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『なぜ生きる2』を読む(9)-「七深信」を十八願、十九願、二十願の三願に対する疑心がなくなったことと解釈する誤りについて

『なぜ生きる2』を読む(5)で述べたように、『なぜ生きる2』9章では、「仏願の生起本末」の「本=十八願」「末=十九願・二十願」と解釈しています。これに対応して、間違いを犯しているのが17章で書かれている「七深信」の解釈です。同書311、312頁では以下のように「七深信」が解説されています。

 他力の信心は「七深信」であると『愚禿鈔』に聖人は明かされている。
 「七深信」とは、阿弥陀仏の本願の「生起」、「本」(十八願)、「末」(十九願・二十願)に「疑心あることなし」になったことをいう。


そして、その文証として挙げられているのが、『愚禿鈔』のお言葉です。

第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。
第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。
第三には、「決定して『観経』を深信す」と。
第四には、「決定して『弥陀経』を深信す」と。
第五には、「唯仏語を信じ決定して行による」と。
第六には、「この『経』(観経)によりて深信す」と。
第七には、「また深心の深信は決定して自心を建立せよ」となり。


ここで、「七深信」の中に「十九願・二十願に疑心あることなし」となったという意味があるかのように、『なぜ生きる2』の中では書かれていますが、それが重大な誤りです。

そもそも、「七深信」は、善導大師の『観無量寿経疏』散善義の深心釈に明らかにされているものです。そして、この深心釈のお言葉を、親鸞聖人は『教行証文類』において、『信文類』と『化身土文類』に分けて引かれています。『信文類』に引かれているお言葉が、親鸞聖人が他力の信心をあらわされていると見られたお言葉に相当します。以下に、『信文類』に引かれた深心釈のお言葉を挙げますが、それを読んでいただければ、十九願、二十願に疑いがなくなったという意味がどこにもないことをご理解頂けると思います。少々長くなりますが、現代語訳だけでも読んで意味をとっていただければと思います。

●第一深信
一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
(現代語訳)
一つには、わが身は今このように罪深い迷いの凡夫であり、はかり知れない昔からいつも迷い続けて、これから後も迷いの世界を離れる手がかりがないと、ゆるぎなく深く信じる。

●第二深信
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。
(現代語訳)
二つには、阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂め取ってお救いくださると、疑いなくためらうことなく、阿弥陀仏の願力におまかせして、間違いなく往生すると、ゆるぎなく深く信じる。

第一深信、第二深信は、それぞれ、親鸞会でも話がされる「機の深信」、「法の深信」です。
なお、『なぜ生きる2』では、上の『愚禿鈔』のお言葉の「自利の信心」には「機の深信」、「利他の信海」には「法の深信」と注釈をしています。親鸞聖人が、『教行証文類』や『愚禿鈔』で、『散善義』の至誠心釈の「また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。」の「自利」を「自力」、「利他」を「他力」の意味とされていることと合わせれば、「自利の信心」は「自力の信心」、「利他の信海」は「他力の信心」の意味とするのが適切でしょう。この意味でいうと、第一深信単独では自力の信心、第二深信は単独でも他力の信心ということになります。それがどういうことをあらわしているのかについては、本題からずれてしまいますので、ここでは、これ以上突っ込んだ議論はしません。関心がある方は、二種深信(『観経疏散善義講讃』深川倫雄著より)等を参照して下さい。

●第三深信
また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。
(現代語訳)
また、釈尊は『観無量寿教』に、世福・戒福・行福の三福、浄土を願うもののそれぞれの資質、定善・散善についてお説きになり、浄土や阿弥陀仏および聖者たちをほめたたえて、人々に浄土を求めさせておられるのであると、疑いなく深く信じる。

第三深信は、『観経』についての深信です。『なぜ生きる2』を読む(2)で既に述べましたが、『観経』の三福・九品・定散二善の教えは、聖道門の人に対して、浄土を願わせるためのものであると深信することです。『観経』の教えを、すべての人に諸善を勧められたと解釈する『なぜ生きる2』は、このお言葉に反しています。

●第四深信
また決定して、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生ずることを得と深信するなり。
(現代語訳)
また、『阿弥陀経』に、あらゆる世界の数限りない仏がたが、すべての凡夫が間違いなく往生できることを証明して勧めておられると、疑いなく深く信じる。

第四深信は、『阿弥陀経』についての深信です。内容は、上のお言葉から分かるように、諸仏の証誠を深信するということであり、二十願を深信するという意味ではありません。

●第五深信
また深信するもの、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。
(現代語訳)
また、深く信じるものよ、仰ぎ願うことは、すべての行者たちが、一心にただ仏の言葉を信じ、わが身もわが命も顧みず、疑いなく仏が説かれた行によって、仏が捨てよと仰せになるものを捨て、仏が行ぜよと仰せになるものを行じ、仏が近づいてはならないと仰せになるものに近づかないことである。これを、釈尊の教えにしたがい、仏がたの意にしたがうという。これを阿弥陀仏の願にしたがうという。これを真の仏弟子というのである。

第五深信は、一心に(二心なく)唯、仏語を深信するということです。法然聖人の『往生大要抄』には、「又つぎの文に、「ほとけのすてしめ給はんをばすてよ」といふは、雑修・雑行なり。「ほとけの行ぜしめ給はん事をば行ぜよ」と、いふは、専修正行也。「ほとけのさら(去)しめたまはん事をばされ」といふは、異学・異解・雑縁乱動のところ也。」と教えられています。要するに、『なぜ生きる2』で盛んに勧められている雑行(=十九願の善、定散二善)は、捨てよとしか教えられていません。

●第六深信
また一切の行者、ただよくこの『経』(観経)によりて行を深信するは、かならず衆生を誤らざるなり。なにをもつてのゆゑに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆゑに、実語なるがゆゑに。仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによつて、果願いまだ円かならず。これらの凡聖は、たとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。平章することありといへども、かならずすべからく仏証を請うて定とすべきなり。もし仏意に称へば、すなはち印可して〈如是如是〉とのたまふ。もし仏意に可はざれば、すなはち〈なんだちが所説この義不如是〉とのたまふ。印せざるはすなはち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまふは、すなはち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなはちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多もしは少、すべて菩薩・人・天等を問はず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなはちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり、知るべし。このゆゑに今の時、仰いで一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑碍をなし、惑ひを抱いて、みづから迷ひて往生の大益を廃失すべからざれ。
(現代語訳)
また、すべての行者たちよ、ただこの『観無量寿経』に示される行を深く信じることだけが、決して人々を誤らせないのである。なぜなら、仏は大いなる慈悲をまどかにそなえた方だからであり、その説かれた言葉はまことだからである。仏以外のものは、智慧も行もまだ十分でなく、それを学ぶ位にあり、煩悩もその習気もまだすべては除かれていないので、さとりを求める願いも、まだまどかに成就していない。したがって、これらのものは、たとえ仏のおこころを推しはかっても、確かに知ることはまだできないのである。ものごとの道理を正しく明らかに理解することがあったとしても、必ず仏にその証明をお願いして、当否を定めるべきである。もし、仏のおこころにかなえば、仏はこれを認められて<その通り>といわれる。もし、仏のおこころにかなわなければ、<あなたがたのいうこの理解は正しくない>といわれるのである。仏がお認めにならない説は、無意味で利益のない言葉と同じである。仏がお認めになる説は、仏の正しい教えにかなうものなのである。仏のお言葉はすべて、正しい教であり、正しい義であり、正しい行であり、正しい領解であり、正しい行業であり、正しい智慧なのである。多数のものでも少数のものでも、菩薩であっても人間であっても神々であっても、その説の善し悪しを定めることなどできない。仏の説かれた教えは、完全な教えであり、菩薩などの説は、すべてみな不完全な教えというのである。よく知るがよい。だから、今この時、往生を願うすべての人々に勧める。ただ深く仏のお言葉を信じて、ひとすじに行を修めるがよい。菩薩などの説く、仏のお心にかなっていない教えを信じて、疑いをおこし、惑いをいだいて、自ら往生という大いなる利益を失ってはならない。

第六深信は、『観経』によって行を深信するということです。『観経』に示される行を深信することは、人々を誤らせなく往生させる、それは、仏が満足大悲の人であり、仏語が実語(真実の言葉)だからです。ここでいう『観経』に示される「行」とは、定散二善のことではありません。上のお言葉の終わりの方に、「ただ仏語を深信して専注奉行すべし」とあり、この「ただ仏語を深信して」は第五深信を承けていますから、「専注奉行すべし」と言われているのは、専ら念仏せよということで、「行」とは念仏のことです。ですから、第六深信には、『観経』の行が出てくるのですが、諸善をせよという意味はどこにもありません。

●第七深信
釈迦一切の凡夫を指勧して、この一身を尽して専念専修して、捨命以後、さだめてかの国に生るれば、すなはち十方諸仏ことごとくみな同じく讃め、同じく勧め、同じく証したまふ。なにをもつてのゆゑに、同体の大悲なるがゆゑに。一仏の所化は、すなはちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。すなはち『弥陀経』のなかに説かく、〈釈迦極楽の種々の荘厳を讃嘆したまふ。また一切の凡夫を勧めて一日七日、一心に弥陀の名号を専念せしめて、さだめて往生を得しめたまふ〉と。次下の文にのたまはく、〈十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪・無信の盛りなるときにおいて、弥陀の名号を指讃して衆生を勧励せしめて、称念すればかならず往生を得と讃じたまふ〉と、すなはちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんをおそれて、すなはちともに同心同時におのおの舌相を出して、あまねく三千世界に覆ひて誠実の言を説きたまはく、〈なんだち衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問はず、ただよく上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念して、さだめて往生を得ること、かならず疑なきなり〉と。このゆゑに一仏の所説をば、すなはち一切仏同じくその事を証誠したまふなり。これを人について信を立つと名づくるなり。{乃至}
またこの正のなかについてまた二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。もし礼・誦等によらば、すなはち名づけて助業とす。この正・助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。{乃至}すべて疎雑の行と名づくるなり。ゆゑに深心と名づく。

(現代語訳)
釈尊はすべての凡夫に対して、命のある限り、ひとすじに念仏して、命終れば間違いなく阿弥陀仏の国に生れることを示してお勧めになるが、すべての世界の仏がたもみなこれと同じようにほめたたえ、同じように勧め、同じように証明されるのである。なぜならそれは、同じさとりからおこる大いなる慈悲のはたらきだからである。釈尊が教え導こうとされているものは、そのまま、すべての仏がたが救おうとされているものであり、すべての仏がたが救おうとされているものは、そのまま、釈尊が教え導こうとされているものなのである。 すなわち『阿弥陀経』の中に、<釈尊は極楽の種々の荘厳をほめたたえておられる。またすべての凡夫に、一日でも七日でも、ただ一心に阿弥陀仏の名号を称えて、間違いなく往生するがよいと、お勧めになる>と説かれている。その次の文には、<すべての世界にそれぞれ数限りない仏がたがおいでになって、釈尊をほめたたえておられる。すなわち、さまざまな濁りに満ちた時代にあって、人々は悪事を犯すばかりであり、思想は乱れ、煩悩は激しく盛んとなり、仏法を聞いても疑い謗るばかりで信じようとしない。そのような世の中に釈尊はお出ましになって、阿弥陀仏の名号を指し示してほめたたえられ、念仏すれば必ず往生を得ると衆生を勧め励まされている。このことを仏がたはみな同じくほめたたえておられる>と説かれている。これがその証拠である。また、すべての世界の仏がたは、衆生が釈尊の説かれた教えを信じないことをおそれて、みなともに同じ慈悲の心から、同時に、それぞれの国で広く舌相を示して、世界のすみずみにまで阿弥陀仏のすぐれた徳が真実であることをあらわし、まごころをこめて、<そなたたち衆生はみな、釈尊が説かれ、ほめたたえられ、証明されたこの法を信じるがよい。すべての凡夫は、罪や功徳の多少、念仏する時の長短を問うことなく、長ければ一生涯から短ければ一日・七日に至るまで、ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えれば、必ず往生を得る。それは決して疑いのないことである>と仰せになっている。 こういうわけで、一仏すなわち釈尊の教えを、すべての仏がたがみな同じく証明されるのである。これを、勧める人について信を立てるというのである。(中略)
また、この正行の中に二種がある。一つには、ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えるのである。いついかなるときにも、また時の長短を問わず、他力回向の念仏を行じるのを正定業という。阿弥陀仏の本願にしたがうからである。礼拝や読誦などは助業という。この正定業と助業以外のすべての行は、みな雑行という。(中略)すべて、仏の本意にかなっていない自力の行というのである。以上のようなことから、深信というのである。


第七深信には、就人立信と就行立信の二つが説かれています。
就人立信とは、勧める人について信を立てるということです。釈尊も、一切の諸仏も、念仏によって必ず往生を得ることを、同じように勧め、同じように証明されています。すなわち、就人立信の「人」には、念仏で往生することを勧め、それを証明する釈尊、一切の諸仏が含まれています。諸善の勧めは全くありません。
就行立信とは、行について信を立てるということです。行には、正行と雑行があり、正行には正定業と助業がある中、『散善義』においては、正定業の先に五正行が明かされていました。『信文類』において、それが省略されているのは、立信の行は、正定業である称名念仏であることを明らかにされるためです。そして、「これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに」ですから、十八願の念仏であり、二十願の念仏ではありません。
つまり、第七深信にも、十九願、二十願の意味はどこにもありません。

『なぜ生きる2』には、「七深信」という高森会長が普段全く話をしないことが書かれていますが、その解釈は全くの出鱈目です。「七深信」=「二種深信」=「他力の信心」(『なぜ生きる2』313頁)とするならば、親鸞聖人の『信文類』のお言葉に従って「七深信」を解釈したとき、十九願や二十願に疑いがなくなるという意味を見出すことは全く出来ないのです。

『なぜ生きる2』を読む(4)で『大経』の胎化得失の文を挙げ、そのお言葉をきっかけとして「(2)十九願、二十願の者は、仏智疑惑の者であり、十八願を疑っているものである」という点から、『なぜ生きる2』の「仏願の生起本末」及び「五劫思惟」の説明の誤りについて何回かに分けて述べてきましたが、この点については、ここで一区切りとしたいと思います。
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『なぜ生きる2』を読む(8)-阿弥陀仏の善巧方便を十九願、二十願のこととする誤り

『なぜ生きる2』を読む(5)(6)(7)と、阿弥陀仏の五劫思惟の内容とそれに関連することについて、法然聖人、聖覚法印、親鸞聖人のお言葉を挙げてきました。今回は、五劫思惟について教えられた『御文章』のお言葉、それに関連して阿弥陀仏の善巧方便とは何かについて書きます。

まず、『御文章』5帖目8通、五劫思惟の章のお言葉です。
それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。
これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなりとしるべし。されば南無阿弥陀仏の六字のこころは、一切衆生の報土に往生すべきすがたなり。このゆゑに南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるこころなり。このゆゑに「南無」の二字は、衆生の弥陀如来にむかひたてまつりて後生たすけたまへと申すこころなるべし。かやうに弥陀をたのむ人をもらさずすくひたまふこころこそ、「阿弥陀仏」の四字のこころにてありけりとおもふべきものなり。
これによりて、いかなる十悪・五逆、五障・三従の女人なりとも、もろもろの雑行をすてて、ひたすら後生たすけたまへとたのまん人をば、たとへば十人もあれ百人もあれ、みなことごとくもらさずたすけたまふべし。
このおもむきを疑なく信ぜん輩は、真実の弥陀の浄土に往生すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

(意訳)
そもそも、五劫の間思惟されて建てられた本願も、その本願を実現するための兆載永劫のご修行も、ただ、私たちすべての者を助けて下されるための手立てであり、阿弥陀如来は大変なご苦労をなされて、南無阿弥陀仏の名号一つですべての者を救うという本願(第十八願)をお建てになり、「迷いの中にある私どもを、疑いなくわたし(阿弥陀仏)にまかせる身にさせて、もろもろの雑行を捨てさせて、二心なく、わたし(弥陀)にまかせる人々を助けることができないのならば、わたしは仏にならない」と誓われて、南無阿弥陀仏という仏様(名号)になられました。
これがすなわち、私どもが、何の造作もなく極楽に往生できるいわれであるとよく知りなさい。そういうわけで、南無阿弥陀仏の六字には、すべての人々が真実の浄土に往生できるというすがたがあらわれているのです。ですから、南無と阿弥陀仏におまかせすれば、ただちに阿弥陀仏は私どもをお助け下されるのです。このように、「南無」の二字は、私どもが阿弥陀如来の大悲の勅命に向かって後生おまかせしますと信順するこころです。そして、このように弥陀におまかせする人を、漏らさずにお救い下さるこころが、「阿弥陀仏」の四字のこころです。
こういうわけで、どのような十悪・五逆の悪人、五障・三従の女性であっても、諸の雑行を捨てて 、ひたす らに、後生おまかせしますと弥陀に信順する人を、阿弥陀仏は、たとえば、十人であれ、百人であれ、みなことごとく、漏らさずにお助け下さるのです。
このことを疑いなく信ずる人びとは、真実の弥陀の浄土に往生することができるのです。あなかしこ、あなかしこ。


法蔵菩薩が五劫思惟して建てられた本願とは、南無阿弥陀仏一つで救うという本願です。ここに十九願や二十願の意味はどこにもありません。そして、五兆の願行が成就して、南無阿弥陀仏という仏様になられたのでした。法然聖人や聖覚法印、親鸞聖人と同じように、蓮如上人も五劫思惟の内容を、十八願のこと、南無阿弥陀仏で衆生を救うことだと教えられています。五劫思惟の内容を三願転入と書く『なぜ生きる2』が、歴代の善知識方の教えにいかに反しているのかがお分かり頂けると思います。

また、上の御文章の中には「方便」という語が出てきますが、前後の流れから明らかなように、五劫思惟の本願、兆載永劫のご修行のことをいわれています。そして、このような「方便」を、「善巧方便」といいます。

『なぜ生きる2』では、「方便=真実へ導くに不可欠な教え」(同書129頁)と定義して、方便という語が出てくれば、それは十九願や二十願のこととしていますが、それが同書の根本的な誤りの一つです。

そもそも、方便とは、仏が衆生を救済するときに用いる巧みな方法、手段、手立てのことをいいます。
そして、その中には、「善巧方便」と「権仮方便」とがあることを知らなければなりません。
善巧方便」とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法のことで、随自意の法門のことをいいます。
一方、「権仮方便」とは、随自意の法門を直ちに受け取れない衆生を導くために、仮にしばらく誘引のために用いられる教えのことで、随他意の法門をいいます。

親鸞会の教え方、『なぜ生きる2』の書き方では、両者を区別することなく、ごちゃまぜにして、「方便」と書かれていたら、それは随他意の法門のこと(「権仮方便」)のことであり、十九願、二十願のことであるとしています。これが、根本的な誤りなのです。

「方便=十九願、二十願」という考えが、親鸞会の会員さんには強く植え付けられていますので、親鸞会流の解釈では、明らかに意味が通らないお言葉(すなわち「善巧方便」の意味で使われているの「方便」の例)をいくつか挙げます。

まずは、親鸞聖人が、『浄土論註』を引かれて二種の法身について教えられたお言葉です。
諸仏菩薩に二種の法身あり。一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同じかるべからず。(証文類
(現代語訳)
仏や菩薩がたには二種の法身がある。一つには法性法身であり、二つには方便法身である。法性法身によって方便法身を生じ、方便法身によって法性法身をあらわす。この二種の法身は、異なってはいるが分けることはできない。一つではあるが同じとすることはできない。

余談になりますが、高森会長の『独言』では、方便法身のことを「ニセモノ」と書いています(「高森顕徹先生の独言について②」参照)。方便法身は決して「ニセモノ」ではありません。法性法身は、いろも、かたちもなく、私たちの認識にのらないので、私たちの認識にのるような形で現れて下された法身が、方便法身(すなわち、南無阿弥陀仏)です。すなわち、方便法身とは、真実に他なりません。「ニセモノ」に対していうのならば、「ホンモノ」ということになります。

次は、同じく『浄土論註』を引かれて阿弥陀仏の浄土を無上の方便と教えられたお言葉です。
このなかに〈方便〉といふは、いはく作願して一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。 (証文類
(現代語訳)
いまここに<方便>というのは、願をおこしたすべての衆生を摂め取り、みなともに浄土に生れさせることである。阿弥陀仏の浄土は、仏となる究極の道であり、この上なくすぐれた手だてなのである。

安楽仏国に到れば、すなわち必ず仏性を顕す、本願力の回向に由るがゆえに。」(真仏土文類)と親鸞聖人が、教えられているように、安楽仏国は、真の報土のことですから、決して十九願や二十願で往生する方便化身土のことではありません。つまり、上記の「無上の方便」には、十九願や二十願の意味は一切ありません。

また、十七願のことを、方便の御誓願と仰っているところもあります。
諸仏称名の願(第十七願)と申し、諸仏咨嗟の願(同)と申し候ふなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。また十方衆生の疑心をとどめん料ときこえて候ふ。『弥陀経』の十方諸仏の証誠のやうにてきこえたり。詮ずるところは、方便の御誓願と信じまゐらせ候ふ。(親鸞聖人御消息

そして、親鸞聖人は『教文類』の冒頭で「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。」と教えられていますが、その往相の回向について、「弥陀の方便」という表現を用いて教えられた御和讃もあります。
往相の回向ととくことは 弥陀の方便ときいたり
悲願の信行えしむれば 生死すなはち涅槃なり (高僧和讃

(現代語訳)
往相の回向を説くのは、 阿弥陀如来の手だての時が来たからである。
大悲の願いによる信心と念仏をいただけば、 迷いの私がそのまま浄土に生まれてさとりを得るのである。


親鸞聖人が往相回向に関する願として具体的に挙げられているのは、『行文類』『信文類』『証文類』の標挙に明らかなように、十七願、十八願、十一願であり、十九願、二十願ではありません。

このように、阿弥陀仏の浄土、阿弥陀仏の仏身(方便法身)、往相回向のことを、「方便(善巧方便)」と教えられています。
上で挙げたお言葉をまとめると、阿弥陀仏の善巧方便とは、いろもなく、かたちもない真如法性が、私たちの認識にのるように、法蔵菩薩となって現れてくださり、五劫思惟の願を建てられ、兆載永劫のご修行の末に、南無阿弥陀仏という仏様(名号)となって私たち衆生をよび続けて下さり、名号によって救って下さることをいいます。

ところが、『なぜ生きる2』16章では、最初に、
釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し
われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり

の『高僧和讃』のお言葉を挙げ、三願転入の御文を根拠に
この三願転入のご文から、阿弥陀仏の善巧方便とは、弥陀の十九・二十の二願であることが明瞭となる。(16章300、301頁)
と書かれています。ここに、善巧方便と権仮方便の混同があります。

三願転入の御文から明らかになるのは、阿弥陀仏の十九願、二十願は権仮方便であるということです。
ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。(化身土文類

この三願転入の御文から、
・万行諸善の仮門(十九願)も、善本徳本の真門(二十願)も、「出た」、「離れた」と教えられていることから、暫く用いられて、のちに廃される随他意の法門であること
・万行諸善の仮門(十九願)の果は双樹林下の往生、善本徳本の真門(二十願)の果は難思往生といった方便化身土への往生であること
・「仮門」も「真門」も、真実ではない教えを指していわれていること
が明らかです。すなわち、阿弥陀仏の十九願も二十願も、善巧方便ではなく、権仮方便であることを教えられているのが、三願転入の御文です。

善巧方便と権仮方便の区別を知らずに、「阿弥陀仏の善巧方便=十九願・二十願」と誤った教えを説いて、権仮方便である十九願の入り口に会員を止めてしまっているのが、親鸞会であり、高森顕徹会長です。方便法身を「ニセモノ」といってしまうところから見て、善行方便の意味も知らずに、教えを説いているのでしょう。そのような団体が「浄土真宗親鸞会」と名乗っているのですが、その団体こそ「ニセモノ」であると知らなければなりません。

Appendix

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いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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