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『なぜ生きる2』を読む(12)-誡疑讃のトンデモ解釈、信罪福心、仏願の生起本末

『なぜ生きる2』を読む(11)の続きです。

ここまで、親鸞聖人が、『化身土文類』において、『大無量寿経』、『無量寿如来会』の胎化得失の文を引かれ、仏智疑惑を誡めておられるということについて、繰り返し書いてきました。
そして、親鸞聖人はこれらのお言葉などに依られて、『正像末和讃』の中に、23首の誡疑讃を書かれています。その目的は、親鸞聖人ご自身が誡疑讃の末尾に「以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせなり」と書かれていることから明らかなように、仏智疑惑の罪を知らせ、仏智疑惑を誡めるためでした。具体的にいえば、仏智を疑惑しながら諸善を修することで往生を願う十九願、仏智を疑惑しながら念仏を称えることで往生を願う二十願の誡めです。

ところが、『なぜ生きる2』では、誡疑讃の中の一首である
如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなほもまた
罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり (正像末和讃

のお言葉を正反対の意味で解釈しています。

まず、上の御和讃の正しい意味についてです。
この御和讃は、『大経』の胎化得失の文の
仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。 しかもなほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。(『化身土文類』大無量寿経引文より)
(現代語訳)
そしてまた、この上なくすぐれた無量寿仏の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望み、善の本である名号を称えて、無量寿仏の国に生れたいと願う。
に依られたもので、
御和讃)           -(大無量寿経
如来の諸智を疑惑して」 -「この諸智において疑惑して
信ぜずながらなほもまた」-「信ぜず。 しかもなほ
罪福ふかく信ぜしめ」   -「罪福を信じて
善本修習すぐれたり」   -「善本を修習して
と対応しています。したがって、この御和讃の意味も、『大経』の意味と同じく、
如来のいろいろな智慧を疑って、 他力の念仏を信じることができないまま、 やはり善悪因果の道理のみを信じ、 自力念仏がすぐれていると励んでいる者がいるのです
であり、仏智疑惑しながら、なおも因果の道理を信じ、自力念仏に励んでいる者を嘆かれた御和讃であることが分かります。

一方、『なぜ生きる2』15章(291頁)には、
”十八願・真実は信じられてはいないが〔如来の諸智を疑惑して〕、十九願を深く信じて〔罪福深く信ぜしめ〕弥陀に向かって善に努めている。
 そして、二十願の南無阿弥陀仏の名号〔善本〕を称える〔修習〕身にまで進んだのは、なんと素晴らしいことであろうか”と声価されている。
 その上で、二十願は目的を果たさせる「果遂の誓」だから、行くてに待つ大悲の願船(十八願)まで進めよ、と激励されている『和讃』である。

と書かれています。もともとは二十願の行者を嘆かれている御和讃を、二十願まで進んで素晴らしいと声価されているとか、激励されている『和讃』であると正反対の意味で、高森会長は解釈しているのです。これは、高森会長の話にしばしば見られる、お聖教を部分的に切り取り、全体の文脈とは無関係に誤った意味で解釈する典型的な例です。

意味を正反対にしているだけでなく、「罪福ふかく信ぜしめ」を取り出して、「十九願を深く信じて」とする解釈も親鸞聖人には見られない解釈であり、おかしな解釈です。そもそも、親鸞聖人は、罪福を信ずる心(信罪福心)のことを、以下のように、自力心のこととして教えられました。
定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。(化身土文類
(現代語訳)
定善の専心・散善の専心とは、罪を恐れ自分の善をあてにする心で本願力を願い求めるのであり、これを自力の専心というのである。
ですから、「罪福ふかく信ぜしめ」を、「十九願を深く信じて」とする解釈は親鸞聖人の上において存在しない解釈なのです。

また、罪福をふかく信ぜしめさせて救いを求めさせることは、自力心を煽ることに他なりませんから、親鸞聖人は、お聖教の上で、因果の道理についてほとんど触れられてはいません。それに対して、高森会長は、因果の道理の話を繰り返しします。『なぜ生きる2』でも、10章などで因果の道理に触れられています。このような点からも、親鸞聖人と高森会長との違いを知ることができます。

ここで、信罪福心仏願の生起本末の関係について、大事なところなので、簡単に触れておきたいと思います。
信罪福心とは、「罪を信ずる心」と「福を信ずる心」ということですが、平たく言うと、前者は、「こんなことでは救われないという心」であり、後者は、「こうしたら救われるという心」です。
そうすると、前回の記事で触れたように、これらの心は、仏願の生起本末を聞くところに否定される心であるということがお分かり頂けると思います。
すなわち、こんなことでは救われないという心は、「阿弥陀仏は、私たちの側には迷いの世界を離れるものがらは何もないということを既に見抜かれて本願を建てられている」という仏願の生起を聞くことによって否定される心です。
また、こうしたら救われるという心も、「阿弥陀仏は、迷いの世界を離れる法(南無阿弥陀仏)を完成されて、南無阿弥陀仏となって私たちに喚びかけ続けている」という仏願の本末を聞くことによって否定される心です。

つまり、信罪福心とは、阿弥陀仏の方で既に解決されている問題を問題にしている心であり、仏願の生起本末を聞くところに否定される心なのです。しかし、既に『なぜ生きる2』を読むのシリーズで触れたように、『なぜ生きる2』では仏願の生起本末も、誤って書かれているので、同書をどれだけ読んでも信心獲得は覚束ないでしょう。

さて、『正像末和讃』の末尾に書かれている自然法爾章で、親鸞聖人は、
「自然」といふは、「自」は、おのづからといふ、行者のはからひにあらず。しからしむといふことばなり。「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに。「法爾」といふは、如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。この法爾は、御ちかひなりけるゆゑに、すべて行者のはからひなきをもちて、このゆゑに他力には義なきを義とすとしるべきなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。
弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。

(現代語訳)
「自然」 ということばは、 「自」 は 「おのずから」 という意味です。 人間の自力のはからいによるものではないのです。 「然」 というのは、 「そのようにさせる」 ということばであり、 人間のはからいによるのではないのです。 如来の本願によるものであるからです。 「法爾」 ということばは、 この如来のお誓いによってそうなるのですから、 法爾というのです。 この法爾は阿弥陀如来のご誓願ですから、 すべて人間の自力のはからいはないことなのです。 この理由から他力とは自分のはからいのないのを本意とするのだと知るべきだ、 といわれるのです。 「自然」 というのは、 阿弥陀如来がそのようにさせるということばです。
阿弥陀如来のご誓願は、 はじめから人間の自力のはからいではなくて、 阿弥陀如来が人間を 「南無阿弥陀仏」 と帰依させて、 浄土に迎えようとお誓いくださったのですから、 人間が善行を積んでいるとか、 悪行をしているとかの結果を往生の原因と思わないのを自然というのだと聞いております。

と教えられました。

『なぜ生きる2』に書かれていることが正しいと思い込んでいる親鸞会の会員さんにおかれましては、善悪因果の道理を超えたところにあるのが、弥陀の十八願の救いであることを知って頂きたいと思います。十九願の善を実践した先にあるのが十八願の救いではありません。親鸞会で言う横の道を進んだ先に救いがあるのでもありません。そのような実践の先に救いがあるという心は、人間のはからい(=信罪福心=自力心)であって、阿弥陀仏の本願の救いとは、相容れないものです。

因果の道理を強調して、自力心を煽り、聞く者を信罪福心の虜にしているのが高森会長の説法であり、著作です。信罪福心(=自力心)は、弥陀の本願をはねつける心ですから、高森会長の説法、著作というのは、弥陀の本願をはねつけることを勧めているようなものです。

この信罪福心(=自力心)は、正しい仏願の生起本末を聞くことによって廃ります。親鸞会、高森会長から正しい仏願の生起本末を聞くことは、ありえない状況ですから、そのような団体、師を離れ、ただ正しい仏願の生起本末を聞信して頂きたいと思います。
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親鸞聖人が教えられた「万人共通の道」

親鸞会では、弥陀の救いにあうまでの万人共通の道程であるとして、三願転入の道程を説きます(参考「警鐘・親鸞聖人の教えと異なることを語る者たちの特徴」)。しかし、「三願転入の道程が弥陀の救いにあうまでの万人共通の道程である」と説いた親鸞聖人のお言葉が存在しないことは、当ブログや他の親鸞会教義批判ブログで繰り返し指摘されている通りで、多くの記事が書かれています。

そこで、この記事では、親鸞会流三願転入を直接的に批判するのではなく、親鸞聖人は「万人共通の道」ということに該当することを教えられているのか、教えられているとすれば、それは一体どのようなお言葉で教えられているのかということについて書いてみたいとと思います。

まず、「万人共通の道」ということに、相当する端的なお言葉を、親鸞聖人が教えられているのかと考えてみたとき、真っ先に浮かんできたのが「同一念仏無別道故(同一に念仏して別の道なきがゆゑに)」というお言葉でした。もともとは『浄土論註』のお言葉ですが、親鸞聖人は、『行文類』『証文類』『真仏土文類』等で、このお言葉を引かれており、大変重視されていたお言葉であることが窺えます。

今は、『証文類』からお言葉を引用しますと、
荘厳眷属功徳成就とは、『偈』に、《如来浄華衆正覚華化生》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。これいかんぞ不思議なるや。おほよそこれ雑生の世界には、もしは胎、もしは卵、もしは湿、もしは化、眷属そこばくなり。苦楽万品なり。雑業をもつてのゆゑに。かの安楽国土はこれ阿弥陀如来正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに。遠く通ずるに、それ四海のうちみな兄弟とするなり。眷属無量なり。いづくんぞ思議すべきや。
(現代語訳)
<眷属功徳成就とは、願生偈に、«浄土の清浄の人々は、みな阿弥陀仏のさとりの花から化生する»といっていることである>と『浄土論』に述べられている。これがどうして不可思議なのであろうか。この迷いの世界には、胎生や卵生や湿生や化生という生れ方をする多くのものがいて、そこで受ける苦も楽も千差万別である。それはさまざまな迷いの行いに応じて生れるからである。しかし、浄土への往生は、みな阿弥陀仏の清らかなさとりの花からの化生である。それは同じ念仏によって生れるのであり、その他の道によるのではないからである。そこで、遠くあらゆる世界に通じて、念仏するものはみな兄弟となるのであり、浄土の仲間は数限りない。どうして思いはかることができ ようか。
と説かれています。ここで、親鸞聖人は、
「迷いの世界に生まれる者には、種々の生まれ方をするものがいて、そこで受ける苦楽も様々である。それは行いが様々であり、その様々な行いに応じて生まれるからなのである。
一方、阿弥陀仏の浄土への往生することは、如来正覚の仏座への化生である。それは同じ念仏によって生まれるのであり、別の道によるのではないからである。」
と教えられています。「阿弥陀仏の浄土に往生するには、同じ念仏という道による」ということであり、まさに「万人共通の道」を教えられた親鸞聖人のお言葉であると思います。

この念仏の道に入るのに、三願転入という道程を経なければならないと教え込まれている人もいるので、簡単に言っておきますが、私たちの側には、どうすれば念仏の道に入れるのかという道程・プロセスは存在しません。
なぜならば、阿弥陀仏は、「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ」(歎異抄)と、煩悩具足の私たちには、どんな行によっても迷いの世界を離れることはできないと見抜かれて本願を建てられており(仏願の生起)、「大荘厳をもつて衆行を具足して、もろもろの衆生をして功徳成就せしむ」(大無量寿経)と、兆載永劫の御修行を成就なされて南無阿弥陀仏となられて私たちを救済しつつあるからです(仏願の本末)。

「こんなことでは私は救われない」という問題は、私たちが問題にするよりも前に既に阿弥陀仏の方で見抜かれていたことであり、私たちの側には迷いの世界を離れるものがらは何もないということをご承知の上で、阿弥陀仏は本願を建てられているのです。ですから、「こんなことでは救われない」という問題は、私たちの方で問題にすることではないのです。
また、「こうすれば私は救われるだろう(この道程を通らなければ私は救われないだろう)」という問題も、私たちが問題にするよりも前に既に阿弥陀仏の方で問題にされていたことであり、迷いの世界を離れる法(南無阿弥陀仏)を完成されて、南無阿弥陀仏となって「我にまかせよ、必ず往生させる」と私たちに喚びかけ続けているのです。ですから、「こうすれば救われるだろう(この道程を通らなければ救われないだろう)」という問題も、私たちの方で問題にすることではないのです。

そうすると、問題は、阿弥陀仏の仰せに信順するか否かだけであり、念仏の道に入るために衆生の側になさねばならない行(例えば、十九願の修諸功徳の行)などないということがお分かり頂けるかと思います。

このところを、親鸞聖人は、「しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」(信文類)と示されました。仏願の生起本末を聞くところに、「こんなことでは救われない」という問題も、「こうすれば救われるだろう(この道程を通れば救われるだろう)」という問題も、仏願の上で既に解決されていることであることを知らされます。そして、その仏願の生起本末を疑い・計らいを雑えずに受け容れている状態を、本願を信じているというのです。

話を元に戻しますが、親鸞聖人は、本願をどのように信じているのかを、『歎異抄』では、
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
と説かれています。
この「ただ」とは、唯一のただであり、ただ念仏とは念仏一行ということです。「念仏一行によって、弥陀に救われる」という法然聖人の仰せをいただいて疑いなく受けいれていること以外に親鸞聖人の信心はないとの仰せです。法然聖人の教えは、『選択本願念仏集』に説かれていますが、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」ということを、『選択本願念仏集』では「称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに。」(『行文類』選択本願念仏集引文より)と教えられていました。念仏一行によって必ず往生できる。その理由は、それが阿弥陀仏の本願であるからだ、というのが法然聖人の教えでした。阿弥陀仏は、本願において、衆生の往生の行として、念仏一行を選び取られて、余行を選び捨てられています。称名念仏とは、阿弥陀仏が選び取られた行ですから、念仏一行で必ず往生ができるのです。

また、衆生が選び取った行ではなく、阿弥陀仏の選び取られた行ですから、衆生の方から阿弥陀仏に回向する必要はありません。そこで、法然聖人は、念仏は不回向であると教えられています。それを本願力回向の大行として明らかにされたのが親鸞聖人でした。親鸞聖人は、『行文類』で、『選択本願念仏集』の引文に続いて、
あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。
(現代語訳)
上来引用された経、論、釈の文によって、本願の念仏は、凡夫であれ聖者であれ、自らのはからいによって往生の行にしていくような自力の行ではないということが明らかにわかりました。
阿弥陀仏より与えられた往生行ですから、行者のほうからは不回向の行と名づけられています。大乗の聖者も小乗の聖者も、自らの善をたのまず、また悪人も罪の重い軽いをあげつらうことなく、同じく自力のはからいを離れて、大海のような広大無辺の徳をもって一切を平等に救いたまう選択本願に帰入して、念仏し成仏すべきです。

と説かれ、さらに、
ここをもつて『論の註』(論註下 一二〇)にいはく、「かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに」とのたまへり。
と結んでいかれたのでした。

阿弥陀仏から回向された念仏によって、浄土に往生し、仏のさとりをひらく道、「念仏によって往生成仏する道」一つを教え進めていかれたのが親鸞聖人でした。そして、それこそが、親鸞聖人の教えられた「万人共通の道」だったです。

Appendix

プロフィール

いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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