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「親鸞会で推進される活動」と「死ぬまで求道の悲劇 」

「善をしなければ信仰は進みませんよ」と言われ、親鸞会で勧められている活動に励んでいるのが親鸞会の会員さんです。会員さんが活動に励む目的は、親鸞学徒聖則の1番目に

一 親鸞学徒は信心獲得することを本と致します

とあるように、信心獲得以外にはないと思います。

「善をしなければ信仰は進まない」といわれる善の中身は、財施(親鸞会への献金)と法施(法話に人を誘うこと)が主なものですが、そのような活動にどれだけ一生懸命励んでも信心獲得はかないません。今日は、そのことについて、親鸞聖人のお言葉を挙げて説明致します。


まず、私たちの行う善によって生じる功徳について、親鸞聖人は、『化身土文類』に『浄土論註』を引かれて、

二種の功徳相あり。一つには有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫、人・天の諸善、人・天の果報、もしは因、もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽なり。ゆゑに不実の功徳と名づく。

(現代語訳)
功徳には二種類がある。一つには、煩悩に汚れた心によって修めた、真如にかなっていない功徳である。いわゆる凡夫が修めるような善を因として、人間や神々の世界に生れる果報を得ることは、因も果もみな真如にかなっておらず、いつわりであるから、不実功徳というのである。

と教えられています。ここは、功徳には二種類(真実功徳・不実功徳)がある内の不実功徳について説かれた部分です。有漏の心、すなわち煩悩から出た善は真如にかなっておらず、善といっても因も果も顛倒・虚偽だといわれています。


一方、真実の信心の徳について、『信文類』では、

たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。

と教えられています。このように真実の信心の徳を不顛倒・不虚偽で表わされたのは、『浄土論註』の真実功徳釈を承けたもので、親鸞聖人は『行文類』に引文されています。

二つには菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入れり。この法顛倒せず、虚偽ならず、真実の功徳と名づく。いかんが顛倒せざる、法性により二諦に順ずるがゆゑに。いかんが虚偽ならざる、衆生を摂して畢竟浄に入るるがゆゑなり。

(現代語訳)
二つには、菩薩の法性に順じる清らかな行からおこって、仏の果報を成就する功徳である。これは、法性にしたがい清浄の相にかなっている。この法は真如にそむいているのでもなく、いつわりでもないから、真実功徳というのである。なぜ真如にそむいていないのかというと、法性にしたがい二諦の道理にかなっているからである。なぜいつわりでないのかというと、衆生を摂め取ってこの上ないさとりに入らせるからである。

ここは、真実功徳について教えられている部分です。煩悩を離れた菩薩のなす清浄な行の果報、すなわち如来・浄土が真実功徳であると言われています。不顛倒とは真如にかなった正しい智慧のことであり、不虚偽とは人々を救済することに嘘も偽りもないことです。

さて、真実の信心が不顛倒・不虚偽の徳をもつということは、それが如来・浄土と同じ真実功徳であり、往生成仏の正因としての徳をもっていることを表わしている訳です。

難しい御文がいくつか出てきましたが言いたいことは、煩悩に汚れた心によって修めた善は因も果も顛倒・虚偽であり、それをどれだけ励んでも真実功徳としての徳(不顛倒・不虚偽の徳)をもつ信心を獲得することはできないということです。

親鸞会がいう「修善の勧めが弥陀の救いと無関係であるはずがない」は完全に誤りです。親鸞会で推進されている財施(親鸞会への献金)と法施(法話に人を誘うこと)をどれだけ行おうと、信心獲得とは無関係なのです。

親鸞会でよく使われる言葉(※)でいうと、親鸞会の活動とは「死ぬまで求道の悲劇」以外の何者でもありません。100パーセント求まらないのに、死ぬまで求め続けさせられているのですから。早くこの事実に気が付いて頂きたいと念じております。


なお、以上のことを理解して頂ければ、親鸞会で最近、盛んに用いられている「善のすすめ」の根拠

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。(一念多念証文)

のお言葉の意味も、決して「阿弥陀仏の救いを求めて善をしなさい」というような意味ではないことがお分かり頂けると思います。我々の行う善では、絶対に本願一乗円融無碍真実功徳大宝海に入ることはできないのです。


※当ブログをご覧の方には、親鸞会の話をほとんど聞いたことのない方もおられると思います。参考までに、親鸞会でよく使われる言葉として挙げた「死ぬまで求道」の用例を以下に示しておきます。

親鸞会公式ホームページ 『特集:人生の目的』
◆第2章◆ 月とスッポンほど違う 「人生の目的」と「生きがい」
http://www.shinrankai.or.jp/jinsei/index.htm
より引用。
 
 剣道、柔道、書道、絵画、華道、茶道、政治、経済、科学、医学、法律など、「趣味や生きがい」にはすべて完成がない。どこまで求めても、「求まった」ということのないものである。それなのに、「死ぬまで求道」が素晴らしいと、信じ込んでいる人が多い。
「死ぬまで求道」とは、100パーセント求まらないと知りつつ、死ぬまで求め続ける悲劇にほかならぬ。
 宝くじを買う人は、「ひょっとしたら大当たりかも……」と思うからこそ買うのである。いくら好きでも、当たりが1本もない宝くじや、3年前の宝くじを買う人はいない。
 しかし、人生に関しては、どうしたわけか、100パーセント求まらないと知りつつ「趣味や生きがい」を追い求めている人がほとんどだ。「死ぬまで求道」が素晴らしいと、無理に思い込まなければ、到底できないことだろう。
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
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