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阿弥陀仏は十方衆生を逆謗の屍と見抜かれたのか?

親鸞会では、「阿弥陀仏は十方衆生を逆謗の屍と見抜かれた」と説きます。
これは正しいのでしょうか?

まず、「阿弥陀仏は○○と見抜かれた(見られた)」ということに対応するお言葉を見てみましょう。

仏本この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、蚇蠖[屈まり伸ぶる虫なり]の循環するがごとく、蚕繭[蚕衣なり]の自縛するがごとし。(浄土論註)

(現代語訳:『仏典講座23 浄土論註』早島鏡正・大谷光真著 大蔵出版 94頁より)
阿弥陀仏が因位の菩薩であったとき、この清浄という特相のしつらいを起こすことを願ったわけは、迷いの三界をみると、それは虚偽のすがた、流転のすがた、きわまりない迷いのすがたで、しゃくとり虫が円いもののへりをめぐるがごとく、また蚕が口から糸を吐いて作った繭で自分を縛るがごとくである。

阿弥陀仏がご覧になられた衆生のすがたとは「虚偽の相」「輪転の相」「無窮の相」であり、限りなく迷いの世界を流転しているのが私たちであることが教えられています。また、親鸞聖人は次のように仰っています。

仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、(歎異鈔9章)

ここでは、阿弥陀仏は「煩悩具足の凡夫」と私たちを見られたことが説かれています。そして、同じ『歎異鈔』の第3章では、

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、

と、煩悩具足の私たちはどんな善に励んでも迷いの世界を離れることができず、それをあわれみたもうた阿弥陀仏が本願を建てられたことが教えられています。

今挙げたいずれのお言葉においても「逆謗の屍」という意味は見出せません。なお、今見ました「阿弥陀仏は迷いの世界から離れられない者と見抜かれている」という内容は、善導大師の機の深信のお言葉とも一致します。

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。(散善義)

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、(往生礼讃)


「出離の縁あることなし」も「火宅を出でず」も、迷いの世界から離れられないことを仰ったものです。さらに、『教行証文類・信文類』の至心釈・信楽釈・欲生釈の機無について説かれている内容もこのことを教えられたものです。現代語訳と合わせて拝読してみて下さい。

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。(信文類・至心釈)

(現代語訳:『聖典セミナー 教行信証 信の巻』梯實圓著 本願寺出版 152頁より)
生けとし生けるすべてのものは、はかり知れない遠い昔から、今日ただいまに至るまで、醜い煩悩によって心は汚染されて清らかな心はなく、虚しい偽りと諂いに満ちていて、生死を超えるようなまことの心はまったくありません。

無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。
一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。(信文類・信楽釈)


(現代語訳:同上 195-196頁より)
無始以来、生死に迷う一切の衆生は、無明の大海を果てしなく流転しており、さまざまな迷いの境界に沈み、次々と襲ってくる苦悩の世界に縛り付けられていて、その迷界から脱却するための清浄な信心がありません。また本来の性質からいっても、真実の信楽をおこす能力を持っていません。それゆえ、無上の功徳である名号に遇うこともできず、最も勝れた浄信を獲得することもできないのです。
凡夫は、たまたま善心をおこすことがあっても、絶えず沸きおこる貪愛の心が、善に向かおうとする心も汚し、しきりにおこってくる憎悪の保能が、わずかに積んだ功徳も焼き尽くしていきます。頭に燃え移った火を、慌てふためいて消そうとつとめるほど善行に励んでみても、その善行は煩悩のまじった雑毒の善であり、きょう慢な自力心のまじった雑修の善でしかありません。偽りと諂いに彩られた虚仮の行にすぎず、決して真実の行いとはいえません。このような偽りに満ちた雑毒の善を回向して清浄な境界である無量光明土に生まれようとしても、それは不可能です。


微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。(信文類・欲生釈)

(現代語訳:同上 216頁より)
しかるに、数限りない世界に生存している無数の生きものは、果てしない煩悩の海のなかを流転し、生死の苦海を漂い沈んでいくばかりで、無始よりこのかた、安らかな涅槃の境界に向かおうと願う真実の回向心はなく、清浄な回向心もありませんでした。

以上のように、清浄真実なる三心を起こすことができずに迷いの世界を流転しているのが私たちであると親鸞聖人は教えられています。そして、至心釈・信楽釈・欲生釈ともに上に挙げたお言葉に続いて、法蔵菩薩が迷いの世界を離れ成仏する手がかりのない衆生を哀れんで清浄真実なる三心を完成なされ(円成)、一切の衆生に施し与えていかれること(回施)が説かれています。上で見ました成仏の因となるような三心を私たちが全く持ち合わせていない(機無)ということが、阿弥陀仏が見抜かれた衆生のすがたなのです。どこにも阿弥陀仏は十方衆生を逆謗の屍と見抜かれたという意味を見出すことはできません。

最後に、親鸞会では、阿弥陀仏は十方衆生を逆謗の屍と見抜かれたということの根拠に本願文の「唯除五逆誹謗正法」を挙げますが、それについて述べておきます。「唯除五逆誹謗正法」について、親鸞聖人は次のように解釈されています。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。(尊号真像銘文)

五逆罪と謗法罪の重いことを知らせ、一切の衆生みなもれず往生すべしと知らせようとされているお言葉であると仰っています。「阿弥陀仏は十方衆生を逆謗の屍と見抜かれた」という解釈を親鸞聖人はなさっていません。「浄土真宗親鸞会」と名乗るならば、本願文の解釈は親鸞聖人の教えられたとおりにすべきでしょう。

「阿弥陀仏は十方衆生を逆謗の屍と見抜かれた」とは、親鸞聖人の教えの中には見出すことはできないのです。
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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