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>親鸞会では「信心」という言葉ばかりを使いますが、何に対して信を立てるのかは明確に説かれていません。

ここ重要ですね。
S会では、信心=信楽=大安心大満足の心 としか説きませんから(「無疑」の意がない!)、自分の心に何か大安心大満足の感情が出来上がった状態が信心決定であるとしか思えなくしていますよね。
これでは歓喜正因にしかなりませんね…
  • 2011-01-13 08:02
  • Rudel
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[C156]

>Rudel様

コメント有り難うございました。

>親鸞会では「信心」という言葉ばかりを使いますが、何に対して信を立てるのかは明確に説かれていません。

の件については今後も少しずつ取り上げていく予定です。親鸞会の会員さんは「信心」についての理解がおかしいですから・・・
  • 2011-01-13 19:52
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本願成就文とは本願が成就したことを説かれたお言葉

親鸞会では、

「釈迦の『本願成就文』は、弥陀の『本願文』の一部の解説だ」と言い張る者を、
親鸞聖人のお言葉で破邪せよ。その根拠も書け。
また、『本願成就文』以外に親鸞聖人の教えはないことを証言されている
覚如上人のお言葉と根拠を書け。(講師試験問題(平成22年7月18日実施)より)


チューリップ企画の『成就文』は、『本願文』のすべての解説である、という領解に対して、田中氏は全く異なっていた。
『成就文』は『本願文』の一部の解説であって、すべての解説ではないというのが田中氏の見解であった。(徹底検証 親鸞聖人の教え【第6回】かくて判明した根本的相異点

弥陀の本願の願意を、釈迦が解説されたものである。(同 【第8回】『本願文』の「信楽」は、『成就文』の「信心歓喜」

などと言っているように、「本願成就文」を「本願」を解説したお言葉と理解しています。

しかし、「本願成就文」とは文字通り「本願が成就していることを説かれたお言葉」です。『選択本願念仏集』本願章では、

問ひていはく、一切の菩薩はその願を立つといへども、あるいは已成就あり、また未成就あり。いぶかし、法蔵菩薩の四十八願はすでに成就すとやなさん、はた未成就とやなさん。

と、法蔵菩薩の四十八願はすでに成就したのか、またまだ成就していないのかとの問いを出されて、それに答えられています。

答へていはく、法蔵の誓願、一々に成就す。いかんとならば、極楽界のなかにすでに三悪趣なし。まさに知るべし、これすなはち無三悪趣の願(第一願)を成就するなり。なにをもつてか知ることを得る。すなはち願成就の文(大経・上)に、「また地獄・餓鬼・畜生、諸難の趣なし」といふこれなり。
(中略)
かくのごとく初め無三悪趣の願(第一願)より終り得三法忍の願(第四十八願)に至るまで、一々の誓願みなもつて成就す。
第十八の念仏往生の願、あに孤りもつて成就せざらんや。しかればすなはち念仏の人みなもつて往生す。なにをもつてか知ることを得る。
すなはち念仏往生の願成就の文(同・下)に、「もろもろの衆生ありて、その名号を聞きて信心歓喜して、乃至一念、心を至して回向してかの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得て不退転に住す」といふこれなり。
おほよそ四十八願荘厳の浄土は、華池・宝閣、願力にあらずといふことなし。なんぞそのなかにおいて独り念仏往生の願を疑惑すべきや。しかのみならず一一の願の終りに、「もししからずは、正覚を取らじ」といふ。しかも阿弥陀仏、仏になりたまひてよりこのかたいまに十劫、成仏の誓すでにもつて成就せり。
まさに知るべし、一々の願虚設すべからず。ゆゑに善導いはく(礼讃)、「かの仏いま現に世にましまして仏になりたまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得」と。


と、第十八願が成就していることを示される根拠として念仏往生の願成就の文(本願成就文)が挙げられています。このことから、「本願成就文」とは本願が成就していることを示したお言葉であることは明らかでしょう。

なお上のお言葉の最後に善導大師の『往生礼讃』からの引用がありますが、親鸞聖人もこのお言葉を『教行証文類』で引かれています。「行文類」と「後序」にあります。今回は「後序」から引用します。

しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。
元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。
同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と「釈綽空」の字と、空の真筆をもつて、これを書かしめたまひき。
同じき日、空の真影申し預かりて、図画したてまつる。
同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘は、真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」(礼讃)の真文とを書かしめたまふ。
また夢の告げによりて、綽空の字を改めて、同じき日、御筆をもつて名の字を書かしめたまひをはんぬ。本師聖人(源空)今年は七旬三の御歳なり。


親鸞聖人が写された法然聖人の絵像に、法然聖人自らが書いて下されたのが、「南無阿弥陀仏」と「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」の往生礼讃の真実の文でした。このお言葉は、
もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生れずは正覚を取らじ〉と。かの仏いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得
と書き下し、現代語訳は
本願には、<わたしが仏になったとき、あらゆる世界の衆生がわたしの名号を称え、わずか十回ほどの念仏しかできないものまでもみな浄土に往生するであろう。もしそうでなければわたしは仏になるまい>と誓われている。その阿弥陀仏は今現に仏となっておられるから、重ねて誓われたその本願はむなしいものではなく、衆生が念仏すれば、必ず浄土に往生できると知るべきである
です。

「本誓重願不虚 衆生称念必得往生」ということを信知せよと仰っているのです。親鸞会では「信心」という言葉ばかりを使いますが、何に対して信を立てるのかは明確に説かれていません。「衆生称念すればかならず往生を得」という念仏往生の本願を疑いなく聞き受けているのが信心です。行を離れた信はなく、また信を離れた行もないのです。
信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。(親鸞聖人御消息7)
と親鸞聖人が教えられている通りです。

「信心」という言葉だけがあって、「本願の行」が抜けてしまっている親鸞会は、どのような本願が成就しているのかが説かれていないと言わざるを得ません。
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>親鸞会では「信心」という言葉ばかりを使いますが、何に対して信を立てるのかは明確に説かれていません。

ここ重要ですね。
S会では、信心=信楽=大安心大満足の心 としか説きませんから(「無疑」の意がない!)、自分の心に何か大安心大満足の感情が出来上がった状態が信心決定であるとしか思えなくしていますよね。
これでは歓喜正因にしかなりませんね…
  • 2011-01-13 08:02
  • Rudel
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>Rudel様

コメント有り難うございました。

>親鸞会では「信心」という言葉ばかりを使いますが、何に対して信を立てるのかは明確に説かれていません。

の件については今後も少しずつ取り上げていく予定です。親鸞会の会員さんは「信心」についての理解がおかしいですから・・・
  • 2011-01-13 19:52
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名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
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