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親鸞聖人の書き残された体験と親鸞会で話される体験発表の相違について

私が親鸞会に在籍している間、高森会長の法話の前に、午前、午後と講師部員による体験発表(随行文の発表)が行われていました。今年の『顕真』5月号にも、私の退会後、講師部員になった人の随行文が掲載されていましたので、現在も体験発表が続いているのだと思います。

体験発表とは、講師部員になった人が、「なぜ親鸞聖人のみ教えに人生をかける決意をしたのか」を発表するものです。概ね、
(1)人生に対して疑問を感じていたこと、
(2)高森会長に出あい、人生の目的を知らされたこと、
(3)この人生の目的を、人にお伝えする講師部員として生き抜くことに心が定まったこと
という流れで話がなされます。
また、報恩講などの特別な行事では、講師部員でなく、一般の会員が体験発表をしますが、そこで語られることも、親鸞会にあうまでの人生の遍歴と、高森会長にあって人生の目的を知らされたということです。

このような体験発表から、高森会長が説くこととは、端的にいうと、「人生の目的」であることが分かります。

ここで、高森会長の説くことと、親鸞聖人の教えの相違を知るために、親鸞聖人の書き残された体験を見てみたいと思います。

御自身のことをほとんど書き残されなかった親鸞聖人が、唯一、『教行証文類』後序において、暦も挙げて、具体的な出来事、体験を述べておられます。内容としては、大きく、法然聖人及びその門下の方々に対する弾圧と、法然聖人との出遇いですが、今は後者を引用します。

しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。
元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。
同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と「釈綽空」の字と、空の真筆をもつて、これを書かしめたまひき。
同じき日、空の真影申し預かりて、図画したてまつる。
同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘は、真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」(往生礼讃)の真文とを書かしめたまふ。
また夢の告げによりて、綽空の字を改めて、同じき日、御筆をもつて名の字を書かしめたまひをはんぬ。本師聖人(源空)今年は七旬三の御歳なり。
『選択本願念仏集』は、禅定博陸[月輪殿兼実、法名円照]の教命によりて撰集せしめるところなり。
真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭り易し。
まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。年を渉り日を渉りて、その教誨を蒙るの人、千万なりといへども、親といひ疎といひ、この見写を獲るの徒、はなはだもつて難し。
しかるにすでに製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。
よりて悲喜の涙を抑へて由来の縁を註す。

(現代語訳)
ところでこの愚禿釈の親鸞は、建仁元年に自力の行を捨てて本願に帰依し、
元久二年、源空上人のお許しをいただいて『選択集』を書き写した。
同年四月十四日には、「選択本願念仏集」という内題の文字と、「南無阿弥陀仏 浄土往生の正しい行は、この念仏にほかならない」というご文、並びに「釈綽空」というわたしの名を、源空上人が自ら書いてくださった。
また同じ日に、源空上人の絵像をお借りしてそれを写させていただいた。
同じ元久二年の閏七月二十九日、その写した絵像に銘として、「南無阿弥陀仏」の六字の名号と、「本願には、<わたしが仏になったとき、あらゆる世界の衆生がわたしの名号を称え、わずか十回ほどの念仏しかできないものまでもみな浄土に往生するであろう。もしそうでなければわたしは仏になるまい>と誓われている。その阿弥陀仏は今現に仏となっておられるから、重ねて誓われたその本願はむなしいものではなく、衆生が念仏すれば、必ず浄土に往生できると知るべきである」と述べられている『往生礼讃』の真実の文を、源空上人が自ら書いてくださった。
また、わたしは、夢のお告げをいただいて、綽空という名をあらためて善信とし、同じ日に、源空上人はその名を書いてくださった。この年、源空上人は七十三歳であった。
『選択集』は、関白九条兼実公の求めによって著されたものである。
浄土真実の教えのかなめ、他力念仏の深い思召しがこの中におさめられていて、拝読するものは容易にその道理に達することができる。
まことに、たぐいまれなすぐれたご文であり、この上なく奥深い教えが説かれた尊い書物である。長い年月のうちに、源空上人の教えを受けた人は数多くいるが、親疎を問わず、これを書き写すことを許されたものはごくわずかしかいない。
それにもかかわらず、わたしは、すでにその書物を書き写させていただき、その絵像も写させていただいた。これは念仏の道を歩んできたことによる恵みであり、往生が定まっていることのしるしである。
よって、喜びの涙を押えて、その次第を書き記すのである。

ここに、本願に救い摂られたこと、法然聖人から、『選択集』や法然聖人の絵像の書写を許された喜びなどが書き記されています。
また、「選択本願念仏集」、「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」、「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」、「念仏の奥義」、「専念正業の徳」ということから、親鸞聖人が、法然聖人から教えられたこと、喜ばれていたことは、一言で言えば、「念仏の教え」であったといってよいでしょう。
そして、親鸞聖人は、法然聖人の明らかにされた「選択本願念仏の教え」こそが、万人を速やかに成仏せしめる浄土真実の教えであることを顕かにするために、『教行証文類』を書き残されたのでした。

このような親鸞聖人の体験文の内容に対して、親鸞会の体験発表の内容はどうでしょうか?
私は、親鸞会に、約11年間在籍しましたが、体験発表で、「お念仏の教え」に出遇えた喜びを語る人は皆無でした。
このようなところからも、法然・親鸞両聖人と、高森会長では、説いている内容が全く異なることを知ることができます。

そして、親鸞会の体験発表においては、「念仏さえ称えていれば死んだらお助け」と寺では聞いてきたが、親鸞会で初めて、親鸞聖人の教えは信心一つで助かる教えであると聞けたというように、念仏は否定的に語られていたように思います。しかし、信心一つと説いてはいても、親鸞会では、その信心とはいかなるものかが、誤って教えられています。その誤りの一つが、念仏と信心の関係です。

上の後序のお言葉の中には、『往生礼讃』の「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」(<もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生れずは正覚を取らじ〉と。かの仏いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得)のお言葉が書かれていました。

このお言葉でいえば、「衆生称念すればかならず往生を得」と信知している状態(疑いを雑えずに聞きいれていること)が、信心です。

念仏と信心を切り離して捉えて、信心だけを追い求めている会員さんは、一度立ち止まって、親鸞聖人は、法然聖人から「念仏の教え」を聞かれたという事実に目を向けるとよいかと思います。
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十八願の対象と十九願の対象の相違について

親鸞会では、十九願にも十八願にも「十方衆生」とあることから、どちらの願もすべての人を対象にしていると解釈しています。

そして、上記の親鸞会教義が誤っていることは、様々なブログで、いろいろな角度から指摘されていますが、今回の記事では、親鸞聖人は、『教行証文類』では、十八願の対象と、十九願の対象をどのように教えられているのかという視点から、上述の親鸞会教義の誤りを正したいと思います。

まず、十八願の対象については、『行文類』で以下のように教えられています。

おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。

ここで、親鸞聖人は、阿弥陀仏の誓願には、真実の行信と方便の行信とがあることを、まず述べられて、真実の行、真実の信、その対象(機)、その往生、その仏土について明らかにされています。

真実の行信の対象、すなわち十八願の対象は、「その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり」と教えられているように、一切の善人、悪人が含まれています。

一方、方便の行信である十九願の行信は、『化身土文類』で次のように、明らかにされます。

これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。この要門より正・助・雑の三行を出せり。この正助のなかについて、専修あり雑修あり。機について二種あり。一つには定機、二つには散機なり。また二種の三心あり。また二種の往生あり。二種の三心とは、一つには定の三心、二つには散の三心なり。定散の心はすなはち自利各別の心なり。二種の往生とは、一つには即往生、二つには便往生なり。便往生とはすなはちこれ胎生辺地、双樹林下の往生なり。即往生とはすなはちこれ報土化生なり。

ここで、十九願の対象は、「機について二種あり。一つには定機、二つには散機なり。」とありますように、十九願の対象は、定善を修める者(定機)と散善を修める者(散機)の二種です。

まとめますと、
十八願の機-一切善悪大小凡愚
十九願の機-定機、散機
です。

そして、「一切善悪大小凡愚」と「定機、散機」とを、区別して教えられたのが、親鸞聖人でした。

端的には、『正信偈』に
矜哀定散与逆悪(定散と逆悪とを矜哀して)
と示され、「定善を修める者・散善を修める者(定散)」と「五逆・十悪の者(逆悪)」とを、区別して教えられています。

上のまとめに対応させると、
十八願の機-一切善悪大小凡愚-定散・逆悪
十九願の機-定機、散機     -定散
です。

十九願の対象には、逆悪の機は含まれていません。

また、『愚禿鈔』では、十方衆生の機をより詳細に分類されています。

まず「二種の機」があることを教えられて、「二機とは、一には善機、二には悪機なり。」と大きく2つの機に分けられています。
そして、「また善機について二種あり。(中略) 一には定機、二には散機なり。」と、善機には、定機と散機があると説かれています。この「定機・散機」は、『化身土文類』の「定機・散機」と同じです。
一方、悪機については、「また悪機について七種あり。一には十悪、二には四重、三には破見、四には破戒、五には五逆、六には謗法、七には闡提なり。 」と七つの機を教えられています。

どこを拝読しても、「善機(定機・散機)」と「悪機(五逆・十悪など)」を、親鸞聖人は区別して教えられています。

上のまとめに、『愚禿鈔』のお言葉も加えると、
十八願の機-一切善悪大小凡愚-定散・逆悪-善機・悪機
十九願の機-定機、散機     -定散    -善機
です。

最近、いろいろなブログに親鸞会の会員と思しき人がコメントをしていましたが、十九願の対象は、すべての人(「善機+悪機」)ではなく、善機(定機、散機)のみと教えられたのが親鸞聖人であることがお分かり頂けたかと思います。一貫して、十九願は、定散諸機にすすめられたと教えられたのが親鸞聖人です。

Appendix

プロフィール

いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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