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[C136]

噫ああ!!!!弘誓の強縁は、


多生にも値いがたく


真実の浄信は、億劫にも獲難し。


遇々行信を得ば遠く宿縁を慶べ。


もしまたこの度、疑網に覆弊せられなば


かえりてまた、昿劫を逕略せん。


この多生という御言葉は、親鸞は、何度も、生まれ死にを繰り返して来てた


ということですぞ。阿弥陀仏の本願の救いにあうことは、大変


難しく、他力の信心は、億劫にも、得難いと、聖人が言われた御言葉ですぞ!


多生とは、数え切れないほど、生まれ


変わり、死に変わりしてきた親鸞が、


阿弥陀仏の救いにあえたのは、強い強い、阿弥陀仏との仏縁と、



それまで、仏法を聞いて、諸善を求めて、宿善を求めて来たからこそ


遠く宿縁を慶べと仰った御言葉ですぞ!!



蓮如上人仰せられ候、『宿善めでたし』と言うは、わろし、


御一流には、『宿善有難し』と申すがよく候。とあるが、


そなたのように、善をすすめられないお方に出会えば、


宿善も、せっかく仏縁ありながら、なかなか求められなくなるではござらぬか??


仏教を聞いて、勤行を求め、諸善をさせていただいてさへも、


弥陀のよび声を聞くことは、難中之難無過斯と、親鸞聖人


そして、蓮如上人も仰せでござる。


国に一人、郡に一人とか、人中の分陀利華と言われて、


千年に一度咲く花の如しだと言われているではござらぬか??



それでも、阿弥陀仏の救いは、ホントだから、


聖人は、聞思(聴聞)して、遅れなさるなよ!!と


言われたのでは、ござらぬか??



まことなるかなや、摂取不捨の真言、


超世希有の正法、聞思して遅慮するこ


となかれ。。。(親鸞聖人)



宿善は、待つに非ず、求めるものなりと


声を大にして、叫ぶでござる!!


  • 2010-11-11 19:47
  • 本太郎
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八万四千の法門、この捷径にしくなしー 願はくは深く無常を念じて、いたづらに後悔を貽すことなかれ

本太郎さん、聞く内容をすり替えないで下さい
http://shinrankaikansatu.blog133.fc2.com/blog-entry-106.html
の続きです。本太郎のセリフ

今宵とも知れぬ後生の一大事を抱えながら、聞法の縁がない無意味に過ごす多い月日を、どう生きればよい?

について見ていきたいと思います。

「今宵とも知れぬ後生の一大事」と聞いて、親鸞会の会員さんならば、『教行信証行巻』の親鸞聖人のお言葉を思い出すことと思います。『顕真』10月号から「宿善と聴聞と善のすすめ」という連載が始まりました。第1回目は、後生の一大事について書かれています。『行巻』お言葉は、その中にも出ているので、そこから引用しましょう。

◆親鸞聖人の警鐘◆

 万人の「後生の一大事」を親鸞聖人は、こう警鐘されている。
「呼吸のあいだ、すなわちこれ来生なり。一たび人身を失いぬれば、万劫にもかえらず。この時さとらざれば、仏、衆生をいかがしたまわん。願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔をのこすことなかれ」(教行信証)

(意訳)
「吸った息が吐けない、吐いた息が吸えなければ次の生である。後生は遠い話ではない。死ねば永遠に人間に戻ることはないのだ。その後、何億兆年よりも永いあいだ迷い苦しまねばならない。
 今、この一大事を解決しなければ何時できるであろうか。永遠のチャンスは今しかないのである。されば、刻々と迫る無常を凝視して、決して後悔を残してはならない」

(5頁から引用)


親鸞会では、この部分しか根拠として提示されることはありません。
しかし、この直前を拝読すれば、今宵とも知れぬ命をもった私たちに何を勧められているのかが分かります。見てみましょう。

『楽邦文類』にいはく、「総官の張掄いはく、〈仏号はなはだ持ち易し、浄土はなはだ往き易し。八万四千の法門、この捷径にしくなし。ただよく清晨俛仰の暇を輟めて、つひに永劫不壊の資をなすべし。これすなはち力を用ゐることは、はなはだ微にして、功を収むることいまし尽くることあることなけん。衆生またなんの苦しみあればか、みづから棄ててせざらんや。ああ、夢幻にして真にあらず。寿夭にして保ちがたし。呼吸のあひだにすなはちこれ来生なり。ひとたび人身を失ひつれば万劫にも復せず。このとき悟らずは、仏もし衆生をいかがしたまはん。願はくは深く無常を念じて、いたづらに後悔を貽すことなかれと。浄楽の居士張掄縁を勧む〉」と。

(現代語訳)
『楽邦文類』にいっている。
 「総官の職にあった張掄がいう。<仏の名号ははなはだたもちやすく、浄土ははなはだ往きやすい。八万四千の法門の中で、これ以上の近道はない。明け方のわずかな時間をさいても、ぜひ、永久に損なわれることのない功徳をたくわえるべきである。仏の名号をたもつのは、力を用いることがはなはだ少なくて、功徳を得ることがはかり知れない。人々は何の苦しみがあって、自らこのような尊い法を捨ててしまい、修めようとしないのであろうか。ああ、人生は夢幻のようであり、真実のものは何一つない。寿命ははかなくて、長くたもつことができない。わずか一呼吸ほどの間にすぐ来世となる。ひとたび人としての命を失えば、もはや一万劫を経てももとにはかえらない。今この時目覚めなかったなら、仏にも、わたしたち衆生をどうすることもできない。どうか、深く無常を思って、いたずらに悔いを残すようなことはしないでほしい。浄楽居士張掄、縁のある人々に勧める>


ここで、張掄が縁のある人々に勧められているのは「八万四千の法門、この捷径にしくなし(釈尊一代の八万四千の教えの中で、これ以上のさとりへの近道はない)」と言われている他力念仏の法門(阿弥陀仏の18願)です。

ところが、『19願や20願(その願意を明らかにされた『観無量寿経』『阿弥陀経』)に何が勧められているかをよく聞け』と見当違いの方向に向かせられているのが親鸞会の会員さんです。せっかく親鸞聖人のみ教え(18願・他力念仏の法門)にあいながら、本願のこころが正しく教えられないために、方便仮門もどきに止められているのです。

どうして「平生業成」と聞いていながら、「善をしなければ信仰は進みません」というような未来の救いを説く教義に疑問を持たないのでしょうか?
「平生」といっても今の「一念」しかないと聞いていながら、「真剣に求めている人は、臨終に観音菩薩の説法にあえる」というような話に感動するのはなぜでしょうか?
それは、親鸞会の会員さんの中から「ただ今救う本願」ということがすっぽりと抜け落ちてしまっているからです。まさに「みづから棄ててせざらんや(自ら「他力念仏の法門」・「18願」をすてて取らないのだろうか)」であると感じます。

説く者も聞く者も阿弥陀仏の本願(18願)ということが抜けてしまっているのではないでしょうか?


会員の皆様は、今宵とも知れぬ命、吸う息吐く息とふれあっているのが後生と何度も聞いていることでしょう。そんな私たちは、親鸞聖人の教えに反して「信仰が進む」などと言っているのんきな親鸞会教義では助かりません。阿弥陀如来の大慈悲は、かかる短命の根機を救うことを根本にされているのです。

如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。(口伝鈔)

「短命の根機」・「いのち一刹那につづまる無常迅速の機」である私たちに、「どうすれば」という方法論を与えるような阿弥陀如来ではありません。

本願が成就し、本願の通りに成就しているのが南無阿弥陀仏の名号です。南無阿弥陀仏は求めていった彼方にあるのではなく、現在の私の上にはたらいているのです。南無(我をたのめ)阿弥陀仏(必ず助ける)の勅命を計らいなく聞き受けて下さい。

今宵とも知れぬ命を抱えている私たちに、勧められているのは18願一つです。『教行証文類・総序』にも、

しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。

と仰って、18願の行信一つを

穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。

とお勧めです。 せっかく親鸞聖人のみ教えにあったのですから、深く無常を念じて、いたづらに後悔をのこさないで頂きたいと願います。「どうすれば」というような方法論を与える知識からは、どうか速やかに離れて下さい。
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噫ああ!!!!弘誓の強縁は、


多生にも値いがたく


真実の浄信は、億劫にも獲難し。


遇々行信を得ば遠く宿縁を慶べ。


もしまたこの度、疑網に覆弊せられなば


かえりてまた、昿劫を逕略せん。


この多生という御言葉は、親鸞は、何度も、生まれ死にを繰り返して来てた


ということですぞ。阿弥陀仏の本願の救いにあうことは、大変


難しく、他力の信心は、億劫にも、得難いと、聖人が言われた御言葉ですぞ!


多生とは、数え切れないほど、生まれ


変わり、死に変わりしてきた親鸞が、


阿弥陀仏の救いにあえたのは、強い強い、阿弥陀仏との仏縁と、



それまで、仏法を聞いて、諸善を求めて、宿善を求めて来たからこそ


遠く宿縁を慶べと仰った御言葉ですぞ!!



蓮如上人仰せられ候、『宿善めでたし』と言うは、わろし、


御一流には、『宿善有難し』と申すがよく候。とあるが、


そなたのように、善をすすめられないお方に出会えば、


宿善も、せっかく仏縁ありながら、なかなか求められなくなるではござらぬか??


仏教を聞いて、勤行を求め、諸善をさせていただいてさへも、


弥陀のよび声を聞くことは、難中之難無過斯と、親鸞聖人


そして、蓮如上人も仰せでござる。


国に一人、郡に一人とか、人中の分陀利華と言われて、


千年に一度咲く花の如しだと言われているではござらぬか??



それでも、阿弥陀仏の救いは、ホントだから、


聖人は、聞思(聴聞)して、遅れなさるなよ!!と


言われたのでは、ござらぬか??



まことなるかなや、摂取不捨の真言、


超世希有の正法、聞思して遅慮するこ


となかれ。。。(親鸞聖人)



宿善は、待つに非ず、求めるものなりと


声を大にして、叫ぶでござる!!


  • 2010-11-11 19:47
  • 本太郎
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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