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親鸞会会員の「教行証」の理解と真実の「教行信証」

親鸞会の会員さんが、19願、20願と進んだ先に救いがあると思い込まされている原因の一つに、高森会長の「教行証」の説明の仕方が浄土真宗のご法義に反しているということがあります。高森会長の説明を聞いた会員さんの理解がネット上にありましたので、引用します。

「浄土真宗親鸞会 親鸞学徒福井教室」教学試験を受けました!
http://hamanatsume12.blog54.fc2.com/blog-entry-55.html
より引用。

 仏教の骨目は教行証と教えて頂きます。まず教があって、そこから行が出て、証が獲られます。

 教とは教えであり、目的地ということです。まずは目的地をハッキリ知らないことには、そこまでどうやって行くのか(行)も意味をなしませんし、当然、目的地にたどり着いた(証)ということもありません。正しく教えを知ることがいかに大切か、わかります。

 先日の降誕会では真実の信心を獲るには教に従わなければならない、と親鸞聖人は教えておられます、と聞かせて頂きました。


これが一般的な親鸞会会員の理解です。

そして、目的地とは18願の世界のこと、そこまでどうやって行くのかとは三願転入の道、目的地にたどり着いたとは信心決定(信心獲得)のことだと思っている会員の方が多いと思います。

ここに、
(1)本願力回向のご法義に反して自分が19願、20願の行を実践することで信心獲得に至るという誤り
(2)信心獲得を証果と混同しているという誤り

が見られます。


では、真宗の教行証について親鸞聖人は、どのように教えられているのでしょうか?

仏教とは、釈尊の教えに従い、さとりに至る行を実践し、証果を得る教えですから、教行証の三法で顕されますが、浄土真宗の教行証(行から信を別開すれば教行信証の四法)は本願力によって回向されるものです。このことは、

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。(教文類)

と教えられていることで明らかです。浄土真宗とは本願力回向の二つの相である往相・還相と、往相として回向せられた教・行・信・証という四法を基本として成立している教法です。真宗の教行信証は全て如来からの回向なのです。

私の方から如来に向かって進んでいく教えではありません。私の往生成仏の因果の全ては如来が施し与えて下されるのです。このことは、『証文類』にも、

それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。

(現代語訳)

さて真宗の教・行・信・証を考えてみると、すべて阿弥陀仏の大いなる慈悲の心から回向された利益である。だから、往生成仏の因も果も、すべてみな阿弥陀仏の清らかな願心の回向が成就したものにほかならない。因が清らかであるから、果もまた清らかである。よく知るがよい。

と教えられています。


また、信とは行から別開されたものであって、決して証果ではありません。

つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。(証文類)

(現代語訳)
つつしんで、真実の証を顕せば、それは他力によって与えられる功徳の満ちた仏の位であり、この上ないさとりという果である。

と教えられているように、証は仏のさとりです。親鸞会で使われている言葉にあてはめていうならば、目的地は仏のさとりということです。

そして、「利他円満の妙位、無上涅槃の極果」に至るのは、本願力回向の行信によるのです。

しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。(証文類)

(現代語訳)

さて、煩悩にまみれ、迷いの罪に汚れた衆生が、仏より回向された信と行とを得ると、たちどころに大乗の正定聚の位に入るのである。正定聚の位にあるから、浄土に生れて必ずさとりに至る。

ここで、「往相回向の心行」といわれているのが、如来回向の信と行のことです。如来から与えられた南無阿弥陀仏を疑いを雑えず聞き受けている状態が信心であり、如来回向の南無阿弥陀仏が口にあらわれているのが称名です。信心も称名も、本願力回向の南無阿弥陀仏が私の上に活動している相なのです。

生の行く末を知らず、死の帰する処も知らない私が、「我にまかせよ(南無)必ず助ける(阿弥陀仏)」という本願の御名を計らいなく聞き受けたとき、私の人生は浄土への旅に転換されるのです。一声一声の称名は、阿弥陀仏の本願海から恵み与えられた行であり、「必ず浄土につれてゆくぞ」の本願の勅命です。

このような如来回向の行信を因として、往生成仏の果をうるのです。往生成仏の因も果も全て如来からの回向ですから、「もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし」と親鸞聖人は説かれたのでした。

浄土真宗のご法義を一言でいうと「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」(歎異抄第12章)ですが、これは私を主とした説かれ方です。全て如来からの回向なのですから、如来が主体であり私は客体です。如来を主体に言い換えると「本願を信じさせ、念仏を称えさせ、仏にさせる」というご法義なのです。

私が目的地(信心獲得)とそこまでの道程(親鸞会でいうような「三願転入の教え」)を教えられ、そこまでの道のりを歩んでいき、目的地に着くという、親鸞会で繰り返し説かれるような目的と手段で論じられるものが浄土真宗ではありません。



(参考)

『教行証文類』の概要(8)ー真実の教
http://shingikensho.blog12.fc2.com/blog-entry-79.html

『教行証文類』の概要(9)ー真実の行
http://shingikensho.blog12.fc2.com/blog-entry-196.html

『教行証文類』の概要(10)ー真実の信
http://shingikensho.blog12.fc2.com/blog-entry-197.html

『教行証文類』の概要(11)ー真実の証
http://shingikensho.blog12.fc2.com/blog-entry-198.html
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