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[C163]

>ますます、「では、どうすればよいのか」という思いになります。

聞法者の罪福心をつのるのみで、弥陀をたのむ(信順する)という事を教えない、悪い説法と言う他ないですね。
こちらの「どうすればよいのか」には一切用事はないのに。

なぜ御文章には端的に「自力を捨てて、助けてくださる阿弥陀如来に信順せよ」としか教えられていないのか。会員さんには一度よく考えていただきたいと思いますね。
  • 2011-01-20 06:34
  • Rudel
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[C164] 捧げ物が肝要?

「どうすればよいのかという思い」が会員さんの心に生じた時、親鸞会講師は勇躍してこう言うでしょう。「それには善です。財施です。破邪顕正です」と。と言っても、これは某アニメ第4部に出てきた「捧げ物じゃ~」を上品に言い換えただけです。
  • 2011-01-20 21:45
  • 広島の名無し
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[C165] 追伸

名号願力の衆生に対する働き掛けを否定して、「どうすればよいのか」という、衆生の行為に問題を持っていくあたり、実にS会らしい(会長らしい)解釈ですよね。

S会は、三業惑乱のビデオを造ったり公式サイトに取り上げてますけど、功存師の『願生帰命弁』を読むと、「様々の事処諸縁に隔てられて、三業を揃えてたのめない者は、必ずしも三業を用いよと言うわけではない」と書かれており、三業派の主張の本質は「三業をそろえて云々」ではなく、実は
「タノムは希願請求である」
「衆生の側からの何らかの行為(意業含む)が獲信に関わる」
という二点なんですよね。

つまり、S会の教義こそ、まさに三業派と共通する教えなんですよね

会長は「タノムはお願いという意味ではなく、あてにする、うちまかせるという意味である」とは説明するけども、その一方で本派に対して
「本願寺は後生の一大事とは往生の意味だというが、ではなぜ領解文には『一大事の後生おん助け候えとたのみ』とあるのか」などというトンチンカンなツッコミをしてますからねぇ…(つまり、会長は「地獄に堕ちてしまうのを助けて下さい」と解釈している。これだと許諾ではなく希願請求になってしまう)
会長の所説には、とんでもない自己矛盾があります。

先手の本願(阿弥陀様の『助けるぞよ、引き受けたぞ』の勅命)があってこそ、その仰せに「お望み通りお助けになってください」とうちまかせる、あてにするという事があるわけですけど、会長の話には先手の本願という事が一切出て来ず、タノムとはどなたに何をまかせるのかという、肝心の「タノム」の内容を説いてないですよね。

S会の説く教えだと、聞法者は
地獄行きの自分と知らされるという行為の結果として、阿弥陀様が助けると申し出てくださる→それによって、何だかよくわからんがおまかせできる

という神秘体験のようにしか受け取れないですね…

まぁ、あのビデオの制作意図は結局「正意の安心を明らかにする」という所にあるのではなく、「ホンガンジは十劫安心(無帰命安心)だ!」という、会員さんに対する印象操作でしかありませんからね…
  • 2011-01-21 08:25
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『顕真』10月号『御文章2帖目8通』の意訳を読む

親鸞会の法話などで最も多く提示される根拠は『御文章2帖目8通』だと思います。その意訳が『顕真』平成22年10月号に掲載されていたのですが、ちょっと違和感がある訳でした。まず、その部分の引用です。

【夫、十悪・五逆の罪人も、(乃至)、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。
 然れば、爰に弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、(乃至)、弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」という超世の大願を発して、われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、無上の誓願を発して、已に阿弥陀仏と成りましましけり。この如来を一筋にたのみたてまつらずば、末代の凡夫、極楽に往生する道、二も三も、有るべからざるものなり】
(御文章)

(意訳)
「すべての人は、大宇宙の一切の仏方から『救い難き者』と見捨てられた者である。その我々を、阿弥陀如来という大宇宙の仏方の師匠が、ただお一人『私が助けよう』と立ち上がられ、崇高な願いをかかげ、実現できる準備を完了されている。
 だからこの阿弥陀如来の救いによらなければ、我々の後生の一大事助かる道は、二つとないのである」
(12、13頁より引用)


どこに違和感を持ったのかというと、「ただお一人『私が助けよう』と立ち上がられ、崇高な願いをかかげ、実現できる準備を完了されている」の部分です。

「準備を完了されている」と聞くと「本番はまだ先のこと」という印象をどうしても受けてしまいます。「会議の準備は完了している」という場合、会議本番は先のことです。また、「運動会の準備は完了している」と言ったら、運動会本番はまだ先のことです。同じように、「助けようという願いを実現できる準備を完了されている」というと、救いが実現されるのは先のことと受け取る人も出てくるかもしれません。

さらには、「阿弥陀仏が準備を完了されている」と聞くと、準備だけが完了しているのですから、そこに何かを足さなければ願いが実現されないと思う人もいるかもしれません。例えば、「自己の罪悪を知らねばならない」とか、「後生に驚きが立たなければ」とか、「私の方では何をすればよいのですか?」などと思う人が出てくる可能性もあります。

この『顕真』の記事を読んだ会員さんの感想が『顕真』平成22年11月号に掲載されています。

後生の一大事、どうすれば解決できるのか。釈迦も、親鸞聖人も、蓮如上人も、阿弥陀仏しか解決できる仏はない、と仰せです。
 阿弥陀仏は、「崇高な願いをかかげ、実現できる準備を完了されている」と教えていただきました。ますます、「では、どうすればよいのか」という思いになります。
 あっという間に、ここまで、お連れいただきました。釈迦一代のご苦労を収められた1章と拝さずにおれません。
(15頁より引用)


実際、この会員さんは「ますます、では、どうすればよいのかという思いに」させられてしまっているのです。そして、この感想を読まされた他の会員さんも「私はどうすればよいのか?」という思いにさせられてしまうことでしょう。

会員さんがこのような思考に陥ってしまうもとは、『御文章2帖目8通』の「已に阿弥陀仏と成りましましけり(すでに阿弥陀仏になられた)」ということがどんなことを意味するのかについて知らないことにあります。法蔵菩薩が阿弥陀仏になられたことは、『御文章4帖目8通』には、次のように教えられています。

阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。

ここで、阿弥陀仏が仏になられたすがたこそ、「いまの南無阿弥陀仏」であると教えられています。「いまの南無阿弥陀仏」ですから、未来のことではありません。すなわち、すでに南無阿弥陀仏となって、今、ここにいる私の上にはたらいて下さっているのです。「我をたのめ(南無)必ず助ける(阿弥陀仏)」の招喚の勅命となって、喚びづくめなのです。わが往生の定まりたる証拠がつきつけられているのです。往生の定まりたる証拠がつきつけられているのですから、私の側の「どうすればよいのかという思い」は否定されてしまうのです。

「実現できる準備を完了されている」どころではありません。自らが求めるのに先行して、私を助けて下さる法が与えられているのです。

弥陀のお慈悲を聞いてみりゃ、聞くより先のお助けじゃ(お軽同行)

わしはつまらぬあとばかり(才市同行)


南無阿弥陀仏が先手で、私は後手だとお軽同行も才市同行も言っています。
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>ますます、「では、どうすればよいのか」という思いになります。

聞法者の罪福心をつのるのみで、弥陀をたのむ(信順する)という事を教えない、悪い説法と言う他ないですね。
こちらの「どうすればよいのか」には一切用事はないのに。

なぜ御文章には端的に「自力を捨てて、助けてくださる阿弥陀如来に信順せよ」としか教えられていないのか。会員さんには一度よく考えていただきたいと思いますね。
  • 2011-01-20 06:34
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[C164] 捧げ物が肝要?

「どうすればよいのかという思い」が会員さんの心に生じた時、親鸞会講師は勇躍してこう言うでしょう。「それには善です。財施です。破邪顕正です」と。と言っても、これは某アニメ第4部に出てきた「捧げ物じゃ~」を上品に言い換えただけです。
  • 2011-01-20 21:45
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[C165] 追伸

名号願力の衆生に対する働き掛けを否定して、「どうすればよいのか」という、衆生の行為に問題を持っていくあたり、実にS会らしい(会長らしい)解釈ですよね。

S会は、三業惑乱のビデオを造ったり公式サイトに取り上げてますけど、功存師の『願生帰命弁』を読むと、「様々の事処諸縁に隔てられて、三業を揃えてたのめない者は、必ずしも三業を用いよと言うわけではない」と書かれており、三業派の主張の本質は「三業をそろえて云々」ではなく、実は
「タノムは希願請求である」
「衆生の側からの何らかの行為(意業含む)が獲信に関わる」
という二点なんですよね。

つまり、S会の教義こそ、まさに三業派と共通する教えなんですよね

会長は「タノムはお願いという意味ではなく、あてにする、うちまかせるという意味である」とは説明するけども、その一方で本派に対して
「本願寺は後生の一大事とは往生の意味だというが、ではなぜ領解文には『一大事の後生おん助け候えとたのみ』とあるのか」などというトンチンカンなツッコミをしてますからねぇ…(つまり、会長は「地獄に堕ちてしまうのを助けて下さい」と解釈している。これだと許諾ではなく希願請求になってしまう)
会長の所説には、とんでもない自己矛盾があります。

先手の本願(阿弥陀様の『助けるぞよ、引き受けたぞ』の勅命)があってこそ、その仰せに「お望み通りお助けになってください」とうちまかせる、あてにするという事があるわけですけど、会長の話には先手の本願という事が一切出て来ず、タノムとはどなたに何をまかせるのかという、肝心の「タノム」の内容を説いてないですよね。

S会の説く教えだと、聞法者は
地獄行きの自分と知らされるという行為の結果として、阿弥陀様が助けると申し出てくださる→それによって、何だかよくわからんがおまかせできる

という神秘体験のようにしか受け取れないですね…

まぁ、あのビデオの制作意図は結局「正意の安心を明らかにする」という所にあるのではなく、「ホンガンジは十劫安心(無帰命安心)だ!」という、会員さんに対する印象操作でしかありませんからね…
  • 2011-01-21 08:25
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Author:いつもの元会員
名号は 如来の御名と 思ひしに わが往生の すがたなりけり
(蓮如上人)

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