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親鸞聖人は要門を勧められているのか?

『教行証文類』で親鸞聖人が要門を勧められているかどうかは、『化身土文類』を拝読すれば分かります。

結論をいうと、「親鸞聖人は要門を勧められていません」。

このことは、種々のブログで文証を挙げて説明されています。
したがって、今回は、親鸞聖人が要門(十九願、観経の意)をどのように教えられているのかを、『化身土文類』の流れに沿って、簡単に箇条書きでまとめました。


・聖道門の機を浄土門に誘引するのが『観経』であり、その本には弥陀の十九願があることを説く(根拠

・化土の相を示し、胎生(化土往生)と化生(報土往生)の得失を明かす(根拠

・十八願に帰して念仏すべきことを勧められる(根拠

・『観経』に顕説(十九願意)と彰の義(十八願意)があることを示し、定散二善は報土の真因ではなく、如来の異の方便(釈尊が弘願とは異なる方便の法として説いたもの)、欣慕浄土の善根(浄土をねがい慕わせるための善根)であることを説く(根拠

・十九願の行信を示し、要門の行体を明かす(根拠

・定散二善の成じ難いことを示し、八万四千の仮門を超えた本願一乗があることを説く(根拠

・二双四重の教判を示す。正行・雑行を示す。また、横超他力の法門(18願)が真実の法門であることを説く(根拠

・雑行についての釈(根拠

・要門の行は化土の業因であり、要門は浄土をねがい慕わせ誘引する権仮方便の教えであることを述べ、『観経』について述べ終わる(根拠


以上、要門の行信、定散二善について教えられているところを簡単にまとめました(『観経』の三心と『大経』の三心の一異を論じている所などは省略しました)。こうしてみると、要門の行信を勧められているところは一つもないことが分かります。


親鸞聖人は、聖道門の人を浄土門に誘引するのが要門とみられました。

前回の記事で述べたように、要門と聖道門はその行体は同じです。聖道門でさとりを開くことを断念した人に対し、その行体は変えなくてもよいから、十九願でいうなら「至心・発願・欲生我国」の心で、『観経』でいうなら「至誠心・深信・回向発願心」で善を修め、自己の修めた善の功徳を回向して浄土を願いなさいと導かれたのが要門です。

たとえていうと、このような感じでしょう。国語と英語と社会が試験科目のA大学を受験しようとしていたが、どうも自分の実力では合格する見込みがない。そこで、先生に相談したら、同じく国語と英語と社会が試験科目のB大学を受けてはどうかと勧められた。そして、今まで勉強してきた科目を変えずにB大学の合格を目指して、勉強に励むようになるようなものです。

つまり、要門は、「善を行っている人」に対して、その善の功徳を回向して浄土を願いなさいと勧められているものと、親鸞聖人は見られたということです。これが、浄土を欣慕せしめるということです。こうして、聖道門の人は、浄土門に誘引される訳ですが、結論としては、

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。(化身土文類)

と、十八願に帰すべきことが勧められるのです。


また、定散二善は行体は難行ですから成じ難く、如実に実践できたとしても、化土にしか往生できません。ですから、親鸞聖人から、もうすでに十八願が真実であることを教えて頂き、報土往生を願っている人に対して、要門の行信が勧められるはずがないのです。

「二善・三福は報土の真因にあらず」と説かれている定散二善を、「報土往生を願う人」に対して勧められているかどうかは、素直に読めば分かることだと思います。
東京駅から名古屋駅に行こうとしている人に対して、「東北新幹線に乗っても名古屋駅にはいけませんよ」と教えているようなものです。このように聞いた人は、東北新幹線に乗るでしょうか?考えてみるまでもないことです。

『教行証文類』を拝読すれば、要門を勧められていないことは明らかなのです。




以下、余談です。

上では、聖道門の人を行体を変えずに導くと書きましたが、より易しい行に変えることはあるでしょう。反対に、要門に入ってより難しい行を実行するのは考えにくいですよね。聖道門で覚りを開くことを断念した人なのですから。
先程のたとえでいうと、試験科目が減るような大学を勧められることはあっても、科目が多くなるより難関な大学を勧められることはないようなものです。

反対に、親鸞会の説き方は、「善をやっていない人」に対して、「善をしろ、善をしろ」です。
たとえにあてはめると、「勉強していない人」に、「科目を増やせ、増やせ」ですね。

上でも書きましたが、称名念仏以外の余行は法蔵菩薩が往生の行としては選び捨てられた非往生行(参照:『選択本願念仏集』本願章-選択摂取)ですから、「至誠心・深信・回向発願心」を発して実行しなければ、非往生行が往生の行としては転換されません。浄土門内の方便の善にはならないのです。
つまり、
・やらないと講師に何か言われるから
・叱られなければよいのだ
・あの人もやっているから
・周りの人に仏縁深い人だと誉められたいから
・目標達成しないといけないから
・○○賞がもらえるから
・頑張ると懇親会に出られて会長先生に近づけるから
などというような気持ちで、(親鸞会の人達が行っていることが善になっているかどうかは別として)、諸善を実行しても、要門の行信になっていないのです。

要門が勧められていると主張するならば、主張している人達は、要門とはどんな教えなのかを『観無量寿経』をしっかり拝読して知り、その教えに従って実行すべきではないでしょうか?
もし、そうしないならば、いくら「要門の要は、重要の要、必要の要、要なんだ」「善が勧められているんだ」と叫んでいても、机上の空論であり、観念の遊戯であり、仏法をもてあそんでいるのに過ぎないのです。
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
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