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自力回向を勧めているのにそれに気づかせない親鸞会

浄土真宗は、本願力回向の教えです。回向は、阿弥陀仏から衆生の方向で語られます。
一方、親鸞会で強調される19願・『観無量寿経』の顕説は、自力回向です。回向の方向は、行者から仏です。

「聴聞、勤行、親鸞会で説くところの法施や財施に励むことによって、宿善が厚くなり、宿善開発の時節が到来する」という思考に会員時代は冒されていましたが、これは自力回向的な考え方であり、親鸞聖人のみ教えと相容れるものではありません。しかし、それが自力回向だということには、全くといっていいほど気が付いていませんでした。その理由は、親鸞会でなされる自力回向の説明にあったと考えられます。自力回向を、「自分の励んだ善を亡者に差し向け、助けようとすること」という点からばかり説明するのが親鸞会です。一例をみてみましょう。

『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点 第17回
http://www.shinrankai.net/2010/12/hikak-3.htm
より引用。

●「自力廻向」を破邪(間違っていることをハッキリ教えて、邪を破ること)された聖人

弥陀から私たちに与えてくださる「他力廻向」に対し、自分の励んだ善を亡者に差し向け、助けようとするのを「自力廻向」といいます。この「自力廻向」を徹底して破られた方が、親鸞聖人でありました。それは五章の後半でも明らかです。
(原文)

わが力にて励む善にても候わばこそ、念仏を廻向して父母をも助け候わめ

|意訳|

念仏が自分で励む善根ならば、その功徳をさしむけて、父母を救えるかも知れないが、念仏は私の善根ではないからそれはできない。

世間では葬式や法事、読経の功徳を認めて、現世や来世の幸福を祈祷しますが、どれだけ盛大な儀式をしようと、念仏を称えようと、亡者は自らの業で行き先が決まるのですから、他人にはどうすることもできません。親鸞聖人は、それら一切、仏事を役立てようとする「自力廻向」を断固、破邪されたのです。
かつてしたことがないと聖人が言われる、葬式や法事を本分のように心得て、「追善仏教」に終始している僧侶の、いかに多いことでしょう。
僧俗ともに根深い「追善仏教」を破られた五章の真意が、全く伏せられています。いまにして聖人のご金言を噛み締めなければ、残るは死骸の仏教のみとなるでしょう。


引用は歎異鈔5章について述べられたものですが、教学講義などで本願成就文の「至心回向」について説明するときも、回向に自力回向と他力回向があると話した後、自力回向については上の引用ような説明がなされていました。19願、すなわち菩提心を発し、至心発願欲生我国の心で諸功徳を修めることが自力回向であるということが教えられることはなかったと思います。

このブログでも何回か紹介していますが、親鸞聖人が諸善と念仏を比較して説かれているところがあります。その中でも、回向について教えられています。
『行文類』の「念仏諸善比校対論」には、
回不回向対
とあります。諸善は衆生が回向しなければ往生行にはならないが、念仏は如来回向の法であるから、衆生は回向する必要がないということです。
『愚禿鈔』の二教対でも、浄土の要門と本願一乗海を対比されて、
不回回向対
と教えられています。本願寺出版社の『浄土真宗聖典(註釈版)』の註には「念仏は、衆生(しゅじょう)から回向する行ではないが(不回向)、諸善は衆生(しゅじょう)から回向する行である(回向)」とあります。

『行文類』

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

(現代語訳:『聖典セミナー 教行信証[教行の巻]』梯實圓著・本願寺出版249頁より引用)
上来引用された経、論、釈の文によって、本願の念仏は、凡夫であれ聖者であれ、自らのはからいによって往生の行にしていくような自力の行ではないということが明らかにわかりました。
阿弥陀仏より与えられた往生行ですから、行者のほうからは不回向の行と名づけられています。大乗の聖者も小乗の聖者も、自らの善をたのまず、また悪人も罪の重い軽いをあげつらうことなく、同じく自力のはからいを離れて、大海のような広大無辺の徳をもって一切を平等に救いたまう選択本願に帰入して、念仏し成仏すべきです。


と教えられているように、親鸞聖人が勧めていかれたのは、行者の側からは不回向の行である本願の念仏一行です。

「一向専念無量寿仏」の説明でも、善知識方が「諸行を廃しただ念仏一行を用いるから一向という」と解釈をされているのに、親鸞会ではそのことが教えられることはありません。同じように「自力回向」の説明でも、19願・要門との関連から話がされることはほとんどありません。都合の悪いことは教えないということなのか、それとも親鸞聖人の教えに暗く単に自分の都合のよいように教義を組み立てたのかは分かりませんが。

会員の皆様の中には、親鸞会では他力回向の教えが説き切られていると思っている人もあるかもしれません。しかし、19願や『観無量寿経』の顕説を根拠にして、
・獲信の因縁(宿善)として諸善を修せよ
・善をしなければ信仰はすすみませんよ
と説いていることは、自力回向を説いていることに他ならないのです。
自力一杯求めた先に、如来から回向によって自力無効が知らされると思っているのも、阿弥陀如来から名号が回向されるところ(法話会場で書かれる黒板の図でいうと縦の線のところ)までは自分で進んでいかなければならないという思考ですから、自力回向的な考えです。

本願力回向、他力回向の親鸞聖人の教えに反し、自力回向の教義に迷わされていることに気が付いて頂きたいと思います。
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