所欲の願を選択せんがためなり。楼夷亘羅仏[ここには世自在王仏といふ。] 経を説きをはりて、曇摩迦[ここには法蔵といふ。]すなはちその心を一にして、すなはち天眼を得、徹視してことごとくみづから二百一十億の諸仏の国土のなかの諸天・人民の善悪、国土の好醜を見、すなはち心中の所願を選択して、すなはちこの二十四の願経を結得す」と。[『平等覚経』またこれに同じ。]


(現代語訳)
問うていう。阿弥陀如来は、いつの時、どの仏のみもとで、この願をおこされたのか。

答えていう。《無量寿経》に説かれてある。世尊は阿難に仰せられる。『今を去ること量り知られぬ久遠の大昔に、錠光と名づける如来が出られ、無数の衆生を教化してことごとく道を得させ、やがておかくれになった。つぎに光遠と名づける如来が出られた。中略 つぎに処世と名づける。このような諸仏 五十三仏である が相次いでお出ましになって、同じく衆生済度の後、おかくれになった。そのつぎに出られた仏を世自在王如来と名づける。
時にひとりの国王があって、世自在王仏の説法を聞いて深く喜び、そこで無上菩提の心をおこし、国も王位も捨てて出家沙門の身となり、宝蔵と名のられた。才智すぐれ志願かたく、はるかに常の人に超えていた。この法蔵比丘が世自在王仏のみもとにいたり、中略 かくて世自在王仏は法蔵比丘のために、ひろく二百一十億の諸仏の国々の優劣と、そこに住んでいる人たちの善悪を説き、かつ、比丘の望みにまかせて、それらをすべてまのあたりにお見せになったのである。^ときに法蔵比丘は世自在王仏から浄らかな国土について承り、かつ、それらの国のさまを親しく拝見して、ここにこの上もなくすぐれた願いをおこされた。その心はきわめて静かに、その志は少しの執着もなく、すべて世の中でこれに及ぶものがないという浄らかなありさまで、五劫のながいあいだ思惟をめぐらして浄土を荘厳する清浄の行を摂取せられたのである。』

ここで阿難がお尋ね申しあげた。『世自在王仏の御寿命は、いったいどれほどでしょうか。』

世尊が仰せられるには、『かの仏の寿命は四十二劫であった。』と、さらにお続けになって、『法蔵比丘はこうして二百一十億の諸仏の浄土のすぐれたところと、その清浄の行を摂取せられたのである。』

また《大阿弥陀経》に説かれてある。その仏 (世自在王仏) は、二百一十億の諸仏の国の中の人・天の善悪、国土の好醜を選択して、菩薩 (宝蔵) のために、心中に欲するところの願いを選択せしめられた。楼夷亘羅仏 (訳して世自在王仏という) の経を説かれることが終わって、曇摩迦 (訳して宝蔵という) は禅定に入り、天眼通を得て視とおし、みずから二百一十億の諸仏の国の中の人天の善悪、国土の好醜を見て、そこで心の中に願うところを選択し、そうしてこの二十四の願を立てられたのである。」《平等覚経》もまたこれと同じ。


ここでよく知っていただきたいことは、上記の『大経』のお言葉の中に、「五劫を具足して荘厳仏国の清浄の行を思惟し摂取しき五劫のながいあいだ思惟をめぐらして浄土を荘厳する清浄の行を摂取せられた)」とありますが、この中の「摂取」を、『大阿弥陀経』の「選択」のことであると、次のように法然聖人は解釈されたことです。

このなか、「選択」とはすなはちこれ取捨の義なり。いはく二百一十億の諸仏の浄土のなかにおいて、人天の悪を捨て人天の善を取り、国土の醜を捨て国土の好を取るなり。『大阿弥陀経』の選択の義かくのごとし。 『双巻経』(大経・上)の意また選択の義あり。いはく、「二百一十億の諸仏の妙土の清浄の行を摂取す」といふこれなり。選択と摂取とその言異なりといへども、その意これ同じ。 しかれば不清浄の行を捨てて、清浄の行を取る。上の天・人の善悪、国土の粗妙、その義またしかなり。これに准じて知るべし。

(現代語訳)
この中に「選択」というのは、すなわち取捨の義である。二百一十億の諸仏の浄土の中で、人・天の悪を捨てて人・天の善を取り、国土の醜いのを捨てて国土の好ましいのを取るのである。《大阿弥陀経》の選択の義はこの通りである。《双巻経》(大経) の意もまた選択の義がある。すなわち「二百一十億の諸仏の浄土のすぐれたところと、その清浄の行を摂取せられた」と説かれてあるのがこれである。選択と摂取と、その言葉は異なるけれども、その意味は同じである。そうであるから、清浄でない行を捨てて清浄の行を取るのである。上の人・天の善悪、国土の粗妙についても、その義は同様である。これに準じて知るべきである。

『大阿弥陀経』の「選択」とは、「取捨の義」であるといわれています。つまり、「選び取り、選び捨てる」ということです。そして、『大経』の「摂取」も、言葉は違うが意味は同じであると示されています。

この後、第一願から第四願まで、それぞれの願について何を選び取り、何を選び捨てられたのかを示された後、第十八願について、何を選び取られ、何を選び捨てられたのかが説かれています。第十八願について引用します。

第十八の念仏往生の願は、かの諸仏の土のなかにおいて、あるいは布施をもつて往生の行となす土あり。あるいは持戒をもつて往生の行となす土あり。あるいは忍辱をもつて往生の行となす土あり。あるいは精進をもつて往生の行となす土あり。あるいは禅定をもつて往生の行となす土あり。あるいは般若[第一義を信ずる等これなり。]をもつて往生の行となす土あり。あるいは菩提心をもつて往生の行となす土あり。あるいは六念をもつて往生の行となす土あり。あるいは持経をもつて往生の行となす土あり。あるいは持呪をもつて往生の行となす土あり。あるいは起立塔像、飯食沙門および孝養父母、奉事師長等の種々の行をもつておのおの往生の行となす国土等あり。あるいはもつぱらその国の仏の名を称して往生の行となす土あり。 かくのごとく一行をもつて一仏の土に配することは、これしばらく一往の義なり。再往これを論ぜば、その義不定なり。あるいは一仏の土のなかに、多行をもつて往生の行となす土あり。あるいは多仏の土のなかに、一行をもつて通じて往生の行となす土あり。かくのごとく往生の行、種々不同なり。
つぶさに述ぶべからず。すなはちいま前の布施・持戒、乃至孝養父母等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す。ゆゑに選択といふ。


(現代語訳)
第十八の念仏往生の願とは、かの諸仏の国土の中において、あるいは布施をもって往生の行とする国土があり、あるいは持戒をもって往生の行とする国土があり、あるいは忍辱をもって往生の行とする国土があり、あるいは精進をもって往生の行とする国土があり、あるいは禅定をもって往生の行とする国土があり、あるいは智慧 第一義諦を信ずるなどがこれである をもって往生の行とする国土があり、あるいは菩提心をもって往生の行とする国土があり、あるいは六念をもって往生の行とする国土があり、あるいは経を読むことをもって往生の行とする国土があり、あるいは呪文をとなえることをもって往生の行とする国土があり、あるいは塔を立て仏像を作り、出家に食物を供養し、および父母に孝養をつくし、師匠や目上の人につかえるなどのいろいろな行をもって、それぞれ往生の行とする国土などがあり、あるいはその国の仏の名を称えて往生の行とする国土がある。このように一つの行をもって一つの仏土に配するのは、これはしばらく一往の義である。更に詳しくいえば、その義は不定である。あるいは一つの仏土の中に多くの行をもって往生の行とする国土があり 、あるいは多くの仏土の中に一つの行をもって共通して往生の行とする国土がある。このとおり往生の行は種々不同であって、つぶさに述べることができない。
そこで、今は前の布施・持戒をはじめとして父母に孝養をつくすなどの諸行を選び捨てて、専ら仏の名号を称えるのを選び取られるから選択というのである。


さて、法蔵菩薩は、第十八願において何を選び捨てて、何を選び取られたのかお分かり頂けたでしょうか?
一切の諸行を選び捨てて、念仏の一行を往生の行として選び取られたのです。

この法然聖人の教えを承けて、親鸞聖人は、『行文類』で念仏と諸善を比挍対論する中で
選不選対」、すなわち、念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法であると教えられました。

ところが、この法蔵菩薩が選び捨てられた諸善を勧める一方で、念仏をほとんど説かない、勧めないのが親鸞会です。『なぜ生きる2』もそうです。諸善の勧めばかりです。

親鸞聖人は、この第十八願を「この大願を選択本願と名づく」(信文類)と仰り、「選択本願は浄土真宗なり、(中略)浄土真宗は大乗のなかの至極なり。」(親鸞聖人御消息)と明らかにされました。つまり、浄土真宗、親鸞聖人のみ教えとは、第十八願の法義です。その第十八願において、法蔵菩薩が五劫思惟の末、何を選び取られ、何を選び捨てられたかも知らず、その内容をねじ曲げ、浄土真宗、親鸞聖人のみ教えに真っ向から反しているのが親鸞会であり、『なぜ生きる2』であるということを知っていただきたいと思います。

『選択本願念仏集』では、この後、一切の諸行を選び捨て、念仏一行を選び取って往生の本願としたことについての理由が説かれていますが、それについては次回の記事で書きます。

『なぜ生きる2』を読む(4)-「十九願、二十願の者は大利を失い、十八願の者は大利を得」と比較して説くことで、十九願、二十願を誡められ、十八願を勧められたのが親鸞聖人

『なぜ生きる2』は、テーマ自体が親鸞聖人の教えに真っ向から反した書ですから、その中に書かれている文章も間違いだらけです。「はじめに」に

 思えば、親鸞聖人の教えの特徴の中の特徴は、「大悲の願船の厳存」と「その乗船の道程」を解明されたところにある。
 至れりつくせりの助っ人たちの協力を賜り、遅ればせながらこの度『なぜ生きる2』をお届けすることになった。
「大悲の願船に乗ずる道のり」は、善導大師は「二河白道」の譬喩で説き、親鸞聖人は阿弥陀仏の三つの本願で明らかにされている。永遠の相を帯びてゆるぎない、「三願転入」の教導である。
 本書は特に聖人の「三願転入」のご指南を奉じて、些少なりとも要望に応えたいと思う。


と書かれているように、「大悲の願船に乗ずる道のり」が、『なぜ生きる2』のテーマですが、阿弥陀仏の十八願に入る道のり・道程を衆生の側から語るところが、親鸞聖人が明らかにされた「本願力回向」「他力回向」の教えに反しているのです。

親鸞会からの情報にしか触れない会員さんは、親鸞会で提示される根拠によって、「大悲の願船に乗ずる道のり」、すなわち「親鸞会流の三願転入の教え」が間違いのないものと思い込まされてしまっていますが、誠に残念なことです。この誤った教義を信じている限りは、永久に救われることはありません。「親鸞会流の三願転入の教え」とは、自力の勧めだからです。

また、親鸞会は、「親鸞会流の三願転入の教え」を主張するにあたり種々の根拠を提示していますが、それらは、自らの主張に合うように親鸞聖人のお言葉を切り取ってもってきて、都合のよいように解釈をしているに過ぎません。しかしながら、親鸞聖人が教えられたことそのものを知りませんと、それに気が付くことはできません。

そこで、親鸞聖人の教えられたことを知り、親鸞会の教えの誤りに気付いていただくために、この『なぜ生きる2』を読むシリーズでは、『化身土文類』の流れに沿って親鸞聖人のお言葉を示していき、提示した箇所に関する『なぜ生きる2』の誤りを指摘していく予定です。

さて、前回の記事では、十九願の往生は化土往生であることを、『化身土文類』に引かれた道場樹の願の成就文をきっかけに、説明しました。親鸞聖人は、それに続いて、『大経』の胎化得失の文を引かれます。

またのたまはく(大経・下)、「それ胎生のものは、処するところの宮殿、あるいは百由旬、あるいは五百由旬なり。おのおのそのなかにして、もろもろの快楽を受くること忉利天上のごとし。またみな自然なり。
そのときに慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、〈世尊、なんの因なんの縁あつてか、かの国の人民、胎生・化生なる〉と。
仏、慈氏に告げたまはく、〈もし衆生ありて、疑惑の心をもつて、もろもろの功徳を修して、かの国に生ぜんと願ぜん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。 しかもなほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞聖衆を見ず。このゆゑにかの国土にはこれを胎生といふ。{乃至}弥勒まさに知るべし、かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑに、その胎生のものはみな智慧なきなり〉と。{乃至}
仏、弥勒に告げたまはく、〈たとへば転輪聖王のごとし。七宝の牢獄あり。種々に荘厳し床帳を張設し、もろもろの繒幡を懸けたらん。もしもろもろの小王子、罪を王に得たらん、すなはちかの獄のうちに内れて、繋ぐに金鎖をもつてせん〉と。{乃至}仏、弥勒に告げたまはく、〈このもろもろの衆生、またまたかくのごとし。仏智を疑惑するをもつてのゆゑに、かの胎宮に生れん。{乃至}もしこの衆生、その本の罪を識りて、深くみづから悔責して、かの処を離るることを求めん。{乃至}
弥勒まさに知るべし、それ菩薩ありて疑惑を生ぜば、大利を失すとす〉」と。{以上抄出}

(現代語訳)
 また次のように説かれている(無量寿経)。
 「胎生のもののいる宮殿は、あるいは百由旬、あるいは五百由旬という大きさで、みなその中で、忉利天と同じように何のさまたげもなくさまざまな楽しみを受けているのである。
 そのとき弥勒菩薩がお訪ねした。<世尊、いったいどういうわけで、その国の人々に胎生と化生の区別があるのでしょうか>
 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。<人々の中には、本願を疑う自力の心でさまざまな功徳を積み、その国に生れたいと願うものがいる。そしてまた、この上なくすぐれた無量寿仏の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望み、善の本である名号を称えて、無量寿仏の国に生れたいと願う。これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。(中略)弥勒よ、よく知るがよい。化生のものは智慧がすぐれているが、胎生のものは智慧が劣っている >(中略)
 釈尊が弥勒菩薩に仰せになった。<たとえば転輪聖王が七宝でできた牢獄を持っているとしよう。そこにはさまざまな装飾が施されており、立派な座が設けられ、美しい幕が張られ、さまざまな旗がかけられている。その国の王子たちが罪を犯して父の王から罰せられると、その牢獄の中に入れられて黄金の鎖でつながれる>(中略) 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。<胎生のものもまたその通りである。仏の智慧を疑ったためにその宮殿に生れるのである。(中略)これらのものは、仏の智慧を疑った罪を知り、深く自分のあやまちを悔い、その宮殿を出たいと願う。(中略)
 弥勒よ、よく知るがよい。仏の智慧を疑うものはこれほどに大きな利益を失うのである>」


このお言葉に基づいて、
(1)十九願、二十願の者は「大利を失す」と釈尊、親鸞聖人が教えられていること
(2)十九願、二十願の者は、仏智疑惑の者であり、十八願を疑っているものであること
(3)十九願、二十願の者も、化土にて、仏智疑惑の罪を知り、その罪を改め仏智不思議を信ずれば、報土往生を遂げること
という点を説明し、『なぜ生きる2』の誤りを指摘したいと思います。

まず、「(1)十九願、二十願の者は「大利を失す」と釈尊、親鸞聖人が教えられていること」についてです。

上で引いた『大経』のお言葉では、胎生化土往生)と化生報土往生)の区別があることが示され、最初に、仏智を疑いながら様々な善を修め阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願う者(十九願の者)は、胎生(化土往生)であることが説かれています。そして、そのような者は、「かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞聖衆を見ず」であると、胎生(化土往生)の失が説かれます。さらに、結びには、「菩薩ありて疑惑を生ぜば、大利を失す仏の智慧を疑うものはこれほどに大きな利益を失うのである)」と仰っています。

二十願の者も同じです。『化身土文類』には、真門釈で、二十願文に続いて、上で紹介した
またのたまはく(同・下)、「この諸智において疑惑して信ぜず、しかるになほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生ず」と(化身土文類
を引かれています。

つまり、二十願の者も、十九願の者同様に、胎生(化土往生)であり、大利を失すのです。

一方、『大経』には、この「大利を失す」者に対して、「大利を得」る者が流通分に説かれており、親鸞聖人は『行文類』の行一念釈に引かれています。

ゆゑに『大本』(大経・下)にのたまはく、「仏弥勒に語りたまはく、〈それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。 まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり〉」と。
(現代語訳)
だから『無量寿経』に説かれている。
 「釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。<もし、阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて信じ喜び、わずか一声念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである>」


このお言葉から明らかなように、「大利を得」る者とは、十八願の者のことです。

このように、『大経』の上でも、『教行証文類』の上でも、大利を得る者と、大利を失す者が区別して教えられており、大利を失す十九願、二十願は誡められていて、大利を得る十八願が勧められているのです。これが、『大経』と『教行証文類』全体の大きな構造です。

また、『浄土和讃』、『高僧和讃』、『正像末和讃』の三帖和讃も同じ構造をしています。三帖和讃の冠頭、つまり『浄土和讃』の冠頭に、

弥陀の名号となへつつ 信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり

誓願不思議をうたがひて 御名を称する往生は
宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ


と、報土往生を遂げる十八願についてのご和讃と、化土往生の失が示された二十願についてのご和讃が置かれており、十八願と二十願を対比して教えられています。そして、その教えは、三帖和讃全体を貫いており、『正像末和讃』の終わりに置かれた「誡疑讃」で、十九願、二十願の失が説き明かされ、それらの願は誡められているのです。

ここで、前回と今回の話をまとめますと、
 十八願、十九願、二十願は、独立した往生を誓われた願であり、
・十八願の者      -報土往生(化生)-大利を得る
・十九願、二十願の者-化土往生(胎生)-大利を失す

となります。

親鸞聖人が、十九願、二十願について説かれたのは、上述のように、十九願、二十願の者は、化土往生であり、大利を失すということを示し、誡めるためだということをよく知っていただきたいと思います。

ところが、 『なぜ生きる2』11章223-224頁には、以下のように書かれています。

 こんなイロハの放言も、あるに聞く。
”弥陀の十八願に救われるまでは、方便の教えは障害になる、聞かぬがよい”
 もしそうだとすれば、弥陀は方便の「修諸功徳の願」は隠していられたはず。
 釈迦も『観無量寿経』や『阿弥陀経』を説かれなかったであろう。
 聖人は、十九願や二十願を『教行信証』に記されるはずもない。
 蓮如上人も雑行・雑修を説かれはしなかったであろう。

 これらはすべて十方衆生(すべての人)を、大悲の願船に乗せる弥陀の方便である。
 説かれているのは必要不可欠であるからだ。
 弥陀も釈迦も聖人も、真実の重さを自覚しての方便だったのである。
 その方便を大悲の願船に乗るまで不要というにいたっては、もう質の悪い冗談と聞き流すしかない。


親鸞会では、「必要だから説かれたのだ。必要なかったら説かれるはずがない」と言いますが、「必要」ということについても、いろいろな必要性があります。勧める必要があることもあれば、誡める必要があることもあります。「説かれている」=「勧められている」という思考は、短絡的思考と言わざるを得ません。

このシリーズをここまで読まれた方ならば、お分かりだと思いますが、「十九願・『観経』の定散二善の教えは、聖道門の人を浄土門に導くために説かれたものであり、その往生は化土往生であり、化土往生の者は大利を失すということを伝えるため」に親鸞聖人は十九願や『観経』について『教行信証』(『教行証文類』)に記されているのです。もちろん、勧めるためではなく、誡めるためです。

ですから、既に浄土門の中の真の教えである親鸞聖人の教えを聞き、その教えによって報土往生を願う人にとっては、十九願・『観経』の定散二善は不要だということです。

(2)、(3)については、次回の記事で取り上げます。

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Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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