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『なぜ生きる2』を読む(10)-十九願、二十願は回り道と教えられたのが親鸞聖人

日が開いてしまいましたが、『なぜ生きる2』を読む(9)の続きです。

『なぜ生きる2』を読む(4)で、『化身土文類』に引かれている『大経』の胎化得失の文を取り上げ、「(3)十九願、二十願の者も、化土にて、仏智疑惑の罪を知り、その罪を改め仏智不思議を信ずれば、報土往生を遂げること」という点を説明し、『なぜ生きる2』の誤りを指摘すると書きました。今回は、それについてです。

『大経』の胎化得失の文では、
仏、弥勒に告げたまはく、〈たとへば転輪聖王のごとし。七宝の牢獄あり。種々に荘厳し床帳を張設し、もろもろの繒幡を懸けたらん。もしもろもろの小王子、罪を王に得たらん、すなはちかの獄のうちに内れて、繋ぐに金鎖をもつてせん〉と。{乃至}仏、弥勒に告げたまはく、〈このもろもろの衆生、またまたかくのごとし。仏智を疑惑するをもつてのゆゑに、かの胎宮に生れん。{乃至}もしこの衆生、その本の罪を識りて、深くみづから悔責して、かの処を離るることを求めん。{乃至}弥勒まさに知るべし、それ菩薩ありて疑惑を生ぜば、大利を失すとす〉」と。
(現代語訳)
釈尊が弥勒菩薩に仰せになった。<たとえば転輪聖王が七宝でできた牢獄を持っているとしよう。そこにはさまざまな装飾が施されており、立派な座が設けられ、美しい幕が張られ、さまざまな旗がかけられている。その国の王子たちが罪を犯して父の王から罰せられると、その牢獄の中に入れられて黄金の鎖でつながれる>(中略)釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。<胎生のものもまたその通りである。仏の智慧を疑ったためにその宮殿に生れるのである。(中略)これらのものは、仏の智慧を疑った罪を知り、深く自分のあやまちを悔い、その宮殿を出たいと願う。(中略)弥勒よ、よく知るがよい。仏の智慧を疑うものはこれほどに大きな利益を失うのである>
と教えられていました。

ここで、化土に往生した者は、七宝の牢獄に閉じ込められたような状態であり、大利を失う者であるあると、釈尊は説かれています。そして、そのような者は、仏智を疑った罪を知り、深く自分のあやまちを悔い、化土を離れることを求めるのならば、真実報土へ化生することができるのです。

このように、化土とは、自力諸善、自力念仏に執着する十九願、二十願の行者に、仏智疑惑の罪を知らせ、真実報土へと導くための阿弥陀仏の随他意の方便でした。ですから、化土のことを、方便化身の浄土などと言われます。この方便は、相手の機に応じて用いられる方便ですから、「権仮方便」です。『なぜ生きる2』を読む(8)で触れた、安楽仏国(真の報土)を「無上の方便」と言われたときの方便(善巧方便・随自意の法門)とは、意味が異なりますので注意してください。

つまり、十九願、二十願の行者は、化土を経なければ、報土に往生することはできません。
一方、十八願の行者は、『信文類』に「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」と教えられているように、この世の命が終わると報土に往生し、仏覚を成就します。

すなわち、仏のさとりを開くのは、十九願(二十願)の行者よりも、十八願の行者の方が速く、十九願(二十願)は回り道ということになります。このことについては、親鸞聖人はいろいろなところで教えられています。

しかるに教について念仏諸善比挍対論するに、(中略)径迂対捷遅対。(行文類
(現代語訳)
しかるに教法について、念仏と諸善とを比較し、相対して論じると、次のようになります。 (中略)
念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。 念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である。


横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。 (信文類
(現代語訳)
横超というのは、本願が成就して、すべての衆生が平等にさとりを開く唯一の真実円満の教え、すなわち真宗である。また、浄土門の中に横出がある。それは三輩・九品の機が定善・散善を修め、方便化土である懈慢界に往生する遠まわりの善の教えである。本願によって成就された清らかな報土は、三輩・九品の別を問わない。往生すると同時に、速やかにこの上ないさとりを開くから横超というのである。

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。 (化身土文類

(現代語訳)
浄土に往生してさとりを開くのを浄土門といい、易行道という。この浄土門の中に、横出と横超、方便と真実、漸教と頓教、そして助正と雑行、雑修と専修がある。
正とは、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五正行である。助とは、称名以外の読誦・観察・礼拝・讃嘆・供養の五種である。雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。
横超とは、阿弥陀仏の本願を信じて自力の心を離れることであり、これを横超他力という。これは、専修の中の専修であり、頓教の中の頓教であり、真実の中の真実であり、一乗の中の真の一乗である。これが真宗である。このことは、「行文類」においてすでに明らかにした。


このように、諸善の法(十九願)、横出(十九願、二十願)は、回り道と一貫して教えられています。

さらに、親鸞聖人は、二河白道の譬えで説かれている弥陀の招喚(十八願意)の「汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん」の「直ちに」について、『愚禿鈔』で、
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
と示されています。
「直」という言葉は、「回」、「迂」に対しているということは、迂回の善、漸教である横出(十九願、二十願)に対しているということです。
さらに、「直」という言葉は、横出のような方便仮門を捨てよ、如来の大願他力(十八願)に帰せよと言われた言葉であるとも教えられています。すなわち、本願(十八願)を説くとは、このような回り道である十九願、二十願を捨てよと教えることに他なりません。換言すれば、本願(十八願)を説き勧めるということは、十九願などの方便仮門は捨てよと勧めることになるのです。

さて、『なぜ生きる2』11章225頁には、
三願転入の道程は、決して特別の人だけの道でもなければ、回り道でもない。
と書かれていますが、これが大間違いなことは、今回の記事で理解していただけると思います。十九願、二十願は回り道なのですから、十九願→二十願→十八願という道程を説くことは、明らかに回り道なのです。

同様に、親鸞会発行の『顕正新聞』に、
熊「あたぼうよ。『善を勧めるのは遠回り』だあ?だいたい阿弥陀さまが、善を勧めていらっしゃるのに何言ってやんでえ。これ以上の近道があるもんか。このポンポコなす!」
演目「善の勧め」より引用)
と書かれていたこともありました。親鸞会では、「善を勧めるのは遠回り」、言い換えれば「十九願は遠回り」と説くことを批判しているのです。この点でも、「浄土真宗」、「親鸞会」と名乗りながら、親鸞聖人と真逆のことを教え、さらには宗祖親鸞聖人を誹謗しているのです。

そういえば、親鸞会発行の『教学聖典(4)』には、
問(19)
「私の信心はこうだ」と言うのは悪い、と言う人を破邪するには、どう言えばよいか。
答(19)
◎親鸞聖人が悪くなる。
○弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり。
○親鸞が信心におきてはかくの如し。(歎異鈔)

という問答がありました。それを真似して書くならば、

「十九願を回り道」と言うのは悪い、と言う人を破邪するには、どう言えばよいか。

◎親鸞聖人が悪くなる。
○径迂対、捷遅対。(教行信証行巻)
○また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。(教行信証信巻)

となります。

親鸞聖人は、回り道である十九願を捨てよと一貫して教えられました。そして、速やかにさとりを開く道である十八願一つを教え進められたのでした。皆様には、親鸞聖人の御心に反して、回り道を進めているのが、『なぜ生きる2』の著者である高森会長であるということをよくよく知って頂きたいと思います。
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【再掲】『親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?ー本願寺 いない』と歪曲する親鸞会

昨日の記事では、親鸞会講師部員が開催している講座について取り上げました。

親鸞会の会員さんや親鸞会関係の行事に参加している未会員さんの中には、仏教については、親鸞会関係の本しか読んだことがないという人もいると思います。そこで、親鸞会の教えしか知らない人でも、読んでもあまり違和感のない仏教書を一つ紹介したいと思います。約4年前の記事でも取り上げましたが、本願寺出版から出ている小池秀章著『高校生からの仏教入門』です。

親鸞会講師部員が開催している講座に参加している人や現役親鸞会会員の方に、『なぜ生きる』や親鸞会発行の書籍以外の仏教書を読むきっかけにしてもらいたいと思い、以下に過去の記事の再掲します。この記事を通して、「人生の目的、なぜ生きるを教えられたのが親鸞聖人」と説く人は、親鸞会以外にもいることを知って頂きたいと思います。

(以下、2011年5月3日の記事の再掲)

親鸞会批判の真実の中に掲載されている親鸞会と本願寺10の相違点の1番に、

親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?
本願寺 いない
親鸞会 いる


とあります。果たして、これは本当でしょうか?
本願寺出版から出ている小池秀章著『高校生からの仏教入門』を見てみましょう。


生死出づべき道 私の「生きる意味と方向」をはっきり示された方が、親鸞聖人です。

何のために生まれて 何のために生きているのか

 何のために 生まれて 何をして 生きるのか
 答えられないなんて そんなのは いやだ! (作詞やなせたかし 作曲三木たかし)

 これは、「アンパンマンのマーチ」の一番の歌詞です。アンパンマンというのは、顔がアンパンのアニメのキャラクターで、小さな子ども達には大人気です。そんな子ども向けのアニメの主題歌の中で、こんな難しいことが歌われているのです。
 あなたは、「何のために生まれて、何をして生きるのか」答えられますか? これは、たいへん難しい問題で、そう簡単に答えられる問いではありません。
 ある人は、この問いに対して、「その答えを探すために生きるのです。」と言われました。確かにその通りでしょう。しかし、親鸞聖人は、この問いに一つの答えを出されました。
(106-107頁より引用)


上記のように、『私の「生きる意味と方向」をはっきり示された方が、親鸞聖人です』とハッキリ書かれています。これだけでも、親鸞会の主張する、

親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?

本願寺 いない


が事実と異なることが分かります。

では、「生きる意味と方向」について、この本ではどのように書かれているのでしょうか?
次にその部分を引用します。

生きる意味と方向
 浄土真宗の救いとは、金魚すくいみたいに、ひょいとすくってもらって、いい世界に連れて行ってもらうようなものではありません。また、病気を治してもらったり、さまざまな自己の願いが叶ったりすることでもありません。
 浄土真宗の救いとは、生きる意味と方向が定まることです。自己中心の心から離れられず、迷いの人生を生きている私に、智慧と慈悲の世界が与えられることによって、人生のあらゆることに尊い意味を見いだすことができるのです。そして、浄土という真実の世界に向かって生きることが、本当の人間としての生きる道であると、生きる方向が定まるのです。
 このように、私中心の生き方から仏中心の生き方へと転換され、念仏という生きる依りどころが定まった時、どんな苦難をも乗り超える智慧と力が与えられるのです。

往生浄土
 ただし、浄土真宗の究極的な救いは、この世のいのちが終わると同時に、浄土に往生し成仏する(さとりを開く)ことです。「往生」とは、「困ること、行き詰まること」ではなく、文字通り、「往き生まれる」ことです。「浄土」とは、「煩悩の汚れの無い清らかな世界・さとりの世界」のことです。つまり、「往生浄土」とは「浄土に往き生まれる」ことで、それは行き詰まることではなく、さとりという新しい世界が開けてくることなのです。

現生正定聚
 しかし、このことは、決して未来の救いのみを説いているのではなく、信心をいただいた時に、往生成仏が定まり救われるのです。それを「現生正定聚」という言葉で表わしています。「現生」とは、この世、「正定聚」とは、正しく仏になることが定まったなかまという意味です。
 つまり、信心をいただいた時、念仏という生きる依りどころが定まり、浄土という真実の世界に導かれながら、浄土という真実の世界に向かって生きるという生き方が与えられるのです。それを救いと言うのです。
(194-195頁より引用)


いかがでしょうか?

親鸞会在籍時、「本願寺は死んだら極楽、死んだら仏と死後の救いばかりを説いていて、現在の救いを説かない」と聞いたことがあります。実際に、親鸞会と本願寺10の相違点の5番目、6番目に

助かるのはいつか
本願寺 死なねば助からぬ
親鸞会 生きている時に助かる

救われたらどうなるのか
本願寺 この世で救われたということは、ありえない
親鸞会 絶対の幸福になる


とあります。ところが、上の引用部分では、「決して未来の救いのみを説いているのではなく、信心をいただいた時に、往生成仏が定まり救われる」と「現生正定聚」について書かれています。つまり、親鸞会のこれらの主張も、本願寺の主張を歪曲したものであることが分かります。

10の相違点の7番目も酷い歪曲です。

本願寺 念仏さえ称えておればいい
親鸞会 真実の信心ただ一つで助かる


上の引用部分に「信心をいただいた時に、往生成仏が定まり救われる」とありました。『高校生からの仏教入門』では、別の部分でも「信心正因称名報恩」について教えられています。

本願寺には、親鸞会とは比べ物にならないくらい多くの布教使が在籍しています。その中には親鸞会が「本願寺は●●だ」と言っているようなことを説く人もあるのかもしれませんが、親鸞聖人が教えられたことを正しく説く人もいることは、本を手に取って読んでみたり、法話を聞いてみたりすれば分かることです。それらをひとまとめにして、「本願寺は●●」とレッテルを貼っているのは、正しく教えを説く人がいることを会員さんに知らせないための手段だと感じます。他で教えを聞くことは許さないという縄張り根性の表れでしょう。

自分自身のことを振り返ってみると、親鸞会から一方的に「本願寺は●●」というプロパガンダを聞かされて、「本願寺とは何てひどいことを教えているところなのだろう」と思い込まされていました。しかし、事実は違いました。自分で書店に行き、本願寺出版の書籍や本願寺派に属する布教使の書いた本を読んでみると、親鸞聖人の教えをそのまま伝えていることが分かりました。一方、親鸞会は、親鸞聖人が書かれたものを断章し、自分に都合良く解釈しているということもよく分かりました。この親鸞会教義の誤りについては、当ブログはじめ、多くのブログが指摘していることです


さて、話を「人生の目的」というところに戻しましょう。親鸞会は、親鸞聖人の明らかにされた人生の目的を説いていると主張していますが、親鸞会の人生の目的の説き方はおかしいです。「ここが信仰の決勝点、ここが卒業、完成」と、未来に向かって、これから一生涯かけて求めなければならないものとして教えます。これが、親鸞聖人の教えの一枚看板と自分たちがいっている「平生業成」に、実は真っ向から反しているのです。「平生」とは「いま」のことと言っていながら、「ここまで進め」では、達成するのはどうしても未来です。

「我をたのめ(南無)必ず助ける(阿弥陀仏)」とつねに喚び続けている名号をそのまま疑いなく聞き受けることが信心です。そのとき、往生成仏が定まります。私が求めるよりも先に与えられている名号願力という大前提のもとに「平生業成」が成り立つのです。

「人生の目的」という言葉を使うならば、これから未来に向かって使うのではなく、生まれたときから現在只今までのことなのです。
「多生の目的」という言葉も同様です。これから未来に向かって、多生かかって求めていくという意味に使うのではありません。生死を繰り返してきた果てしない過去から今日までのことです。

南無阿弥陀仏をそのまま聞き受けたとき、生きる目的も知らず死に行く先も知らなかった人生が、浄土に向かって生きる人生であると生きる方角が定まるのです。南無阿弥陀仏を聞くのは、未来のことでもなく、過去のことでもなく、現在只今のことです。「生きる意味と方向」が定まるのは、現在只今であって、未来に向かってその達成を求めるのではないのです。つねに喚びかけ続けられている本願の仰せを、「いま」、聞くか聞かないかだけです。

親鸞会は人生の目的を説いていると言っていても、そこで説かれている目的を達成することは不可能でしょう。信心獲得が人生の目的といいながら、信心の理解がまるで間違っているというのが理由の一つ。他力回向の親鸞聖人の教えが、自力の教えになってしまっているのが理由の二つ目。私の側のことばかりが説かれ、助けて下さる阿弥陀仏のことが完全に抜けてしまっている話を聞かされているということが理由の三点目です。

親鸞会の会員さんが勧められていることは、いつまでたっても決勝点に辿り着くことのない活動だけであるということに気が付いてもらいたいです。死ぬまで求道の「光に向かって進む教え」が親鸞会教義なのです。いつまでたっても光に辿り着くことはありません。

平生業成の教えが説かれているか?
本願寺(全ての布教使がどうかは分からないが) いる
親鸞会 いない

というのが実態ではないでしょうか?(親鸞会でも言葉だけなら説かれていますが、「実態は」ということです)

今日紹介した『高校生からの仏教入門』は、当ブログでこれまで引用してきた本に比べて、親鸞会の会員さんにも読みやすい本だと感じますので、関心をもたれた方は読んでみるのがよいと思います。

※なお、今回、この記事を再掲載したのは、掲載から4年程経過した今でも、同記事の拍手ボタンを何度も押して下された方がいたというのも一つの理由です。拍手ありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。

「ゼロからわかる仏教教室・勉強会」「一からわかる仏教講座」は親鸞会関係の講座です

前々回の記事では、各地の親鸞会関係のホームページで、行事日程が掲載されていないことについて書きました。
その後、ネット上を調べていたところ、親鸞会講師部員が、「ゼロからわかる仏教教室・勉強会」、「一からわかる仏教講座」といった名称で、講座を開催し、その日程をサイトに掲載していることが分かりました。

ゼロからわかる仏教教室・勉強会 仙台
http://japan-buddhism.com/tohoku/

ゼロからわかる仏教教室・勉強会 新潟
http://nigata-buddhism.info/

ゼロからわかる仏教教室・勉強会 札幌
http://japan-buddhism.com/sapporo/

一からわかる仏教講座 東京
http://japan-buddhism.com/

一からわかる仏教講座 横浜
http://japan-buddhism.com/yokohama/


上のサイト内の講師紹介では、浄土真宗親鸞会の講師であることが書かれています(東京以外のサイト)。過去、名前を出さない勧誘で、種々に批判を浴びたので、講師紹介の欄に「浄土真宗親鸞会」という名称を示したのでしょうが、その他の箇所では「浄土真宗親鸞会」という名称は書かれていません。

また、上の仙台のサイトでは、
レギュラー講座に参加されている対象に、更にメンバー登録をされた方は、 テキスト3冊(御文章、正信偈、解説冊子) 念珠、仏教が学べる小冊子(月1冊)、マンガ(月1冊)、新聞(月2部)がもらえ、 ご自宅でも、しっかりと学べます。
と書かれています。何も知らない人のために言っておきますと、上のもらえるものから見て、この「メンバーを登録する」とは、つまり「親鸞会に入会する」という意味です。

寺や大学、自己啓発セミナーに行って聞くという方法もありますが、講座が行われていなかったり、高額な受講料がかかったり、それでいて、聞きたい話は聞けなかったという事がよくあります。
とも書かれていますが、私が会に在籍していた当時(約5年前)、入会金が5万円(学生は2万円)でした。高額な入会金が必要なことも知っておいて頂きたいと思います。そして、毎月、富山で行われる高森会長の法話、座談会等では、お布施が必要です(約5年前で、通常の法話だと5千円、降誕会、報恩講といった大きな行事の場合は、1日数万円。)。

親鸞会のことを知らずに、、「ゼロからわかる仏教教室・勉強会」、「一からわかる仏教講座」に参加している方は、まず、親鸞会とは、どんな団体かを知って頂きたいと思います。当ブログのリンク欄のサイトを熟読することをお勧めしますが、リンクしているサイトは多いですので、まず、
親鸞会組織の問題点について、
さよなら親鸞会
を読んで知ってください。
教義面については、
浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?
が問答形式で読みやすいと思います。
少し難しい内容もありますが、
親鸞会教義の誤り
親鸞会邪義を破る
は、内容がまとまっています。

一度きりの人生、絶対に後悔したくない方は、いろいろな方面から情報を集めた上で、浄土真宗親鸞会が、本当に信頼に足る団体であるかどうかを判断してください。

※2015年4月24日記事を一部修正しました。

高森顕徹会長は「大悲を行ずる人」といえるのか?

頻繁なことではありませんが、機関紙等で、高森会長を「常行大悲の益」に生かされている人と讃える記事が掲載されることがあります。例えば、過去、『顕真』で連載されていた「親鸞会黎明期の証言」という記事の中で何回か見たことがありました。現在ネット上には、その一部が掲載されていますが、引用しますと、
高森顕徹先生はいつも、「常行大悲の益」に生かされておられるために、どんな非難をも乗り越えてのご教導でありました。
浄土真宗親鸞会黎明期の証言より引用)
と書かれています。

これは、親鸞聖人が、『信文類』において、「金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲」と説かれ、その九番目に「常行大悲の益」を挙げておられることに基づいてのことでしょう。

「常行大悲」とは、「常に大悲を行ずる」ということです。親鸞会黎明期はどうであったか分かりませんが、現在の高森会長は、果たして「大悲を行ずる人」といえるのでしょうか?

大悲を行ずる人」について、『信文類』では、道綽禅師の『安楽集』を引いて教えられています。
『大悲経』にのたまはく、〈いかんが名づけて大悲とする。もしもつぱら念仏相続して断えざれば、その命終に随ひてさだめて安楽に生ぜん。もしよく展転してあひ勧めて念仏を行ぜしむるは、これらをことごとく大悲を行ずる人と名づく〉と。
(現代語訳)
『大悲経』には<どのようなことを大いなる慈悲というのであろうか。もし、もっぱら念仏してやむことがなかったなら、その人は、命を終えると間違いなく浄土に往生するであろう。この念仏を次々に人々に勧めて行じさせるなら、このような人をすべて大いなる慈悲を行じる人というのである>と説かれている。
このお言葉から明らかなように、人に念仏を勧めて行じさせる人が、「大悲を行ずる人」です。

親鸞聖人が『教行証文類』を著されたのも、総序に、
穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。
と教えられているように、本願力回向の行(念仏)と信(信心)を勧められるためでした。

七高僧が教え勧めていかれたことも、
ここをもつて四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて、濁世の邪偽を導く。 (化身土文類
(現代語訳)
このようなわけで、すべての衆生のよりどころとなる浄土の教えを広めてくださったインド・中国・日本の七人の祖師方は、他力念仏を説き示し、五濁の世のよこしまな心を持つ人々を導かれるのである。
と、親鸞聖人が明らかにされているように、他力念仏の教えでした。

七高僧、親鸞聖人は、まさに「大悲を行じられた方々」でありました。

ところが、現在の高森会長が教え勧めているのは、言葉の上では「信心決定」「信心獲得」ですが、実態は、獲信に至るまでの道程、すなわち親鸞会流「三願転入の教え」を説き、十九願の行と信を勧めています。つまり、行は念仏ではなく、諸善(特に、布施とは名ばかりの親鸞会への献金と、勧誘)を勧め、信は他力の信心ではなく、自力の信心を勧めていることになります。

また、高森会長の御心を会員に徹底する講師部員が、各地の会合で勧めているのは、何でしょうか?
言うまでもなく、御報謝、行事へのお誘いです。会合の中で、念仏を勧める講師部員は、皆無といってもよいのではないでしょうか?

念仏を勧めず、十九願を強調する会長の姿勢が、講師部を通じて、末端の会員にまで徹底されるのが親鸞会です。だから、末端の会員に至るまで親鸞会の人々は、念仏を非常に軽視しています。

つまり、人に「展転してあひ勧めて念仏を行ぜしむる」には、程遠いのが高森会長、親鸞会であることがよく分かります。ですから、高森会長のことを、「大悲を行ずる人」とはとてもいえません。

ところで、『なぜ生きる2』にも、「常行大悲の益」について書かれている箇所があります。3章の93-98頁です。その中で、
聖人は、伝える大悲について、こう教誡されている。(95頁)
と書き、大悲の内容を、
他力の信をえんひとは 仏恩報ぜんためにとて
如来二種の回向を 十方にひとしくひろむべし (正像末和讃

のお言葉から、「如来二種の回向」であると書いています。

大悲を伝えるとは、「如来二種の回向」を伝えることだということについては、特に問題はありませんが、その親鸞聖人のお言葉に違背しているのが『なぜ生きる2』という本です。

「如来二種の回向」とは、往相の回向と還相の回向の二種のことですが、阿弥陀仏の願の上でいえば、親鸞聖人は、往相の回向については、十七願、十八願、十一願を、還相の回向については、二十二願を挙げて教えられています。例えば、『如来二種回向文』には、
(前略)この本願力の回向をもつて、如来の回向に二種あり。一つには往相の回向、二つには還相の回向なり。
往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あり。
真実の行業といふは、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。(中略)
真実信心といふは、念仏往生の悲願(第十八願)にあらはれたり。(中略)
真実証果といふは、必至滅度の悲願(第十一願)にあらはれたり。(中略)
これらの本誓悲願を、選択本願と申すなり。

二つに、還相回向といふは、『浄土論』にいはく、「以本願力回向故是名出第五門」と。これはこれ還相の回向なり。
このこころは、一生補処の大願(第二十二願)にあらはれたり。(後略)

と書かれています。

しかし 、『なぜ生きる2』のテーマは三願転入であり、書かれているのは、十八願、十九願、二十願であり、中でも中心は十九願です。親鸞聖人の「如来二種の回向を十方にひとしくひろむべし」のお言葉に反しているのが『なぜ生きる2』であることが分かります。

このように書くと、「親鸞聖人は、十九願について教えられているではないか、三願転入を説いているではないか」と、気がきいているようで、間の抜けた反問をする人もあるかもしれません。しかし、親鸞聖人が十九願について書かれたのは、それを勧めるためではなく、その行者を誡めるためです。同様に、三願転入を書かれたのも、「三願転入せよ」と勧めるためではなく、十九願、二十願を廃捨し、十八願に帰すことを勧めるためです。要するに、十九願、三願転入について教えられているといっても、勧められたのは、真宗念仏であり、如来二種の回向によって救われることです。十九願の善を勧め、三願転入を勧める『なぜ生きる2』とは正反対なのが、親鸞聖人なのです。

現在の高森会長の説いていることが凝縮されているのが、この『なぜ生きる2』です。現在の高森会長が「大悲を行ずる人」であるとは決して認めることはできません。

更新されない親鸞会公式ホームページ

当ブログのカテゴリーの中で一番記事が多いのは、親鸞会の公式ホームページについてです。

しかし、親鸞会公式ホームページは、昨年の11月18日を最後に、更新されていません(2015年4月4日現在)。

また、各地の親鸞会のサイトをいくつか見てみましたが、以前は掲載されていたはずの法話の会場と日時が載っておらず、予定は問い合わせになっていました。
自分で確認したい方は、以下のサイトなどにアクセスしてみて下さい。
浄土真宗親鸞会 東京
浄土真宗親鸞会 神奈川
浄土真宗親鸞会 石川
浄土真宗親鸞会 長野山梨

親鸞会では、ここ数年で各地に会館を設け、顕正新聞も顕真もその話題でもちきりでしたが、そこで行われている法話の日程は公にはされていないようです。

一方、親鸞会が教えを説いていないと盛んに批判している本願寺ですが、本山の行事予定も別院の行事予定もホームページ上に掲載されています。

インターネットが発達した社会において、ホームページ上に、各地の法話の日程を掲載することすらしていないことから、親鸞会は、布教に対する積極性さえも失ってしまったのかと感じました。また、各地の行事の日程を載せることで、何か不都合があるために、問い合わせてもらって案内するという形式に変えたということなのでしょうか?

さて、話を公式ホームページに戻します。
トップページには、「平生業成」が浄土真宗の一枚看板であること、「なぜ生きる」を明らかにされたのが親鸞聖人であることを記した後、ページの半分以上に渡って、「本当の親鸞聖人の教えを聞かれた喜びの声」が、多数掲載されています。教えを前面に出すのではなく、体験談が前面に出されたトップページです。

人生には、これ一つ果たさなければならない大事な目的がある、それは現在、完成できる。だから、早く完成しなさいよ」と書いていながら、その目的を果たした体験談は皆無であり、教えにあえた喜びの声が掲載されているだけです。見る人が見れば、誰もその目的を果たした人はいないのだなと感じることでしょう。

結局のところ、「平生業成」という看板を掲げながら、実質的には平生業成を説いていないのが親鸞会です。

40周年記念大会の記念品であった『独言』には、以下の言葉があります。

(38) その程度
「噫、弘誓の強縁、多生にも値回く、真実の浄信は、億劫にも獲回し。遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」(教行信証総序)

 永久の闇より救われた親鸞聖人の驚きと慶びである。
 五十年や百年や千年聞いて獲られる信心ではないから、たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べと教えてあるのだ。
「まだ獲信できぬのか」と言う自称信心の行者がいる。
「そんな程度の信心ならね……」と答えてあげねばならぬ。


五十年や百年や千年聞いて獲られる信心ではない」というのですから、生きているときに往生の業事が成弁するということはありません。まさに「平生業成」の否定です。

信心決定、信心獲得は、一念という時剋の極促だが、そこにたどり着くまでには時間がかかるのだというのが、親鸞会会員さんの理解だと思います。上の『独言』の言葉を読んだり、「三願転入の教え」、「善のすすめ」といった高森会長の話を聞いたりしていたら、そのような理解になってしまうのは当然なことです。

上で挙げた『教行信証総序』の親鸞聖人のお言葉は、獲信の現在から過去を振り返って、阿弥陀仏の本願力には多生にもあえなかった、真実の信心は億劫にも獲られなかったと仰っているものです。教行信証を拝読する者に対し、現在から未来に向かって、五十年や百年や千年聞いて獲られる信心ではないぞと仰ったものではありません。

横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり」(信文類)と親鸞聖人が教えられているように、阿弥陀仏の本願は既に成就し、すべての衆生が平等にさとりを開く唯一の真実円満の教えが完成しているのです。その教えこそが浄土真宗の教えです。

法蔵菩薩は南無阿弥陀仏一つで衆生を救うという本願を建てられました。そして、その本願が成就して、南無阿弥陀仏の名号となって、いつでも、どこでも、すべての衆生に喚びづくめなのです。「いつでも」とは、「いま」であり、「どこでも」とは、「ここ」であり、「すべての衆生」とは「私」のことです。本願成就の南無阿弥陀仏が、いま、ここの、私に届いているのですから、いま、ここにいる私が、何のようもなく、救われるのです。これが、「平生業成」です。

すなわち、本願成就の南無阿弥陀仏を抜きにして、「平生業成」はないのです。

親鸞聖人は、『化身土文類』で、
本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。
(現代語訳)
本願成就の尽十方無碍光如来を信知すべきである。
と教えられています。

本願成就の南無阿弥陀仏を、今、ここで、何も計らいも雑えずに聞きうけるのです。

しかしながら、その本願成就の南無阿弥陀仏のこころが、親鸞会では全く説かれていません。

だから、「平生業成」という言葉があるだけ、看板があるだけで、中身がないのです。救われる人がいないのです。

会員の人ならば何度も聞いているであろう「平生業成」の10分説法でいうならば、親鸞会は、「タバコ店という看板を出した魚屋」です。そこには、タバコがありませんから、タバコを買いに来た人は腹を立てて帰って行くという結末が待っています。

「平生業成」という看板を掲げていても、中で説かれている実質的な教えは「死ぬまで求道の教え」だと気がついた人から、親鸞会を去っていきます。私もそれに気がついて親鸞会を離れました。

「平生業成」という看板を掲げながら、中で説かれている教えは「平生業成」でない、
「浄土真宗」という看板を掲げながら、中で説かれている教えは「浄土真宗」でない、
「親鸞会」と名乗りながら、中で説かれている教えは「親鸞聖人の教え」でない、
それが「浄土真宗親鸞会」と名乗る団体であることに早く気がついていただきたいと思います。

Appendix

プロフィール

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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