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浄土真宗とは阿弥陀仏の第十八願の教法のこと

2011年、最初のブログ更新です。読者の皆様、本年も宜しくお願い致します。

さて、親鸞会の会員さんは、「親鸞聖人の教え・浄土真宗は、三願転入の教えである」と思い込まされてしまっています。そのように思いこませるときの話し方の例を一つ挙げると、親鸞会の公式ホームページ「三願転入」は、すべての人の獲信までの道程には、

「三願転入のご文は、親鸞聖人が自らの獲信までの道程を記されたものであって、我々が他人に説く必要もなければ、話すべきことではない」

というのが、本願寺をはじめ、真宗十派の者たちの言い分である。

 ならば、「道俗時衆共同心、唯可信斯高僧説」と『正信偈』に記し、「皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり」と生涯念ぜられた親鸞聖人が、我々の獲信に、必要も関係もないことを記述されたことになる。

 それだけではない。三願転入が根基となっている『教行信証』も、我々の獲信とは無関係のお聖教となってしまう。

 親鸞聖人・浄土真宗を全面否定する暴挙であることが分かろう。これでは真宗が衰退するのも当然である。


と書かれてます。このような文章を無批判に読むと
「三願転入の教え」=「親鸞聖人の教え・浄土真宗」
と刷り込こまれてしまいます。

しかし、上の引用文の最後に「親鸞聖人・浄土真宗を全面否定する暴挙」と書いている「浄土真宗」とは、親鸞聖人において、親鸞会における「三願転入の教え」のことを意味するものではありませんでした。また、「浄土真宗」とは教団名をあらわすものでもありませんでした。親鸞聖人においては、「浄土真宗」とは、阿弥陀仏の第十八願の教法の名称であったのです。そのことを最も端的にあらわしているお言葉が、『親鸞聖人御消息』第一通(『末灯鈔』第一通)の以下のお言葉です。

浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。

ここに、選択本願、すなわち阿弥陀仏の第十八願が浄土真宗であるとハッキリと教えられています。親鸞会の重視している定散二善は、決して浄土真宗ではないことは上のお言葉で明らかだと思います。

親鸞会の講師試験でよく出題されている『教行信証信巻』のお言葉

横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり

も、「横超」、つまり阿弥陀仏の第十八願の教法こそが、真宗であると教えられています。そして、親鸞会が重視する十九願については、その直後に、

また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。

と説かれ、横出(十九願・二十願)は、横超(十八願)とは、別の教法として教えられています。『教行信証化土巻』でも、同様に、

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。


と、横出(十九願・二十願)と横超(十八願)とは別の法門として教えられ、横超が真宗であると説かれています。

親鸞聖人は『正信偈』の最後に「道俗時衆共同心、唯可信斯高僧説」と記されていますが、『正信偈』の直前には、

おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。(教行信証行巻)

(現代語訳:『聖典セミナー 教行信証[教行の巻]』梯實圓著・本願寺出版・359-360頁より)
そもそも阿弥陀仏の誓願には、真実の行信と、方便の行信とが誓われています。その真実の行を誓われた願は諸仏称名の願(第十七願)であり、その真実の信を誓われた願は至心信楽の願(第十八願)です。これが選択本願の行信です。それによって救われるものは、一切の善人や悪人であり、大乗や小乗の教えに遇いながらも救われなかった愚かな凡夫のすべてです。それらが真実の行信を与えられて真実の浄土に往生せしめられるのですが、その往生はそのまま最高のさとりの完成を意味していますから難思議往生といいます。浄土で感得する仏陀と浄土は、光明無量、寿命無量の徳をもつ真実の報身仏であり報土です。これが私たちの思いはからいを超えた不可思議なる誓願のはたらきによってもたらされる救いなのです。その本願は、自他の隔てを超え、生死を超えた、真如という唯一無二の真実が実現した教法であって、『大無量寿経』に説かれた教えの要であり、他力真宗といわれる教法の正しい意味です。

と書かれています。阿弥陀仏の誓願に真実の行信と方便の行信とが誓われている中の真実の行信、すなわち選択本願の行信と、その行信によって救われる者、その往生について述べられ、その教法こそが『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意であると仰っています。つまり、『正信偈』とは、正確には『正信念仏偈』であり、選択本願(十八願)の行信を讃嘆した偈のことですから、「唯可信斯高僧説」と言われた高僧の説とは、十八願の教法に他なりません。『正信偈』源空章に、

本師源空は、仏教にあきらかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。
真宗の教証、片州に興す。選択本願悪世に弘む


とあるように、親鸞聖人の師匠である法然聖人が弘められたのは、選択本願(十八願)ですから当然なことです。

「道俗時衆共同心、唯可信斯高僧説」と『正信偈』に記し、「皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり」と生涯念ぜられた親鸞聖人が、その著述に十九願や二十願の法義について教えられているのは実行させるためではなく、そこはとどまってはならない権仮方便の教説であることを示されるためです。「方便だから捨てよ」と教えられているのです。

上の親鸞会ホームページの引用文中には「三願転入が根基となっている『教行信証』」とも書かれていますが、これは親鸞会でしか通用しない珍説です。『飛雲』大沼は三願転入を根基として布教している居るのだで紹介されているように、大沼法龍氏の著書から「根基」という言葉をとってきて、真宗内の常識のように装っているだけのことです。

親鸞聖人は、浄土真宗・真宗とは阿弥陀仏の第十八願の教法のことだと教えられています。そして、その浄土真宗の法義とは、他力回向であることを徹底的に明らかにされているのが『教行信証』です。

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。(教行信証教巻)

それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。(教行信証証巻)


その他力真宗に、「三願転入の教え」と言って自力諸善をもちこんだ親鸞会の教えは、それこそ「親鸞聖人・浄土真宗を全面否定する暴挙である」といってよいでしょう。
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