Entries

凡夫有漏の諸善、願力成就の報土に入らざることを決す

『教行証文類』の最初の注釈書である『六要鈔』を著した存覚上人は、『嘆徳文』に『教行証文類』で教えられていることを簡潔に記されています。以下は、その前半部分です。

なかんづくに一代蔵を披きて経・律・論・釈の簡要を擢んでて、六巻の鈔を記して『教行信証之文類』と号す。かの書に攄ぶるところの義理、甚深なり。いはゆる凡夫有漏の諸善、願力成就の報土に入らざることを決し、如来利他の真心、安養勝妙の楽邦に生ぜしむることを呈す。ことに仏智信疑の得失を明かし、盛んに浄土報化の往生を判ず。

ここでは、報土往生の因と仏智信疑の得失について述べられています。

報土往生の因については、
・凡夫の煩悩が雑じった諸善では報土往生は不可能であること。
・如来回向の真実信心によって報土往生ができること。

仏智信疑の得失については、
・(浄土往生を願いながら)仏智を疑惑している者(19願・20願の行者)は、大利を失い、化土にとどまること。
・仏智を信受した者(18願の行者)は、大利を得て、報土に往生すること。

が教えられています。

つまり、親鸞会で説かれる「善をしなければ信仰は進みませんよ」といった「善のすすめ」では、報土往生は不可能ということです。


「親鸞会では諸善で報土往生できるなどとは説いていない。修善は獲信の因縁(宿善)になるのだ。その修善を勧める親鸞会が間違いなのか?」という反論が聞こえてきそうですが、結論からいうと間違いです。

信心について、『信文類』の冒頭に信心の徳を讃えた12のお言葉がありますが、その中に、

金剛不壊の真心

とあります。意味は、金剛のように堅く、破壊されることのない信心ということです。そして、金剛ということについて、同じく『信文類』には、

金剛といふは、すなはちこれ無漏の体なり。

と説かれています。金剛というのは、無漏の体、すなわち煩悩のない清らかな仏智のことをいうのです。煩悩の雑じった善をどれだけ行っても、煩悩の一切雑じらない清浄なる仏智を体とする信心とは全く関係ありません。

親鸞会では「修善は獲信とよい関係がある」ということも言いますが、私が行う煩悩の雑じった善と獲信とは全く関係ないのです。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメント

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://shinrankaikansatu.blog133.fc2.com/tb.php/101-33b8102c
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

Appendix

プロフィール

いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

最新記事

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR