Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

コメント

[C135]

何やら、そなたは、浄土宗の者でござる


か?浄土真宗の者は、たとい大千世界


に満てらん火をも過ぎ行きて、仏の御名


を聞く人は、永く不退に叶うなりと、聖人


も、決死の聞法を勧めておられるではな


いか。そして、聞法の出来ぬ時は、できるだけ阿弥陀仏に親近するようにと、


朝晩の勤行を勧めておられるが、これは、善導大師が五正行を教えられたのを


引き継がれて、蓮如様が、正信偈の拝読を勧められておるではないか。


そなたの言われる、自力諸善は、


阿弥陀仏の本願力によって、捨たる時


が来るのですぞ!何を寝とぼけたことを仰るのですか??



宿善厚くなって、宿善開発したと同時に


信罪福心も無くなるのですぞ!!そして、


善も欲しからず、悪もおそれずの心に、


大変わりをしてしまうのですぞ!!


阿弥陀仏の救いは、因果の道理を


超越している救いだということも知らんのでござるか??


だから親鸞聖人が、ご和讃で、超世の悲願と


言われたのですぞ。三世因果の道理を教え、廃悪修善をすすめられば、


真実の善など、微塵もできない自己を知らされて、後生は一大事と驚きが立つのですぞ!!


阿弥陀仏に救われなければ、後生は一大事でござる。



だから、信罪福心も起きて、



悪を畏れるのですぞ!!



しかし、阿弥陀仏に



救われた者は、後生は一大事の心配など無くなってしまうから、


たとえ、悪因悪果 自因自果で、悪い結果が来ようとも、


後生の一大事は、金輪際引き起こるこ


とがないから、その心を親鸞聖人は、



善も欲しからず、悪も恐れずと言われて


いるのでは、ござらぬか??



やはり、こんなことからも、御主は、阿弥陀仏には、



救われておらぬ、悪知識ではござらぬか??


怪しいでござるぞ・・・・・!!!


  • 2010-11-11 19:10
  • 本太郎
  • URL
  • 編集

[C139]

本太郎様
朝晩の勤行は「できるだけ阿弥陀仏に親近するようにと、を勧めておられる」のではなく、
「聴聞」であり、「阿弥陀仏にただ今救われなさいよ」ということです。
**以下蓮如上人より***
「正信偈』『和讃』は「衆生の弥陀如来を一念にたのみまいらせて
後生助かり申せ」との理(ことわり)をあそばされたり。
よく聞き分けて信心をとりて「ありがたや、ありがたや」と
聖人の御前にて喜ぶことなり」とくれぐれ仰せ候。(御一代記聞書31)
親近している間に無常がきたら、どうするのですか?
  • 2010-11-11 23:15
  • mary
  • URL
  • 編集

コメントの投稿

コメント

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://shinrankaikansatu.blog133.fc2.com/tb.php/109-ec2a2ea4
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す

親鸞会公式ホームページに掲載されている
「決戦!鼻高山の巻」
http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic35.htm
に触れていました。

おまえたちのように、心のままにやりたい放題。悪に向かって自由奔放でいいのか?

朝晩の勤行もやってもやらなくても同じなのか?

真摯な親鸞学徒ならぜひ知りたいこと


についてまだ指摘していなかったので、最後にこの部分について述べたいと思います。

上のような文章を読んだ会員さんは、悪に向かっていては救い(信心決定)が遅くなる、勤行をやれば救い(信心決定)により近づくという思いを持つのではないでしょうか?
これは、自分の行為の善悪が救いに関係あるという心であり、換言すれば、善いことをすれば信仰がはやく進んではやく救われるだろうし、悪いことをすれば信仰は進まず救われるのが遅れるだろうという心です。しかし、そのような善悪因果の道理に基づく考え方を、阿弥陀仏の本願(18願)の救いに持ち込むのは、自力の計らいなのです。親鸞聖人は、善悪因果の道理を信ずる心である「信罪福心」を自力心の異名として用いられ、誡めておられます。

阿弥陀仏の救いとは、私たちの善悪とは全く無関係に、阿弥陀仏の衆生を平等に救わんとされている大慈悲心によって恵まれるものです。そのことを親鸞聖人は、『信文類・別序』に、

それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。

と仰られました。

もし、○○したら救いに近づくとというような救いならば、○○できない人はいつまでも救いに近づけなくなってしまいます。ここで、○○には、私たちの如何なる行為も含まれます。ある人にはできることでも、他の人にはできないかもしれません。故に、一切の衆生を平等に救おうとされた阿弥陀仏(因位の法蔵菩薩)は、一切の諸行を選び捨てられ、ただ称名念仏の一行を選び取られたのです。これは、『選択本願念仏集・本願章』に詳しく教えられています。

ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。
もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。
もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。
もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。
自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。


このように、阿弥陀仏は、一切衆生を平等に往生せしめんがために、造像起塔、智慧高才、多聞多見、持戒持律など一切の諸行を選び捨てられ、究極の易行である称名念仏一行を選び取られたのでした。この阿弥陀仏の万人を平等に救わんとされている大慈大悲の選択の願心によって発起せしめられるのが、真実の信心なのです。これで、「信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す」と親鸞聖人が仰った意味がお分かり頂けることと思います。


また、本太郎が言う

だが、我々の現実はどうか。
「いたずらに過ぐる月日は多けれど 
 法を求むる時ぞ少なき」
ではござらんか

今宵とも知れぬ後生の一大事を抱えながら、聞法の縁がない無意味に過ごす多い月日を、どう生きればよい?


というような、私たちに何らかの生き方を課すような救いでは、そこから洩れてしまう人も出てくるのです。親鸞会では、阿弥陀仏の選択の願心が説かれていないことを示す一つの証拠でしょう。


そして、一切の衆生を善悪・賢愚等の隔てなく救う本願は成就し、「南無阿弥陀仏」という名告りとなって、絶えず私たちを招喚し続けているのです。「南無(我をたのめ)阿弥陀仏(必ず助ける)」の名告りを計らいなく聞き受けているのが信心であり、南無阿弥陀仏が口にあられているのが称名(行)です。したがって、信も行も、南無阿弥陀仏が私の上に届き、はたらいているすがたに他なりません。称名念仏といっても、私が称えるという行為に功があってその功によって往生するのではなく、全て南無阿弥陀仏のおはたらき、名号願力によって往生させて頂くのです。


このような本願成就の南無阿弥陀仏を眺めものにし、そこに向かって進め、それには善をしなければ信仰はすすまないぞと説き、本願の救いをどこまでも善悪因果の道理に基づく考え方で捉えさせているのが親鸞会なのです。今日最初に取り上げた本太郎のセリフも、信罪福心をもって本願の救いを捉えさせてしまう言葉の一つです。

自力諸善をどれだけ励んでも、それによって自力が廃ったということはありません。私を助けて下さるに間違いない本願の仰せ、南無阿弥陀仏を聞くところに自力が廃るのです。
スポンサーサイト

コメント

[C135]

何やら、そなたは、浄土宗の者でござる


か?浄土真宗の者は、たとい大千世界


に満てらん火をも過ぎ行きて、仏の御名


を聞く人は、永く不退に叶うなりと、聖人


も、決死の聞法を勧めておられるではな


いか。そして、聞法の出来ぬ時は、できるだけ阿弥陀仏に親近するようにと、


朝晩の勤行を勧めておられるが、これは、善導大師が五正行を教えられたのを


引き継がれて、蓮如様が、正信偈の拝読を勧められておるではないか。


そなたの言われる、自力諸善は、


阿弥陀仏の本願力によって、捨たる時


が来るのですぞ!何を寝とぼけたことを仰るのですか??



宿善厚くなって、宿善開発したと同時に


信罪福心も無くなるのですぞ!!そして、


善も欲しからず、悪もおそれずの心に、


大変わりをしてしまうのですぞ!!


阿弥陀仏の救いは、因果の道理を


超越している救いだということも知らんのでござるか??


だから親鸞聖人が、ご和讃で、超世の悲願と


言われたのですぞ。三世因果の道理を教え、廃悪修善をすすめられば、


真実の善など、微塵もできない自己を知らされて、後生は一大事と驚きが立つのですぞ!!


阿弥陀仏に救われなければ、後生は一大事でござる。



だから、信罪福心も起きて、



悪を畏れるのですぞ!!



しかし、阿弥陀仏に



救われた者は、後生は一大事の心配など無くなってしまうから、


たとえ、悪因悪果 自因自果で、悪い結果が来ようとも、


後生の一大事は、金輪際引き起こるこ


とがないから、その心を親鸞聖人は、



善も欲しからず、悪も恐れずと言われて


いるのでは、ござらぬか??



やはり、こんなことからも、御主は、阿弥陀仏には、



救われておらぬ、悪知識ではござらぬか??


怪しいでござるぞ・・・・・!!!


  • 2010-11-11 19:10
  • 本太郎
  • URL
  • 編集

[C139]

本太郎様
朝晩の勤行は「できるだけ阿弥陀仏に親近するようにと、を勧めておられる」のではなく、
「聴聞」であり、「阿弥陀仏にただ今救われなさいよ」ということです。
**以下蓮如上人より***
「正信偈』『和讃』は「衆生の弥陀如来を一念にたのみまいらせて
後生助かり申せ」との理(ことわり)をあそばされたり。
よく聞き分けて信心をとりて「ありがたや、ありがたや」と
聖人の御前にて喜ぶことなり」とくれぐれ仰せ候。(御一代記聞書31)
親近している間に無常がきたら、どうするのですか?
  • 2010-11-11 23:15
  • mary
  • URL
  • 編集

コメントの投稿

コメント

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://shinrankaikansatu.blog133.fc2.com/tb.php/109-ec2a2ea4
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

Appendix

プロフィール

いつもの元会員

Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

最新記事

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。