Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

コメント

[C125]

>弥陀に救われるには善が必要なのですか?「必要」「不必要」のどちらかで答えて下さい。

この質問に対する答えは本当に聞いてみたいところです。
ふじたろうさんのブログで同じ質問したところ2日間ぐらい載っていました。答えを楽しみにしていましたが削除されてしまいました。
  • 2010-10-18 23:57
  • mu-min
  • URL
  • 編集

[C126]

>mu-min様

削除されてしまうとは、親鸞会側にとって余程都合の悪い質問なのでしょうね。

しかし、
http://shinrankaikansatu.blog133.fc2.com/blog-entry-99.html
で取り上げたふじたろうさんのブログにあった文章
や今回取り上げた文章を読んだら、「弥陀に救われるには善が必要なのですか?」という疑問をもつのが普通だと思います。

会員さんは疑問に全く思わないのでしょうか?
それとも、どうせ善をやりなさいという結論だろと思って聞いているのでしょうか?
  • 2010-10-19 00:09
  • いつもの元会員
  • URL
  • 編集

[C138]

まず、親鸞会は、善で救われるとは、申してはおらぬぞ!!



善は、不要では、ござらぬが、善で救われるとはいう意味でござらぬのに、



そなたが、善で救われると、私が、申しておるように、勘違いをされておるようじゃなあ~。



これでは、そなたは本願寺と同じではないか。情けない。



それでも、親鸞会の元講師でござるか??



救われた者だと公言するならば、善など出来ぬ人間だということぐらい、



自覚があるはずじゃがなあ~。



これくらい、知っておってほしいものじゃが。



人間には、真実の善はできぬのだから、善で救われるわけが、なかろうが。。



では、親鸞会がなぜ、善をやりなさいとすすめるのかといえば、善ができると



うぬぼれている者に、言われた言葉なのじゃ。。



阿弥陀仏の本願19願をそなたは、聖道門にすすめられた教えだと



これまた、解釈を異にしておるが、三世因果の道理を学び、廃悪修善をさせられるのは、



阿弥陀仏の本願19願の願心によってなのじゃよ。



善知識は、この願心のみ心のままに、善を勧め、一向専念無量寿仏せよ



白道を進め進めと、押し出して下されるのじゃが、



白道とは、修善の道なのだ。だから聴聞を聞法善とまで、



分かりやすく、親鸞会では、言っておるのじゃ。



この白道を進むと、知らされてくるのが、悪しかできない自己の姿じゃよ。



やらねばわからないから、善をやらないそなたには、まだまだわからぬじゃろうが、



言っておこう。



後生の一大事に驚きが立つのは、悪しか出来ぬ、己が知らされてはじめて




驚きがたつのじゃよ。善は遠回りだと言われるおまえさんが、




到底知らされるのは、まだまだ、先のことじゃがな。



化城にとどまっていることを早く知らされて、修善に励んで欲しいものじゃのう~。
  • 2010-11-11 20:15
  • 本太郎
  • URL
  • 編集

[C140]

本太郎さん有難う。
>善は、不要では、ござらぬが、善で救われるとはいう意味でござらぬ

不要ではないということは、必要と言うことです。
十分条件ではないが必要条件と考えているとが良く判りました。
  • 2010-11-12 08:27
  • mu-min
  • URL
  • 編集

[C143]

本太郎さん発見

コメントの投稿

コメント

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://shinrankaikansatu.blog133.fc2.com/tb.php/104-5e3c3bce
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

日常生活の問題と往生の一段とが混在した文章(親鸞会.NETより)

親鸞会.NETが更新されていました。
相変わらず日常生活の問題と往生の一段の混在が見られます。

『歎異抄』の誤解が真宗を崩壊させている|親鸞会 顕正新聞
http://www.shinrankai.net/2010/10/tannishou-gokai-shinbun.htm
より引用

「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」(歎異抄)

これを、みな「本願を信ずるには」と誤読し、”弥陀に救われるには、善は不要、悪も恐れる必要はないのだ”と得手に理解する。

その結果は明らかだ。

放逸無慚(ほういつむざん)になり果てた浄土真宗は、外道からは悪人製造の教えと揶揄され、崩壊の一途を辿っている。

その原因が、『歎異抄』のこの誤解にあるといっても過言ではない。

もちろん、「弥陀に救われたならば」のことである。「弥陀の救い」は、百年や千年の問題ではない、幾億兆年の迷いの魂を解決し、浄土往生させることである。

平生に往生一定の大満足を獲たならば、当然ながら「往生のために善をしよう」など微塵もないから「他の善も要にあらず」と言われているのである。

往生の一段のことであって、それを日常生活へ持ちこんで”善が不要”などと誤解するから、

仏法を破壊し世の中に猛毒をまき散らして平気でいるのだ。

因果の道理は宇宙の真理、ゴロゴロ怠け放題では人生の落伍者となるだけ。

世界の光と仰がれる聖人のご活躍は、真実信心はもちろんのこと、ずば抜けた勉学努力なくしてはあり得ないのだ。

善知識から「弥陀の救い」を正しく聞かせて頂かねば、お聖教の一言半句もまともに読めぬと知らされるばかりである。



最初の、

これを、みな「本願を信ずるには」と誤読し、”弥陀に救われるには、善は不要、悪も恐れる必要はないのだ”と得手に理解する。

は、「弥陀に救われるには」とありますので、「往生の一段」のことです。

そして、"弥陀に救われるには、善は不要"というのは、正しいですね。阿弥陀仏の救い(第十八願の救い)に私が行った善は無関係ですから。

おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず。(信文類)

と教えられている通りです。


ところが、真ん中あたりの、

それを日常生活へ持ちこんで”善が不要”などと誤解する

というところは、"「日常生活」で善が不要"という話になっています。


結局、「弥陀に救われるには、善は不要」というのは得手な理解だということになっていますが、「弥陀に救われるには、善は不要」が誤りだと言いたいのでしょうか?
もし、そうならば、「弥陀に救われるには、善は必要」となり、浄土真宗の破壊です。

教えを正しく聞かせるどころか、「日常生活の問題」と「往生の一段」とを混在させて、むしろ「弥陀の救いには善が必要」というような聞き誤りを誘発する文章になっているなと思います。分かりにくい文章が親鸞会会員の真宗理解を崩壊させているという感じですね。

果たして、現役会員の皆様は、『弥陀に救われたならば往生のために善をしようという心は微塵もないことは分かりましたが、弥陀に救われるには善が必要なのですか?「必要」「不必要」のどちらかで答えて下さい』と聞かれたら、何と答えるのでしょうか?
スポンサーサイト

コメント

[C125]

>弥陀に救われるには善が必要なのですか?「必要」「不必要」のどちらかで答えて下さい。

この質問に対する答えは本当に聞いてみたいところです。
ふじたろうさんのブログで同じ質問したところ2日間ぐらい載っていました。答えを楽しみにしていましたが削除されてしまいました。
  • 2010-10-18 23:57
  • mu-min
  • URL
  • 編集

[C126]

>mu-min様

削除されてしまうとは、親鸞会側にとって余程都合の悪い質問なのでしょうね。

しかし、
http://shinrankaikansatu.blog133.fc2.com/blog-entry-99.html
で取り上げたふじたろうさんのブログにあった文章
や今回取り上げた文章を読んだら、「弥陀に救われるには善が必要なのですか?」という疑問をもつのが普通だと思います。

会員さんは疑問に全く思わないのでしょうか?
それとも、どうせ善をやりなさいという結論だろと思って聞いているのでしょうか?
  • 2010-10-19 00:09
  • いつもの元会員
  • URL
  • 編集

[C138]

まず、親鸞会は、善で救われるとは、申してはおらぬぞ!!



善は、不要では、ござらぬが、善で救われるとはいう意味でござらぬのに、



そなたが、善で救われると、私が、申しておるように、勘違いをされておるようじゃなあ~。



これでは、そなたは本願寺と同じではないか。情けない。



それでも、親鸞会の元講師でござるか??



救われた者だと公言するならば、善など出来ぬ人間だということぐらい、



自覚があるはずじゃがなあ~。



これくらい、知っておってほしいものじゃが。



人間には、真実の善はできぬのだから、善で救われるわけが、なかろうが。。



では、親鸞会がなぜ、善をやりなさいとすすめるのかといえば、善ができると



うぬぼれている者に、言われた言葉なのじゃ。。



阿弥陀仏の本願19願をそなたは、聖道門にすすめられた教えだと



これまた、解釈を異にしておるが、三世因果の道理を学び、廃悪修善をさせられるのは、



阿弥陀仏の本願19願の願心によってなのじゃよ。



善知識は、この願心のみ心のままに、善を勧め、一向専念無量寿仏せよ



白道を進め進めと、押し出して下されるのじゃが、



白道とは、修善の道なのだ。だから聴聞を聞法善とまで、



分かりやすく、親鸞会では、言っておるのじゃ。



この白道を進むと、知らされてくるのが、悪しかできない自己の姿じゃよ。



やらねばわからないから、善をやらないそなたには、まだまだわからぬじゃろうが、



言っておこう。



後生の一大事に驚きが立つのは、悪しか出来ぬ、己が知らされてはじめて




驚きがたつのじゃよ。善は遠回りだと言われるおまえさんが、




到底知らされるのは、まだまだ、先のことじゃがな。



化城にとどまっていることを早く知らされて、修善に励んで欲しいものじゃのう~。
  • 2010-11-11 20:15
  • 本太郎
  • URL
  • 編集

[C140]

本太郎さん有難う。
>善は、不要では、ござらぬが、善で救われるとはいう意味でござらぬ

不要ではないということは、必要と言うことです。
十分条件ではないが必要条件と考えているとが良く判りました。
  • 2010-11-12 08:27
  • mu-min
  • URL
  • 編集

[C143]

本太郎さん発見

コメントの投稿

コメント

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://shinrankaikansatu.blog133.fc2.com/tb.php/104-5e3c3bce
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

Appendix

プロフィール

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

最新記事

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。