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【再掲】聞法善ー他力の救いを自力の教えにした高森会長の大罪

他のブログの記事によると、最近の高森会長の講演では高森会長流の宿善論の話が復活したそうです。そして、宿善を厚くする方法として、相変わらず「1.聞法善、2.朝晩のお勤め、3.親切など」という話をしているようです()。

当ブログでは、以前の記事でも「聞法善」という親鸞会独自の教えが、親鸞聖人の教えに根本から反し、聞法者を自力の教えに留めてしまう重大な誤りであることを取り上げました。以下に、当時の記事を若干改変し再掲します。

『本願寺なぜ答えぬ』では、以下のように「聞法に勝る獲信の因縁(宿善)はない」と書き、本願寺もタテマエの上ではこれを認めたとしています。

(3)〝なぜ実らぬ〟本願寺の聞法のすすめ~
 「善さえ励めば獲信できる」〝これが親鸞会の主張だ〟
 こんな本願寺の中傷を縁として、親鸞会は、聞法に勝る獲信の因縁(宿善)のないことを開顕し、〝仏法は聴聞に極まる〟ことを力説してきた。
 聴聞(聞法)の重要性には、本願寺も異存がないらしい。
(中略)
 いくら本願寺でも、聞法と獲信の関係を断ち切れば崩壊することぐらいは、ご存知のようだ。
「聞法を勧めねばならないことは、いうまでもない」と、珍しくも断言なさっている。
 ついでに、
〝大いに、すすめねばならぬワケ〟もききたいものだが、とにもかくにも、聞法が獲信の因縁(宿善)になることを、タテマエだけでも、本願寺が認めたことはおめでたい。



しかし、親鸞聖人の教えにおいて、親鸞会が説くように「聞法が獲信の因縁(宿善)になる」という教説は存在しません。このことは、宿善論争の発端になった『現代における異義の研究 伝道院紀要24号』(紅楳英顕著)でも既に指摘されていることです。

先ず「たとひ大干世界にみてらん火をもすぎゆきて仏のみなを聞く」の聞くであるが、宗祖において「聞」とは「信巻」には
聞といふは、衆生仏願の生起本末を聞きて疑心有ること無し、是れを聞と日ふ也(真聖全二の七二)
とあり、又『一念多念文意』には
きくといふは、本願をきゝてうたがふこゝろなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(真聖全二の六〇四)
等とあるように聞とは信心をあらわすものであり、信心とは「本願力回向之信心也(真聖全二の七二)」とあるように他力回向の信心であるから、「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏の御名を聞く」という表現ではあっても決して自力の意ではなく、他力の意に他ならないのである。



ここでは聞法を勧められた親鸞聖人のお言葉「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」(『浄土和讃』)の意味が解説されています。親鸞聖人において、「聞」とは信心をあらわすものであり、他力の意味で説かれていることが明らかにされています。上で引用した『本願寺なぜ答えぬ』の中に「聞法と獲信の関係」という言葉が出てきますが、聞いたそのままが信心であるということが親鸞聖人が教えられた「聞と信の関係」です。親鸞会が主張するような「聞法が獲信の因縁(宿善)になる」というような関係を親鸞聖人は教えられていません。

『本願寺なぜ答えぬ』に引用するといっていながら、引用しなかった『派外からの異説について』(紅楳英顕著)でも同様のことが明らかにされています。

宗祖聖人は、
たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきく人は ながく不退にかなふなり
(『浄土和讃』)
といわれ、蓮如上人は、
仏法は世間の隙を闕きてきくべし、世間の隙をあけて法をきくべきように思うこと、浅ましきことなり。(『御一代記聞書』)
いかに不信なりとも聴聞を心に入れ申さば、御慈悲にて候間、信を獲べきなり、只仏法は聴聞に極まることなりと云々。(『御一代記聞書』)
等と教示されている。
このことは、論文にも述べたことであって、聞法(聴聞)を勧めることが間違いである等とは、私はどこにもいっていない。 私の述べているところを故意にネジ曲げて非難していることは明らかである。
そもそも、真宗の「聞」とは、第十八願成就文の「聞其名号信心歓喜」の如実の「聞」でなければならない。これは、第二十願の「聞我名号係念我国」の「聞」とも峻別される他力の「聞」なのである。 高森親鸞会の主張のように、破邪顕正や財施等の自力の行と同列に扱うこと自体が、そもそも問題なのである。この意味から、存覚上人は、
聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりばかりもよりつかざるなり。(『浄土見聞集』)
と述べられているのである。



『本願寺なぜ答えぬ』では、聞法が獲信の因縁(宿善)になることを本願寺が認めたかのように書かれていますが、本願寺はそんなことは認めていません。それどころか、引用した二つの論文では、親鸞聖人が勧められた聞法とは、十八願成就文の「聞其名号信心歓喜」の「聞」であり、他力の「聞」、聞いたままが信心である聞即信の「聞」であることが述べられ、親鸞会の主張する自力の行(宿善になる行)としての聞法の勧めは問題であると指摘されているのです。しかし、この本願寺の指摘をねじ曲げて、本願寺も聞法が獲信の因縁(宿善)になることをタテマエだけでも認めたとしているのです。酷い歪曲だといわざるをえません。

こうして、正しい意味での聞法はねじ曲げられて、宿善が厚くなる行としての聞法だけが親鸞会には存在することになってしまいました。そこで問題にされるのは、どれくらい聴聞しているのか、富山に参詣しているかという回数や、その真剣さ、聞いたことをどれだけ覚えているのかなどの自分の聞法姿勢ばかりです。まさに、破邪顕正や財施等の自力の行と同列の自力の聞法だけがそこにはあるのです。自らの聞きぶりばかりが問題にされ、救いの法が抜け落ちてしまった状態に陥っているのですが、親鸞会の内部にいるとなかなかそこに気が付くことはできません。

このような「聞法善、朝晩のお勤め、親切などが獲信の因縁(宿善)になる」という教義、また「三願転入の教え」、「善をしなければ信仰は進まない」等の「親鸞会の教え」に共通しているのは、救いを彼方においてそこに向かって何らかの行に励み、ハッキリした信心をいただこうとしている点です。そして、この点こそが、「親鸞会の教え」の根本的な誤りなのです。

そもそも、浄土真宗とは、親鸞聖人が『信文類』に「横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり横超というのは、本願が成就して、すべての衆生が平等にさとりを開く唯一の真実円満の教え、すなわち真宗である)」と説かれているように、本願が成就していることを大前提としています。本願の「至心・信楽・欲生」の三信の解釈でも、『信文類』では仏の上に成就された三信としての解釈がなされています。その信楽釈には、
信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。
(現代語訳)信楽というのは、阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つに融けあっている信心である。このようなわけであるから、疑いは少しもまじることがない。それで、これを信楽というのである。
とあり、阿弥陀仏が私たちを救うことに一点の疑いもない摂取決定の心が信楽であると説かれています。その阿弥陀仏の願心は、欲生釈に「如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり如来が迷いの衆生を招き喚びかけられる仰せである)」と説かれているように、「南無(我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず助ける)」の仰せとなって衆生を喚びづくめなのです。
この間違いのない法(南無阿弥陀仏)を計らいなく聞いている状態が信心です。これを聞即信といいます(つまり親鸞会の聞即信の説明は誤りです)。

聞法とは法を聞くということですが、親鸞聖人や蓮如上人が勧められた聞法とは、間違いのないお救いの法、すなわち本願が成就し招き喚びかけられつづけている南無阿弥陀仏をお聞かせ頂くことです。決して、救いを眺めものにして自らの側から聴聞を重ねることによって決勝点に到達するというような教えをきくことが聞法なのではありません。

高森会長の大きな罪は、阿弥陀仏の側からの他力の救いを、衆生の側から求めさせる自力の教えにしてしまっているところにあります。たとえていうならば、向こう側から開かれている扉を、こちら側から押すように勧めているのが、聞法善という概念であり、親鸞会の宿善論であり、三願転入の教えです。その教えに従う限り、永久に扉が開かれることはありません。つまり、救いの法を拒絶するように仕向けているのが高森会長の教えです。

このような親鸞会の教えに従っている限り、救われることなどないといっていいでしょう。聞法善などという誤った教えは、速やかに廃捨せねばなりません。
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映画『歎異抄をひらく』を観て(2)

親鸞会の機関紙にはいつも威勢のよい言葉ばかりが並んでいますが、外からの批判を気にし、それまでの教えてきた内容を何の前触れもなく変更してきたのが親鸞会の歴史でした。

私は前回の映画『なぜ生きる』は観ていませんが、、『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』映画「なぜ生きる-蓮如上人と吉崎炎上-」の感想 によると、本願寺のご本尊は「親鸞会でしか使われていない貼り合わせ名号」だったそうです。

ところが、映画『歎異抄をひらく』では、「南无阿彌陀仏」とのみ書かれたご名号が一貫してご本尊として描かれていました。

親鸞会の会員には、「南无阿彌陀仏」の横に「親鸞」のお名前が書かれたご本尊が、親鸞聖人御真筆の正御本尊として貸与されます。しかし、今回の映画では、親鸞聖人が唯円らに渡されたご本尊はそうではありませんでした。

会員の皆さんは、自分が貸与されたご本尊と映画で描かれたご本尊の違いをどう感じているのでしょうか?

映画『歎異抄をひらく』を観て

久しぶりの更新になります。
映画『歎異抄をひらく』を観てきました。

題名のとおり、歎異抄の内容に触れた箇所が多々ある映画でした。
私が気づいた限りでは、1、3、4、5、7、9章に触れられていました。
それに加えて、アニメ4部にあった弁円のシーンなども描かれてました。

そして、1つ意外だった点は、少年時代の唯円とその友人達に、親鸞聖人が本尊を渡されるシーンで、
聖人のお弟子が
「念仏は尊いものだから、よく称えなさい」
と、称名念仏を勧めていたことでした。

7巻あるアニメでも、念仏を勧められるシーンはなかったのではないでしょうか。

しかし、その他のシーンは予想通りで、親鸞会教義のオンパレードでした。

頻出ワードは「絶対の幸福」。
阿弥陀仏の本願については、煩悩の塊の私達を絶対の幸福に救いとり、
死後浄土に生まれさせるというお約束という説明が最初から最後まで一貫して繰り返されていました。

せっかく念仏に触れるならば、歎異抄に関する映画なのだから、2章の
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、
よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

に触れるべきだと思いましたが、それはありませんでした。

なお、映画のシナリオは、一万年堂出版の『人は、なぜ、歎異抄に魅了されるのか』という本に、
全文掲載されているそうです。

結局のところ、この映画を観れば親鸞会教義を知るきっかけにはなるが、
どれだけ観ても本当の親鸞聖人の教えを知ることはできないという映画でした。

会員の皆さんは、どこかで聞いたことがある話が散りばめられた映画を繰り返し観て、
今度はその映画の解説をききに富山に通うという生活を送るのでしょうか。残念でなりません。

Appendix

プロフィール

いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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