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本太郎さん、「白道=修善の道=聴聞、勤行、諸善万行の道」の根拠を提示して下さい

本太郎さん(親鸞会のネット対策員??)から5つコメントを頂きました。
コメント133
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コメント138
いろいろ書かれていますが、

二河白道とは、修善の道ですぞ!!
聴聞、勤行、諸善万行の道を、白道と教えられたのですぞ!!

白道とは、修善の道なのだ。だから聴聞を聞法善とまで、
分かりやすく、親鸞会では、言っておるのじゃ。


というように、二河白道の譬の白道について、

「白道」=「修善の道」=「聴聞、勤行、諸善万行の道」

というところにこだわっているようです。
しかし、上記の「白道」=「修善の道」=「聴聞、勤行、諸善万行の道」ということは、どこにも教えられていないことです。

今回の記事では、「二河白道の譬」、中でも特に「白道」についてどのように教えられているのか、いくつか根拠を示したいと思います。


(1)親鸞会の「二河白道の譬え」の理解の誤り

親鸞会発行の『教学聖典(6)』には以下の問と答があります。

問(3)
「二河白道の譬」は誰が創られたものか。
何を教えんがために説かれたものか。

答(3)
○善導大師
○信心獲得するまでの求道の道程を示すため。


この「信心獲得するまでの求道の道程を示すため」というのが誤りです。

では、何を教えられた譬喩なのでしょうか?
二河白道の譬は『観無量寿経疏・散善義』に説かれています。そこには、

また一切の往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。

と教えられており、信心を守護するための譬えであることが分かります。親鸞聖人も、『高僧和讃』善導讃に、

善導大師証をこひ 定散二心をひるがへし
貪瞋二河の譬喩をとき 弘願の信心守護せしむ


と詠まれています。ここからも、二河白道の譬は18願の信心を守護するための譬えであることが分かります。つまり、二河白道の譬とは、18願の信心を守護するために、その信心の内容を巧妙な譬えであらわされたたとえ話なのです。


(2)白道とは?

同じく『散善義』に、

「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。 すなはち貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。 善心微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。

と説かれているように、白道とは衆生の煩悩の中に生じた「清浄なる願往生の信心」のことを喩えられたものであることが分かります。そして、親鸞聖人は、以下のように、「清浄願往生心」とは如来回向の信心であると教えられています。

「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。(信文類)

「能生清浄願往生心」といふは、無上の信心、金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。(愚禿鈔)


以上から、白道とは、本願力回向の信心を喩えられたものであることが分かります。
ところが、『散善義』の二河白道の譬を説かれるところの最後に、

仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊(釈尊・阿弥陀仏)の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見えて慶喜することなんぞ極まらんといふに喩ふ。

といわれているように、ここでは白道とは「かの願力の道」、すなわち阿弥陀仏の本願力を喩えられています。

以上から分かりますように、白道とは、本願力回向の信心、如来の本願力を譬えたものなのです。このことを、存覚上人は『浄土真要鈔』に分かりやすく教えられているので紹介します。

しかれば、二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもつて、一処には如来の願力にたとへ、一処には行者の信心にたとへたり。「如来の願力にたとふ」といふは、「念々無遺乗彼願力之道」といへるこれなり。こころは、「貪瞋の煩悩にかかはらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。「行者の信心にたとふ」といふは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」といへるこれなり。こころは、「貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ず」となり。

ここまでのことから、『教学聖典(6)』の問(4)の答えも誤っていることが分かります。

問(4)「二河白道の譬」について、次の問いに答えよ。
(3)白道とは

答(4)
(3)求道心・信心

如来の願力・信心なら正しいです。


(3)白道とは、如来の願力であり、行者の信心というのは何を教えられているのか?

白道を如来の願力・信心と喩えられているのは、一方(如来の願力)は阿弥陀仏の側から言われたものであり、もう一方(信心)は衆生の側から言われたものです。つまり、白道とは、阿弥陀仏の側から言えば衆生を救済する願力のことを喩えられたものであり、衆生の側から言えば願力の道にまかせている信心のことを喩えられたものなのです。

そして、このことは、如来の願力と信心は一つであるということをあらわされているのです。

信心の体は南無阿弥陀仏です。
南無阿弥陀仏は、如来の側から言えば「我をたのめ(南無)、必ず助ける(阿弥陀仏)」という本願力の顕現であり、衆生の側から言えばその招喚の勅命(南無阿弥陀仏)を計らいなく聞き受け、仰せのままにまかせている信心のすがたなのです。言い換えると、一つの南無阿弥陀仏は、如来の側からいえば「かならず助ける」願力の白道であり、衆生の側から言うと「かならず助かる」信心の白道であるということです。

蓮如上人が『御文章』でしばしば教えられている「機法一体」もこの意味です。ここで、「機」とは南無帰命の信心のことであり、「法」とは阿弥陀仏の摂取の願力のことです。衆生の上に発起せしめられる信心と、阿弥陀仏の摂取の願力とは一つであるということを、蓮如上人は「機法一体」と教えられたのです。詳しくは、
『21世紀の浄土真宗を学ぶ会』機法一体 『やさしい安心論題』より 非常に大切です
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-368.html
を参照して下さい。


さて、本太郎さん、白道とは、修善の道であり、聴聞、勤行、諸善万行の道であると言ったからには、そのように教えられた根拠を提示して下さい。もし、出来なければ単なる珍説に過ぎません。
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
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