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「浄土真宗にはこれ以外の教えはない」と仰った蓮如上人のお言葉

親鸞会では、蓮如上人は親鸞学徒の鑑、お手本と言われています。その蓮如上人はどのように教えを説いていたのでしょうか?「浄土真宗にはこれ以外の教えはない」と仰ったお言葉が『御一代記聞書』185にあるので拝読したいと思います。ちなみに、親鸞会発行の百ヶ条には掲載されていません。

仰せにいはく、仏法をばさしよせていへいへと仰せられ候ふ。法敬に対し仰せられ候ふ。信心・安心といへば、愚痴のものは文字もしらぬなり。信心・安心などいへば、別のやうにも思ふなり。ただ凡夫の仏に成ることををしふべし。後生たすけたまへと弥陀をたのめといふべし。なにたる愚痴の衆生なりとも、聞きて信をとるべし。当流には、これよりほかの法門はなきなりと仰せられ候ふ。『安心決定鈔』(本)にいはく、「浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるのほかにはなきなり」といへり。しかれば、御文には「一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。これすなはち第十八の念仏往生の誓願の意なり」といへり。

ここで、「当流には、これよりほかの法門はなきなり(浄土真宗にはこれ以外の教えはない)」と仰った内容とは、

ただ凡夫の仏に成ることををしふべし。後生たすけたまへと弥陀をたのめといふべし。

です。『凡夫が(弥陀のお力で)仏に成ることだけを教えなさい。「後生たすけたまへと弥陀をたのめ」と説きなさい』ということです。「後生たすけたまへと弥陀をたのめ」とは、十八願の安心の内容を蓮如上人が明らかにされたお言葉です。蓮如上人が御再興の上人といわれるのも、「たのむ一念」の「たのむ」というところを明らかにされたからでした。それは、『御一代記聞書』188に教えられています。

聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせら れ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。

以上、『御一代記聞書』より2ヶ条引用しましたが、蓮如上人の一生涯は「後生たすけたまへと弥陀をたのめ」と十八願の安心一つを明らかに教えていかれたものであったことが伺えます。

『聞書』185では「当流にはこれよりほかの法門はなきなり」とまで仰っているのです。「これよりほかの法門はなきなり」とは、大変強いお言葉です。さらに、このお言葉の後、『安心決定鈔』を引用されて「浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるのほかにはなきなり」と仰り、『御文章』5帖目1通を引かれて十八願のこころを明らかにされています。蓮如上人の教え勧めていかれたことは、十八願一つなのです。蓮如上人の御教化には「善をしなければ信仰は進みません」とか「獲信の因縁(宿善)として善を修せよ」というような教えは出て来ないのです。つまり、親鸞会で親鸞学徒の鑑、お手本と言われている蓮如上人の御教化に「親鸞会でいうところの善の勧め」はありません。この事実を会員の皆様によく知って頂きたいと思います。

なお、「後生たすけたまへと弥陀をたのめ」の「たすけたまへ」とは、助けて下さいと私がお願いするという意味ではありません。無疑信順を意味します。

最後に、「たすけたまへとたのむ」を理解する参考のために、『わかりやすい名言名句 蓮如上人のことば』(稲城選恵著・法蔵館)212-213頁より引用して説明を記します(原文の縦書きを横書きにしたため、一部表記を変えてあります)。

「たすけたまへと一心に弥陀をたのむ」たすけたまへは元来鎮西義の用語である。鎮西義では請求の義で「たすけてください」という意味である。蓮師は、寛正二年の「御文章」には請求の義に用いられているが、信後の称名念仏は「たすけてくれ」(祈る)という意味ではなく、報恩の念仏といわれ、否定の意味で用いられている。それ以外の多くの「御文章」はすべて帰命の義として用いられている。帰命には「たのむ」、と「たすけたまへ」と「たすけたまへとたのむ」と出されているが、いずれも同じ意味で、無疑信順を意味するのである。特に「たすけたまへとたのむ」という「と」の接続詞は「即」を意味し、俗にいう「二度と再び」という「と」と同じ意味である。それゆえ、三業安心の如く、「たすけたまへ」は請求の義でなく、許諾を意味するのである。おおせのままということである。しかるに「たすけたまへ」が請求と許諾との両義に通ずるところに妙味が存するのである。もし私の方が先行すると「たすけたまへ」は請求を意味し、「たすけてくれ」とお願いする一般にいう祈りと同じ意味になるのである。逆に私の方が後手になり、如来の救いの法が先行すると許諾というおまかせする意味となるのである。それゆえ、「たすけたまへ」と「たのむ」とを結んだことは、たすけたもう法が自ら求めるに先行してあることを意味するのである。それゆえ、自力の心が否定されざるを得ないのである。ここに親鸞聖人の根本義が存するのである。
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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